Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『暁に祈れ』

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監督:ジャン=ステファーヌ・ソベール キャスト:ジョー・コール、ポンチャノック・マブラン、ビタヤ・パンスリンガム/2017年

 
先日、雨上がりの道を歩いていたら、水溜まりがあったので子供たちに避けるよう注意しました。言わないと弟の方がわざと突っ込むからです。しかし慌てすぎて「水溜まりあるよ」というところ、「みずっ、ぶっ、たりま」と言ってしまいました。そこから二日経った今も、子供たちが「みずぶったりま~♪」「あ、みずぶったりまだっ」とまとわりつきながら囃してきます。
 
突然ですが私、昔からコウメ太夫が好きで。
あまりに子らが水溜まりの件をからかってくるんで、顔にパックをした状態で「チャカチャンチャ~、チャカチャンチャ♪」と踊り出て、「みずぶったりま かと思ったら~ 水溜まりーでーした~♪ ア チクショーー!!」と追いかけ回してやりました。そうしたら、大ウケしてしまい・・・毎日やらされてます・・・。
 
本日ご紹介するのは、ジャンキーボクサーがタイに沈む『暁に祈れ』です。
 
チャカチャンチャ~、チャカチャンチャ♪
「A Prayer Before Dawn」かと思ったら~ 「A Player Before Down」でもありました~♪
ダブルミーニングかよ、ア チクショーーー!!
 
 
◇あらすじ
タイで自堕落な生活から麻薬中毒者となってしまったイギリス人ボクサーのビリー・ムーアは、家宅捜索により逮捕され、タイでも悪名の高い刑務所に収監される。殺人、レイプ、汚職がはびこる地獄のよう刑務所で、ビリーは死を覚悟する日々を余儀なくされた。しかし、所内に新たに設立されたムエタイ・クラブとの出会いによって、ビリーの中にある何かが大きく変わっていく。(映画.com)
 
数えるほどしか経験のない海外旅行の行先の、ほとんどがタイです。なので、あの国の空気が少しはわかる。『暁に祈れ』は、以前このブログでも取り上げた『ジョニー・マッド・ドッグ』(2007年)の監督ジャン=ステファーヌ・ソベールがタイで撮影した作品とあって、楽しみにしていた。
 
ヘロインとヤーバー中毒のボクサー、ビリー・ムーアを演じたのは、イギリスの若手俳優ジョー・コールグリーンルーム』(2015年)が代表作らしいが、キリアニストの私にとってはピーキー・ブラインダーズ』での、ケンカっ早くて愛らしい末弟の印象が強い。そしてフェルナンド・トーレスに似てると思うんだよなあ。
 
トーレスは、ここで語っても仕方ないので色々省くが、『神の子』と言われた元スペイン代表のサッカー選手。古巣アトレティコ・マドリードでキャリアを終えるのかと思ったら、昨年、極東Jリーグサガン鳥栖に移籍した。この文章だけ見たら未だに信じられない事実。「トーレス鳥栖に来るんだってよ」とニュースになったとき、多くのフットボールファンが目を白黒させながら「ホ、ホントーレスか!?」と言った。まあでも、すぐ国に帰らはるんでしょと思っていたら、チーム低迷に責任を感じて残留を決意、さらにこのほどJリーグにて引退されることを発表。キャリアと人気に胡坐をかかない、めっちゃ真面目ないい人&めっちゃキュートなんだっ!世界中の美女とやりたい放題だったろうに、付き合った女は、8歳の頃に出会い17歳で付き合い始めた現在の嫁オンリーワン、しかもブス。なんて誠実なスーパースターだ。
 
ごめんなさい、脱線しました。
こういったロジカルな理由により、私はジョー・コールが好きです。
 

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『神の子』トーレスジョー・コールくん

 

◇本題
さて、この監督の特徴は異常なまでのリアリズムの追求。『ジョニー・マッド・ドッグ』では元少年兵を起用したが、その手法は本作でも継続され、舞台はタイの刑務所、役者はほとんどが元囚人だ。
本物の元兵士や囚人を起用したからと言って、観客に“リアル”を感じさせるのは簡単なことではない。下手すればドキュメンタリーになってしまうだろう。だが最初に「異常」と評したように、この監督のリアリズムにかける執念は並大抵ではない。

インタビューによれば、キャスティングには一年もの時間をかけ、またワークショップを行って交流を図ったとのことだ。演技指導はしなかったという。
同じ試みは『ジョニー・マッド・ドッグ』でも為され、キャスティングした少年たちと一年間の間、寝食を共にした。目的はもちろん、言葉は悪いが、猛獣の檻に入り時間をかけて手懐けることで、カメラの存在を忘れさせ、より自然な生態を撮影するためだ。
 
さらに本作では、全てのシーンを長回しで撮影し、のちに編集する方法が取られた。想像するだけでうんざりするような、地道な職人作業。映画監督としてどうなのかはわからないが、少なくとも前作の感想で「どこまでリアルにこだわるのかしら」なんて偉そうなことを言ったことは謝る。こいつが俺のやり方なんだよね。
 
そして、細かくカットされた画が多いからこそ、最も記憶に残るのが、終盤のムエタイ全国大会で、リングに入るまでのビリーを追った長回しボクサーにとっての花道が、ビリーにとっては刑務所内の通路であり、囚人たちがたむろする中を歩む姿がとてもカッコよい。
 
また、私だけかもしれないが、白人監督が白人を主役にアジアを撮った映画には、その国の人々の貌や言葉、音楽が添え物であるように感じることが多い。「スパイス」として他人種が使われているような違和感だ。だが、前述の徹底した舞台作りの効果により、ビリーはアジアに埋もれた白人にしか見えず、その種の違和感を感じない。
 
刑務所内の描写は囚人たちの汗の匂いまで漂ってきそうなほどに生々しい。
ムエタイチームの監房に移るまでの、ビリーを恐怖に陥れる監房内の描写が圧巻だ。顔から足まで身体中入れ墨に覆われた半裸の男たち、汚らしい壁や床、訳の分からない言葉の渦。突然、触れられ小突かれる。ビリーが周囲の言葉を理解できない(または理解する気がない)うちはタイ語に字幕がつかず、ビリーの感じる恐怖と混乱をダイレクトに観客に伝える。
 

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また、ビリーを絶望させるのが、件のレイプシーン。それなりの本数、しかも戦争映画を観ていれば嫌なレイプシーンには必ず出くわす。そんな私から見ても、怖気を震うシーンだ。レイプされる側もする側も発するのはうめき声だけで、行為は当然のごとく淡々と行われる。薄暗い明かりの下、太った身体に剥き出しの尻、汗ばんだ入れ墨だらけの肌が、ただただ陰惨。場所が監房の便所であるのが、これがただの「排泄行為」であることを突きつけ、なんとも表現しがたい気分になる。
 
人間の醜い行為を如何に生生しく撮るか、それがリアリティに通ずると監督には信念があるのだろう。残虐なものを見慣れた人間にとってこそ、このシーンの無機質な残酷さは衝撃だと思う。
 
 
アップショット
長回しによる撮影、細かなカットの他に特徴的なのは、ビリーのアップショットの多さだ。ビリーが「閉じている状態」、内の世界に沈んでいるとき、ハンディカムのカメラはビリーにぴったりと寄り、無表情をアップで映す。逆に、何も考えなくていい弛緩の時間、例えば刑務所内での整列や点呼のとき、監房で横たわっているときはカメラは引いた状態となり、このときは観ている側の緊張も自然と緩む。
 
アップショットは、恐らく他のレビューも挙げているだろうが、サウルの息子』(2015年)を思い出させる。だが、構図に似ている部分はあっても、意図するものは全く違う。『サウルの息子』ではゾンダーコマンドの男サウルの顔を始めから最後までカメラの中心に置き、背景をぼかしてアウシュビッツ内で行われる処理を見せた。つまり、映したかったものは周囲、サウルが見たものだった。本作で映すのは、ビリーの内面だ。基本的にビリーの世界は閉じていて視野も狭い。カメラがビリーの視点の先を映さないのがじれったく窮屈だが、ビリーの追い詰められた精神状態を体験させる狙いなのだろうと思う。
 

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◇ドラマの排除
ストーリーらしいストーリーもなければ、ボクシングを通してコーチと友情を育んだり、ソリの合わない囚人を叩きのめしたり、試合に勝利して仲間たちと涙するなどの大仰なドラマティック展開は何一つない。
 
そもそも、逮捕される以前から、イギリス人のボクサーがタイの地でヘロインに溺れているには相応の理由があるはずだが、その事情も不明だ。ボクシングの試合のシーンでは、思い切り寄ったカメラはビリーの顔か、その目前を映すのみ。リングを囲む観客目線の画も、観客の表情もばっさり切り捨てる。ボクシングはビリーが劣悪な環境を生き抜くための拠り所ではあるが、それを経て別人に生まれ変わるわけでもない。人生に劇的な変化などない、とする点もリアリズムの目線と言えるよね。
 
だが、だからこそ、ひっそりと挿し込まれるドラマとビリーの僅かな変化が感動的だ。レディボーイ、フェイムの女性らしい同情、廃人のようなビリーに向けられる、小柄な囚人の気遣い。点呼で代わりに返答をし、ケンカを止め、レイプを目撃した夜、横たわって震えるビリーの肩をとんとんと叩いてくれるのである。
また、ビリーはムエタイチーム加入後も再び薬に手を出して仲間を殴ってしまうが、報復しようとする相手を制止する囚人は、当初はビリーとぶつかっていた男だ。そして、再びチームに受け入れてもらうため、初めて人に詫びるビリーに「お」となるし、最終的に謝罪を受け入れた男は、その後、ビリーが大会に出るまで傍でサポートしてくれることになるのだ。また、彼らとの交流の中で初めてビリーの笑顔を見ることもできる。思わず「お、笑った、ビリーが笑った~」となること請け合い。悪党どもの中に存在する情や人間関係に、
思いの他、心を揺さぶられる。
 
「徹底したリアリズム」は本物の犯罪者を起用し、場所や出来事を再現したら生まれるかもしれないが、映画である限りは如何に映画とするかが重要。「やりたいことは分かるがつまらん」となってしまっては意味がない(『アクト・オブ・キリング』のように)。この監督の映画は、観客の気持ちを確かに高ぶらせる。そこにストーリーがなくても、ただ「画面に引き付けられる」という感覚が気持ちよく、私はこの監督はいいなあと思う、次回作も非常に楽しみ。
 
引用:(C)2017 - Meridian Entertainment - Senorita Films SAS

『バウンド』

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監督:アンディ&ラリー・ウォシャウスキー(現リリー&ラナ・ウォシャウスキー) キャスト:ジェニファー・ティリー、ジーナ・ガーションジョー・パントリアーノ/1996年

親友のリエコが面白い漫画や本を発掘しては貸してくれます。先日「すごく面白いんだけどBL色があってもいい?」と『10DANCE』という漫画を渡されました。確かに3巻だか4巻だかで、これまで精神的なものだったエロが物理的なことに発展してました。
 
漫画を返した後にメールが来て、「あの漫画、私のクローゼットの右下に包んで隠してあるから。私が死ぬとき君への形見分けだって言って死ぬから、処分して・・・」と。分かったよ。ダンナにバレてまずいものは全部クローゼット右下に置いておいてね。でも形見分けは、君が独身時代に車買えるくらいの値段をつぎ込んだジュエリー類がいいです。
 
そんなわけで、本日は女同士の淫靡な企みの映画『バウンド』をご紹介します。
 
パワーワードは紛れもなく、
「All part of the business」
 
笑顔もセックスも、ビジネスなんだよ!
 
 
◇あらすじ
盗みのプロ、コーキージーナ・ガーションは5年間の刑期を終えて出所した。マフィアのビアンキーニからアパートの内装と配管工事の仕事を得たコーキーは、隣室に暮らす組織の資金洗浄係シーザージョー・パントリアーノの情婦ヴァイオレット(ジェニファー・ティリー)と互いに惹かれ合う。ヴァイオレットは、組織の会計士が横領していた200万ドルを奪って逃げようとコーキーに持ちかける。(映画.com)

 

DVDを蒐集する趣味はないのだけど、この映画は大好きで持っているんです。監督&脚本は、マトリックス』(1999年)で有名になる前のウォシャウスキー兄弟、現ウォシャウスキー姉妹。ちょっと前に性転換のことを知ってびっくり。何も揃って転換することなくない?ブラザー&シスターのがバランス良くない?

しかし、実は兄弟が姉妹であったことを知った上で『バウンド』を観れば、なるほどと思う点もあって。レズビアンの二人がマフィアの金を騙し取るとなれば女の狡猾さがクローズアップされるよう想像しがちだが、それよりも女同士の間の生真面目さや初志貫徹する強さが印象的だ。身勝手に押し付けられる男の願望やイメージを置いてけぼりにする爽快感もある。
 
マトリックス』公開より前に本作を観ており、すっかりのウォシャウスキーズのファンだったので、『マトリックス』ヒット時は、よかったねえって妙に親し気に見守ってしまった。
 
 
ジーナ・ガーション
この映画を観てからしばらくの間、憧れの女と言えば、コーキーを演じたジーナ・ガーションだった。顔つき、皮肉気なアヒル口、髪型、ピタリとしたタンクトップにダブついたワークパンツ、上から下まで好み。ショーガール』(1995年)で演じたダンサーとは、かなりイメージの異なる役となった(あの役も好きだけど)。
 
私だけかもしれないが、好きな女優&憧れる女優にはいくつか種類があって、例えば自分がなりたいと思う意味での「好き」、これはパトリシア・アークウェット(現在でなく昔の)だったり、キャリー・マリガン(『ドライヴ』の)だったりする。(仮に私にレズビアンの素質があるとして)性的な意味での「憧れ」はまた異なり、ジーナはこちらのカテゴリだ。
 

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ファーストシーンが好き。
 
 
『バウンド』でジーナに惚れ込んだ私はその後も彼女の出演作品を追い(以降はあまり作品に恵まれていない)、たまにこの作品を見返すほど長い間、憧れの女優であり続けた。
 
 
キャサリン・メーニッヒを知るまでは。
 
 
ごめん、ジーナ。尻軽な私は『Lの世界』でキャサリン演じるシェーンに釘付けになってしまったん。
 

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『Lの世界』きってのスケコマシ、シェーンを演じたキャサリン。(photobucket.com/gallery/user/dylanface23/)

 

シェーンに誘われて断れる女がいたら今すぐに名乗り出ろ。声がまたいいんだぞ!
 一時期シェーンが好き過ぎて、「もう白シャツと黒パンしか着ない」と宣言するも、「骨格が違うからムリ」とリエコに一蹴される事件も。

まあまあ、それは冗談として、本作でのジーナのカッコよさは文句なし。ただ主役はヴァイオレットを演じたジェニファー・ティリーの方だろう。
 
 
◇本題
よく考えられた脚本で、とにかく面白い。
マフィアの金を盗む計画は、現状から抜け出したいヴァイオレットに、二つの契機が訪れたことに端を発する。一つはコーキーとの出逢い、一つはファミリーの会計係シェリーが横領していた200万ドルを情夫シーザーが一時的に預かることだ。彼女が計算高く冷静な女であることは、犯罪世界に身を置くことへの危機感、その世界での情夫の地位に限界を感じている点に明らかで、だが彼はそれらも含めて彼女を理解していない。

計画は、シンプルなようでいて理に適っている。シーザーと、マフィア幹部ジーノの息子ジョニーの犬猿の仲を利用し、消えた金はジョニーが盗んだように思わせるというもの。「人は信じたいものを信じる」の心理を逆手に取った、確率の高い作戦だ。
だが、その後のシーザーの行動を読み切れなかったことが災いし、計画は大きく狂うことになる。
 
シーザーの言いなりと思われたヴァイオレットが、危機的な状況で本来の才と度胸を発揮し、彼から主導権を奪い取る展開が面白い。ここで、キラーワード「All part of the business」がぶちこまれるのだが、「あんたへの献身と愛情は私にとって仕事よ」と言い捨てるヴァイオレットと、ぽかんとするシーザーのバカ面が見ものである。
 
主導権の逆転現象は、女二人の関係にも見られる。作戦当初、どちらかが裏切ったときに負うリスクは圧倒的にはコーキーの方が高い。ヴァイオレットが金を独り占めし、ム所上がりの女に罪を擦り付けるなど簡単なことだからだ。だが途中から、金は隣室に潜むコーキーの手元にあるまま、ヴァイオレットがシーザーの監視下に置かれることで、リスクの割合は逆転する。コーキーはこのまま金を持ち逃げすることもできるのだ。二人の間柄は「信頼」だけが結び付けている危うい関係だが、この信頼は肉体と精神の両面で裏打ちされているため、レズビアンの設定が必然のものとして生きてくる。
 
 
◇小道具
本作では、電話や壁といった小道具、また「色」がメタファーとして効果的に使われている。そもそも「隣室」という位置関係がなんとも淫靡で、その間の壁はヴァイオレットとコーキーを隔てるものであると同時に、互いに壁に手を当てて愛を確かめ合うシーンに見る通り、二人を繋ぐ役割も果たしている。また何度も強調されるように、壁(障害)は「とても薄い」のである。
 
また電話は、壁を飛び越えることができる二人の希望の綱だ。それだけでなく、シーザーがジーノ親子殺害後、ファミリーのミッキーに掛ける電話はヴァイオレットを追い込み、ヴァイオレットが浴室からシーザーに掛ける電話は彼女の立場を有利にする。つまり、『マトリックス』同様、電話が何かしらのスイッチになっているわけだ。
 
そして、計画がシーザーに露見してしまう原因も、この「薄い壁」と「電話の音」、希望を象徴していた道具が一転、災いの元へと変わることになる。
 
主導権の逆転、小道具の意味の変化。そして自身の性の転換。
 
ウォシャウスキーズは物事を逆へ振れさせるのが好きなんだな。 
 
 
◇三色の色
無機質な背景に三つの色が差し込まれるのは、それぞれが登場人物を象徴するためだろう。
ファーストシーンの、エレベーターの内装は真っ赤だ。これはヴァイオレットがこの時点で、シーザーの囲われ者であることを示す。部屋の床は赤、重要な客を迎えるとき、普段黒を好む彼女にシーザーが選ぶドレスの色も赤。この映画では支配者を象徴する色である
 
仕草や態度が男のようなコーキーは、白いタンクトップ姿で部屋の壁を真っ白な塗料で塗る。意外にも彼女のカラーは「白」、そしてヴァイオレットを表すのが「黒」だ。見た目から考えれば逆ではないかと思われる二人の関係だが、色の使い方を見ていればヴァイオレットの方に主導権があることは一目瞭然だ。
 
さて、そんなわけでジーナより、「黒」を担うジェニファー・ティリーがカメラの中心となるのは当然なのだが、彼女の役どころは複雑だ。数回寝ただけのコーキーを、犯罪に引き込むだけの抗い難い魅力を振りまき、シーザーの寵愛は維持したまま、ミッキーの目をも眩ませる必要がある。ミッキーは、彼女に心優しい聖女の側面を見ているので、シーザーが好む顔とはまた別の顔を作らなければならない。つまり、男たちがそれぞれ求める女性像を演じ分ける必要があるわけだ。
 
そういう視点から見ると、ジェニファー・ティリーの起用はどんなもんなのだろうか?アジアンテイストな顔、個性的なカーリーヘアに濃いダーク系のメイクと、どちらかというと需要は少ないんじゃないかっていうね・・・。いや、私は好きですけどね、この人。男性諸君が見て「セクシーだ」と思うかどうか、是非とも聞いてみたいところ。服は露出度の高い黒のミニスカワンピ一択(コーキーを誘うときが一番、乳を出していた)、シーザーのような男にはお好みなんだろうが、ラスト、ミッキーを見送るシーンでは、服なり髪なりヴァイオレットのファッションで、彼女の変化を見せたら面白かったかもしれない。
  

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◇シーザーかわいそう?
存在感を見せたのは主役二人だけではない。
幹部のジーノ親子を殺したシーザーは、そのために生じた綻びを一人で忙しく繕うことになる。死体の始末、消えた金の捜索、銃声で駆け付けた警官たちの対処。何より、ミッキーが金を受け取りに来る時間が迫っている。そんな中で実は恋人が裏切者であったことが判明。傍目から見れば、非常に気の毒なシーザーだ。降り掛かる難題に錯乱するさまを汗だくで演じたジョー・パントリアーノがよかった。『マトリックス』にも出てますね、
 
一人芝居が秀逸なので、ついシーザーに同情してしまいがちだが、この男は薄っぺらい小悪党だ。彼にとってヴァイオレットは何も持っていない頭がカラッポの女で、「ストレスを抱えた自分をリラックスさせてくれる」相手であり、言うことを聞かせるときにはパンパンと手を叩いて犬のように追い立てる、そんな存在だ。
 
鳥肌を禁じ得ないのは、彼に銃を向けたヴァイオレットを宥めて留めようとするシーン。これはジーノを撃ったときにシーザー自身がヴァイオレットの立場で経験したことの再現となる。再び「主導権」が対峙する二人の間に横たわり、彼は「お前はそんな度胸のある女じゃないはずだ」「そうだろ?」と駄々をあやして主人の威厳を取り戻そうとする。
 
 

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「お前はいい子だろ、ん?」。この顔腹立つわ~。
 
 
目を閉じてジーノを撃ったシーザーと対照的に、ヴァイオレットは目を見開いたまま銃を撃つ。シーザーは床に広がったペンキの中に倒れこみ、赤い血を白いペンキが包み込んでいく。つまりはコーキーにより、ヴァイオレットがシーザーの束縛から解き放たれたことを示す画だ。
 
スリル満点のサスペンスの体を取りつつ、賢い犬がアホな主人から自由を奪取する、まごうことなき飼い犬噛みつき映画。
 
それにしても、やっぱり、この映画での一番の功労者はシーザーかもしれない。
汗だく一人芝居と、腹の立つ胸クソ顔に拍手。

『必死剣 鳥刺し』

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監督:平山秀幸 キャスト:豊川悦司池脇千鶴、吉川晃司/2010年
 
先日、北海道でガーデンとお菓子作りに勤しむ美しい主婦knoriさんがこの映画をレビューしていました。私も好きな作品なのですと言ったら「やなぎちゃん。書きなさい。明日にでも書きなさい」と美しく諭されました。ふかづめさんにも「やーれ、やーれ」と囃し立てられたような気がするので、リクエスト回ですね、いわば。
 
ついでのようで申し訳ないのですが、普段直接やり取りのない読者の方、いつも読んでくださって星をつけてくれて、ありがとうございます。私が互いに読者登録している方はとても少ないのですが、その分丁寧に読んでおります。これからもよろしくお願いします。気が向いたら、恐れずにコメントくださいね。
 
 
◇あらすじ
天心独名流の剣の達人・兼見三左エ門豊川悦司は、海坂藩の藩政に悪影響を与える藩主の側室を殺める。しかし処分は軽いもので、その腕を買われた三左エ門は藩主と対立する別家の帯屋隼人正(おびやはやとのしょう)殺害の命を受ける。一方、三左エ門の亡妻の姪・里尾池脇千鶴は、密かに三左エ門に恋心を寄せていた。(映画.com)

藤沢周平の短編小説は多く映画されていて、そのうち「隠し剣シリーズ」を原作としているのが隠し剣 鬼の爪』(2004年)『武士の一分』(2006年)と本作『必死剣 鳥刺し』ですね。割と評判のよいたそがれ清兵衛』(2002年)も観たはずなんだけど、ぼやっとした記憶しかないんだよなあ。ということで、本作を観る前に『たそがれ』と『鬼の爪』を観直しました。どちらも山田洋次監督の作品です。
 
 
たそがれ清兵衛』鑑賞後、感想
 
うん、やっぱ、ぼやっとして辛気臭いわ。
 
初回も確かそう思ったのよ。観た後で何が残ってる?って訊かれたら、真田広之の月代(※)のうっすら伸びた薄汚い頭と、土ぼこり色の寒々しい景色。
 
※念のためですが、「さかやき」と読みます。ちょんまげ左右の、頭髪を剃りあげた部分です。もちろん綺麗に剃っていることが身だしなみ。
 
真田広之はカッコいいし、宮沢りえも文句なく美しいのだけど。禄高50石の下級武士の極貧の生活の様と、朋江(宮沢りえ)との恋模様が、のったらのったらと進んでいくが、ようやくの見せ場である、謀反人余吾善右衛門を討ちに行くあたりが特にいただけない。
 
一刀流の使い手、余吾を討つよう藩命をうけた清兵衛は、相応しい見なりを整えるための手助けを朋江に頼む。ここまで、私は清兵衛の月代が気になって気になって。序盤は分かりやすい貧乏の表現として仕方ないにしても、途中から、なんぼなんでも髪剃る暇くらいできたと思うの。で、さすがにこの場面では凛々しい真田広之が見られるだろうと思ったが、こざっぱりした着物に着替えたのに月代はボウボウのまま!なんでよ!
 
余吾の立て籠る家に踏み込む清兵衛。「奴は獣ですぞ!」という警告の声に、ぞろ緊張が増すが、いざ部屋に入ってみれば敵はベロベロと酔っ払い「まあ座れ、話をしようや」「俺は逃げるつもりだ」と言い出す。え~。拍子抜けとはまさにこのこと。二人はグダグダ話すうち、
 
「うちも女房、労咳だったからさ。夕方に熱出さなかった?」
「わかるー」
「あと、米櫃の底が見えた時の悲しい気持ち」
「それな!」
 
と、すっかり意気投合。しかし気を許した清兵衛が「実は、この刀って竹光なん」とアホな暴露をすると相手の空気が一変。これまでの茶番を挽回するように斬り合いへと転じるのだが、おせーわな。雑談で弛緩した空気を今更締めようとしても時既に遅し、観客にもタイミングというものがある。まさかこの流れから清兵衛が死ぬとも思えないので、命のやり取り感がまったくない。ただのドタバタ劇を見ることになる。
 
しかも、敢えて室内に篭り地の利を得て闘っていたはずの余吾が、振り上げた刀を鴨居に突っかけ、清兵衛がその隙を突く工夫のない決着。
不完全燃焼とはこのことよ。例えるならばW杯決勝、気持ちを最高潮にTV前で構えたのに、互いに相手の出方を見合った結果、審判がシュミレーションに引っかかってPKで決着ついたみたいな感じ。
 
さてさて『必死剣 鳥刺し』は、そんな『たそがれ』らと比べれば猶更に、見せ所をきちんと押さえた締まった映画だった。
 
 
やった、月代剃ってるッ
監督は、平山秀幸モントリオール世界映画祭国際批評家連盟賞や日本アカデミー賞最優秀作品賞などを受賞した愛を乞うひとや、『OUT』『しゃべれどもしゃべれどもで知られている。余談ですが、『OUT』原作者の桐野夏生は昔ナンバーワンに好きな作家でしたわ。『グロテスク』が最強
 
場所は多くの藤沢作品の舞台となっている山形県庄内地方の架空の藩、海坂藩。入りの能のシーンがまずは印象的だ。藩主右京太夫村上淳の側に控えた側室連子関めぐみが、舞手に拍手を贈る。派手な衣装に勝気そうな顔、公の場での主を差し置く行動が如何にも不遜だが、右京太夫は微笑んで彼女に倣う。つまりは藩主に強い影響力を持つ女であるということだ。人々が退出する中、するすると連子に近づいた三左エ門がその腕をつかみ、とん、と柱に押し付け「御免」と胸に刀を差し込む。静かで滑らかな動きの中で、突然、側室殺しが起こることの違和感に、思わず見入るファーストシーンだ。
 
その後は、一年の閉門を申し渡され刑に服す三左エ門と甲斐甲斐しく世話をする亡妻の姪、里尾の様子に、過去のシーンが挿入され、海坂藩が危機的な状況にあることが明かされていく。
 
三左エ門は、物静かな人格者だが、屋敷を見て分かる通り身分の高い武士ではない。下級武士の主人公が武士の本分を守って主君の無謀な命令に耐え、最後には個人の意思を貫くのが「隠し剣シリーズ」の共通したテーマだ。しかしテーマが何であろうと、映画が始まってから私がまず目を向けたのは月代。
 
実は『隠し剣 鬼の爪』でも、永瀬正敏の薄汚い月代を終始見せられた。気になってストーリーどころではない。なによりこの『鬼の爪』、『たそがれ清兵衛』ととても似ている。土埃に覆われたような画面。主人公は風貌と性格がそっくり。嫁ぎ先で辛い目にあって出戻ったヒロインと、二人が一度はすれ違う展開。ぎゃあぎゃあと口うるさい親戚のジジイにボケた婆さん。立て籠った謀反人を討つよう下される藩命、討つ相手は一刀流の名手。なんでここまでそっくり同じに作る必要があったのか?(そして隠し剣の見せ方がいくら何でもショボすぎる)
 
山田洋次が撮る武士は、「出世も富もいらないの。冴えないボクだけど愛してよん。」というショボい感じがしていかんな。
 
そのようなわけで、本作で豊川悦司演じる三左エ門の綺麗な月代を見たときの爽快感!やっと、やっと剃ってくれた。あと、シャキッとしてるわあ!まあ、禄高があちら30~50石、こちら280石と全く違うから身なりも違うわけだけどね。
 
 
声って重要・・・
さて月代でまずは好印象を勝ち取った豊川悦司は、体つきといい軽く苦みが入った甘い顔といい、着物映えのするいい男だ。見た目はね。
残念でならないのは、ヘリウムガスを吸ったかのような、あの声。あれねえ・・・。ヒモ役とかさ、狂人の浪人とかなら良いのかもしれないけど、それなりのお役目を預かる武士となるとさ・・・。ご本人には申し訳ないんだけど、どの場面でもトヨエツが声を発するたびに「オウ、ノウ」と悶絶してしまう。隠し剣シリーズめ、月代の次は声で私を苦しめるのか。
 
豊川悦司を食う勢いの存在感を見せ、声の面でも完全に私を生き返らせてくれたのが吉川晃司だ。演じたのは、藩主の御別家(※ごべっけ/分家のようなもの)、帯屋隼人生。政に女の意見を入れて藩の財政を傾けるバカ当主村上淳とは正反対に、人望厚く質実剛健。優れた剣の遣い手で、極めた流派はシンバルキック直心流。
 
 
 
 

オラァーーーーーー!これがオレの直心流じゃあああ。
 
 
 
そもそも「帯屋隼人生(おびや はやとのしょう)」って名前がクールだし、漢気ある役柄が吉川の兄貴にドハマってえらくカッコいい。この人は、声よし、顔よし、ガタイよし、撮り甲斐があるんだろうなあ。時代劇に起用されるのも頷ける。

帯屋隼人生、これね。↓

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・・・? なんか違うような気がする。
 

あ、こっちでした。↓

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作品を間違えてしまったでござるよ。おろ~。
 
 
 
他の作品との差別化
武士の本分と個人の意思の間で葛藤するメインストーリーに、ミステリー要素が多く絡められている点も面白い。
 
・なぜ、三左エ門は連子を殺したのか?
・本来ならば即打ち首となるところ、なぜ一年の閉門程度の軽い罪ですんだのか?
・三左エ門のみが使う、発動するときには遣い手は半ば死んでいるという「必死剣 鳥刺し」とはどのような剣術なのか
 
ミステリー×時代物は楽しい。これらはスッキリ解決するものもあれば、しないものもあるが、まあ大した問題ではない。
 
一番の見せ場は終盤の三左エ門と御別家(吉川)の対決だ。締まった空気もさることながら、暗愚の主君のために、君主の器である相手を斬らなければならないジレンマを孕んでいるのが非常にドラマティック。
 
以前年貢の値上げに耐えかねて蜂起した領民たちとの一触即発の事態を、御別家が鎮めたことを三左エ門は知っている。領内を旅している際に偶然すれ違った御別家の姿は、一揆の件で見せた裁量の深さと共に三左エ門の脳裏に焼き付いており、実は密かに敬意を抱いている相手なのだ。この、片方は相手に特別な思いを抱き、片方は何も知らずにすれ違うシーンが良い。
 
主君のためという呪いの鎖に縛られて個を殺し、斬りたくない相手を斬る。状況は他二作と同じだが、本作にある、矛盾する複雑な心理が二作では描写されていただろうか。
 

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一人は特別な思いをもって、一人は気づかずに、行き合う。

 

観客が期待する殺陣を、相応しい舞台できっちり見せてくれた点もポイントが高い。

これから起こる凶事を予知するように、ざあざあと振る雨(しとしとじゃないところがいい)。雨の中ゆっくりと城へと向かっていくる御別家は、これまた死神のように不吉だ。藩主を逃がし、襖を閉じて振り向く三左エ門の仕草が、二人の死闘の幕開けを表す。廊下で三左エ門と対峙し、斬り合いを避けられないと知った御別家の、羽織を脱ぎ捨てる仕草が滅法カッコいい。
 
対する三左エ門はなりませぬ」とこちらも渋く。。。いや、なんでそこでヘリウムガス吸うの!?

肩衣から腕を抜いて「お手迎いいたしますぞ」と応じ。。。え、また吸った!?
ちょ、カット、カットー!誰か豊川さんに台詞言う前にガス吸うなって言ってくれない!?
 
二人の対決は、三左衛門の咄嗟の機転から、御別家の刀が弾かれて切っ先が鴨居に刺さり、その隙をついたことで三左エ門が勝利する。『たそがれ清兵衛』では、前述の通りのお粗末ぶりだったので、まるで、「こうでもなきゃ、武士が鴨居に刀ひっかけねェだろ」と皮肉っているようで、ちょっと笑った。
 
御別家との対決は言わば静の戦い、その後は雨の降りしきる庭で、多勢に囲まれた動の戦いに転じる。以前は生きる気力を失っていた三左エ門だったが、ザンバラ髪で見苦しく剣を振り回す姿に観客が見るのは、恨みを上回る生への執着だ。あれほど物静かに藩命に従ってきた男の、自分の命に拘る幽鬼のような姿に目を奪われる。
 
もう一つ、三左エ門を慕い続けた里尾の想いが実った際、二人の濡れ場があったことに着目したい。どうも『武士の一分』『たそがれ清兵衛』『隠し剣 鬼の爪』などで不満なのは、妻あるいは想い人が主人公にとって最重要な存在であるのに(しかもどの女優もとても美しいのに)、身体を重ねるシーンが一切ないことだ。画面上は完全なプラトニックである。まるで生々しい情欲を描けば、主人公の清廉さが失われると言わんばかりに、主人公の誠実な人柄と静かな愛情のみを映す。

その点、本作は「生への執着」に繋がる理由として女への情愛=濡れ場を描くことから逃げず、他作品との差別化を図っていたところが非常に評価できる。ただ、なぜか豊川悦司の背中が異様にテカテカしていたのが気になった・・・。
 
逆に明らかに不足していのは、「三左エ門が連子を殺すに至るまで」が描かれなかったこと。妻を亡くして、後顧の憂いなくご政道を正したのだとする最低限の落としどころはあるにせよ、三左エ門が直接的に連子の毒を感じる場面はない。他人の噂話や伝聞のみを頼りに主君の側室殺しという大罪を犯したようにも見え、思慮深いキャラクターと矛盾する。それを決意した瞬間があれば良かった。
 
あと、岸部一徳の言うことは、信じちゃだめだって!
 
引用:(C)2010「必死剣鳥刺し」製作委員会

『きみはいい子』

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監督:呉美保 キャスト:高良健吾尾野真千子池脇千鶴/2015年

 
こんにちは。悪童伝説絶賛更新中の息子に悩んでます。昨日、朝食中にふと目を離したら、ピザトーストからチーズとサラミを引っぺがしてモグモグしていました。ジャムじゃなかったから油断したわ・・・(ジャムだけベロベロ食べるので要注意)。で、昼食中に、ふと目を離したら、冷やし中華の具だけ全部食べていました。普通に注意しても「え、気付かなかった・・・。愛してるよ」みたいに返してくるだけなので、叱るにもひねりがいるというね。
 
ところで、二年生の娘の担任が、大学を卒業したばかりの二十二歳なんです。
先日保護者会に行きましたが、それはもう想像を絶する若さでした。緊張のあまり汗だくになっちゃって、「本日はお暑い中お越し頂きありがとうございます」から始まり(4月の爽やかな日)、「生徒や周囲の先生方に助けられ」を連発。
 
一所懸命は一所懸命なんですよ。それで、恐らくもう見ていられなくなった誰かが大きく拍手をし始め、最後は満場の拍手で「とにかく大丈夫だから」と丸めて終わりました。それ以外どうしようもないよねえ、新卒で初担任なんて。
そんなわけで、今日は教育の現場からお送りする『きみはいい子』となります。 
 

 

◇あらすじ
新米教師の岡野高良健吾は、ひたむきだが優柔不断で、問題があっても目を背け、子供たちから信用されていない。雅美尾野真千子は夫の単身赴任で3歳の娘と2人で生活し、娘に暴力を振るってしまうことがあった。一人暮らしの老人あきこ喜多道枝はスーパーで支払いを忘れ、認知症を心配するようになる。(シネマトゥデイ
 
先日万引き家族を観て、感想は評判通り安藤サクラやべぇ」に尽きるのだが、高良健吾池脇千鶴が出ていたため、思い至って本作を再鑑賞。
 
この作品では、子供を中心とした物語が、複数の人物を主軸に進行していく。
高良健吾の受け持つ四年生のクラスにはよく見れば
問題がいくつもある。だが高良は、気が付かないのか思考がストップしているのか、帰宅せず校庭の隅にいる男子生徒には「学校好きだなー」と見当外れな声掛けをし、ある女子生徒が持って来た、別の女子へのいじめの手紙を「誰にも言うなよ、先生もキミが持ってきたこと言わないから」と机に引き出しにしまう。これだけで、どれほどのヘタレ教師かが分かるだろう。

男子生徒が家庭で暴力を受けていると知ってからは行動をしようとするのだが、子供側に立ってやることもできず、かといって保守的な学校の機構を理解していないのでその中で立ち回ることもできない。子供ではないが大人でもない、情けな教師を高良が好演している。
 
一人暮らしの老人あきこは、毎日家の前を通る自閉症の少年と交流を持つが、この少年は高良が勤める学校の特別学級に通う生徒だ。特別学級の教師を演じたのが、呉監督作品に続けての出演となる高橋和也昔々、ジャニーズに「男闘呼組」というグループがありまして、好きな人は好きだったんですよ? このグループの元メンバーね、高橋和也本作では、当時の印象をまったく裏切らない暑苦しい役を演じている。彼の担当するクラスの生徒たちには、否が応でも同じ目線に背丈を落とし、一人一人と向き合わなければならない。気の遠くなるような作業を腐らず繰り返す高橋は、腐りっぱなしの高良とは対照的な存在として描かれる。 
 

 

◇ママ友ばなし
そして、なんといっても見どころは、同じく対照的な母親を演じた尾野真千子池脇千鶴だ。
この監督の得意分野なのだろうが、ママ友連中の表面上の付き合いの描写はなかなかに生々しい。毎日集まる公園で、一人が作ってきたクッキーを子供同士が取り合いぶちまけてしまう。原因となった子の母親が過剰に叱り、クッキーを作った母親もなぜか謝り返す。この加害者被害者が「ごめん」「ううん、逆にごめん~」と謝り合う場面は、現実のママ友関係の中で驚くほど目にする。本音は、子供なんてお菓子を巡って争うもんだし、落とされた側にしてみれば「せっかく作ったのに、クソガキが」ってなもんだろうが、表に出すわけにはいかない。
 
それが原因で輪から弾かれれば、子供に寂しい思いをさせるかもしれない。また母親たちは「情報」が入って来なくなることを恐れている。良い幼稚園の情報、習い事はいつ始めるのがベストか、水泳がいいのか体操がいいのか。あの小学校の先生の質は?役員はいつ何をやるのが一番楽に済むのか?
断言するが、こういった情報はほとんどが提供する個人の主観に依ったものなので、なくても全く困らない。だが子育てという責任重大な作業に、母親たちは手探り状態で怯えている。結果、クチコミ情報を過剰に有難がり、それを提供してくれるコミュニティに属していればとりあえずは安心というわけだ。その姿勢への賛否はさて置き、子育ての中で最大の敵は、子にとっても母にとっても「孤独」であることは間違いない。
 
尾野真千子演じる雅美は、夫が海外に赴任しており、娘との生活の閉塞感から事あるごとに娘に暴力を振るい、次第にエスカレートしつつある。彼女にとって公園は、密室で娘と二人きりにならないためのシェルターだ。
池脇千鶴が演じる二児の母も公園にやってくる一人だが、他のメンバーから疎ましがられていて、疎ましがられる原因のキャラや見た目がまたリアル。見なりも構わなければ、ベビーカーを「乳母車」と呼び、その乳母車の左右にこれでもかと引っかけた大荷物が、本人同様いかにも鈍重だ。声もアクションも大きく、現実にもたまにこういう人がいるが、例外なくちょっと気持ちが悪い。
 
ママ友たちは「顔」を作ろうとしない池脇を嫌っている。この「顔」には二重の意味があって、邪気なくズケズケと振る舞う池脇が単純に不快だし、また深層心理の部分では、裏表の顔を使い分けずにコミュニティに入って来られる彼女に脅威を感じているのだろう。

尾野は、正反対のタイプの池脇に戸惑いながらも興味を隠せず、それが分かるのが子供を叱るときの描写だ。彼女は当然、外で娘に手を上げないが、娘が転べばグズなわが子に苛立ち、反射的に「なにやってるの!」と叱咤する。しかし同様の状況で池脇の口から出るのは「大丈夫!?」の言葉で、子供に触れ抱きしめながら怒る。それを見つめる尾野。全編、強張った顔の演技だった。虐待シーンの子供の泣き声は痛々しいが(殴っているのは子役ではなく尾野自身の手だろう)、加害者側の尾野真千子の役作りというか、撮影中の精神状態の保ち方は大変だったのではないだろうか。
 
また、ママ友のマンションの部屋のチャイムを鳴らす前に、ドアに耳を当てる演出がよかった。自分と同じく子供を罵倒する声を確かめるために、他人の家の様子を窺う行動が、尾野の追い詰められた心理をうまく表している。
 
尾野が腕時計をした手首を長袖で隠すショットが何回かあるのだが、私は当初「時間を見たくない」ことを示す演出だと理解した(本当は過去に受けた虐待の傷を隠すため)。いつ何がきっかけで子供に手を出すかわからない恐ろしい時間がまた始まる。雨を見つめるショットが示すものも同じだ。部屋の中で子供と一日を過ごす恐怖を思う。これらのシーンの怯えた表情が印象的だった。
 
さてさて、特筆すべきは池脇千鶴であり、『万引き家族』との違い。
 
万引き家族』での池脇の役柄は、「本当の家族だったらそんなことしないでしょう」「産まなきゃ母親になれないでしょう」というワードを当然のように発する、「世間一般」代表の警察官。血の繋がりこそが家族であると疑いもしない、絶対的な社会正義の代弁者だった。安藤サクラに異星人のような目を向けていたが、安藤サクラからも異星人のような目を向けられている、そういう役だ。
 
本作では、のちのち判明するが、前述の高橋和也の教師と池脇は実は夫婦だ。同監督『そこのみにて光輝く』での役柄と比較すると尚更楽しいのだけど、この作品では紛うことなき似た者夫婦。イタさを禁じえないオーバーアクションで鬱陶しい主婦を演じた池脇の存在感が大きかった。そして「顔」を持たないと思われた池脇も実は裏の顔を持っており、それを知って尾野の強張りが氷解する二人のシーンが素晴らしい。
それにしても、池脇千鶴ってこういう人だったっけ!?もっとカワイイ系じゃなかった?
 
 
◇あまり好きじゃなかった点
教師、母、老人のすべてのパートにおいて、希望を提示して終わる本作だが、欠点は「宿題」が少々くどく感じられる点だろうか。高良が生徒たちに「家族の誰かに抱きしめられてきなさい」と課題を出して、その結果を聞くシーン、あれは恐らくアドリブだろう。子役たちに同じ宿題をさせて、そのまま撮影に臨んだのだろうと思われる。一人ひとりの生徒たちのアップショットを、ドキュメンタリータッチに映したのが私はあまり好きではなかったのだけど、世間的にはどうなんでしょう。
 
それにしても、高良健吾のアドリブは頂けない。のったらのったらと場を弛緩させた挙句、「うーん、先生も何でこの宿題出したのか、わからないよ」って。まあヘタレ教師らしくはあるんだけど、この段階ではキミはちょっと成長してなきゃだろー?
 
このシーンで、最初にクラスでのいじめの事実を高良に訴えに来た女子生徒の答えは、「私は(宿題にされるまでもなく)毎日抱き締められている」というものだった。結論を、子供を抱き締めれば世界が平和になるとしたこの映画、ちょっと甘っちょろいですかね。けれど、それを信じて子育てをしている立場から観ると、印象の深い作品と言える。

『映画対談(前半)』

ふふふふ、おはようございます。

金曜日ですね、ふふふふ。

なんでご機嫌かというと、ちょっと前に、ふかづめさんとコツコツコツコツ会話を重ねた映画対談が記事としてアップされたのです!

 

シネ刀映画対談(前半) - シネマ一刀両断

 

ふかづめさんと言えば、京都在住の気むずかしいシネフィルで、驚異の知識量と文章力を持ち、シネマだけでなく媚び諂うものを斬って捨てる孤高の天才です。すごい強烈なプロフィール。

気むずかしい、ってのは、私の中では完全に褒め言葉ですよ。(ツイッター経由で)会話する中で、感じた人柄は色々あるのですが、思いのほか恥ずかしがりやっぽいので、やめときます。

 

で、肝心の対談記事ですが、長くなっちゃったし、話があっちゃこっちゃ飛んだので、編集には苦労しました。それで前後半に分けました。

さも私が苦労したみたいに言ってみたけど、やったのは全部ふかづめさんです。あと、ホントはチャッチャッと編集してました。

全テキストを送ってくれて「そちらのブログ用に編集していいよ」と言ってくれたんだけど、私はそんなことできないので、リンク貼らせてもらいます。

みなさん、是非読んでくださいねー!

 

『ダークナイト』

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 監督:クリストファー・ノーラン キャスト:クリスチャン・ベールヒース・レジャーマイケル・ケイン/2008年

本日は映画レビューではなくダラダラした駄文です。アメコミ映画を観たのが初めてなんで、笑って許して下さい。
先日、映画好きの異常な友人S氏から「AMUG(反マーベルシネマティックユニバース組織)に入らないか?」とメールがありました。

氏曰く「誰が何をどのように撮ったかの部分があまりに稚拙で、近い将来AIがフルCGで自動生成しても観客は有難がって観に行き続けるんじゃねーの?と末恐ろしくなる。シリーズが続くこと、世界を共有するキャラクターが増え続けること、マーベルの戦略は大成功なんだけど、誰が監督しようが脚本を書こうが、見たいものと見せたいものが予め決まってるんだから作家性なんて皆無。よく言えば全編サービスショット。製作者とファンが目配せし合った、『見たかったのこれだろ?』な映像が延々と続く。そんなお遊戯をオレは観ていられなかった」。
 
相変わらず前提説明が不足しているのですが、彼は恐らくアベンジャーズ/エンドゲーム』を観たのでしょう。そして、何かしら憤懣遣る方無い思いを抱いたのでしょう。
どうでもえー。ああ、いい天気だわあ、毛布干したい。
 
毛布を干してたら、またメールが来た。
「ノーランのことをディスったりもするけれど、ダークナイトを観直したら、とても感動したよ」。なぜシネフィルどもはノーランをディスるのでしょう。真面目な監督だと思いますが。私にはよくわからない何かがあるのでしょう。
 
早く毛布を干したい私は「わかりました、AMUGに入ります」と折れ、S氏「じゃ、まず『ダークナイト』を観てくれ。バットマン ビギンズは観ないだろ?前にDVDをやったが観る気配すらないもんな。あとで『ダークナイト』を観る前に知っておくべきことのレジュメを送る」。
 
後ほど送られてきたものはA4用紙4枚に渡る情報でした。絶対仕事中に作ったな。
 
 
◇『ダークナイト』を観る前におさえておきたい二、三の事柄(By S)

【ブルース・ウェイン】クリスチャン・ベール

バットマンことブルース・ウェインはコウモリのコスプレでゴッサムの悪と戦うパラノイアである。(中略)父母を殺した犯人を射殺しようと試みて、幼馴染レイチェルに思いきりビンタされ(2回)、そのショックで世界を放浪する。ケン・ワタナベ・ ニンジャスクール(講師リーアム・ニースン)にて鍛錬をつむも、彼らの野望を知り、ニンジャスクールを壊滅させる。コウモリの姿となり、犯罪都市ゴッサムの浄化に乗り出す。

 
【ジェームズ・ゴードン】ゲイリー・オールドマン
ゴッサム市警の警部補。 バットマンによる超法規的活動を陰ながら支援(黙認)する。コカイン常用者の、麻薬取締局捜査官とは別人。好きな映画に『ショーシャンクの空に』と『レオン』を挙げる人間は要観察。ここに『ダークナイト』を足してもいいなと思う今日この頃。
 
【レイチェル・ドーズ】ケイティ・ホームズマギー・ギレンホール
 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のジェニファー、『ツインピークス』のローラ・パーマーに次ぐ、「お前、誰だよ」と言いたい配役変更。ブルースの幼馴染で検事、バットマンの正体を知る一人。ブルース(パラノイア)に重度のストーカー気質を見出し、相当な距離を置いている。
 
【アルフレッド・ペニーワース】マイケル・ケイン
ウェイン家の執事でありブルースの良き理解者。ブルースの夜警活動に時折嫌味を交えつつも全面的に支える最大の功労者。バットマンの正体を知る一人。すぐにいじける。
 
【ルーシャス・フォックス】モーガン・フリーマン
ウェイン産業の社員。ブルース復帰後は共同で数々のひみつ道具を開発、ウェイン産業の社長に就任する。バットマンの正体を知る一人。暴走する御曹司をたまに諫める。
 
【ジョーカー】ヒース・レジャー
 『バットマン ビギンズ』はラスト、ジョーカーの存在を匂わせて終了する。『ダークナイト』の評判から遡って『ビギンズ』を観た人、あるいはコミック『バットマン:イヤーワン』を読んでいる人にとっては味のあるラストとなっている。
 
かくして、アメリカにおけるヒーロー映画、アメコミ映画の流れを一作で変えてしまった本作は多数の意識高い系のファンを同時に獲得し、『ダークナイト』を語る奴はメンドクサイという評価まで得てしまうが(以下略)
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ごめん、よくわからなかったんだけど、これ大丈夫ですか。『ダークナイト』を観る前に知っておくべきこと。ホントにこれで大丈夫ですか?
 
 
◇序章
冒頭、なかなかピエロな野郎たちが銀行強盗を行い、親玉ピエロがスクールバスにて逃走。どうやらこいつが今回の悪玉菌のようだ。ところ変われば、悪そな男たちが麻薬取引を行う現場を、バットマンが襲撃。ほほう、これが噂のバットマンね。バットマンが主犯らしきズダ袋を被った男をとっ捕まえた。なんでズダ袋かぶっとるねん、アホか。バットマンがその顔から袋を取ると・・・。
 
 
ん??
中からキリアン・マーフィが出てきた。
 
 
キリアン・マーフィ出てんの??雰囲気的に前作から出てたっぽいんだけど、私がキリアンLOVEだって知っているの?
 
それを言えよ。
A4四枚も送ってきて、肝心要の情報書いてねぇじゃねーか、バッキャロー!人を変な組織に誘う前に「キリアン・マーフィ出てますよ」だろ、必要な情報はよォ。そろそろ自分の言いたいこと言うだけじゃくて、こっちの趣味に合わす技も覚えろ、いい歳こいてよォォ。
 
 
失礼しました。
というわけで、ここで『ダークナイト』を中断して『バットマン ビギンズ』から観直しました。
時間をムダにしたぜ、バッキャロウ。
 
 
◇改めまして、鑑賞後
二作とも面白かったし、ノーランの印象を裏切らない出来だった。つまり、とても真面目に撮られているなあ、って。

まず、設定のシンプルさが好きだな!市民たちが昼夜、マフィアに怯えながら暮らす犯罪都市ゴッサムシティ。具体的な脅威はよく分からんのに、マフィアの面々のギャング顔で、とにかく悪が蔓延っているのだ!と押し切る。それを自らの恐怖の象徴であるコウモリの姿に扮したダークヒーローが切る、爽快な単純さ。
 
バットマンは暗躍型ヒーローなので、当然ながら夜のシーンが多いが、夜の街の雰囲気が素敵である。聳え立つビルの威圧感、ビルとビルに挟まれた路地の昏さと暖色の灯り、それを反射して、てらてら光る地面。「う~ん、ゴッサムといった雰囲気。
 
特に『ビギンズ』では、高層ビルとその隙間を利用した高低差による、奥行きある映像が気持ちよい。ひみつ道具の一つである昇降ワイヤーを駆使し、バットマンが一気に上空へと消えるときの疾走感。マフィアのボス、ファルコーニをとっ捕まえたあと、ホームレスのおじさんに「ナイスコートと一言放って飛び立つシーンはめちゃめちゃカッコいい。そのコートが、バットマンになる以前に自身が渡したものである細かな工夫も楽しい。
 
 
◇脚本と演出

意外だったのは、キーワードの反復や言葉の掛け合いが凝っていて面白かったこと。

例えば、アルフレッドの「ネバー」(=「決してブルースを見放さない」)や「人はなぜ落ちるのか?這い上がるためです」のワードの反復。フォックスがメモ一つで自分をクビにした社長に返す「メモを見ていないのか?」のブーメランであったり、バットマンの車を追う警官たちの「どんな車種なんだ!?」→(バットモービル、爆走で通りすぎる)「…ああ、いま分かった」とかね。 
要所で繰り返して登場するパワーワードが、前回の状況を踏まえた上でこそ光る、丁寧に上塗りされたみたいな脚本だなあと。
 
関係ない人々を巻き込んで、ちょっとした笑いを誘う演出なんかもいい。精神病院の個室のドアをサクサクと爆破し、「失礼」と通り過ぎるバットマン、反応できず見送る患者。自爆寸前のバットモービルを、パン片手にポカンと見つめるおじさん。
インディ・ジョーンズ』なんかも、よく関係ない人民を巻き込んでは迷惑をかけるが、バットマンは迷惑をかけない点で、悲壮ぶっててもやっぱり御曹司なヒーローよねー。
 
みません、上記ほぼ『ビギンズ』のシーンだったわ。
 
ダークナイト

ダークナイト』では、さらに脚本や演出に気合を入れたのだろうことが分かる。二本映画を作れてしまうのではと思うほど、よく言えば盛りだくさん、悪く言えばてんこ盛りな内容。

 

正義と悪との境界線について、人を傷つけずに自分の信条を貫くのが正義、罪に手を染めれば悪へ堕ちる図式は、様々な映画や小説で描かれてきたものと同様なのだが、バットマンが面白いのは、彼はそもそも高潔な人間でないので、堕とす対象でないところ。反面、『ダークナイト』で登場する正統型ヒーローのハービーは、あまりに清廉潔白な好人物ゆえ、悪のアンテナにビンビンに引っかかるのも至極当然。

 
そこで宿敵ジョーカーの登場となるわけだが、なるほど、バットマンは己の内の恐怖と精神的な戦いを繰り返しているが、ジョーカーはその具現化した姿というわけだ。互いに互いを殺すことができない二人の関係性は、正義と悪は表裏一体であることを示す。
 
ジョーカーがあまりにベラベラと喋るので食傷気味になるのが否めない。寡黙なバットマンと、背中合わせの存在であると理解はしつつも、人は得体の知れないものに恐怖を抱くのであって、言葉を聞けば聞くほど純粋な意味での恐怖心は薄れていくもの。
 
銀行強盗して爆薬しかけて、要人暗殺のためにバズーカぶっ放してマフィアの金焼いて、病院を吹っ飛ばしてまた船に爆弾しかけるとは、なんてまあ忙しい勤勉な悪党だろうと、むしろ健やかさを感じてしまった。ただ、ジョーカーの役作りのためにヒース・レジャーが心身を追い込んだというエピソード、また映画公開を待たずに亡くなったことを考えたとき、「ヒースにとってのジョーカー」には空恐ろしさを覚える。
 
 
◇サスペンスてんこ盛り
後半は、恐らく本来シリーズのテーマである恐怖との対峙、正義と悪の定義の話に加えて、サスペンス色ミステリー色がより濃くなっていく。
同時に別の場所に監禁されたレイチェルとハービーの、どちらを助けるのか。だが、ジョーカーが告げた彼らの居所は本当に合っているのか。
更に、攫われたゴードンの家族の運命は?爆薬を仕掛けられた船二隻の乗客はどのように行動するのか?警察内のスパイは一体誰だ?といったサスペンス&ミステリーが次々と畳みかけられる。
 
この盛り上げ具合が、若干うるさいなと感じるが、ただ、ハービーの高潔な信念が確かに人々に受け継がれたとするラストには素直に感動した。これまでのハービーのキャラクターのおかげで僅かな希望が見える結末となったし、一方で彼が耐えきれず悪に堕ちてしまった事実が、このシリーズらしくダークな雰囲気を盛り上げる。
 
ホワイトナイトの堕天により『ダークナイト』が誕生するキレイな展開に、なるほどね、なるほどね〜と(ダークナイト=「暗い夜」だと思っていた)ヒーロー映画で、こんなに忙しく気持ちを上下させられたり、練られた脚本に感心したりするとは思わなかった。
 
 
◇ツボ
笑いの要素も多かったので、以下に個人的にツボだった箇所を挙げます(全部『ビギンズ』からです)。
 
1)バットモービルが思ったより無用の長物
 
いやカッコいいよ、バットモービル。でも、精神病院からレイチェルを助けだした後、パトカーとカーチェイスするシーンで、全然パトカーを振り切れないのには笑った。バットモービルの走りだけ見るとものすごいスピード感なのに、次のショットでは「フォンフォーン♪」ってパトカーにピッタリ張り付かれてるんだもん。挙句ヘリコプターに追跡されているのに、屋根の上を爆走する。丸見えだよ。
 
 
2)おかしくなっちゃったクレイン博士(キリアン)
 
己が恐怖するものの幻影を見る毒ガス(自分が作った)を浴び、プッツンしちゃうキリアン。こういう役が似合うのよね、結局・・・。正気を保てなくなった博士が、現実逃避に走った結果がこれだ。
 

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留守番電話になっちゃった!
  
その後は「かかし、かかし」とブツブツ呟く。

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あーん、かわいい。
 
 
3)マフィアのボス、ファルコーニの顔
 
おじいちゃんにしたいナンバーワン、マイケル・ケインの少し歯を剥き出しながらの「ネバー」もいいんだけど、ファルコーニはんが思いの他、ステキなお貌で。スケアクロウを脅したことで、やっぱり毒ガスを浴びせられちゃったファルコー二はん。
恐ろしい幻影を見て「ファーーー!」と叫ぶ顔が非常にいい。
 

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ファーーー! この愛玩動物感。

 

本当は『ダークナイト』の感想だったのですが、ほとんど『バットマン ビギンズ』の話になってしまいました。
結局私はAMUGに入っていません。まあ、入ってないことをS氏には伝えてないけどね。誰
か入りたい人がいたら、連絡くださいな。
 
ファーーー!

『レスラー』

 
Twitterでよく見かける「飲み会行くのやめました」「子育てをナメてました(やってみたらとても大変でした)」などのイクメン系ツイートが死ぬほど苦手です。
「ぼくは要領が悪くて融通も利きません」って公言しているようなものなのに・・・。コメント欄でさぞかし「飲みくらい行け、ヘタレが」「おむつ替えを一大事業にすんな」と怒られているのだろうなと思いきや、「素敵です!」って持ち上げられていました。ワオ。
 
奥さんからは案外と「ちょろちょろすんな」と思われていると思う。思われているにチュッパチャップス一本を賭ける。
 
本日は、イクメンとは正反対の男の映画『レスラー』です。
 
 
◇あらすじ
人気レスラーだったランディも、今ではスーパーでアルバイトをしながらかろうじてプロレスを続けている。そんなある日、長年に渡るステロイド使用がたたりランディは心臓発作を起こしてしまう。妻と離婚し娘とも疎遠なランディは、「命が惜しければリングには立つな」と医者に忠告されるが…。(映画.com)
 
レクイエム・フォー・ドリーム(2000年)は言わずもがな、ブラック・スワン(2010年)もかなり好きな作品なので、私はたぶんアロノフスキー監督が好きです。
ランディ・“ザ・ラム”を演じたミッキー・ローク『ナインハーフ』(1985年)エンゼル・ハート(1987年)などで主演を努め、1980年代セックスシンボルとして人気を博した俳優。また、プロボクサーの資格を取ったことでも話題になったらしいですね。私はあまり知らないのですが、夫がボクシング好きだったこともあり、当時のミッキーには割と思い入れがあるらしい。では
語ってもらいましょう。
 
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ミッキー・ローク

 

ミッキーのことなら良く知ってるよ。とにかく色気があってカッコよかったね。代表作の『ナインハーフ』は、エロビデオを簡単に見られる環境になかった俺達にとっては、適度にエロくてドキドキする映画だった。金曜ロードショーとかで普通に流れていたんだ。いい時代だったね。氷プレイには本気で憧れたもんさ。昔の女に試そうとしようとしたら、すごい勢いで怒られ・・・あ、いや、ゴホ、ゲホゲホゲーッボッ!
 
・・・ああ、大丈夫。気にしないでくれ。
格闘技が大好きだった俺は、そのミッキーがプロボクサーの資格を取り、1992年両国国技館で試合すると知って心躍った。しかも、ユーリ海老原の世界タイトルマッチというメインの前座だ。俺はテレビの前でわくわくしながら試合に備えた。だがミッキーは、本人は後に「手首のスナップを効かせた」と語るも傍目には「ニャア」としか見えない猫パンチを繰り出し、しかも勝利するという八百長丸出しの試合で、ファンを心底がっかりさせたんだ・・・。
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はい。ということがあったんですね。
その後は離婚や整形を経て、当時の色っぽく美しい顔つきから、今や見る影もない皮膚の垂れた太ったおっさんになってしまいました。
 
 
◇本題
兎にも角にも、ミッキー・ローク自身の今昔に思いを馳せずにはいられないロークのためのロッキン・プロレス映画である。彼の半生を抑えておき、また80年代と90年代のロックシーンを知る人であればより楽しめると思う。当初、製作会社側は主役にニコラス・ケイジを考えていたが、アロノフスキー監督がミッキー主演に拘ったのだとか。
 
・・・ニコラス・ケイジの“ザ・ラム”、それはそれで観てみたい気もする。だって華やかな過去と落ちぶれた現在がそのまま反映されたって意味では、ニコラスだって外れていないじゃない?余談だけど、ニコラス・ケイジニコラス刑事(デカ)という呼び方を浸透させたいと思っています。
 
冒頭、二十年前には栄光の只中にいた花形プロレスラー、ラムが老いた肉体で変わらずリングに向かう姿が描かれる。そこから数十分黙々と映されるのは、栄光時と同じ作業を丹念に続けるラムの姿だ。いつもの店に通って肌を焼き髪を金髪に染め、身体作りを怠らない。
 
とりわけ面白いのが、試合の前に敵役のレスラーと善玉役悪玉役を確認し、試合の流れを打ち合わせる様子だ。リング上でパイプ椅子を相手の頭に振り下ろすのは、レスラー同士が憎み合っているからではない。ヒール(悪役)が観客にブーイングされるためにどんな卑劣な手段が必要か、武器はどのようなものを使用するのかなど、進行にシナリオがあることを説明するシーンとなっている。
 
これは、プロレスを知らない観客への配慮なのだろうか、それともアメリカでは「プロレスにシナリオがある」ことは公然の事実なのだろうか。少なくとも、日本のプロレスにシナリオは存在しない(※)。リング上で繰り広げられる戦いは本気の戦いだし、レスラーは男の中の男でありプロのショーマンだ。
 
※正確には「存在しないことになっている」。日本のプロレスファンに「あれ台本があるんでしょ」などと気軽に言えば、ブチギレられるので気を付けられたい。彼らはプロレスラーの強さとプロレスがキング・オブ・スポーツであることを信じているので、「ヤラセだろう」の揶揄いはタブー、ガチで怒られるよ。実際は、大筋のストーリーは決まっているのではと思うが、しかし台本通りに演じただけでは起こりえないドラマがあるのも事実。
 
ちなみに私はラップ好きでもプロレス好きでもありません。一般教養です。
 
ミッキーの現在のハコは、全盛期とは比べ物にならない場末のリングだ。特に彼が「ハードコア」と呼ぶ、鉄条網やガラス、ホチキスなどの小道具を使用するショーは、日本では鉄条網プレイに活路を見出した大仁田厚がその道を突き進んで一定の地位を築いたが(※これも一般教養だぞ、メモれ!)、トップレスラーならば、まずやらないパフォーマンス。
舞台裏に引っ込めば、血だらけの背中からガラスの破片を抜いてもらう地味な後処理と老いた背中が痛々しく、だが一方でカメラは、試合後に敵役のみならずスタッフが彼を労う様子、またラムが若手のレスラーたちと交流する様子を映す。いまだこの世界で彼はレジェンドだし、とにかく彼がプロレスを愛していることを感じさせる映画前半。
 
リング上のプロの仕事ぶりと、裏側での地道なメンテナンスや暖かな先輩としてのふるまい、とにかくミッキー・ロークがカッコいい。もちろん美しさや若さはないのだけど、笑顔の唇や目元に、そこはかとない色気と愛嬌が漂う。うん、ニコラスデカじゃなくてよかった。
 
後半、バイトでスーパーの総菜売り場を担当することになったラムが、売り場に入る前に、観客の声援を聞く演出が面白い。始めは不慣れだった場で、彼は徐々に得意の『パフォーマンス』を見せ始める。ラムが長年続けてきたのは何よりサービス精神が必要とされるショー、サービス業に向いていないわけがない。結局、骨の髄までショーマン。なんだ、『グレイテストマン・ショー』はこの映画だったのかー。
 
また、ラムが贔屓にするストリッパー、キャシディを演じたマリサ・トメイがとても魅力的。撮影当時、44才だって!そりゃ胸に張りはないけれど、逆にセクシーなんだ。それでいて超身持ちの堅い女。それでいて、情を捨てきれない女。全40代婦女子の地上の星、じゃなかった、希望の星となるヒロインだった。
キャシディが肉体と年齢のピークを過ぎた現在も若いころと同じ作業を続け、客に袖にされる姿の痛々しさにはラムと通じるものがあり、ラムがキャシディを好ましく思うのは、その点も大きいのだろう。
 
ある日試合後に倒れたラムは医者からプロレスを諦めるよう宣告される。それをきっかけに初めてプロレス以外の世界に目を向け、キャシディと客以上の関係を築こうとしたり、絶縁状態であった娘と復縁するための努力を始める。しかし、不器用なラムは他の職にも家庭人にも徹底的に向いていない。本来あるべき自分と乖離した平凡で忌々しい日常は、徐々に彼の歯車を狂わせる。歯車が一つ狂えば崩壊するのは必然、修正する術をラムはこれまでの人生で学んでいない。
 
前半はいわば時計が止まったままの空間で生きていたラムが、急に動き出した世界に戸惑い、人間そうそう変われるものではないとの厳しい現実を突きつけられる後半となる。
 
 
80年代VS90年代
洋楽に詳しくないので迂闊なことは言えないが、監督は、分かりやすくラムの境遇と音楽をリンクさせてくれている。最初に、「(90年代オルタナティブロック代表の)ニルヴァーナになってダメになった」とぼやく通り、ラムは80年代から抜け出せない男。
 
栄光の時代に留まり時流についていけなかった80年代レスラーは、ラムだけではない。閑散としたサイン会場で、サインを求められるラムはまだマシで全く客が訪れずに寝てしまう仲間のレスラーの画は侘しい。別の職業へ転身を遂げて、90年代を謳歌する仲間もいるというのに。
 
同じ思いを共有するキャシディと、「80年代の音楽が最高。デフ・レパード、ガンズ・アンド・ローゼス」「90年代は最低、大嫌い」と歌って叫び合うバーのシーンがとても良い。居残ったものと前に進んだものの間にラインが引かれ、もちろんここにミッキー自身の姿が重なる。監督にとって、映画そのものを体現する役者として絶対に譲れない条件だったのだろうと確信が深まる、納得のミッキー起用だ。
デカは完全に消えた。
 
全てを壊してしまったラムが最後のリングに向かうときに、再び流れるガンズ・アンド・ローゼズの曲が、改めて彼が80年代にしか生きられない男であることを強調する。
限界を迎えた心臓で、必殺技「ラム・ジャム」を決めようとポールに上ってポーズを決めるラム。スポットライトを背負った、老いた肉体がめちゃくちゃカッコいい。「俺に辞めろという資格があるのはファンだけだ」のマイクパフォーマンスもまた、ミッキー自身の独白のようだ。飛ぶ直前、ラムは一瞬、先程までキャシディがいた方を見る。
 
この数年前にロッキー・ザ・ファイナル公開され、個人的には、爺さんファイター映画を続けて鑑賞することになった。ロッキーには、天に召されたといえ最愛の伴侶エイドリアンがいる。しかしラムには誰もいない。無人のカーテンの隙間が彼に「飛ぶ」ことを決意させた。ロッキーを観たあとだと余計に物悲しいのだが、同時にラムの無骨な生き様がとても好ましい。
 
ミッキー、お疲れ。 
 

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