Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『世界にひとつのプレイブック』

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監督:デビッド・O・ラッセル キャスト:ブラッドリー・クーパージェニファー・ローレンスロバート・デ・ニーロ/2012年


10年ほど前、フレディというウェールズ人の青年に英語を習っていました。かなり繊細というか偏屈な人でした。ある日、焼き鳥屋に行こうとなったんだけど「日本の鶏はぎゅうぎゅう詰めで飼育されてストレスの塊だろ。そんな気の毒な鳥の肉は食べられない」とか「タコを尊敬しているから、絶対に食べない」とか。またある時「君は歩きながら物を食べる?」と訊かれ、「行儀悪いからしない」と答えると、「僕は時間短縮のためにそうしているのに、日本に来てからマナーが悪いと非難される!」いきなり怒られました。 

フレディはサッカー誕生の地で育ちながら、サッカーを嫌い、ラグビーをこよなく愛する男でした。曰く「サッカーのサポーターは全員ヤクザ。ラグビーは敵味方が入り混じって応援しても友好的、紳士のスポーツだよ。君はマナーを大事にするのによくサッカーなんて観られるよね?」(←歩き食べの件から、マナーにうるさい人として何かとイヤミを言われるように)

2008年のEURO(UEFA欧州選手権)にイングランドが出られなかったときは、「あ~、よかった。ホント、あんな大会出るもんじゃない。バカなサポーターが海越えてやってくるんだから、キミみたいなね!」(やなぎや訳)。しかし2016年、ウェールズ代表がEUROで快進撃を見せたときは「国中がサッカーの話をしているよ!」と興奮したメッセージを送ってきました。どっちやねん。

そんなこんなで本日は、多分スポーツへの情熱を知っておいた方がより楽しい、世界にひとつのプレイブックです。

7/13に同監督の『世界にひとつのロマンティック』が公開されるが、ちょっとひどいよね、この題名。私のジェイクが出演するので観に行きたいけど。それにしても、ジェイクってば、スパイダーマンの新作に続き、『ゴールデン・リバー』『ワイルドライフと出演作が多くて追いつけない。

 

◇あらすじ

妻の浮気が原因で心のバランスを崩したパットブラッドリー・クーパーは、仕事も家も失い、両親とともに実家暮らし。いつか妻とよりを戻そうと奮闘していたある日、事故で夫を亡くして心に傷を抱えた女性ティファニージェニファー・ローレンスに出会う。愛らしい容姿とは裏腹に、過激な発言と突飛な行動を繰り返すティファニーに振り回されるパットだったが・・・。(映画.com)

 

まず、ブラッドリー・クーパーが苦手と言ってきたことをお詫びする。この映画のブラッドリーは良かった。ただ、私の目的はとにかくジェニファー・ローレンスウィンターズ・ボーン』(2010年)はお気に入りの映画の一つだが、そのときに彼女の顔ヂカラにやられた。ハンガー・ゲームシリーズも、眠りそうになりながら完走。最後に幸せそうに微笑むジェニファー以外、大体忘れたが、カットニス・エヴァディーンというヘンな名前はなかなか忘れない。

本作『世界にひとつのプレイブック』出演時、ジェニファーは22、3歳。ダイエットに興味がないと公言している通り、生命力溢れるバディと健康的に張った頬は彼女の魅力で、それが堪能できるダンス大会のシーンは、二人の下手なダンスも含めて見所だ。しかし若干不満なのは、ジェニファーの顔の映りがシーンごとにちぐはぐだった点で、ティファニーの荒れた心を表す凄みのある表情にハッとさせられるときもあれば、子供のように幼く見えてしまうときもあった。

 

 

◇深刻だがユーモラス。ユーモラスだが深刻。

ストーリーはそれぞれに心に深い傷を負った男女が出逢い、ぶつかり合ううちに恋に落ちていくというもの。

パットは自分は「まとも」で、妻ニッキとの間にまだ愛情があり障害を乗り越えてこそ愛はより深まると信じている。この思い込みがまさにパットの精神不安定の原因なのだが、本人は全く自覚しておらず、そのため周囲も腫れ物に触るように扱う。
一方のティファニーは、夫の死のショックから性的な自傷行為を繰り返している。

好印象を抱くのは、二人の病状を観客に伝える描写が、笑いを誘いながらシリアスであることと、そのバランスだ。

例えば、パットがランニングするときにゴミ袋を被るルーティンと、そのランニングコースにティファニーが「ヘイ!」と乱入してきて追いかけっこになる場面はつい笑いが漏れる。しかし、このシーンでは、二人の問題が判り易く表現されている。「発汗のため」とゴミ袋を着続けるパットの思い込みは強迫観念じみているし、自分の感情を構わず押し付けるティファニーは、人との距離の取り方を見失っている。

パットは思ったことを全部口に出しまう。心を開いて自分の荒れた所業を打ち明けたティファニーに、「ヤッた中に女もいた?」などと訊き、その後は笑いながら彼女をアバズレ扱い。しかし翌日には実家を訪ね、「彼女は賢くて芸術家だ」などとのたまう。いやいや、コロコロ言うこと変えて、お前の本心はどこ。しかし、全てが、そのとき刹那刹那のパットの本心なのである。

考えずに発言する癖は、これぞ躁うつ病と思わせるが、必ずしもそれだけが理由でないことが家庭の描写で明らかになる。ロバート・デニーロ演じる父親はアメフトの地元チーム、イーグルスを妄信的に愛し、試合があるときはリモコンの位置を揃えハンカチを握る。ジンクスと言えば聞こえはいいものの、これも一種の強迫性のものだろう。

兄は、何もかも失った弟に、「言いにくいな。お前は妻に逃げられ俺は婚約する。お前は家と仕事を失ったが、俺は新居を建てるし仕事は順調」とやっぱり思ったことを全部口に出す。優秀であるはずの兄の、傍若無人ぷりに笑いが漏れるが、実はパットの抱える問題、恐らくニッキとの家庭が崩壊した理由も、家庭が元凶であることが分かる。

どうでしょう、こう考えると、「笑いの要素も多いよね」とコメディパートだと思いつつ観ていたシーンが、「あれ?よく考えるとこれって深刻の裏返しだよな?」と思うでしょう。思いますね?

 

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ゴミ袋を着用するクーパー氏。

 
◇ジェニファー

さらに穿った見方をすれば、小型犬のように愛らしいパットの母親は、家庭内で重要な何かが決定されるとき選挙権を持たない(旦那がノミ屋開業したり全財産を賭けたら窓から蹴り出すでしょう)。男たちが揉めると周りでおたおたするか、またそうでないときは大体カニのスナックを作っている。つまり、パットの育ったのは夫権家庭なわけだ。もちろんデニーロが演じた父は愛すべきキャラだけど、あれはあれで困るよねってこと。

だからこそ、勝負の二倍賭けが行われるシーンで、男たちを黙らせるティファニーが非常に痛快だ。異を唱えることを許さない強引な理論、攻撃的で滑らかな口調、ここぞとばかり発揮される強烈な目ヂカラ!やっぱジェニファーは持ってくわああ。オヤジをやり込めた後で、シュポンッとビールの栓抜いて煽る仕草が気持ちいいよね。

ティファニーの人とのコミュニケーションの取り方は基本的にケンカ腰、沸点が低くてキレやすい。パットとティファニーが互いの傷を抉るような言葉を叩きつけ合うのにハラハラするが、やがてこのぶつかり合いが精神に不安を抱える者同士にしか為し得ないセラピーなのだと気づく。「怒鳴り合いのシーンが多くてうるさい」と批判するレビューも見かけるが、怒鳴り合いはこの映画に必要だ。感情の爆発の中で本音をぶちまけ整理し、少しずつ傷や悲しみを浄化していく、いわば荒療治なのだから。

破天荒で乱暴な言動のため、ティファニーの人柄がカーテンの向こうに隠れがちだが、彼女は心優しい女性であり、グッとくるのが、いじらしすぎるこじらせ。パットがニッキに書いた手紙への返事を、ティファニーが書いていたことは一読瞭然で、いじらしさにキュンとなる。ラストは二人の傷が癒えていくさまに、そしてティファニーの思いが成就したことに思わず落涙。

 

◇余談です

以前『ボストン ストロング』の感想でも書いた通り、度々映画の中で描かれるスポーツでのチーム愛は、時に人生を捧げるほどに強烈だ。イーグルス中心の生活を送る父親や、球場での乱闘などを理解不能と断じてしまえば、この映画の魅力は半減してしまう。日本にも、一部サッカーに熱狂的な地域があることは、以前も語った。ここでも余談でサッカーのことを書こうと思うのだけど、疲れてきたので、突然ですが、リトル・ヤナギヤ(※)にバトンタッチします。

※リトル・ヤナギヤとは:
サッカー選手の本田圭佑ACミランへの入団会見時にミラン移籍を決断した理由を質問され、「私の中のリトル・ホンダに『どこのクラブでプレーしたいんだ?』と訊くとリトル・ホンダは『ACミランだ』と答えた。それで移籍を決めた」と発言したことから。以来サッカーファンの間では、決断に迷って自問自答する際に使用される。
使用例:「迷ったけど、私の中のリトル○○がGOと言ったから決心したの」

 

リトル・ヤナギヤ:

お久しぶりでーす。前に『エール!』で登場したときには、やなぎやさんの友達のリエちゃんに「『ゴシップガール』みたいな会話だね」って言われたんです。ウフ。これからもゴージャスでスウィートな女子を目指していきたいと思っているの。

ところで、やなぎやさんのパパ友にさーちゃんて人がいてね、子供の運動会に黄色いグラサンかけて、ギターケース型のバッグだかギターケースだかを背負ってぶらりと現れるような変人、じゃなかった、イケダンなんだけど、さーちゃんサッカーアレルギーなのね。

なぜかっていうと、昔W杯の時に知り合いに、「え!?W杯観ないなんて非国民なの?」って言われたみたいで・・・。可哀そうよね・・・。
サッカーがね、さーちゃんじゃなくて。にわかサッカーファンを憎んでサッカーを憎まず」って標語もあるじゃない?

そんなさーちゃんのような人のために今日は私、「こんな人はサッカーファンじゃないわよ」を教えるわね。じゃあ、早速読んでみて!

・「Jリーグは観ません」という
・「え!?W杯観てないの!?」という
・「リーガ・エスパニョーラセリエA中心っすね、Jってレベル低くて」
・「女子サッカーとか、パススピードのろくて見てられなくないすか」
・日本代表の実力を見誤っている(過大評価、過小評価ともに)

 いるいる~!

・点を決められると「ああ、終わったね」という
・「松木の実況(あるいは北澤の解説)って馬鹿にしたものじゃないっていうか、何気にあれこそ純粋なサッカーの楽しみ方?」
・W杯、もしくはチャンピオンズリーグのときだけ「ね、昨日の試合観た!?」と言ってくる(←EUROのときは言ってこない)

  ああ・・・いる、わね、こういう人。

・ゴール裏にいる監督気取り
・ゴール裏にいる戦術家気取り
・ゴール裏にいる解説者気取り
・ゴール裏にいるヤジラー
・Jの贔屓のチーム一筋型。「代表の試合?逆にぜんっぜん観ない~。うちのチームの選手が出てれば観るけど!」
・「『ファン』じゃなくて『サポーター』な?」という
・「メッシ、メッシ」しか言わない出っ歯の芸人

ホントに多いのよね、物事の一部しか見てない片手落ち野郎。もちろん自称ヨーロッパサッカー好きやニワカもウザイけど、Jの地元チーム好きをステータスにし過ぎて、他は排除する保守的「チーム愛」標榜かんちがい野郎もウゼええええ。

サッカー好きってこたあ、あまねくレベルと規模と国と性別のFOOTBALLを愛するということよな?サッカー好きっつッてんのに「あ、バルサしか観ないんで」じゃねーよな?

じゃあバルサの選手全員、言ってみ?

メッシとスアレスとピケとブスケツラキティッチビダル以外言ってみ?

言えないのか?

そりゃァおかしいですわいなァァ?バルサの試合でメッシが出たときだけ、試合時間と夕飯の時間が合えばメシ食いながら観る程度には好きです、メッシ好きだけに」くらいにしとけ。サッカー好き名乗るのは辻褄合わんよな??辻と褄が駅でバイバイしてもうとるよなあ!??

うふ。ちょっと興奮しちゃったけど、これで「こんな奴はサッカーファンじゃねェ。消えろ」のコーナーを終わりまーす。またね、バイビー。

 

◇「クレイジー」ってなにかね?

なんでしたっけ。あ、『世界にひとつのプレイバック Part2』。

私としてはパットの友人ロニーがツボで。ロニーがストレスを訴える仕草や、それに対するパットのすっとぼけた反応がおかしいのだが、ここには特に笑いに交えた、痛烈な皮肉が込められていて。ロニーは、自宅のモダンな内装、壁中に飾られた幸せそうな家族写真、美しいテーブルセットに手の込んだ料理、妻が血道を上げて飾り立てた理想の我が家に、そして妻自身に押し潰されそうになっているのだ。それこそ、いつ精神の病を患ってもおかしくないくらいの抑圧だよなあ。

つまり、最後のパットの台詞「みんなクレイジーな部分はあるだろ?」がすべてだ。

病気というハンデを負い、じたばたする者がクレイジーなのか?では、世間が決めた「よい仕事と家」のステータスに振り回される人間はクレイジーではないのか?「メタリカ」を大音量でかけるのがクレイジー?どの部屋でも子守歌が流れ、壁に暖炉があるような家はクレイジーじゃないのか?

クレイジーと非クレイジーの境目を決める規準などない、自分らしくあれと、シリアス且つユーモラスに歌い上げた悩める者への応援歌、それが『世界にひとつのプレイブック』。

私はブラッドリー・クーパーを克服しました。

今日は余談が長かったね。

 

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ジェニファー、キュートだね。

 

引用:(C)2012 SLPTWC Films, LLC. All Rights Reserved.

『ドント・ブリーズ』

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監督:フェデ・アルバレス キャスト:ジェーン・レヴィ、ディラン・ミネット、スティーブン・ラング/2016年
 
◇あらすじ
街を出るための資金が必要なロッキージェーン・レヴィは、恋人のマニー(ダニエル・ゾヴァット)と友人のアレックス(ディラン・ミネット)とともに、大金を隠し持っていると噂される盲目の老人スティーヴン・ラングの家に強盗に入る。しかし、その老人は目が見えないかわりに、どんな音も聴き逃さない超人的な聴覚をもち、さらには想像を絶する異常な本性を隠し持つ人物だった。暗闇に包まれた家の中で追い詰められたロッキーたちは、地下室にたどり着くが、そこで恐るべき光景を目の当たりにする。(映画.com)
 
おはようございます。皆さまは、「ベートーベン」派ですか、それとも「ベトベーン」派ですか?
 
小学二年生の娘が音楽の授業でベートーベンの名を知ったらしく、「あのね、ベトベーンてね」と弟に話してました。笑いを堪えつつもちろん訂正はしないわけですが、先日偶然テレビでベートーベンの特集かなんかをやったんです。ああ、これ見て間違いに気づいちゃうかな・・・と思っていたら、二人でプッと吹き出して、
「お母さん、テレビの人、ベトベーンの言い方間違ってる。小学生でも知ってるのに」
「ね、だって、ぬ~ベ~(←地獄先生とかいう有害なアニメ)も、ベトベーンて言ってたもんね!」と言ってきて、たくましいなあと思いました。
 
そんなわけで本日は、あなたは「音を出してはいけない」派?「息をしてはいけない」派?どっちでもない派!? 無理やり『ドント・ブリーズ』の感想です。
 
あ、もし『ドント・ブリーズ』大スキ!な人がいたら読まないでネ(このエクスキューズ、めちゃくちゃクダラネエと思っているので、こんりんざい一度しか言わないネ)。
 
 
◇『クワイエット・プレイス
 
「○○してはいけない」パニック系ホラーが流行りました。「約束ごと」がある家、その家で起こる怪現象、大好物です。シャマランの『ヴィジット』のキャッチコピーになった「楽しく過ごすこと」「好きなものを食べること」「夜9時半を過ぎたら部屋を出てはいけない」の三つの約束なんか、ゾワゾワして好きだな。シャマラン流のユーモアが爆発した楽しい映画だった。
 
最近話題になったクワイエット・プレイスは、パニック映画のツボをうまく捉えた良作だったと思う。
まず「音を立ててはいけない」という設定に対してぶつけてきた「どうしたって音を出さざるを得ない状況」の発想が良い。最大の痛みが襲う瞬間と、どう努力しても止めようのない音、そう、妊婦が陣痛を迎えて出産するときと、赤ん坊の泣き声。出産を経験した女性からの「うわ~!つらいつらいつらい!」の声をゲットすべく考えられたマニアックな視点が非常にナイス。
 
そして、例の釘である。
踏むって踏む~!とヒヤヒヤする時間を意地悪く長引かせ、エミリー・ブラントがそれは見事にぶっすりと踏むのだが、その後も釘の存在を観客に意識させる。子供が踏む!?いや、もしかして「何か」(バケモノ)が踏むのか!?・・・って踏まないのかい!
 
また釘に次ぐ、私のお気に入りはサイロのシーン。「何か」に細心の注意を払っていたのに、まさかのトウモロコシで窒息死しそうになる裏切りの展開。「こういう可能性、考えてなかったでしょ~」という作り手のニヤニヤ笑いが想像できそうで、サイロといい釘といい、絶妙なすかし方だった。これ、監督にかなり遊び心があると思うよ。観客との間に粋なコミュニケーションがあった。
 
そして、多くのレビューが突っ込んでいる「滝の近くでなら大声を出せるなら、滝の近くに住めばいいじゃん?」について。
 
チッ、チッ、チッ。甘い。
 
じゃあ、「何か」が近づいてきたとき、どうするの?
水音で自分たちのたてる音が消せる、しかしそれすなわち、仮に「何か」が近づいてきたときに、自分たちもその音に気付くことができないということだ。それは危険だね?だから滝の側には住めないよね?わかりましたね?
 
そんなわけでクワイエット・プレイスは、「観客の目」を意識した、クレバーな作品であったと思います。
さて『ドント・ブリーズ』、「息をしてはいけない」方は果たして?
 

◇どこが超人的な聴覚だコラ
 
触わりから「低予算ホラー」を確信させる作り。低予算イコール、多くは知恵を絞った脚本や奇抜なアイディアに頼る映画となる。ならばその点で楽しませてもらわなきゃ。
アレックスの父親は警備会社を経営しており、顧客宅の鍵を自宅に保管している。これを拝借して、三人は堂々と玄関から入りこみ強盗を繰り返していた。マニーの発案で、元軍人の老人宅を最後のヤマとして狙うことになる。
 
ターゲットの老人は、ある富豪の女が起こした車の事故で娘を亡くし、その際に支払われた高額な慰謝料を隠し持っているという。ところがいざ押し入ってみると、孤独で哀れなはずの老人は身体はムキムキ、軍隊で培ったサバイバル能力を持ち、視力がないゆえに他の感覚に優れた恐るべき相手だった・・・。いいわー、わくわくするー。
 
しかーし。
 
初っ端から、脚本のお粗末さがぽろぽろと露呈していく。
先に言っておくが、私は常日頃、話のアラや矛盾を探しまくっているわけではない。ただ、相手が人間だろうが霊だろうが、絶叫系だろうがサイレントだろうが、ホラー映画で矛盾を感じたくないの。なぜなら、矛盾を覚えれば疑問が生じ、気が散って怖がれなくなるから。「うひー、怖い怖い!」って悶絶したいの。世には、なぜわざわざ怖がるために映画を観るのか理解できない人民もいれば、ホラーを全く怖がらない人民もいるが、そんな連中のことは知らん。私はソファの上で転げまわりたいの!だから、お粗末な話はやめて。低予算で金の足りないところは人力で補って。
 
さて。アレックスらは老人宅を遠巻きにチョロチョロとお情け程度に観察し、その晩に計画を決行。しかし玄関の扉は何重にも施錠されており、アレックスが父親のデスクから持ち出した鍵は役に立たなかった(下見って、そういうの含めてだよね)。
計画外の事態にパニクった三人は、裏口に回り、何が何でも侵入を遂行しようと試みる。
 
早いな、破綻し出すのが・・・。
鍵を持っていてこそのイニシアチブだろうよ。こういう自滅系が一番好きじゃないんだわ。
業を煮やしたロッキーは、なんとガラスを割って家の中に侵入する手段に出る。しかも彼女が内側から鍵を開けるのを待つ間、外の二人は今しなくてもいい小競り合いをおっ始める。うるさいって。帰ってからやれって。
 
聴覚に優れた人間を完全に甘く見ているわけだ。聴覚に優れた人間、それは私、やなぎやさんちの奥さんです。
めちゃめちゃ耳が良くて夫からはデビルイヤーと呼ばれている。階の異なる部屋で、誰かが扇風機を付けたらウィーンという音が、プレステの電源を入れたらピッという音がはっきりと聞こえます。ピザを頼めば、遠方から近づくバイクの音が聞き分けられます。ピザ屋のお兄ちゃんはチャイムを鳴らした瞬間にドアが開いてびっくりすることになります。
 
ガラスなどが割られればもちろんのこと、家の側であんなにわちゃわちゃやられたら、間違いなく起きる。それに、用心すべき状況で「ガラスを割る」という手段を取らせるとは、なんていい加減な製作陣だ!
 
このように、全体を通して納得がいかないのはジイさんが五感(視を除く)、特に聴覚に優れているにも関わらず、都合のいい時にしかそれが発揮されない点だ。どっちかというと、「地の利」一本で押し切ってくる。途中、靴の匂いを嗅ぎ当てて、侵入者が複数だと気づくシーンがあるが、そんなものを嗅ぎ当てられるなら、廊下でアレックスと鼻先すれすれですれ違ったときに、人の気配や体臭を感じるはずだろう。
 

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なんでこれは察知しないのさ。
 
 
◇ジジイがイニシアチブ握る理由なし
 
ロッキーがガラスを破った映画開始20分、早くも無表情気味に鑑賞する私。
バイオハザードのような映像が続き、何故だか忘れたが、仲間のマニーが老人に見つかって銃で殺される。そして老人は入り口を施錠、窓をトンカン塞いで家を密室とし、ロッキーとアレックスにとって恐怖の時間が始まる・・・はずなのだが、全然カケラも怖くないっていうね・・・。
 
ここら辺の怖がらせ方ときたら、いないと思っていた場所にいつの間にかジジイが立っていた、バーン!ってやつで。これがだだっ広い屋敷ならそれはまた不気味だが、狭い家の中で目を払うべき箇所は限られているのになあ。

また、相手が優勢でこちらが劣勢、という状況を決定付ける条件や道具が何もない。元軍人、感覚が鋭敏。・・・で?そうはいってもジジイは目が見えないのである。後ろを取って殴り倒すくらい訳がないのだが、チャンスがない。ジジイのガードがよくてチャンスがないわけではなく、奇襲が成功すれば映画が終わってしまうので、話の都合上そうさせない、シラけるパターンだ。
 
 
◇超人過ぎ
 
こっからネタバレします。
私の無表情の理由をちょっとは理解して頂けたと思うが、一番気に食わなかったのが、「人間が怖い」ホラーにおける禁じ手を打ったこと、これに尽きる。目が見えない人間の限界を全く無視している。つまり、なんでもあり。
 
地下室に逃げ込んだロッキーとアレックスは信じられないものを見る。そこには若い女性が鎖で繋がれていた。老人は娘を轢き殺した女を攫って監禁し、さらに失った我が子に代わる赤ん坊を産ませようと、おぞましい計画を進めていたのだ!
うそ~!なにこれ、よめなかった。ちょういがいなてんかい!
 
 
ちょ、待てよ(キムタク)。
 
 
盲目の老人が、どうやったらこんな活きのよさそうな女を誘拐して来られたのか。生活パターンを把握して尾行して、人に目撃されずに攫ってこなきゃいけない、超えるべきハードルは多い。そしてこの女のために大金を払った親は、消えた娘を探さないの?隠し部屋などがあるならともかく、見た感じ、女は地下室で剥き出し状態で繋がれているのだが、行方不明者の捜索をどうやって逃れているのか。
 
それに、ジジイの、娘の幼いころのビデオを流しながら眠る習慣と、娘を殺した張本人を妊娠させてもう一度子供を得ようって思考がまったく繋がらないんだよねえ。老人の狂気と精神崩壊を表すような説得力もなく、それらしくて観客が驚くようなオチを入れちゃえってだけ。剛腕に見せてるけど、めちゃめちゃ細腕。
 
ロッキーとアレックスはうまいこと地下室にジジイを手錠で繋ぎ、家の外に出ようとするが、鍵を開けた瞬間、アレックスが追ってきたジジイに撃たれる。
 
 
・・・手錠は・・・どうやって?
 
 
外に逃げ出したロッキーはゴーストタウンを走り、柵を超え、相当な距離を逃げる。追ってきた老人の犬をどうにか退けるが(犬との攻防は面白い)、背後に現れた老人に殴られ、再び連れ戻されることになる。
 
・・・。
これはもう、ジジイの目、見えてるよね?
 
 
どうやってロッキーの位置を知り、こんな距離を追ってきて、気づかれずに背後に回ったん?ここまではチクチクとケチをつけている自覚はあったけど、ダメダメ、これは見逃せない。最初は「目が見えない」「感覚が超人並み」設定だったものの、だんだん無理が出てきて、「も、いっか。このジジイはね、元軍人なの、それに人を恨んでるの。だからものーすごくつおいの!」で押し切りやがった。いや、全然押し切れてないよ。ホラーと呼びますか、そんな映画を。
 
あと、「観客への目配せ」感が強い。老人から金盗むっていう行為を正当化するために同情すべき事情を作ったり。この子たちワルだけど、老人も実は変態じみた狂人だったんでトントンですよね?って。多分この映画一番の見せ場の、ロッキーと犬との闘いにしても、犬はあくまで殺さず(あんな凶暴な犬は殺せ)、動物愛護団体に目配せしよったな。怖くないわ、ドキドキもしないわ。
 
テレビを消そうとしたとき、エンドロールに私は見た。
「製作:サム・ライミ」の文字を。
 
 
なるほどなるほど。合点がいった。
 
 
ポルターガイスト』(2015年)、『ゴースト・ハウス』(2007年)、『スペル』(2009年)、『ポゼッション』(2012年)、どれも私は『ドント・ブリーズ』と同じ反応をしてきた。そう、鑑賞後、ソファの上で無表情になっていたのだ。あまつさえ、育休時代、せっせとホラーを観ていた期間のインスタに「サム・ライミ製作のホラー、つまらん」と書いているではないか。ここは、自分のブレなさに拍手を贈らせて下さい。
死霊のはらわた』は好きよ。
 
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私が描いたのではありません。以前夫が描きました。
 
 
作監フェデ・アルバレスドラゴン・タトゥーの女の続編で話題作蜘蛛の巣を払う女を最近撮影されたが、イマイチな出来だった。リスベットはイーサン・ハントと違うのになー。

『暁に祈れ』

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監督:ジャン=ステファーヌ・ソベール キャスト:ジョー・コール、ポンチャノック・マブラン、ビタヤ・パンスリンガム/2017年

 
先日、雨上がりの道を歩いていたら、水溜まりがあったので子供たちに避けるよう注意しました。言わないと弟の方がわざと突っ込むからです。しかし慌てすぎて「水溜まりあるよ」というところ、「みずっ、ぶっ、たりま」と言ってしまいました。そこから二日経った今も、子供たちが「みずぶったりま~♪」「あ、みずぶったりまだっ」とまとわりつきながら囃してきます。
 
突然ですが私、昔からコウメ太夫が好きで。
あまりに子らが水溜まりの件をからかってくるんで、顔にパックをした状態で「チャカチャンチャ~、チャカチャンチャ♪」と踊り出て、「みずぶったりま かと思ったら~ 水溜まりーでーした~♪ ア チクショーー!!」と追いかけ回してやりました。そうしたら、大ウケしてしまい・・・毎日やらされてます・・・。
 
本日ご紹介するのは、ジャンキーボクサーがタイに沈む『暁に祈れ』です。
 
チャカチャンチャ~、チャカチャンチャ♪
「A Prayer Before Dawn」かと思ったら~ 「A Player Before Down」でもありました~♪
ダブルミーニングかよ、ア チクショーーー!!
 
 
◇あらすじ
タイで自堕落な生活から麻薬中毒者となってしまったイギリス人ボクサーのビリー・ムーアは、家宅捜索により逮捕され、タイでも悪名の高い刑務所に収監される。殺人、レイプ、汚職がはびこる地獄のよう刑務所で、ビリーは死を覚悟する日々を余儀なくされた。しかし、所内に新たに設立されたムエタイ・クラブとの出会いによって、ビリーの中にある何かが大きく変わっていく。(映画.com)
 
数えるほどしか経験のない海外旅行の行先の、ほとんどがタイです。なので、あの国の空気が少しはわかる。『暁に祈れ』は、以前このブログでも取り上げた『ジョニー・マッド・ドッグ』(2007年)の監督ジャン=ステファーヌ・ソベールがタイで撮影した作品とあって、楽しみにしていた。
 
ヘロインとヤーバー中毒のボクサー、ビリー・ムーアを演じたのは、イギリスの若手俳優ジョー・コールグリーンルーム』(2015年)が代表作らしいが、キリアニストの私にとってはピーキー・ブラインダーズ』での、ケンカっ早くて愛らしい末弟の印象が強い。そしてフェルナンド・トーレスに似てると思うんだよなあ。
 
トーレスは、ここで語っても仕方ないので色々省くが、『神の子』と言われた元スペイン代表のサッカー選手。古巣アトレティコ・マドリードでキャリアを終えるのかと思ったら、昨年、極東Jリーグサガン鳥栖に移籍した。この文章だけ見たら未だに信じられない事実。「トーレス鳥栖に来るんだってよ」とニュースになったとき、多くのフットボールファンが目を白黒させながら「ホ、ホントーレスか!?」と言った。まあでも、すぐ国に帰らはるんでしょと思っていたら、チーム低迷に責任を感じて残留を決意、さらにこのほどJリーグにて引退されることを発表。キャリアと人気に胡坐をかかない、めっちゃ真面目ないい人&めっちゃキュートなんだっ!世界中の美女とやりたい放題だったろうに、付き合った女は、8歳の頃に出会い17歳で付き合い始めた現在の嫁オンリーワン、しかもブス。なんて誠実なスーパースターだ。
 
ごめんなさい、脱線しました。
こういったロジカルな理由により、私はジョー・コールが好きです。
 

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『神の子』トーレスジョー・コールくん

 

◇本題
さて、この監督の特徴は異常なまでのリアリズムの追求。『ジョニー・マッド・ドッグ』では元少年兵を起用したが、その手法は本作でも継続され、舞台はタイの刑務所、役者はほとんどが元囚人だ。
本物の元兵士や囚人を起用したからと言って、観客に“リアル”を感じさせるのは簡単なことではない。下手すればドキュメンタリーになってしまうだろう。だが最初に「異常」と評したように、この監督のリアリズムにかける執念は並大抵ではない。

インタビューによれば、キャスティングには一年もの時間をかけ、またワークショップを行って交流を図ったとのことだ。演技指導はしなかったという。
同じ試みは『ジョニー・マッド・ドッグ』でも為され、キャスティングした少年たちと一年間の間、寝食を共にした。目的はもちろん、言葉は悪いが、猛獣の檻に入り時間をかけて手懐けることで、カメラの存在を忘れさせ、より自然な生態を撮影するためだ。
 
さらに本作では、全てのシーンを長回しで撮影し、のちに編集する方法が取られた。想像するだけでうんざりするような、地道な職人作業。映画監督としてどうなのかはわからないが、少なくとも前作の感想で「どこまでリアルにこだわるのかしら」なんて偉そうなことを言ったことは謝る。こいつが俺のやり方なんだよね。
 
そして、細かくカットされた画が多いからこそ、最も記憶に残るのが、終盤のムエタイ全国大会で、リングに入るまでのビリーを追った長回しボクサーにとっての花道が、ビリーにとっては刑務所内の通路であり、囚人たちがたむろする中を歩む姿がとてもカッコよい。
 
また、私だけかもしれないが、白人監督が白人を主役にアジアを撮った映画には、その国の人々の貌や言葉、音楽が添え物であるように感じることが多い。「スパイス」として他人種が使われているような違和感だ。だが、前述の徹底した舞台作りの効果により、ビリーはアジアに埋もれた白人にしか見えず、その種の違和感を感じない。
 
刑務所内の描写は囚人たちの汗の匂いまで漂ってきそうなほどに生々しい。
ムエタイチームの監房に移るまでの、ビリーを恐怖に陥れる監房内の描写が圧巻だ。顔から足まで身体中入れ墨に覆われた半裸の男たち、汚らしい壁や床、訳の分からない言葉の渦。突然、触れられ小突かれる。ビリーが周囲の言葉を理解できない(または理解する気がない)うちはタイ語に字幕がつかず、ビリーの感じる恐怖と混乱をダイレクトに観客に伝える。
 

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また、ビリーを絶望させるのが、件のレイプシーン。それなりの本数、しかも戦争映画を観ていれば嫌なレイプシーンには必ず出くわす。そんな私から見ても、怖気を震うシーンだ。レイプされる側もする側も発するのはうめき声だけで、行為は当然のごとく淡々と行われる。薄暗い明かりの下、太った身体に剥き出しの尻、汗ばんだ入れ墨だらけの肌が、ただただ陰惨。場所が監房の便所であるのが、これがただの「排泄行為」であることを突きつけ、なんとも表現しがたい気分になる。
 
人間の醜い行為を如何に生生しく撮るか、それがリアリティに通ずると監督には信念があるのだろう。残虐なものを見慣れた人間にとってこそ、このシーンの無機質な残酷さは衝撃だと思う。
 
 
アップショット
長回しによる撮影、細かなカットの他に特徴的なのは、ビリーのアップショットの多さだ。ビリーが「閉じている状態」、内の世界に沈んでいるとき、ハンディカムのカメラはビリーにぴったりと寄り、無表情をアップで映す。逆に、何も考えなくていい弛緩の時間、例えば刑務所内での整列や点呼のとき、監房で横たわっているときはカメラは引いた状態となり、このときは観ている側の緊張も自然と緩む。
 
アップショットは、恐らく他のレビューも挙げているだろうが、サウルの息子』(2015年)を思い出させる。だが、構図に似ている部分はあっても、意図するものは全く違う。『サウルの息子』ではゾンダーコマンドの男サウルの顔を始めから最後までカメラの中心に置き、背景をぼかしてアウシュビッツ内で行われる処理を見せた。つまり、映したかったものは周囲、サウルが見たものだった。本作で映すのは、ビリーの内面だ。基本的にビリーの世界は閉じていて視野も狭い。カメラがビリーの視点の先を映さないのがじれったく窮屈だが、ビリーの追い詰められた精神状態を体験させる狙いなのだろうと思う。
 

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◇ドラマの排除
ストーリーらしいストーリーもなければ、ボクシングを通してコーチと友情を育んだり、ソリの合わない囚人を叩きのめしたり、試合に勝利して仲間たちと涙するなどの大仰なドラマティック展開は何一つない。
 
そもそも、逮捕される以前から、イギリス人のボクサーがタイの地でヘロインに溺れているには相応の理由があるはずだが、その事情も不明だ。ボクシングの試合のシーンでは、思い切り寄ったカメラはビリーの顔か、その目前を映すのみ。リングを囲む観客目線の画も、観客の表情もばっさり切り捨てる。ボクシングはビリーが劣悪な環境を生き抜くための拠り所ではあるが、それを経て別人に生まれ変わるわけでもない。人生に劇的な変化などない、とする点もリアリズムの目線と言えるよね。
 
だが、だからこそ、ひっそりと挿し込まれるドラマとビリーの僅かな変化が感動的だ。レディボーイ、フェイムの女性らしい同情、廃人のようなビリーに向けられる、小柄な囚人の気遣い。点呼で代わりに返答をし、ケンカを止め、レイプを目撃した夜、横たわって震えるビリーの肩をとんとんと叩いてくれるのである。
また、ビリーはムエタイチーム加入後も再び薬に手を出して仲間を殴ってしまうが、報復しようとする相手を制止する囚人は、当初はビリーとぶつかっていた男だ。そして、再びチームに受け入れてもらうため、初めて人に詫びるビリーに「お」となるし、最終的に謝罪を受け入れた男は、その後、ビリーが大会に出るまで傍でサポートしてくれることになるのだ。また、彼らとの交流の中で初めてビリーの笑顔を見ることもできる。思わず「お、笑った、ビリーが笑った~」となること請け合い。悪党どもの中に存在する情や人間関係に、
思いの他、心を揺さぶられる。
 
「徹底したリアリズム」は本物の犯罪者を起用し、場所や出来事を再現したら生まれるかもしれないが、映画である限りは如何に映画とするかが重要。「やりたいことは分かるがつまらん」となってしまっては意味がない(『アクト・オブ・キリング』のように)。この監督の映画は、観客の気持ちを確かに高ぶらせる。そこにストーリーがなくても、ただ「画面に引き付けられる」という感覚が気持ちよく、私はこの監督はいいなあと思う、次回作も非常に楽しみ。
 
引用:(C)2017 - Meridian Entertainment - Senorita Films SAS

『バウンド』

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監督:アンディ&ラリー・ウォシャウスキー(現リリー&ラナ・ウォシャウスキー) キャスト:ジェニファー・ティリー、ジーナ・ガーションジョー・パントリアーノ/1996年

親友のリエコが面白い漫画や本を発掘しては貸してくれます。先日「すごく面白いんだけどBL色があってもいい?」と『10DANCE』という漫画を渡されました。確かに3巻だか4巻だかで、これまで精神的なものだったエロが物理的なことに発展してました。
 
漫画を返した後にメールが来て、「あの漫画、私のクローゼットの右下に包んで隠してあるから。私が死ぬとき君への形見分けだって言って死ぬから、処分して・・・」と。分かったよ。ダンナにバレてまずいものは全部クローゼット右下に置いておいてね。でも形見分けは、君が独身時代に車買えるくらいの値段をつぎ込んだジュエリー類がいいです。
 
そんなわけで、本日は女同士の淫靡な企みの映画『バウンド』をご紹介します。
 
パワーワードは紛れもなく、
「All part of the business」
 
笑顔もセックスも、ビジネスなんだよ!
 
 
◇あらすじ
盗みのプロ、コーキージーナ・ガーションは5年間の刑期を終えて出所した。マフィアのビアンキーニからアパートの内装と配管工事の仕事を得たコーキーは、隣室に暮らす組織の資金洗浄係シーザージョー・パントリアーノの情婦ヴァイオレット(ジェニファー・ティリー)と互いに惹かれ合う。ヴァイオレットは、組織の会計士が横領していた200万ドルを奪って逃げようとコーキーに持ちかける。(映画.com)

 

DVDを蒐集する趣味はないのだけど、この映画は大好きで持っているんです。監督&脚本は、マトリックス』(1999年)で有名になる前のウォシャウスキー兄弟、現ウォシャウスキー姉妹。ちょっと前に性転換のことを知ってびっくり。何も揃って転換することなくない?ブラザー&シスターのがバランス良くない?

しかし、実は兄弟が姉妹であったことを知った上で『バウンド』を観れば、なるほどと思う点もあって。レズビアンの二人がマフィアの金を騙し取るとなれば女の狡猾さがクローズアップされるよう想像しがちだが、それよりも女同士の間の生真面目さや初志貫徹する強さが印象的だ。身勝手に押し付けられる男の願望やイメージを置いてけぼりにする爽快感もある。
 
マトリックス』公開より前に本作を観ており、すっかりのウォシャウスキーズのファンだったので、『マトリックス』ヒット時は、よかったねえって妙に親し気に見守ってしまった。
 
 
ジーナ・ガーション
この映画を観てからしばらくの間、憧れの女と言えば、コーキーを演じたジーナ・ガーションだった。顔つき、皮肉気なアヒル口、髪型、ピタリとしたタンクトップにダブついたワークパンツ、上から下まで好み。ショーガール』(1995年)で演じたダンサーとは、かなりイメージの異なる役となった(あの役も好きだけど)。
 
私だけかもしれないが、好きな女優&憧れる女優にはいくつか種類があって、例えば自分がなりたいと思う意味での「好き」、これはパトリシア・アークウェット(現在でなく昔の)だったり、キャリー・マリガン(『ドライヴ』の)だったりする。(仮に私にレズビアンの素質があるとして)性的な意味での「憧れ」はまた異なり、ジーナはこちらのカテゴリだ。
 

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ファーストシーンが好き。
 
 
『バウンド』でジーナに惚れ込んだ私はその後も彼女の出演作品を追い(以降はあまり作品に恵まれていない)、たまにこの作品を見返すほど長い間、憧れの女優であり続けた。
 
 
キャサリン・メーニッヒを知るまでは。
 
 
ごめん、ジーナ。尻軽な私は『Lの世界』でキャサリン演じるシェーンに釘付けになってしまったん。
 

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『Lの世界』きってのスケコマシ、シェーンを演じたキャサリン。(photobucket.com/gallery/user/dylanface23/)

 

シェーンに誘われて断れる女がいたら今すぐに名乗り出ろ。声がまたいいんだぞ!
 一時期シェーンが好き過ぎて、「もう白シャツと黒パンしか着ない」と宣言するも、「骨格が違うからムリ」とリエコに一蹴される事件も。

まあまあ、それは冗談として、本作でのジーナのカッコよさは文句なし。ただ主役はヴァイオレットを演じたジェニファー・ティリーの方だろう。
 
 
◇本題
よく考えられた脚本で、とにかく面白い。
マフィアの金を盗む計画は、現状から抜け出したいヴァイオレットに、二つの契機が訪れたことに端を発する。一つはコーキーとの出逢い、一つはファミリーの会計係シェリーが横領していた200万ドルを情夫シーザーが一時的に預かることだ。彼女が計算高く冷静な女であることは、犯罪世界に身を置くことへの危機感、その世界での情夫の地位に限界を感じている点に明らかで、だが彼はそれらも含めて彼女を理解していない。

計画は、シンプルなようでいて理に適っている。シーザーと、マフィア幹部ジーノの息子ジョニーの犬猿の仲を利用し、消えた金はジョニーが盗んだように思わせるというもの。「人は信じたいものを信じる」の心理を逆手に取った、確率の高い作戦だ。
だが、その後のシーザーの行動を読み切れなかったことが災いし、計画は大きく狂うことになる。
 
シーザーの言いなりと思われたヴァイオレットが、危機的な状況で本来の才と度胸を発揮し、彼から主導権を奪い取る展開が面白い。ここで、キラーワード「All part of the business」がぶちこまれるのだが、「あんたへの献身と愛情は私にとって仕事よ」と言い捨てるヴァイオレットと、ぽかんとするシーザーのバカ面が見ものである。
 
主導権の逆転現象は、女二人の関係にも見られる。作戦当初、どちらかが裏切ったときに負うリスクは圧倒的にはコーキーの方が高い。ヴァイオレットが金を独り占めし、ム所上がりの女に罪を擦り付けるなど簡単なことだからだ。だが途中から、金は隣室に潜むコーキーの手元にあるまま、ヴァイオレットがシーザーの監視下に置かれることで、リスクの割合は逆転する。コーキーはこのまま金を持ち逃げすることもできるのだ。二人の間柄は「信頼」だけが結び付けている危うい関係だが、この信頼は肉体と精神の両面で裏打ちされているため、レズビアンの設定が必然のものとして生きてくる。
 
 
◇小道具
本作では、電話や壁といった小道具、また「色」がメタファーとして効果的に使われている。そもそも「隣室」という位置関係がなんとも淫靡で、その間の壁はヴァイオレットとコーキーを隔てるものであると同時に、互いに壁に手を当てて愛を確かめ合うシーンに見る通り、二人を繋ぐ役割も果たしている。また何度も強調されるように、壁(障害)は「とても薄い」のである。
 
また電話は、壁を飛び越えることができる二人の希望の綱だ。それだけでなく、シーザーがジーノ親子殺害後、ファミリーのミッキーに掛ける電話はヴァイオレットを追い込み、ヴァイオレットが浴室からシーザーに掛ける電話は彼女の立場を有利にする。つまり、『マトリックス』同様、電話が何かしらのスイッチになっているわけだ。
 
そして、計画がシーザーに露見してしまう原因も、この「薄い壁」と「電話の音」、希望を象徴していた道具が一転、災いの元へと変わることになる。
 
主導権の逆転、小道具の意味の変化。そして自身の性の転換。
 
ウォシャウスキーズは物事を逆へ振れさせるのが好きなんだな。 
 
 
◇三色の色
無機質な背景に三つの色が差し込まれるのは、それぞれが登場人物を象徴するためだろう。
ファーストシーンの、エレベーターの内装は真っ赤だ。これはヴァイオレットがこの時点で、シーザーの囲われ者であることを示す。部屋の床は赤、重要な客を迎えるとき、普段黒を好む彼女にシーザーが選ぶドレスの色も赤。この映画では支配者を象徴する色である
 
仕草や態度が男のようなコーキーは、白いタンクトップ姿で部屋の壁を真っ白な塗料で塗る。意外にも彼女のカラーは「白」、そしてヴァイオレットを表すのが「黒」だ。見た目から考えれば逆ではないかと思われる二人の関係だが、色の使い方を見ていればヴァイオレットの方に主導権があることは一目瞭然だ。
 
さて、そんなわけでジーナより、「黒」を担うジェニファー・ティリーがカメラの中心となるのは当然なのだが、彼女の役どころは複雑だ。数回寝ただけのコーキーを、犯罪に引き込むだけの抗い難い魅力を振りまき、シーザーの寵愛は維持したまま、ミッキーの目をも眩ませる必要がある。ミッキーは、彼女に心優しい聖女の側面を見ているので、シーザーが好む顔とはまた別の顔を作らなければならない。つまり、男たちがそれぞれ求める女性像を演じ分ける必要があるわけだ。
 
そういう視点から見ると、ジェニファー・ティリーの起用はどんなもんなのだろうか?アジアンテイストな顔、個性的なカーリーヘアに濃いダーク系のメイクと、どちらかというと需要は少ないんじゃないかっていうね・・・。いや、私は好きですけどね、この人。男性諸君が見て「セクシーだ」と思うかどうか、是非とも聞いてみたいところ。服は露出度の高い黒のミニスカワンピ一択(コーキーを誘うときが一番、乳を出していた)、シーザーのような男にはお好みなんだろうが、ラスト、ミッキーを見送るシーンでは、服なり髪なりヴァイオレットのファッションで、彼女の変化を見せたら面白かったかもしれない。
  

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◇シーザーかわいそう?
存在感を見せたのは主役二人だけではない。
幹部のジーノ親子を殺したシーザーは、そのために生じた綻びを一人で忙しく繕うことになる。死体の始末、消えた金の捜索、銃声で駆け付けた警官たちの対処。何より、ミッキーが金を受け取りに来る時間が迫っている。そんな中で実は恋人が裏切者であったことが判明。傍目から見れば、非常に気の毒なシーザーだ。降り掛かる難題に錯乱するさまを汗だくで演じたジョー・パントリアーノがよかった。『マトリックス』にも出てますね、
 
一人芝居が秀逸なので、ついシーザーに同情してしまいがちだが、この男は薄っぺらい小悪党だ。彼にとってヴァイオレットは何も持っていない頭がカラッポの女で、「ストレスを抱えた自分をリラックスさせてくれる」相手であり、言うことを聞かせるときにはパンパンと手を叩いて犬のように追い立てる、そんな存在だ。
 
鳥肌を禁じ得ないのは、彼に銃を向けたヴァイオレットを宥めて留めようとするシーン。これはジーノを撃ったときにシーザー自身がヴァイオレットの立場で経験したことの再現となる。再び「主導権」が対峙する二人の間に横たわり、彼は「お前はそんな度胸のある女じゃないはずだ」「そうだろ?」と駄々をあやして主人の威厳を取り戻そうとする。
 
 

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「お前はいい子だろ、ん?」。この顔腹立つわ~。
 
 
目を閉じてジーノを撃ったシーザーと対照的に、ヴァイオレットは目を見開いたまま銃を撃つ。シーザーは床に広がったペンキの中に倒れこみ、赤い血を白いペンキが包み込んでいく。つまりはコーキーにより、ヴァイオレットがシーザーの束縛から解き放たれたことを示す画だ。
 
スリル満点のサスペンスの体を取りつつ、賢い犬がアホな主人から自由を奪取する、まごうことなき飼い犬噛みつき映画。
 
それにしても、やっぱり、この映画での一番の功労者はシーザーかもしれない。
汗だく一人芝居と、腹の立つ胸クソ顔に拍手。

『必死剣 鳥刺し』

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監督:平山秀幸 キャスト:豊川悦司池脇千鶴、吉川晃司/2010年
 
先日、北海道でガーデンとお菓子作りに勤しむ美しい主婦knoriさんがこの映画をレビューしていました。私も好きな作品なのですと言ったら「やなぎちゃん。書きなさい。明日にでも書きなさい」と美しく諭されました。ふかづめさんにも「やーれ、やーれ」と囃し立てられたような気がするので、リクエスト回ですね、いわば。
 
ついでのようで申し訳ないのですが、普段直接やり取りのない読者の方、いつも読んでくださって星をつけてくれて、ありがとうございます。私が互いに読者登録している方はとても少ないのですが、その分丁寧に読んでおります。これからもよろしくお願いします。気が向いたら、恐れずにコメントくださいね。
 
 
◇あらすじ
天心独名流の剣の達人・兼見三左エ門豊川悦司は、海坂藩の藩政に悪影響を与える藩主の側室を殺める。しかし処分は軽いもので、その腕を買われた三左エ門は藩主と対立する別家の帯屋隼人正(おびやはやとのしょう)殺害の命を受ける。一方、三左エ門の亡妻の姪・里尾池脇千鶴は、密かに三左エ門に恋心を寄せていた。(映画.com)

藤沢周平の短編小説は多く映画されていて、そのうち「隠し剣シリーズ」を原作としているのが隠し剣 鬼の爪』(2004年)『武士の一分』(2006年)と本作『必死剣 鳥刺し』ですね。割と評判のよいたそがれ清兵衛』(2002年)も観たはずなんだけど、ぼやっとした記憶しかないんだよなあ。ということで、本作を観る前に『たそがれ』と『鬼の爪』を観直しました。どちらも山田洋次監督の作品です。
 
 
たそがれ清兵衛』鑑賞後、感想
 
うん、やっぱ、ぼやっとして辛気臭いわ。
 
初回も確かそう思ったのよ。観た後で何が残ってる?って訊かれたら、真田広之の月代(※)のうっすら伸びた薄汚い頭と、土ぼこり色の寒々しい景色。
 
※念のためですが、「さかやき」と読みます。ちょんまげ左右の、頭髪を剃りあげた部分です。もちろん綺麗に剃っていることが身だしなみ。
 
真田広之はカッコいいし、宮沢りえも文句なく美しいのだけど。禄高50石の下級武士の極貧の生活の様と、朋江(宮沢りえ)との恋模様が、のったらのったらと進んでいくが、ようやくの見せ場である、謀反人余吾善右衛門を討ちに行くあたりが特にいただけない。
 
一刀流の使い手、余吾を討つよう藩命をうけた清兵衛は、相応しい見なりを整えるための手助けを朋江に頼む。ここまで、私は清兵衛の月代が気になって気になって。序盤は分かりやすい貧乏の表現として仕方ないにしても、途中から、なんぼなんでも髪剃る暇くらいできたと思うの。で、さすがにこの場面では凛々しい真田広之が見られるだろうと思ったが、こざっぱりした着物に着替えたのに月代はボウボウのまま!なんでよ!
 
余吾の立て籠る家に踏み込む清兵衛。「奴は獣ですぞ!」という警告の声に、ぞろ緊張が増すが、いざ部屋に入ってみれば敵はベロベロと酔っ払い「まあ座れ、話をしようや」「俺は逃げるつもりだ」と言い出す。え~。拍子抜けとはまさにこのこと。二人はグダグダ話すうち、
 
「うちも女房、労咳だったからさ。夕方に熱出さなかった?」
「わかるー」
「あと、米櫃の底が見えた時の悲しい気持ち」
「それな!」
 
と、すっかり意気投合。しかし気を許した清兵衛が「実は、この刀って竹光なん」とアホな暴露をすると相手の空気が一変。これまでの茶番を挽回するように斬り合いへと転じるのだが、おせーわな。雑談で弛緩した空気を今更締めようとしても時既に遅し、観客にもタイミングというものがある。まさかこの流れから清兵衛が死ぬとも思えないので、命のやり取り感がまったくない。ただのドタバタ劇を見ることになる。
 
しかも、敢えて室内に篭り地の利を得て闘っていたはずの余吾が、振り上げた刀を鴨居に突っかけ、清兵衛がその隙を突く工夫のない決着。
不完全燃焼とはこのことよ。例えるならばW杯決勝、気持ちを最高潮にTV前で構えたのに、互いに相手の出方を見合った結果、審判がシュミレーションに引っかかってPKで決着ついたみたいな感じ。
 
さてさて『必死剣 鳥刺し』は、そんな『たそがれ』らと比べれば猶更に、見せ所をきちんと押さえた締まった映画だった。
 
 
やった、月代剃ってるッ
監督は、平山秀幸モントリオール世界映画祭国際批評家連盟賞や日本アカデミー賞最優秀作品賞などを受賞した愛を乞うひとや、『OUT』『しゃべれどもしゃべれどもで知られている。余談ですが、『OUT』原作者の桐野夏生は昔ナンバーワンに好きな作家でしたわ。『グロテスク』が最強
 
場所は多くの藤沢作品の舞台となっている山形県庄内地方の架空の藩、海坂藩。入りの能のシーンがまずは印象的だ。藩主右京太夫村上淳の側に控えた側室連子関めぐみが、舞手に拍手を贈る。派手な衣装に勝気そうな顔、公の場での主を差し置く行動が如何にも不遜だが、右京太夫は微笑んで彼女に倣う。つまりは藩主に強い影響力を持つ女であるということだ。人々が退出する中、するすると連子に近づいた三左エ門がその腕をつかみ、とん、と柱に押し付け「御免」と胸に刀を差し込む。静かで滑らかな動きの中で、突然、側室殺しが起こることの違和感に、思わず見入るファーストシーンだ。
 
その後は、一年の閉門を申し渡され刑に服す三左エ門と甲斐甲斐しく世話をする亡妻の姪、里尾の様子に、過去のシーンが挿入され、海坂藩が危機的な状況にあることが明かされていく。
 
三左エ門は、物静かな人格者だが、屋敷を見て分かる通り身分の高い武士ではない。下級武士の主人公が武士の本分を守って主君の無謀な命令に耐え、最後には個人の意思を貫くのが「隠し剣シリーズ」の共通したテーマだ。しかしテーマが何であろうと、映画が始まってから私がまず目を向けたのは月代。
 
実は『隠し剣 鬼の爪』でも、永瀬正敏の薄汚い月代を終始見せられた。気になってストーリーどころではない。なによりこの『鬼の爪』、『たそがれ清兵衛』ととても似ている。土埃に覆われたような画面。主人公は風貌と性格がそっくり。嫁ぎ先で辛い目にあって出戻ったヒロインと、二人が一度はすれ違う展開。ぎゃあぎゃあと口うるさい親戚のジジイにボケた婆さん。立て籠った謀反人を討つよう下される藩命、討つ相手は一刀流の名手。なんでここまでそっくり同じに作る必要があったのか?(そして隠し剣の見せ方がいくら何でもショボすぎる)
 
山田洋次が撮る武士は、「出世も富もいらないの。冴えないボクだけど愛してよん。」というショボい感じがしていかんな。
 
そのようなわけで、本作で豊川悦司演じる三左エ門の綺麗な月代を見たときの爽快感!やっと、やっと剃ってくれた。あと、シャキッとしてるわあ!まあ、禄高があちら30~50石、こちら280石と全く違うから身なりも違うわけだけどね。
 
 
声って重要・・・
さて月代でまずは好印象を勝ち取った豊川悦司は、体つきといい軽く苦みが入った甘い顔といい、着物映えのするいい男だ。見た目はね。
残念でならないのは、ヘリウムガスを吸ったかのような、あの声。あれねえ・・・。ヒモ役とかさ、狂人の浪人とかなら良いのかもしれないけど、それなりのお役目を預かる武士となるとさ・・・。ご本人には申し訳ないんだけど、どの場面でもトヨエツが声を発するたびに「オウ、ノウ」と悶絶してしまう。隠し剣シリーズめ、月代の次は声で私を苦しめるのか。
 
豊川悦司を食う勢いの存在感を見せ、声の面でも完全に私を生き返らせてくれたのが吉川晃司だ。演じたのは、藩主の御別家(※ごべっけ/分家のようなもの)、帯屋隼人生。政に女の意見を入れて藩の財政を傾けるバカ当主村上淳とは正反対に、人望厚く質実剛健。優れた剣の遣い手で、極めた流派はシンバルキック直心流。
 
 
 
 

オラァーーーーーー!これがオレの直心流じゃあああ。
 
 
 
そもそも「帯屋隼人生(おびや はやとのしょう)」って名前がクールだし、漢気ある役柄が吉川の兄貴にドハマってえらくカッコいい。この人は、声よし、顔よし、ガタイよし、撮り甲斐があるんだろうなあ。時代劇に起用されるのも頷ける。

帯屋隼人生、これね。↓

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・・・? なんか違うような気がする。
 

あ、こっちでした。↓

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作品を間違えてしまったでござるよ。おろ~。
 
 
 
他の作品との差別化
武士の本分と個人の意思の間で葛藤するメインストーリーに、ミステリー要素が多く絡められている点も面白い。
 
・なぜ、三左エ門は連子を殺したのか?
・本来ならば即打ち首となるところ、なぜ一年の閉門程度の軽い罪ですんだのか?
・三左エ門のみが使う、発動するときには遣い手は半ば死んでいるという「必死剣 鳥刺し」とはどのような剣術なのか
 
ミステリー×時代物は楽しい。これらはスッキリ解決するものもあれば、しないものもあるが、まあ大した問題ではない。
 
一番の見せ場は終盤の三左エ門と御別家(吉川)の対決だ。締まった空気もさることながら、暗愚の主君のために、君主の器である相手を斬らなければならないジレンマを孕んでいるのが非常にドラマティック。
 
以前年貢の値上げに耐えかねて蜂起した領民たちとの一触即発の事態を、御別家が鎮めたことを三左エ門は知っている。領内を旅している際に偶然すれ違った御別家の姿は、一揆の件で見せた裁量の深さと共に三左エ門の脳裏に焼き付いており、実は密かに敬意を抱いている相手なのだ。この、片方は相手に特別な思いを抱き、片方は何も知らずにすれ違うシーンが良い。
 
主君のためという呪いの鎖に縛られて個を殺し、斬りたくない相手を斬る。状況は他二作と同じだが、本作にある、矛盾する複雑な心理が二作では描写されていただろうか。
 

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一人は特別な思いをもって、一人は気づかずに、行き合う。

 

観客が期待する殺陣を、相応しい舞台できっちり見せてくれた点もポイントが高い。

これから起こる凶事を予知するように、ざあざあと振る雨(しとしとじゃないところがいい)。雨の中ゆっくりと城へと向かっていくる御別家は、これまた死神のように不吉だ。藩主を逃がし、襖を閉じて振り向く三左エ門の仕草が、二人の死闘の幕開けを表す。廊下で三左エ門と対峙し、斬り合いを避けられないと知った御別家の、羽織を脱ぎ捨てる仕草が滅法カッコいい。
 
対する三左エ門はなりませぬ」とこちらも渋く。。。いや、なんでそこでヘリウムガス吸うの!?

肩衣から腕を抜いて「お手迎いいたしますぞ」と応じ。。。え、また吸った!?
ちょ、カット、カットー!誰か豊川さんに台詞言う前にガス吸うなって言ってくれない!?
 
二人の対決は、三左衛門の咄嗟の機転から、御別家の刀が弾かれて切っ先が鴨居に刺さり、その隙をついたことで三左エ門が勝利する。『たそがれ清兵衛』では、前述の通りのお粗末ぶりだったので、まるで、「こうでもなきゃ、武士が鴨居に刀ひっかけねェだろ」と皮肉っているようで、ちょっと笑った。
 
御別家との対決は言わば静の戦い、その後は雨の降りしきる庭で、多勢に囲まれた動の戦いに転じる。以前は生きる気力を失っていた三左エ門だったが、ザンバラ髪で見苦しく剣を振り回す姿に観客が見るのは、恨みを上回る生への執着だ。あれほど物静かに藩命に従ってきた男の、自分の命に拘る幽鬼のような姿に目を奪われる。
 
もう一つ、三左エ門を慕い続けた里尾の想いが実った際、二人の濡れ場があったことに着目したい。どうも『武士の一分』『たそがれ清兵衛』『隠し剣 鬼の爪』などで不満なのは、妻あるいは想い人が主人公にとって最重要な存在であるのに(しかもどの女優もとても美しいのに)、身体を重ねるシーンが一切ないことだ。画面上は完全なプラトニックである。まるで生々しい情欲を描けば、主人公の清廉さが失われると言わんばかりに、主人公の誠実な人柄と静かな愛情のみを映す。

その点、本作は「生への執着」に繋がる理由として女への情愛=濡れ場を描くことから逃げず、他作品との差別化を図っていたところが非常に評価できる。ただ、なぜか豊川悦司の背中が異様にテカテカしていたのが気になった・・・。
 
逆に明らかに不足していのは、「三左エ門が連子を殺すに至るまで」が描かれなかったこと。妻を亡くして、後顧の憂いなくご政道を正したのだとする最低限の落としどころはあるにせよ、三左エ門が直接的に連子の毒を感じる場面はない。他人の噂話や伝聞のみを頼りに主君の側室殺しという大罪を犯したようにも見え、思慮深いキャラクターと矛盾する。それを決意した瞬間があれば良かった。
 
あと、岸部一徳の言うことは、信じちゃだめだって!
 
引用:(C)2010「必死剣鳥刺し」製作委員会

『きみはいい子』

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監督:呉美保 キャスト:高良健吾尾野真千子池脇千鶴/2015年

 
こんにちは。悪童伝説絶賛更新中の息子に悩んでます。昨日、朝食中にふと目を離したら、ピザトーストからチーズとサラミを引っぺがしてモグモグしていました。ジャムじゃなかったから油断したわ・・・(ジャムだけベロベロ食べるので要注意)。で、昼食中に、ふと目を離したら、冷やし中華の具だけ全部食べていました。普通に注意しても「え、気付かなかった・・・。愛してるよ」みたいに返してくるだけなので、叱るにもひねりがいるというね。
 
ところで、二年生の娘の担任が、大学を卒業したばかりの二十二歳なんです。
先日保護者会に行きましたが、それはもう想像を絶する若さでした。緊張のあまり汗だくになっちゃって、「本日はお暑い中お越し頂きありがとうございます」から始まり(4月の爽やかな日)、「生徒や周囲の先生方に助けられ」を連発。
 
一所懸命は一所懸命なんですよ。それで、恐らくもう見ていられなくなった誰かが大きく拍手をし始め、最後は満場の拍手で「とにかく大丈夫だから」と丸めて終わりました。それ以外どうしようもないよねえ、新卒で初担任なんて。
そんなわけで、今日は教育の現場からお送りする『きみはいい子』となります。 
 

 

◇あらすじ
新米教師の岡野高良健吾は、ひたむきだが優柔不断で、問題があっても目を背け、子供たちから信用されていない。雅美尾野真千子は夫の単身赴任で3歳の娘と2人で生活し、娘に暴力を振るってしまうことがあった。一人暮らしの老人あきこ喜多道枝はスーパーで支払いを忘れ、認知症を心配するようになる。(シネマトゥデイ
 
先日万引き家族を観て、感想は評判通り安藤サクラやべぇ」に尽きるのだが、高良健吾池脇千鶴が出ていたため、思い至って本作を再鑑賞。
 
この作品では、子供を中心とした物語が、複数の人物を主軸に進行していく。
高良健吾の受け持つ四年生のクラスにはよく見れば
問題がいくつもある。だが高良は、気が付かないのか思考がストップしているのか、帰宅せず校庭の隅にいる男子生徒には「学校好きだなー」と見当外れな声掛けをし、ある女子生徒が持って来た、別の女子へのいじめの手紙を「誰にも言うなよ、先生もキミが持ってきたこと言わないから」と机に引き出しにしまう。これだけで、どれほどのヘタレ教師かが分かるだろう。

男子生徒が家庭で暴力を受けていると知ってからは行動をしようとするのだが、子供側に立ってやることもできず、かといって保守的な学校の機構を理解していないのでその中で立ち回ることもできない。子供ではないが大人でもない、情けな教師を高良が好演している。
 
一人暮らしの老人あきこは、毎日家の前を通る自閉症の少年と交流を持つが、この少年は高良が勤める学校の特別学級に通う生徒だ。特別学級の教師を演じたのが、呉監督作品に続けての出演となる高橋和也昔々、ジャニーズに「男闘呼組」というグループがありまして、好きな人は好きだったんですよ? このグループの元メンバーね、高橋和也本作では、当時の印象をまったく裏切らない暑苦しい役を演じている。彼の担当するクラスの生徒たちには、否が応でも同じ目線に背丈を落とし、一人一人と向き合わなければならない。気の遠くなるような作業を腐らず繰り返す高橋は、腐りっぱなしの高良とは対照的な存在として描かれる。 
 

 

◇ママ友ばなし
そして、なんといっても見どころは、同じく対照的な母親を演じた尾野真千子池脇千鶴だ。
この監督の得意分野なのだろうが、ママ友連中の表面上の付き合いの描写はなかなかに生々しい。毎日集まる公園で、一人が作ってきたクッキーを子供同士が取り合いぶちまけてしまう。原因となった子の母親が過剰に叱り、クッキーを作った母親もなぜか謝り返す。この加害者被害者が「ごめん」「ううん、逆にごめん~」と謝り合う場面は、現実のママ友関係の中で驚くほど目にする。本音は、子供なんてお菓子を巡って争うもんだし、落とされた側にしてみれば「せっかく作ったのに、クソガキが」ってなもんだろうが、表に出すわけにはいかない。
 
それが原因で輪から弾かれれば、子供に寂しい思いをさせるかもしれない。また母親たちは「情報」が入って来なくなることを恐れている。良い幼稚園の情報、習い事はいつ始めるのがベストか、水泳がいいのか体操がいいのか。あの小学校の先生の質は?役員はいつ何をやるのが一番楽に済むのか?
断言するが、こういった情報はほとんどが提供する個人の主観に依ったものなので、なくても全く困らない。だが子育てという責任重大な作業に、母親たちは手探り状態で怯えている。結果、クチコミ情報を過剰に有難がり、それを提供してくれるコミュニティに属していればとりあえずは安心というわけだ。その姿勢への賛否はさて置き、子育ての中で最大の敵は、子にとっても母にとっても「孤独」であることは間違いない。
 
尾野真千子演じる雅美は、夫が海外に赴任しており、娘との生活の閉塞感から事あるごとに娘に暴力を振るい、次第にエスカレートしつつある。彼女にとって公園は、密室で娘と二人きりにならないためのシェルターだ。
池脇千鶴が演じる二児の母も公園にやってくる一人だが、他のメンバーから疎ましがられていて、疎ましがられる原因のキャラや見た目がまたリアル。見なりも構わなければ、ベビーカーを「乳母車」と呼び、その乳母車の左右にこれでもかと引っかけた大荷物が、本人同様いかにも鈍重だ。声もアクションも大きく、現実にもたまにこういう人がいるが、例外なくちょっと気持ちが悪い。
 
ママ友たちは「顔」を作ろうとしない池脇を嫌っている。この「顔」には二重の意味があって、邪気なくズケズケと振る舞う池脇が単純に不快だし、また深層心理の部分では、裏表の顔を使い分けずにコミュニティに入って来られる彼女に脅威を感じているのだろう。

尾野は、正反対のタイプの池脇に戸惑いながらも興味を隠せず、それが分かるのが子供を叱るときの描写だ。彼女は当然、外で娘に手を上げないが、娘が転べばグズなわが子に苛立ち、反射的に「なにやってるの!」と叱咤する。しかし同様の状況で池脇の口から出るのは「大丈夫!?」の言葉で、子供に触れ抱きしめながら怒る。それを見つめる尾野。全編、強張った顔の演技だった。虐待シーンの子供の泣き声は痛々しいが(殴っているのは子役ではなく尾野自身の手だろう)、加害者側の尾野真千子の役作りというか、撮影中の精神状態の保ち方は大変だったのではないだろうか。
 
また、ママ友のマンションの部屋のチャイムを鳴らす前に、ドアに耳を当てる演出がよかった。自分と同じく子供を罵倒する声を確かめるために、他人の家の様子を窺う行動が、尾野の追い詰められた心理をうまく表している。
 
尾野が腕時計をした手首を長袖で隠すショットが何回かあるのだが、私は当初「時間を見たくない」ことを示す演出だと理解した(本当は過去に受けた虐待の傷を隠すため)。いつ何がきっかけで子供に手を出すかわからない恐ろしい時間がまた始まる。雨を見つめるショットが示すものも同じだ。部屋の中で子供と一日を過ごす恐怖を思う。これらのシーンの怯えた表情が印象的だった。
 
さてさて、特筆すべきは池脇千鶴であり、『万引き家族』との違い。
 
万引き家族』での池脇の役柄は、「本当の家族だったらそんなことしないでしょう」「産まなきゃ母親になれないでしょう」というワードを当然のように発する、「世間一般」代表の警察官。血の繋がりこそが家族であると疑いもしない、絶対的な社会正義の代弁者だった。安藤サクラに異星人のような目を向けていたが、安藤サクラからも異星人のような目を向けられている、そういう役だ。
 
本作では、のちのち判明するが、前述の高橋和也の教師と池脇は実は夫婦だ。同監督『そこのみにて光輝く』での役柄と比較すると尚更楽しいのだけど、この作品では紛うことなき似た者夫婦。イタさを禁じえないオーバーアクションで鬱陶しい主婦を演じた池脇の存在感が大きかった。そして「顔」を持たないと思われた池脇も実は裏の顔を持っており、それを知って尾野の強張りが氷解する二人のシーンが素晴らしい。
それにしても、池脇千鶴ってこういう人だったっけ!?もっとカワイイ系じゃなかった?
 
 
◇あまり好きじゃなかった点
教師、母、老人のすべてのパートにおいて、希望を提示して終わる本作だが、欠点は「宿題」が少々くどく感じられる点だろうか。高良が生徒たちに「家族の誰かに抱きしめられてきなさい」と課題を出して、その結果を聞くシーン、あれは恐らくアドリブだろう。子役たちに同じ宿題をさせて、そのまま撮影に臨んだのだろうと思われる。一人ひとりの生徒たちのアップショットを、ドキュメンタリータッチに映したのが私はあまり好きではなかったのだけど、世間的にはどうなんでしょう。
 
それにしても、高良健吾のアドリブは頂けない。のったらのったらと場を弛緩させた挙句、「うーん、先生も何でこの宿題出したのか、わからないよ」って。まあヘタレ教師らしくはあるんだけど、この段階ではキミはちょっと成長してなきゃだろー?
 
このシーンで、最初にクラスでのいじめの事実を高良に訴えに来た女子生徒の答えは、「私は(宿題にされるまでもなく)毎日抱き締められている」というものだった。結論を、子供を抱き締めれば世界が平和になるとしたこの映画、ちょっと甘っちょろいですかね。けれど、それを信じて子育てをしている立場から観ると、印象の深い作品と言える。

『映画対談(前半)』

ふふふふ、おはようございます。

金曜日ですね、ふふふふ。

なんでご機嫌かというと、ちょっと前に、ふかづめさんとコツコツコツコツ会話を重ねた映画対談が記事としてアップされたのです!

 

シネ刀映画対談(前半) - シネマ一刀両断

 

ふかづめさんと言えば、京都在住の気むずかしいシネフィルで、驚異の知識量と文章力を持ち、シネマだけでなく媚び諂うものを斬って捨てる孤高の天才です。すごい強烈なプロフィール。

気むずかしい、ってのは、私の中では完全に褒め言葉ですよ。(ツイッター経由で)会話する中で、感じた人柄は色々あるのですが、思いのほか恥ずかしがりやっぽいので、やめときます。

 

で、肝心の対談記事ですが、長くなっちゃったし、話があっちゃこっちゃ飛んだので、編集には苦労しました。それで前後半に分けました。

さも私が苦労したみたいに言ってみたけど、やったのは全部ふかづめさんです。あと、ホントはチャッチャッと編集してました。

全テキストを送ってくれて「そちらのブログ用に編集していいよ」と言ってくれたんだけど、私はそんなことできないので、リンク貼らせてもらいます。

みなさん、是非読んでくださいねー!