Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『ヘレディタリー 継承』

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監督:アリ・アスター キャスト:トニ・コレット、アレックス・ウルフ、ミリー・シャピロ/2018年

 

職場で数人だけ、このブログを読んでくれているのですが、そのうちの久保さんが、「長い~、文章長い~、追いつけない」と言うのです。頑張って読みなさいよ。あと「『ヘレディタリー』お勧めだよ」って言ったら「絶対観ないから話を教えて」と即答されました。勧めてるんだから観なさいよ。

亀のような歩みの久保さんが、いつここまで追いつけるでしょうか、楽しみ。

さて、話題の『ヘレディタリー 継承』を朝の歌舞伎町で観てきました。感想の前半は考察アレコレ、後半は如何にこのホラーがユーモラスであったかの話となります。ネタバレ不可避だぜ?

 

 

◇あらすじ

祖母エレン・リーが亡くなったグラハム家。娘アニーとその夫スティーブン、二人の子供ピーターとチャーリーの兄妹は、エレンの死をそれほど悲しむことなく、淡々と葬儀を執り行う。それ以来、グラハム家では奇妙な出来事が起こり始める。

よそよそしく会話の少ない家族、不快指数の高い音楽、家族を意味ありげに見つめる視点の映像などから、『聖なる鹿殺し』系の、得体の知れない力により不条理な運命を辿る家族の話であろうと予想する。ただ最終的には「継承」の題名が表す通り、アニーが、母から継承されようとするものに打ち勝つのか敗北するのか、その戦いと葛藤の話であるとの理解でよいでしょう。

アニーはミニチュア作品のアーティストで、「家」にテーマを置き、家族のワンシーンを切り取ってミニチュアで再現している(これがアートとして成り立つのかは私にはわからん)。
十三歳の娘チャーリーは、特異な容貌と奇妙な行動のため周囲から浮いており、息子ピーターは近寄りがたい母に距離を感じている。歪な人間の寄せ集めを、唯一理性的な夫スティーブンがまとめているといった家族構成だ。  

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(C)2018 Hereditary Film Productions, LLC

 

冒頭から家族間のよそよそしさや風変わりな行動がピックアップされ、不穏な気配が長々と続く。そのため、なかなか映画の輪郭が見えてこないのだが、それだけにピーターとチャーリーに起きる事件はショッキングだ。

さっぱりとネタバラすと、チャーリーはある事故で死ぬ。強烈な死にざまと、そのことをアニーが知るまでの演出が非常に意地が悪い。何も知らないアニーに対し、起きたことを知っている観客は、母親がほどなく恐ろしい現実を目にすることも知っており、それまでのなんとも表現しがたい数十秒を、ベッドでじっと横たわるピーターと同じ思いで体験することとなる。またこの演出について、ほとんどの観客が「直接は映さずに母の絶叫から悲惨さを想像させる狙いなのだな」と解釈すると思うが、そう思った瞬間、絶妙なタイミングで裏をかかれることになる。そこに意地の悪さを感じて、画面に映るモノには失礼ながら、フッと笑ってしまうシーン。

チャーリーの死が必然であることは、冒頭に映されるある紋章が、事故現場にも刻まれていることに示唆されている。また、実は彼女の死のきっかけはアニーにある。その時のアニーの言動は実に不可解で、彼女の意志でない力が働いたと考えざるを得ない。

祖母エレンの目的は、崇拝する悪魔ペイモンを、チャーリーの肉体を経由したのち、ピーターに降臨させることだ。←大真面目に書いていると笑えてくるが、そうなんだ。憑代は男でなければならず、不幸な死に方をしたと説明されるエレンの夫と息子も、恐らくはその候補となり、耐えきれずに死んだということなのだろう。ハトが教室の窓に激突するシーンで説明される通り、ペイモンは当初チャーリーに宿っている。チャーリーの死以降は、彼女の一部を宿したペイモンが、ピーターに乗り移ろうと彼を付け狙う展開となる。

一方、アニーが以前からペイモンの存在と母の目的を直感的に知っていたことは、序盤の集団カウンセリング(すみません、もっと後かも)の独白シーンで説明される。曰く、ピーターを身篭った際、孫を熱望する母に本能的な危機を感じ、彼女からピーターを遠ざけた。だが結局は抗いきれず、次に生まれたチャーリーを母に「与えた」という告白だ。母がアニーへ「継承」させようとするものにアニーが屈すれば、自らも夫も犠牲となり、さらに息子を悪魔に捧げることになる。アニーは、悪魔への無意識の服従と、それに抗う意志との間で引き裂かれているわけだ。つらいわ。錯乱するのも無理からぬ話である。

 

 

◇ミニチュアの話

アニーは、エレンへの無意識の恐怖や不快感をミニチュアに投影することで、現実の家族を守ろうとしていたが、恐れていた悲劇が現実となって以降、彼女にとってのミニチュアの役割は変化する。すなわち、災いを代わりに引き受けてくれる依代としてミニチュアを作り始めるのだ。

人形に穢れを移して川に流す人形流しなどの風習は日本では馴染みが深いが、人形が災厄を引き受けてくれるという伝承は日本のみならず存在する。私が好きなホラー小説でも、人間に返るはずの呪殺術を人形へ向け、人形がボロボロになる代わりに人間は傷一つ負わなかったというエピソードがある。アニーが、ベッドに横たわるピーターの首なし死体のミニチュアを作るのも、気が触れたわけではなく、ピーターを災厄から守るための防御行為だったと理解できる。現実の家やツリーハウスがミニチュアとして映される映像は、ミニチュアの家族が災厄を引き受けてくれるのか、あるいは現実の家族を襲うのか、つまりアニーが勝つか、母が勝つかを暗示していて、そこが面白かった。

 

 

◇徐々に雲行きが・・・

とはいえである。降霊術以降のアニーが徐々に錯乱していく各所場面は、例の顔芸に代表される通り彼女の一人芝居となるわけだが、このあたりが長いィィ。顔芸とか錯乱の芝居って、そう長く観ていられるものではなくないか。夫への「プリーズ、プリーズ、プリーズゥゥ」の回数が多すぎて、「分かったから、今お前が把握していることをロジカルに述べよ」とイライラしてしまう。

只でさえ、この映画は不安を煽る映像と音楽に彩られている。前半は例のショッキングな事件によって、それまでピンと張っていた糸を、効果的に切って見せることに成功した。だが終盤はアニーとピーターの恐慌状態シーンが長く、単純に疲れるし飽きる。

夫を失ったことで完全に正気を手放したアニーは、つまりは先に述べた、母から「継承されたもの」との熾烈な戦いに敗れた。なんとも悲哀と絶望感に満ちた展開なのに、いよいよ魔手が本丸ピーターに迫るこの辺りから、笑いが堪えきれなくなる。

居間に降りてきたピーターが父の死体を見つけて立ち尽くすその後ろで、天井の一角にビタリと貼り付き、息子を見下ろすアニー。いや、そこにいる必要ある?まずこの画に吹き出す。また、ピーターが暗がりに目を転じると、男がぼんやりと立っていてニヤリと笑う。なんで素っ裸で笑ってるんだよ。設定から言っても、信者のあんたらにとってピーターは言わば王、ニヤリと笑いかけるのは不遜だろう。

もうね、怖さに関しては、これで台無しよ。

さらに、である。アニーに追いかけられて屋根裏に逃げ込んだピーター。よくある天井から梯子が降りてくるタイプの屋根裏ね。入り口をアニーがなぜかゴンゴン頭突きしてくる。その場で身を縮めていたピーターが、頭上に不吉な音を聞き見上げると・・・

アニーが何かで、ざしゅ、ざしゅ、と自らの首を切り落とそうとしている。

「どっから入ったんだよ、入れるならゴンゴンするな」と突っ込むと同時に、そのシュールな絵が滑稽すぎ、ピーターの悲鳴に同情しつつも身体を折って笑いをこらえる私。※隣の人も笑ってたんだからね!

その後、切った張ったの末、ついに肉体を悪魔に受け渡したピーターが、導かれるようにツリーハウスに入ると、室内には首のないアニーとエレン、太った裸のオヤジやらが振れ伏している。当然ながらツリーハウスの中は狭いので、信者たちはタコ詰め状態。室内は妙に暖かな光に包まれ、悪魔崇拝的な雰囲気は微塵もなく、正面に飾られた偶像の頭はチャーリーの生首だが、被せられた王冠はまるで画用紙で作ったかのよう、学芸会感と手作り感が半端ない。壁にはエレンの写真が飾ってあり、「王妃リー」とある「王妃リー」って。バアちゃん、信者じゃなくて悪魔の花嫁に立候補してるよ。

 

お願い、もうやめて。
笑いを堪えすぎて、喉が痛い…

 

また、悪魔降臨の重要場面に立ち会うには信者が少なく、この少人数で、エレンの墓を掘っちゃ首を切り、チャーリーの墓を掘っちゃ首を盗んできて、祭壇を手作りしたのかと思うと、涙ぐましくて泣けてくる・・・。

要はおばあちゃん二人の悪魔崇拝の結果の災厄なのだが、我々が「おばあちゃん」と聞いて想像する暖かさ、手作り感、そんなものが小さなツリーハウスに満ちているのである。

 

結論、このようなほっこり空間で誕生する悪魔とはなんぞや。

 

最後は悪魔に乗っ取られたピーターの顔のアップでエンディングとなるが、次々と笑いのネタを差し出された上、ほっこりさせられた私は立ち上がれず。

この映画のどこを怖がれというの。
あ、ジョーンが道の向こうから「ピーター!」って叫んでくるのは怖かったわ。

大筋は、母と娘の継承物の熾烈なる押し戻し合いfeaturingミニチュア、ラストの見どころはおばあちゃんズpresentsほっこり悪魔降臨会。

面白いから、オススメだよ★

『ハイドリヒを撃て!』

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監督:ショーン・エリス キャスト:キリアン・マーフィジェイミー・ドーナン/2016年

※原題:『Anthropoid』、邦題:『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』。

邦題には触れまい。ポスターもなんかひどい。

 

◇あらすじ

第2次世界大戦直下、占拠地域をヨーロッパのほぼ全土に広げていたナチスで、ヒトラーの後継者と呼ばれたナチス高官ラインハルト・ハイドリヒは、ユダヤ人大量虐殺の実権を握っていた。ハイドリヒ暗殺計画を企てたイギリス政府とチェコスロバキア亡命政府は、ヨゼフ、ヤンら7人の暗殺部隊をパラシュートによってチェコ領内に送り込む。(映画.com)

 

先日プルートで朝食をを観ていたら、夫がキリアン・マーフィを指して「なんでこの人好きなの?」と言ってきた。は、見ればわかるざんしょ?高橋一生がエロカッコいいと言われることに、この島国の限界を感じ絶望している私に、そんなことを訊かないで下さい。
しかし、確かにプルートでは、あのエロボイスが封印されている上、まあ色々わからないですね。そこで、キリアンがエロカッコよさを際限なくダダ漏らす『ハイドリヒを撃て!』を観せることにしました。ピーキー・ブラインダーズ』でも悶えますが、映画ブログなので自制します。

 

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ヒィィィィ!カッコEEEEEEEE!どうぞもっと上から見下ろしてェェォォ!

 

◇七割地味問題

先に言っておくと、この映画、七割は退屈です。基本的に男達が狭い部屋に籠もり、密談したり抑えた声で怒鳴り合ったりしているシーンがほとんどなので。
私はキリアンをガン見し続けているので、気にならないけどね。貌つきはもちろん、また劇中の髪型が好きでだね。片側に流した長めの前髪を、たまに煙草を挟んだ指で払ったりするの。たまらん。もっとたくさん映画出てよー。

映画が始まって30分ほどで、隣で夫が「たしかに、キリアン・マーフィ、かっこ、いい、ね」と言い残して舟を漕ぎ出しました。更にイライラしたのが、実行メンバーのトップであるオパルカ少尉が映ってるときにハッと目を覚まし、「あ、チョルルカ先輩だっけ・・・」と。誰だよチョルルカって。十中八九サッカー選手だろうけど、先輩ってなんだよ。

 

◇女は必要か?問題

パラシュートでチェコに潜入したヨゼフとヤンは、レジスタンスの幹部であるハイスキー(トビー・ジョーンズ)やヴァネックらと面識を得て、民間人の協力者の家に潜伏しハイドリヒ暗殺の計画を立てることとなる。
そこで登場するのが二人の女性マリーとレンカだ。当初はヨゼフらが街中で情報収集を行う際に怪しまれないよう、カップルを装うための要員なのだが、ヤンはマリーに、ヨゼフはレンカに惹かれていく。

前半の退屈さは多分にこの恋愛パートにあると思っている。特にヤンは露骨にマリーに一目惚れするので、任務か恋かの板挟みになる未来が当然予測でき、サスペンスフルな展開を期待する観客にとっては、いきなり水を差される形となる。大体この映画を観る人は、いかにしてナチの野獣(笑)を仕留めるのかの智謀知略戦、硝煙漂うドンパチが見たいのであって、その点が据え置かれたまま、女のせいですっかりビビったヤンの「怖い・・・俺たち逃げられるのかな」などの姿を見せられればシラけることは必至。

 

この作戦は、暗殺そのものもさることながら、事後に課題がある。徹底的な捜査網が敷かれ、苛烈な報復を受けるだろうことは想像に難くなく、ましてや実行者が無傷で国外脱出できる可能性などほとんどない。非情な任務に赴く男達の、決意を挫く要素として女を登場させる(しかもそれぞれになんとなくタイプがマッチしてるんだわ)、恋を通して彼らの人間的な部分を描きたい気持ちはわかるが、そのやり方は手垢がつきすぎている気がしてしまう。そして後述するが、無駄な時間も食う。

彼らがシビアな状況下でふと気を緩ませる瞬間、愛しい人に想いを馳せる表情を映したいのであれば、写真一枚の道具でよかったのではないでしょうか。奇しくも、ヨゼフが窓際で煙草を咥えながら、レンカの写真を取り出して見つめるシーンがある。これでいいじゃん。あ、恋人いたんだ、どんな女性だったのかな、って観客も想像する、その方がいいじゃん。

ただ、このロマンスパートは、二人の男を比較し、それぞれの人物像を観客に理解させる効果はある。ヤン&マリーカップルがとっととデキ、匿われている一家の食卓にて「発表がありまーす!僕のプロポーズを彼女が受けてくれました!」と言い出す最高に空気を読まない奴らであるのに対し、ヨゼフとレンカは直情的な2人に苦笑し、部屋の中で手を取り合って静かに踊り、想いを確かめ合う。つまり彼女らの存在は、ヤンとヨゼフの性格と、任務への覚悟の違いを明確に伝えてくれる。

またヨゼフは、よく銃を持つ手がブルブル震えるヤンに比べ、ほぼ私情を見せない冷徹な男だが、あるシーンではレンカのおかげで彼が感情を爆発させる姿を一分くらい拝むことができる。ちなみにレンカは桐谷美玲レベルのガリガリレディ。色気はゼロである。

 

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泣いて取り乱すキリアンの麗しき姿を、一分だけ我々に届けてくれた。ありがとうレンカ(写真なし)。

 

◇煙草吸いまくりの件

もう一つ、ヨゼフの神経質で脅迫観念じみた性格を示すのに、効果的な装置が煙草だ。とにかく煙草をよく吸う。ピーキー・ブラインダーズ』でも、常に煙草と酒をやってらっしゃる。彼の習慣、性格を表す効果以上に、絵になるんだわー。

 

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もう、悶え死ぬ!!

 

現実で煙草が好きかと言えば、吸わない人間としては、当然傍で吸って頂かない方が有難いし、洋服や髪に匂いがつくのは嫌いだ。歩き煙草をしている人間を見たら不快になる。だが、キリアン・マーフィが煙草を咥えながら歩いていたら許す。私は映画の中での煙草が好きなので、居酒屋で煙草吸ってる人に対し顔を顰めるような行動はしませんよ。

 

◇何故前半退屈か問題

ロマンスに時間を割いたことで、この映画に必要な描写が為されなかったためと個人的には思っている。すなわち、いかにチェコの人々がナチスとハイドリヒの圧政に苦しめられていたかの描写だ。ラインハルト・ハイドリヒは、SSではヒムラーに次ぐ地位の人間、いわばナチスのナンバー3。残忍さゆえに「金髪の獣」「プラハの虐殺者」と呼ばれた。

ヨゼフらの計画に反対するヴァネックに、その理由として「ハイドリヒを殺せば、チェコが地図上から消える」とまで言わしめるナチの恐ろしさ。これをマリーの、「人種や宗教、タバコが理由で殺されるのよ」という台詞のみで説明するのは乱暴だし、度々申し訳程度にドイツ兵が行進したり人々を小突く場面が挿入されるが、それで「恐怖」を表わそうとはあまりに杜撰じゃないの。
ヨゼフらが任務に命を賭ける理由はなにか、その点を設定として観客にインプットしなければ、せっかく力を入れた終盤が生きない。
従って、やはりロマンスパートはざくっと諦めて、ナチどもがいかに憎むべき存在かを描いて欲しかった。そうすれば、最後まで抵抗し続ける男たちの姿を、よりリアルな絵として観客に伝えることができただろう。

 

◇「メガネ、メガネ」

地味な七割を引いた三割に当たるのが、ハイドリヒ襲撃と教会立て篭もりの攻防だ。襲撃シーンについては文句ないし、教会での激しい銃撃戦は迫力と絶望感に満ちていて良い。しかし終盤の見どころについては、暗殺計画を全面的に支援したトビー・ジョーンズ演じるハイスキーの死に様が、かっ攫ったと言わざるを得ない。

ナチの追跡の手が迫っていることを感じ、隠れ家にて服毒自殺する覚悟を決めているハイスキー。おもむろに眼鏡を外して置き、バスルームへ。毒薬のカプセルを取り出すが、ナチ共の扉を破る音に手が震え、床に落としてしまう。眼鏡なしでは物が見えないハイスキーは、這いつくばって両手で床を撫で、必死にカプセルを探す。

ある程度の年齢以上の日本人なら間違いなく、「メガネ、メガネ・・・」と思うシーン。誰もがハイスキーの危機に息を飲んだらいいのか、横山やすしの姿を重ねて噴き出してよいのかと迷い、この緊迫した状況で完全に気を散らされる、全日本人殺しのシーンなのだ。 なんでメガネ外してきたのよ?


ナチ共はバスルームの扉の前まで迫るが、ハイスキーはまだメガネ、じゃなかった、カプセルを探している。ついに扉が破られる。

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ジャン。よかったよ、無事死ねて・・・。天国では眼鏡なくすなよ。

 

というわけで、キリアンのエロカッコよさ、トビー・ジョーンズの「メガネ、メガネ・・・」が見られる良き映画ですぞ。是非、ご鑑賞下さい。

『オーケストラ!』

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監督:ラデュ・ミヘイレアニュ、キャスト:アレクセイ・グシュコブ、メラニー・ロラン、ドミトリー・ナザロフ/2009年

 

友達に結構なシネフィルがいて、名字に「し」がつくからS氏と呼んでいます。S氏は人の好みを一切考慮せず、自分が好きな映画だけをひたすら勧めてくる面倒くさい奴です。

スピルバーグイーストウッドの信奉者で、自称「スピルバーグの唯一の理解者」なのですが、先日なんかあったらしくて(←説明されたけど忘れた)スピルバーグの親善大使を降りたんですね。しかしまたなんかあったらしく「なぜ大衆はスピルバーグを理解しないのか。俺は親善大使への復帰を決めた」とメールが来ました。好きにすればいい。

ある日、しつっこく勧められた黒沢清の映画を観た後に、ごく純粋な疑問を呈したならば、「まあトーシロにはわかんないよね。ゴダール観てないと」みたいなことを言われて私がブチ切れたので、そっからは恐る恐る勧めてきますよね、「あの、○○のレンタルが始まりましたよ・・・」と。それでも勧めてくるのよね。
そんなS氏にいつも付き合ってやっている私が、逆に彼に勧めて「うん、合わなかった」と一言で切り捨てられたのが、この『オーケストラ!』です。

なおS氏は夫の元同僚で、なんで私と友達になったのかわかりません。

 

◇あらすじ

かつて巨匠と呼ばれたボリショイ楽団の指揮者アンドレイ・フィリポフ。三十年前、体制に逆らったためにその座を追われ、現在は劇場で清掃員として働いていた。ある日パリのシャトレ座から届いた公演依頼のFAXを偶然手にしたフィリポフは、現在のボリショイに代わり、自分達がシャトレ座で演奏することを計画する。かつての仲間たちを集め、オーケストラの要となるソリストに、パリで活躍するヴァイオリニスト、アンヌ=マリー・ジャケを指名する。

多種多様な物語とキャラクターが詰まった映画であるし、私がこの作品を好き過ぎるのでこのまま書くとぐちゃぐちゃに脈絡がなくなってしまいそう。なので、敢えて整理をしてみようと思います。私がこの映画につけたテーマは多軸多様です。

 

◇複数の物語軸

フィリポフは三十年前、特別な思いで臨んだ演奏をブレジネフによって中断され、以来宙ぶらりんな思いで人生を送っている。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲に狂気じみた執着を抱く一方、ある理由で自責の念に苛まれており、彼の苦悩を中心にドラマ軸が展開する。パリでのチャイコフスキーの演奏は、フィリポフにとって三十年前の呪縛を解く絶好の機会だった。

悩むフィリポフを尻目に、周囲の人々が巻き起こす騒動が、映画にユーモラスな色を加える。元オーケストラの面々がパリに出発するまでのドタバタ劇、パリ到着後、出稼ぎに散って一向に戻ってこない団員達、このコメディパートがとても楽しい。
フィリポフに、シャトレ座との折衝を任されるガヴリーロフ。フィリポフと知己でありながら、上述の演奏を中断させた旧体制側の人物で、今も楽団員たちと犬猿の仲にある。だが、彼のマネジメント能力は今回の計画に欠かせないものだ。期待通りのゴリ押し交渉で我儘な要求を通していき、シャトレ座の支配人デュプレシを辟易させる。またガヴリーロフは共産党員であり、パリの共産党大会で演説をするという悲願がある。 

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ガヴリーロフinロシア VS デュプレシinパリ。ハゲ対ハゲ。交互に映される交渉場面はテンポがよく楽しい。

団員たちにはパリに行く金も楽器もパスポートもない。物資問題は、陽気なロマ人の元コンサートマスター、ヴァシリがハチャメチャに解決していく。空港でジプシー達が偽のパスポートに写真を貼り付け、バンバンスタンプを押していくシーンもまた楽しい。
金の問題は、絶望的にチェロが下手なお坊ちゃまを、ガヴリーロフがヘッドハントすることで乗り越える。代償としてやむを得ず坊ちゃんをオーケストラのメンバーとする訳だが、この点をラストで回収し笑わせるのも、細かいプラスポイント。

アンヌ=マリーにとっては長年求め続けてきた親探しの物語であるし、彼女の後見人兼親代わりのギレーヌにとっては、慈しんできた娘を本来の場所に返すか否かで悩む、葛藤の物語でもある。 

 

◇顔が良すぎる多種キャラクターたち

ガヴリーロフとデュプレシは、共に百戦錬磨の交渉人的顔つきが画面映えするし、フィリポフの友人サーシャのいかにも人好きする笑顔もよい。

前出のロマ人ヴァシリが、アンヌ=マリーの前で突然パガニーニを弾き出すところは、実は彼が類稀なる技巧を持つヴァイオリニストであることを観客に印象付け、ジプシー音楽からパガニーニに転じる瞬間に突如笑顔を引っ込めるという演技も含めて秀逸なシーン。

 

この麗しきお顔と姿。ショーシャーナーーー!!!

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この映画ではソリスト、アンヌ=マリー・ジャケでした。パリを代表する誇り高いヴァイオリニストを演じるが、終盤ではまた別の形で、彼女の美しい姿を見ることができる。以前私の知り合い(顔かわいめ性格きつめ)が、メラニー・ロランを話題にして「私、あの顔好みじゃないんですよね~」とドヤ顔で言いよった。

うっさい。お前ごときがショシャナを好みなどで語っていいと思うのか。

 

フィリポフの妻イリーナ。サクラの商売で逞しく家計を支えながら、夫への敬意と愛情を失わない、まさに全主婦が目指すべき理想の主婦。

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パリ出発前に、ガヴリーロフが「やはり無理だ」と漏らすシーン。これに対しイリーナは「あんたは夫の演奏を中断し彼の人生を台無しにした。パリで演奏させなければタマをぶった切るわよ」と怒りの涙を流しながら恫喝。ビビった夫と友人が、両脇から煙草の火を差し出す。 

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主婦、かくあるべし。

 

◇多様な民族

実はこの映画は、世界平和の訴えに満ちている。ロシア人とフランス人それぞれがお国柄を丸出しにしつつ擦った揉んだする話だし、音楽はクラシックを主流としながらヴァシリらが奏でるジプシーミュージックなどの民族音楽も織り交ぜられている。
フィリポフが協奏曲に執着する原因となっている重要人物はユダヤ人だ。また楽団員であるユダヤ人親子は、韓国製SIMカードつき中国製携帯電話をパリにて売り捌く。サーシャの別れた家族はイスラエルから父の晴れ姿を見ることとなり、デュプレシがガヴリーロフにゴリ押されてヤケクソで手配したレストランのオーナーが「俺の名前はアルカイダだ」と言うのには笑う。そして、今回ボリショイが呼ばれたきっかけは「LAフィルが公演を断ってきた」からで「LAフィルより安い」からと、ある意味LAフィルへのラブコールが送られている。(日本にも軽い目配せがあるよ)

 

◇これぞコミュニズム

ラスト二十分、シャトレ座での演奏シーンに言葉はいらない。ごちゃついた状況と団員たちをまとめ上げ、観客を惹きつけるさまを演奏で表した圧巻のシーン。

フィリポフのいう通り、「一つの世界、これぞコミュニズム」。

且つアンヌ=マリーが、フィリポフとの前日の会話の真相を、言葉でなくオーケストラの演奏から悟るシーンでもある。会場が聞き惚れる技巧を披露しながら、フィリポフや楽団員達に戸惑いの視線を投げかけるアンヌ=マリー。目線で応えるフィリポフ。彼女の演奏に、ぴったりと合わせるオーケストラ。

なぜなのかというアンヌ=マリーの疑問が、やがて理解に変わる流れを、目線と演奏だけで表現しているのが見事だ(なので贅沢を言えば、フィリポフの語りは最小限にして欲しかった)。
ラストショット、フィリポフとアンヌ=マリーの静止画が、余韻を残して美しい。

 

※なお、やなぎやは、これからしばらくドラマ「ナルコス」視聴に集中いたします。

『ボストン ストロング』

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監督:デビッド・ゴードン・グリーン、キャスト:ジェイク・ギレンホール、タチアナ・マズラニー、ミランダ・リチャードソン/2017年

 

この映画を観た日は偶然にも、私の弟君が神戸マラソンを走る日でした。

直前まで「20キロ以上走れる気がしない」と言っていたので、私は「完走できない」に1000円くらい賭けていたのですが、私の弟君といえば某私大を入学費から何から奨学金とバイト代の自費で卒業なさり、某新聞社に二年がかりで入社なさって今社説を書いているような、まさに「Stronger」。それはもう意志という意志の塊、リタイアなどするはずがないのでした。パチパチパチ。

ヤツが走り出して二時間ほど経ってから「あれ、そう言えばアイツ走ってるんじゃない?」と気付き「がんばれ~」と一言、今読むはずもないメールを送りました。
そして「マラソンなんてする奴の気が知れんぜ」と思いながら『ボストン ストロング』を観たのでした。

以下、脱線しまくりな完走ですが、あ、感想だったウフ、ちゃんとしたレビューは、いつかふかづめさんがしてくれると思います。 

 

◇あらすじ

ボストンで暮らしていたジェフ・ボーマンは、元恋人エリンの愛情を取り戻すため、彼女が出場するボストンマラソンの応援に駆けつけるが、ゴール地点付近で発生した爆弾テロに巻き込まれ、両脚を失う大ケガを負ってしまう。意識を取り戻したボーマンは警察に協力し、ボーマンの証言をもとに犯人が特定されると一躍ヒーローとして脚光を浴びるが・・・。(映画.com)

 

ジェイク・ギレンホールが大好きなのですが、映画観ない人には「知らん」と言われ、映画好きな人には「あー、はいはい」と思われちゃうんだよねえ。でも「この俳優が出ているから」という理由で映画を観るのはジェイクくらいなんです。キリアン・マーフィも大好きなんだけど、なにしろあの方は子育てに忙しいらしくて。 

ジェイクは以前から出演作品に製作でも関わっているが、最近製作会社ナイン・ストーリーズサリンジャー好きは以前から公言しておられる)を立ち上げ、本格的なプロデュース作品第一弾として作ったのがこの映画であります。 

 

◇ストレスフルな家庭環境

息子が両足を失ったというのに、アル中気味のお母さんを始め、親族にはデリカシーも配慮もない。バリアフリーにしろとまでは言わないが、ジェフがトイレで苦戦していても誰一人手を貸すことすら思いつかず、舞い込む取材やスポーツイベントへの出演オファーに夢中だ。
ジェフは、その環境に慣れているがゆえ諦めているのか、あるいは性格上の問題か、不満を口にせず、タオルで口を押えて叫び発散する。足を失っているというのに…。ただ彼自身、仕事にやる気も責任感もなく、母親に思ったことを言えず、元カノに未練タラタラなやや甘ったれの青年として描かれる。

元恋人のエリンは唯一まともな人物で、正面から状況に向き合い、ジェフを真摯に支える。彼女は彼女で、ルーズなジェフが約束通り自分の応援に来たこと、それが原因で足を失った事実に苦しんでいる。

「あなたが立ち直れないのは足を失くしたからじゃない、いつまでも子供だからだ」の台詞は厳しいが真っ当な言葉だ。
ただ、ジェフの母親の同意を得ずに引っ越してきて、朝、いかにも一緒に寝ておりましたの格好でスタスタ部屋から出てきて冷蔵庫を漁るのはいかがなものでしょうか。つまり、何か誰でも好きに出入りしているというか、ごちゃついた環境だなあ。 

 

◇ある青年が再生する話

ジェフは最初、足を無くしたことにそれほどショックを見せないのだが、徐々に不自由な日常生活(これは多分に家族の責任)とつらいリハビリにストレスを溜めていく。何より、被害者でありながら犯人特定に貢献したことで、テロに屈さず復興を目指すスローガン「ボストン ストロング」を象徴する英雄として周囲から持て囃され、実際の自分とのギャップに苦しむ。そして、一番傷つけたくなかったであろうエリンを傷つけるという最悪の状況に陥ってしまう。

演じるジェイクは、またしてもとても良い。
終盤に挿入されるテロ直後のシーンと「他の人間を助けてくれ」というジェフの言葉は、そんなに自分の価値を低く見ているのか・・・、と観ている側に改めて思わせる。

また、直後には騒然とする現場のシーンを映さず、後にジェフを襲うフラッシュバックにより観客に同じ衝撃を体験させたり、恩人カルロスの顔を終盤の対面時に初めてはっきり映すことで、前に進もうとするジェフの目線に合わせたりと、演出には工夫が見られる。

「英雄」という言葉を使っているのは周囲のみで、ジェイクが演じたのは変わることで再生しようとする青年の姿に他ならない。

 

◇ボストンの空気を想像する必要がある

ボストンっ子という言葉がある通り、スポーツに熱狂的でパワフルな、特徴ある土地柄なのだろうと思う。以前ボストンの会社に勤めていた友達にも聞いたが、レッドソックスに対する人々の思い入れは尋常ではない。生まれたときから衣食住に次ぐものとしてそこにある。こういったスポーツへの熱狂や、チームの地域密着性は、日本人なら特に馴染みがない部分だろう。

だが、長年浦和レッズサッカーチームだよ)のファンである私には、この雰囲気がよく理解できる。浦和の街にどれほどフットボールが浸透しているかは、ファン以外の人間はもちろん知る由もない。

ホームスタジアムは、保守的で穏やかな日本人のイメージを裏切るまったくの異世界だ。レッズファン(粗暴と言われることには滅茶苦茶反論があるんですが、それは置いといて)は、ユーモアとサッカーの知識に他のどのチームのファンより富み、試合中、独特な空間を作り出す。チームとサポーターの間では議論が交わされ、時にぶつかり合い、最後は和解する長い歴史を繰り返している。

浦和の街では、冬になるとサラリーマンのおじさんらが普通に防寒具としてレッズのマフラーを首に巻いている。居酒屋では日常的にサッカー談義が為され、時に浦和レッズコールが起こり、店の前を偶然通った老夫婦が当然のごとくそれに手拍子で合わせたりするのだ。そして突然、選手が吉野家に現れ、その場の全員に牛丼を奢ったりする。

私の職場の人間が、わざわざ一人暮らしの場所に浦和を選び、「レッズ怖いです」と言っているが、うっさい住むな。地元だったら気持ちはわかるが、わざわざ住むな。不動産屋からも絶対忠告があったはずだ。

昨年日本を代表するパッパー議員、へちゃむくれ小百合こと上西が「他人に自分の人生に乗っけて応援した気になってんじゃない」とレッズファンに喧嘩を売ったが、直後に一人の選手が「今日も他人の人生背負って走りまーす!」とコメントした。そういう関係性。そういう場所なのだ。

 

私、浦和に住んでないんだけどね。

 

まあつまり、ラスト、ジェイクがレッドソックスの試合で登場するシーンは、我々の想像以上に重要なシーンだ。爆発テロの後、レッドソックスは即座に「ボストン ストロング」をテーマにしたグッズを売り出し、売上で復興に貢献した。レッドソックスが試合に勝利することが人々に寄り添うことに繋がる、そういう土地なのだろうと思う。

その大事な舞台で、勇気の象徴とされたジェフがパフォーマンスを行うのは、ボストンの人々にはこれ以上ない希望であり、裏返せばジェフにとっては責任を伴う仕事だった。重責をこなし、裏方で人々から声を掛けられたジェフが握手で応えていくシーンは、だから決して偽善的な行為を映した場面ではない。ごく普通の青年が足を失ったことで自分の弱さと対峙して再生し、それがボストンの人々に力を与えることを表したシーンなのだ。

ジェイクの作品選びは本当に良いなと思う。今後もキャリー・マリガンジェシカ・チャステインとの共演が控えているらしく楽しみ。

『ジョニー・マッド・ドッグ』

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監督:ジャン=ステファーヌ・ソベール、キャスト:クリストファー・ミニー/2007年

 

3回目は何にしようかしらと思っていたら、とんぬらさんに「インスタに書いてたやつをこっちに移しちゃいなYO!」と言われました。なるほどなるほど。確かにあちらはあちらで一所懸命書いていたから勿体ない。

それはいいとして「僕が観る気になるようなレビュー書いて下さいね」ですって。オーケー、じゃあ期待にお応えして、狂犬ジョニーのガチ戦争映画『ジョニー・マッド・ドッグ』のレビューにします。 そしてこの言葉を贈りましょう。

「死にたくなければ、生まれてくるな!」

とんぬらさん脚色してすみません、ちょっと疲れててねえ、げほげほ。

◇あらすじ

内乱の続くアフリカ某国。政府軍への抵抗勢力側に少年兵だけで構成される部隊があった。彼らが暴虐を尽くす様子を、隊のリーダー『マッド・ドッグ』を中心に描く。

アフリカの少年兵の生産方法は我々も知っている通り悲惨なもので、マッド・ドッグらも元は、自分が死ぬか親を殺すかの選択を強要され、後者を選んだ少年達だ。部隊は上官ネバー・ダイ将軍の命令の下、政府側の人々に対する略奪、強姦、殺戮を繰り返している。

マッド・ドッグは躊躇なく人を殺すが、その裏にはネバー・ダイに認められたいという欲求がある。本来肉親を殺した憎い相手のはずなのに、優しい言葉を掛けられるうちに愛されたいと思い込む。子供っていうのはそういうものなんです。基本的に愛情に飢えているし、なので刷り込みもそう時間はかからない。

少年たちにとって襲撃は使命だが、ゲームでもある。そして「仲間」の存在が刺激剤となっているのも印象的。浴びせ合う怒声や、死地を抜けた後の一体感で互いに奮い立つ。一人、略奪したウェディングドレスをずーっと着ている少年がいて、砂埃の中ドレスの白さが妙に目につく。ドレスを着て仲間と遊ぶ様は、まるで仮装パーティ。渋谷のハロウィン。

 

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渋谷にこういう人たち絶対いたでしょ。ネバー・ダイの下にぶち込んで一ヶ月も鍛えれば簡単に兵士になりそう。


カメラはマッド・ドッグらと、反対に父と弟を守って逃げる少女ラオコレを交互に映す。襲撃する側と襲撃される側両方の視点から、同じ戦争を描く仕様になっている。
マッド・ドッグは勇敢で美しいラオコレに惹かれるのだが、少女にとって彼はけだものでしかない。観ている側は、とにかくやりたい放題のガキどもに苛々させられている。だが終盤で、将軍にあっさり見捨てられたときのマッドドッグの顔、少女の決然とした行動に対するマッド・ドッグの反応で、あ、この子も子供だったっけと映画を観る前の状態に立ち戻るのが、なかなか衝撃的な感覚。

マッド・ドッグらは確かに戦争の被害者で、でもここまでやったら、もう無罪ではない。というより戦争が終われば、自分は普通の生活には戻れないと気付くんでしょう。

 

◇リアルさにとても拘るのね

監督は、これが初長編となるジャン=ステファーヌ・ソベールさん。
撮影はリベリアで行われたが、映画内に具体的な地名は出てこない。劇中の出来事は世界各地で起こっていることなのだという意図だろうと思う。マッド・ドッグら少年兵を演じたのは、現実にも兵士だった少年たちだ。

映画での役を実際の人物に演じさせる手法は他の映画にも見られるが、この監督は妥協を許さない人らしく、一年の間彼らと寝食を共にして関係を築き、相互理解を図った。
その成果か、同じテーマが描かれるブラッド・ダイヤモンドより、こちらの作品の少年兵の方が格段に生々しい。例えば、少年たちの言葉の幼稚さと獲物に対するねちっこさ。レイプシーンにしても同世代の少年を取り囲んで殺すシーンにしても、行為は大人顔負けの残酷さなのに、語彙はとにかく貧困だ。敵とみなした相手への小突き回し方や絡み方はしつこく、動物じみていて言葉が通じない様子が絶望感を煽る。

彼らは襲撃シーンについて、自分達から「やり方は分かっているからやらせてほしい」と申し出たそうで、これはインドネシア内戦での虐殺をテーマにしたアクト・オブ・キリングでも耳にしたことがある。こちらも虐殺を行った加害者たちに同様の役を演じさせた映画で、やはり「やり方は分かっている」と虐殺シーンを自分達から積極的に演じてみせたそうだ。

忘れたいであろう体験を演技で追体験させるのは、少年にとって強烈すぎるリハビリのようにも感じるが、映画に現実味を持たせるための手法が彼らにプラスに作用すればと思うし、何より戦争映画としての出来が素晴らしい、そこが重要。

ところで同監督の新作『暁に祈れ』が近日公開となるが、こちらはタイの刑務所が舞台で、囚人をやっぱりホンモノの囚人が演じているという話題作。どこまで「リアルさ」にこだわるのかな?内容は面白そうだけど、ちょっと次の作品では、この手法から脱却して欲しいところ。

『バーフバリ』

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監督:S・S・ラージャマウリ、キャスト:プラバース、ラーナー・ダッグバーティ/2017年 

 

第一回目の『軍旗はためく下に』の感想を書いた後、各所から「一発目はもっと明るい映画にすればよかったのに」と意見を頂きました。ただし親友のリエコからは「次は『キャタピラー』で」と言われました。

あと、ブログ名を考えてくれた同僚から突然請求書が届きました。ネーミング考案費100万×5件、プロジェクト管理費500万、しめて税込1080万円。聞いてないよ。

しかも「戦争万歳、戦争万歳言ってんじゃねェ」と言われたので、私の反戦の気持ちは一ミリも伝わらなかったようです。

さて本題です。 明るい映画、書いたる。

 

◇「バーフバリーィ!」

観た人はみんな「バーフバリ!バーフバリ!」と我を失い、観てない人は滝つぼに落ちるらしい。イヤ、滝つぼめっちゃ怖い。というわけで、今更感がありましたが、観ました。

前編『伝説誕生』と後編『王の凱旋』から成り、マヒシュマティ王国の正当な王バーフバリの波乱の生涯を描いたもの。バーフバリ息子の現在パート⇒バーフバリ父の過去パート⇒再び息子パートと展開していきます。ストーリーはまあいいでしょう、パッケージを見ればわかるんで。

ネガティブな感想になるので先にフォローしとくと、私もそれなりに熱くなり、飼い猫の前足で「ニャーフバリ」と遊んでたし、「これを法と心得よ!」は今も家庭で使っている。「マヒシュマティ」の響きはなんかクセになるし、カッタッパの両膝ズシャー!スライディングからの「バーフバリーィ!」は楽しいシーンだ。
だが総じてキツかった。

 

◇エフェクトと恐喝演出がいくらなんでも鬱陶しい

昼に撮影した映像にエフェクトをかけた夜のシーン。夜という夜がエフェクトの嵐だもんで、平衡感覚に異常を来しそうでした。夜は夜でしょ?夜って大事なものだよ、夜の雰囲気を活かそう?「闇夜のバーフバリの顔」を躍起になって映さなくても、伝わるから彼のすごさは。
さらにCGとスローモーションの多用で悪酔いしそう。これでもかと繰り返される、「みなこの男を愛せ」と恐喝してくる演出も辛い。民衆は都度都度パアッと彼に見惚れ、カッタッパがまたパアッと見惚れるんだわ、つぶらな瞳で。年甲斐もなく。

私が基本的に、不言実行、言わぬが花、「負けなければいい」っていう人(ヤン・ウェンリーとか、ヤンとかウェンリーとか)が好きなので醒める、いや楽しいんですよ観てる最中は、でも段々白目になっていくのは否めないのよ。

 

◇各キャラクターにわりと魅力がない

主要人物はみな一見魅力的なんだけど、基本的にバーフバリを溺愛するか憎悪するかのみでキャラが成り立っているので、最終的にダダダとダダ崩れる印象。例えばシヴァガミ妃は、『伝説誕生』では威厳深く意志を持つ女性として描かれていたのに(川から腕一本の画はよかった)、結局つまらぬ嫉妬と意地で自滅する。

なによりバーフバリと親子に等しい関係であり、ラブラブな蜜月を過ごしまくったカッタッパが、なぜああいった決断に至ったのかがスカスカなので消化不良なのだ。

大体カッタッパってば、ご飯は別の場所で食べているけど、シヴァガミ妃には重用されてるしバーフバリには慕われてるし、バラー親子への態度は割と不遜、あまり奴隷の悲哀が感じられないのである。王家に囚われる奴隷の抗いがたい立場と苦悩をもう少し描いていれば、あの決断シーンにもっと深みが生まれたのではないだろうか。

 

◇権威に対する畏怖が理解の範疇外

最後はこれよ。バーフバリ自身は、奴隷を父と慕い、母より妻の言に耳を貸す現代的な人なんだけど、彼を取り巻く人々の、権威的なものに対する浮かされ方が尋常でない。
男らしさをこれ以上なく体現するバーフバリに、男勝りのヒロインは自分が女であることを知らしめられ、兵も奴隷も民も彼を愛し運命を託す。バーフバリが一声発すれば、誰もが極限状態で奮起する。

全編通し、権威的なものに対する盲目的な崇拝、依存、熱狂、それに逆らった者に対する報復の苛烈さが異様で、カーストという独特の制度が根付く社会から生みだされたことを考えると、何とも居心地が悪い。

 

あと、端的に飽きた。本来ならば一番盛り上がるべきラストのバラーとの対決シーンで、「やれやれまた始まるのか、どっこいしょ」と掛け声をかけなければ起き上がれなかった私。

始めは「わあ『ベン・ハー』みたい」とわくわくしたバラーの乗り物も、ラストでは「あ、まだこれに乗ってたんだ。この牛って、見たことない感じだけど何種?なにとなにが掛け合わさって出来た種?」など冷静。

映画に矛盾だタブーだ言うのは好きじゃないし、不自然な設定や違和感を二の次に、ねじ伏せられてしまうような映画はもちろん存在すると思うんだけどね。さすがに長すぎたのでは。カーラケーヤとの戦闘シーンは好きだったけどなあ。

『軍旗はためく下に』

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 監督:深作欣二、キャスト:丹波哲郎左幸子/1972年 

 

◇あらすじ

第二次世界大戦終結後、戦争未亡人となったサキエ(左幸子)の元に夫の死亡通知が届く。だが、それは「戦死」の「戦」の文字が消され「死亡」に書き換えられた不可解なものだった。夫、冨樫軍曹(丹波哲郎)は敵前逃亡を図り、処刑されたという。以来サキエは26年に渡り、夫の死の真相を求め続ける。 

戦争映画が大好きです。じゃあ相当文献なども読んでいるかというとそうでもないんです。すみません。

『軍旗はためく下に』、こちらを是非とも「シネマ一刀両断」のふかづめさんにレビューしてもらいたい!としつこくラブコールしたにもかかわらず、ふかづめさんは「なんぼほどこの映画が好きなのか」と冷たい反応。なので自分で書くことにして、ブログを始めました。

ブログ名の「Yayga!(イェイガ)」はネーミングのプロである同僚が考えてくれました。いいでしょう。しかし、ブログ全然わからない、いろいろな設定が。

では、本題です。   

 

◇なぜ夫は「英霊」ではないのか

戦死ではない夫は、戦没者追悼の式典で天皇に花を手向けてもらう「英霊」の中にいない。だが、どのような経緯で処刑されたのかがわからない。サキエは厚生省に通い、淡々鬱々と担当者を詰めまくる。サキエを演じたのは左幸子さん。パンと張り詰めた頬が、風と陽射しの晒された苦労人のおっかさんという感じ。なかなか波乱万丈な人生を送られた方のようです。 

そもそもこの夫婦は、半年しか夫婦生活を送っていない。サキエは身籠り、夫の出征後に一人で娘を出産し育ててきた。もちろんそういった夫婦は山ほどいたでしょうが。
半年しか夫でなかった男のために26年を費やしたわけだ。既に彼女自身の執念となっていたのか、冨樫軍曹がいい男だったためか。丹波哲郎は昭和5○年生まれの私ですら、ほぼ「霊界のおじさん」の印象なのだが、この映画の冨樫軍曹は、まあカッコいい。何で霊界霊界言うようになっちゃったんだろう・・・。

淡々ながらジトジトとしたサキエの追及に負けた厚生省の担当者は、冨樫軍曹と同じ部隊であった四人の生き残りの連絡先をサキエに渡す。サキエは四人を順に訪ね、地獄のような戦地の実情を知ることとなる。

特徴として、真相を究明する現代のシーンはカラーで、人々の口から語られる過去のシーンはモノクロで撮影されている。 

 

◇浅い知識ですが

冨樫軍曹が戦ったのはニューギニア戦線、太平洋戦争の中でも特に悲惨な戦場として知られる、オーストラリアの北方に位置する島だ。島に上陸した部隊を維持するためには言うまでもなく、武器、弾薬、食料の補給ライン確保は最重要事項。弾と食料がなければ戦闘どころではない。連合国軍は当然のごとく、潜水艦と魚雷をもって日本側の輸送船を沈めた。さらに制空権をも握られた日本軍は成すすべなく、部隊は補給路を完全に絶たれた状態でこの島に閉じ込められた。 

島のほとんどは湿地地帯と熱帯雨林のジャングルで、油断すれば泥沼にズブズブと足を取られ、頭上からはヒルが雨のように降り注ぐ悪環境・・・。ジャングルを出れば灼熱の太陽に晒されるか、敵機に狙い撃たれる。孤立した兵士たちは幽鬼のように島をうろつき、飢餓とマラリアなどの感染病に倒れた。死者18万、その半数以上の死因は戦闘ではなく病死か餓死と言われる。もう戦争とかじゃないな、これ。

最近の戦争映画では『永遠の0』などはメジャーとなりましたが、戦死とは呼べないような戦死を遂げた若者たちもいたのだと知っておきたい。

  

◇生き残った人々の証言

サキエが訪ねた四人の現状は様々だった。復興しつつある都市を避けてゴミ溜めに住む元陸軍上等兵寺島。漫才師として生計を立てる元陸軍伍長の秋葉。元憲兵軍曹越智は密造酒のバクダンで失明しており、元陸軍少尉大橋は高校教師となっている。
冨樫軍曹を知っている者もいれば、知らずに「軍曹」のキーワードを頼りに記憶を手繰り寄せる者もいた。 

越智によれば、ある軍曹は、「豚だ」という新鮮な肉を飯盒に入れて現れたという。モノクロの過去シーンだが、血しぶきや強調をしたい箇所のみ生々しくカラーに変化する。飯盒の中の肉も、てらてらとしたピンク色で映される。飢えた兵士たちはそれを貪り食う。なんの肉かは言うまでもないでしょう。

とにかく全編、鬼気迫っている。個人的には塚本晋也監督の『野火』では感じなかったものだ。どちらも自主制作映画というのは興味深い。『野火』が主人公の内面描写に重きを置いており、こちらは複数人物の語りを通して多方面から戦場を描くといった違いはあれど、息が詰まるような緊張感は、役者や演出の差と考えざるを得ない。
惨状を描く一方で、冨樫軍曹の死の真相へと徐々にピースが埋まっていく過程はミステリーとして娯楽色があり、さらに証言者の中に実はウソをついている人間がいる、という展開が凝っていて面白い。  

 

◇「日本はどっちですか」

最終的にサキエは、夫は敵前逃亡ではなく上官殺害の罪に問われ、部下たちと共に処刑されたことを知る。だが、彼が罪を犯した理由、また軍法裁判なしに処刑された理由は、あまりにも馬鹿げた空しいものだった。

波打ち際で「日本はどっちですか」と尋ね、その方角に伏して嗚咽する丹波哲郎の演技は、涙せずには観られない。花を手向けてやりたいと願い続けてきたサキエは、ラストで「お父ちゃん、あんたやっぱり天皇陛下に花手向けてもらうわけにはいかねぇな」と真逆の結論に辿り着くのだ。

この映画を観た後は、毎年首相が靖国神社に参拝するとかしないとか、隣国が騒いだとかいうニュースが遠いことのように感じられる。劇中、証言者の一人大橋が「戦犯が総理大臣になっているんですからね」と呟き、戦争とは無縁の健康な高校生たちを見つめる。英霊と呼ばれる人々、あるいは英霊とは呼ばれない人々の犠牲の果てに穏やかな日常が有る、だがそれを多くの人が知らないことを示す、胸に迫るシーンだ。

 

◇突然ですが。

ここで突然ですが、前置きでも登場したふかづめさんに教えてもらったエレファントカシマシの『ガストロンジャー』という曲を紹介します(二十代に知識をさずけられまくるよんじっさい)。すみませんすみません、引用とかして。ガツンと頭を叩かれるようなカッコいい曲なのだが、以下のような歌詞がある。

 

 俺が生まれたのはそう所謂高度経済成長の真っ只中で、
それは日本が敗戦に象徴される黒船以降の欧米に対する
鬱屈したコンプレックスを一気に解消すべく、
我々の上の世代の人間が神風のように猛然と追い続けた、
繁栄という名の、そう繁栄という名の、繁栄という名のテーマであった。

そして我々が受け継いだのは豊かさとどっちらけだ。

 

とても耳が痛い。繁栄という名のテーマの前には、復興というテーマがあったはずだ。復興と繁栄を経て、今豊かで白けている我々は、それらが数多の犠牲の上に成り立っているということを知っておかねばならないんじゃないでしょうか。

堂々と、当時の日本国そして天皇を批判した反戦映画。フカキンの叫びに痺れます。