『SHINOBI』
ツイッター友デンデロ・ワシントンさん(ジョン)、『たみおのしあわせ』。なんだそれ? 言ってなかったけど、私もオダジョーの映画全部観てるわけじゃないからさ。
◇あらすじ
◇原作ファンからも主演からもバッシングされる
この映画では、本人の乗り気でない感じがモロに出た。とにかく滑舌の悪さや棒読みが目立つが、ビジュアルもまずい。
甲賀の頭領というよりは、田舎の高校生。
◇アクション
◇映りの良し悪しに差がありすぎる
◇えーと
『パッチギ!』
監督:井筒和幸 キャスト:塩谷瞬、高岡蒼佑、沢尻エリカ/2004年
◇あらすじ
敵対する朝鮮高校に親善サッカー試合を申し込みに行くよう、担任に言われた府立東高校2年生の康介(塩谷瞬)は、そこでフルートを吹く女子高生キョンジャ(沢尻エリカ)に出会い、一目惚れする。ところが、彼女は朝高の番長アンソン(高岡蒼佑)の妹だった。(映画.com)
井筒監督って・・・最近なにしてるんでしょうね?昔、『パッチギ!』公開の少し前辺りに、井筒監督が話題映画を自腹で鑑賞して評論する『こち虎自腹じゃ』っていう深夜のバラエティコーナーがあったんです。毒舌が面白くて、よく観ていたなあ。それから、『モンスター』(2003)で役作りのために激太りしたシャーリーズ・セロンを、日本のマスコミが「これぞ女優魂!」と持ち上げる中、「役者なんだから当たり前」と冷ややかに斬っていたのが印象的でした。
さて、本日は、学生運動にベトナム戦争、敗戦の影響が色濃く残る時代を背景に、高校生の恋を描いた青春映画『パッチギ!』を紹介します。
舞台は1968年の京都。鴨川を挟んで日本人と朝鮮人の住む場所は明確に別れており、日本人側からは対岸を「朝鮮部落」と呼んでいた。歌謡曲『イムジン河』の日本語訳者である松山猛の自伝を原作とし、そこに当時監督自身が肌に感じていた時勢や体験が重ねられ、画面に生き生きと投影されている。
一方で、在日朝鮮人側に主眼を置いたため、また、テーマ曲『イムジン河』が彼らの悲哀を歌ったものであるとして、偏った反日の主張が為されていると多くの反感を買った。
私としては、訳の分からない熱を孕んだ時代を感じさせてくれることと、歌詞の内容はどうあれ曲の良さが好きだよねえ。今では想像もつかない濃い社会情勢に、ギターとフォークソングの音色の映えること。『イムジン河』の日本語版を初めて歌ったザ・フォーク・クルセダーズのリーダー加藤和彦が音楽担当で参加しており、この点も無視できない。
◇映画の設定は「設定」だよ
良い青春映画であるとの意見は共通しながらも、この映画が強い反発を受けるのは、言うまでもなく、後半の葬式のシーンのためだ。
朝鮮人の友人の葬式に参列した塩谷瞬演じる康介は、笹野高史演じる親族の老人から、日本人は帰れと罵倒される。そして周囲から次々と「我々は紙切れ一枚で故郷から強制連行された」「日本人が食べ残した豚の餌を食ってきたのだ」と厳しい言葉を浴びせられる。
この箇所を挙げて「一方的に日本を非難していて不快だ」とする意見がとにかく多い。一応、プロの批評家を名乗る前田有一に至っては、レビューの中で「朝鮮半島の言い分に共感する者は感動できるが、愛国者の日本人であれば激怒する映画」と述べ、敢えて点数を付けずに時価、としている。
呆れて物が言えない。
忘れてはいけないのは、これは映画だということだ。
事実と、そこから発想を得た映画の中の設定をごっちゃにすべきでない。言うまでもなく、笹野の人物は映画上のキャラクター設定であり、「豚の餌を食わされた」は台詞だ。その言葉の内容の是非を問い、「映画の批評」として議論の俎上に上げるなどナンセンスの一言。
笹野の言葉に「そうだったんだ」と目を潤ませる者は★5つをつけ、反感を覚える者は★1つとする、感情移入できないとの理由で作品そのものを評価しない、批評ってのはそういうものじゃないでしょう。そんな議論は、映画の外でやればいいことである。映画でお勉強した気になるなって、おねーさんいつも言ってるよねええ。
井筒監督の中に、当時、急に発生した韓流ブームに対し「ちゃんと歴史を知っときなさいよ」という思いはあったろう。だがこれを、朝鮮側に偏った思想をぶちまけた映画だプロパガンダだと取るのはあまりに浅薄というもの。もしそうならば、あんなストレートに分かり易い日本糾弾のシーンは作らない。昨今のプロパガンダというのは、ひっそりと潜め、人々にそうとは気付かせずに洗脳するものでなければ意味がないのだから。
これはロミオとジュリエットの話だ。彼らの間にはバルコニーの代わりに、鴨川に象徴される境界線がある。
葬式の場面は、民族間の隔たりとしてしか境界線を捉えておらず、努力次第で飛び越せると思っていた無知な康介が、強烈に横っ面を張り飛ばされるシーンだ。康介がその場で感じたであろう、衝撃、反感、理不尽、羞恥。監督が観客に汲み取って欲しかったのは、そういったものでいいはず。この出来事があったからこそ、キョンジャは自転車で自ら境界線(鴨川)を越えるのだし、恋は成就するのだ。
◇オダジョーの『悲しくてやりきれない』
葬式会場から、鴨川に掛る橋へふらふら歩いてきた康介がギターを欄干に叩きつけてぶっ壊す。このとき後ろに流れる、オダギリジョーが歌う『悲しくてやりきれない』が至高。
オダギリジョーといえば、プロ意識の高さゆえ使い易いとは言えない役者であり、処世術と無縁のため、結婚会見では新婦と二人して押し黙り取材陣を困惑させた。私は昔からこの人が大好きで。まあカッコいいよね、声も甘くていいよね。そしてダメな作品に出たときは驚くほどカッコ悪いよね。出演作品を厳密に選定するが、必ずしも作品選びに成功しないところが愛すべき点。
作品選定に成功したときには自然体でありながら存在感を示し、個人的に一番の成功例が、この『パッチギ!』の坂崎さんだと思っている。『悲しくてやりきれない』は、最近では『この世界の片隅に』(2016)でコトリンゴが歌い、それも良かったけれど、私にしてみたら、やっぱりどうしたってオダジョーの方なのである。
彼の出演作の中で好きなのは、次点は『あずみ』(2003)の美女丸役。ワーストは『蟲師』(2006)か、次回レビューをしようと考えているある作品だ。ある作品、どうぞ予想してください。我こそはという人はコメント欄でどうぞ。何か賞品がもらえるかもよ。ちなみに『蟲師』は、初めて映画館で爆睡した。
坂崎さんステキ。映画後半には、みうらじゅんみたいになってしまう。
塩谷瞬のギター叩き割りからの、大友康平の「バァカ!どんな理由があろうとな、この世に歌ったらあかん歌なんかあるわけないんだよ!」以降は怒涛の泣かせ展開。
境界線は康介とキョンジャの間にだけ引かれているのではない。報復に向かうアンソンの車と陣痛に耐える桃子(楊原京子)が乗るバスの境、朝鮮学生と日本学生の間に流れる鴨川も同様だ。
康介がギター1本で歌い始めた『イムジン河』にオーケストラの演奏が重なり、桃子の出産、鴨川の乱闘の場面を経て徐々に境が崩れていく。そこから生まれた希望は、アンソンと桃子の赤ん坊、また康介の歌が流れるラジオを泣きながら親族に掲げるキョンジャの姿に象徴される。何回観ても私はここで泣く。つまらないことばっか言ってないで、エリカちゃんの泣き顔を観なよ。
◇パッチギの呪い
『パッチギ!』に出演した役者は、その後、多くがトラブルを起こして消えていき、そのため呪いの映画と言われているが、単純に順序が逆。元々強烈な役者が集まっただけの話だ。
沢尻エリカについては触れる必要がないので割愛。オダギリジョーは前述の通りだし、高岡蒼佑と言えば言葉をオブラートに包むことを知らない、売られた喧嘩はガチで買うリアルパッチギ野郎。二股俳優こと塩谷瞬が元からアホなのは疑いようもなく、真木よう子は仲代達矢主宰「無名塾」で目をかけられながら、日課のマラソンをサボったサボらんで仲代と喧嘩し、退塾となった問題児だ。
例えマラソンをサボったとしても、この映画のパンチパーマ真木よう子は、死ぬほどかわいい。
劇中では、途中日本学生側の助っ人として現れる大阪ホープ会のボス、最後に高岡に、これがパッチギじゃあ!って頭突き喰らう人ね。
八極拳、少林寺拳法、ボクシング、キックボクシング、ムエタイ等あらゆる格闘技に精通し、現代殺陣や時代殺陣もこなす日本最強のアクション俳優兼アクション監督。
数年前に、世界初「ワンシーンワンカットで77分戦い続ける侍ドキュメンタリー映画『狂武蔵』」を撮影(未完成)、燃え尽きて俳優を引退し、忍者になった(現在は俳優に復帰)。『狂武蔵』撮影中、奥歯を砕き指を骨折したが、自分の口で骨折した指を元に戻して撮影を続行。人体を内側から破壊する”ムーブ”なる技を体得し、「アウト×デラックス」で山ちゃんに1%の力で披露、悶絶させた。完全にイカれた人間だ。
まだ消費されていない桐谷健太の怪演もいいよねえ!
ということで、問題児予備軍をまとめあげた監督の手腕を褒めていきましょう。日本はこの作品もっと誇っていいと思うんです。熱っていうのは、こういう映画から生まれるんじゃないの?
『アンタッチャブル』
イヤな話をしてごめんなさいね。彼女が大好きといつも言っていた映画が『アンタッチャブル』だったの。『アンタッチャブル』にちょっと泥が付いたよね。
◇あらすじ
それでも、やっぱり私達世代には人気の高いコスナー。さあ、敢えて言いましょう。
◇なさけな特別捜査官
◇男のロマンのテーブル
◇爺さんの殴り合いと、長回し
◇ネスさんが本領を発揮する
終始ネスのダメっぷりに着目している私から観れば、これは「警察官」の映画だ。門外漢の役人が気焔を吐いて捜査に乗り出すが、何もできず警官たちに助けられ教えを受ける。だが最も敬愛する警官を失い、警察を去る悲しい男の物語。
『あの頃、君を追いかけた』
仕事から帰ると掃除も洗濯も済んでるし、夕ご飯だって出来ている!
帰宅したら人の作ったご飯が出てくる、これぞハッピーライフ!
「一つ目、夏のボーナス出ません」
「え。」
「二つ目、明日、会社が潰れます」
◇あらすじ
◇まずは突っ込まねばならない
もう一言。「言うほど追いかけてない」。
あたしら詰めてどうすんの?
こんな中で愛し合え?
命の尊さ教え合え?
笑かすな
◇台日ヒロイン対決!
対して日本は、マナー面で比較するならば、本来マナーとは「相手を気持ち良くするもの」であるはずだが、自分が火の粉を浴びないよう防御するための手段になりつつある(全てとは言わない)。
◇台日キミオイ対決!
地震の後、二年ぶりに電話で話しながら、それぞれの場所から月を見上げる二人。片方は着実に自分の道を歩み、片方はいまだ地元で、もがき続けている。台湾版では、コートンが見上げるのは遮るもののない空に浮かぶ満月、だが、チアイーが見るのはビルで半分姿が隠された月だ。
◇どちらもラストはグッド
山田くん、がんばれ。つまんないドラマ御用達になるな。あと、あちこちで泣くな。
『ザ・ハント ナチスに狙われた男』
◇あらすじ
◇リレーバトンとしてのヤン
『ハイドリヒを撃て!』のレジスタンスが暗殺作戦実行までは漕ぎつけたのに比べ、本作はいきなり男たちがナチスに捕らえられる場面から始まる。場所は寒々しいトフテ・フィヨルド。一人はその場で銃殺、十人は拘束され、岩陰に隠れたヤンだけが雪の上を走って逃亡するのだが、なぜか片方の足が裸足だ。そして逃げ出した際に受けた銃撃で裸の親指が吹き飛び、この傷がヤンを終始苦しめることとなる。
なお、なぜ片方の足が裸足だったかは途中で判明する。
◇ジョナサン・リース=マイヤーズ
◇愛が一方的
◇国境越えは必見
結論から言うと(いうのかい)。
そこまでの長く狂気に満ちた時間の描写は辛いが、国境を越える思いがけない方法と解放感を、未見の人にぜひ味わってほしい。これはネタバレしちゃいけない、楽しいから。
『世界にひとつのプレイブック』
監督:デビッド・O・ラッセル キャスト:ブラッドリー・クーパー、ジェニファー・ローレンス、ロバート・デ・ニーロ/2012年
10年ほど前、フレディというウェールズ人の青年に英語を習っていました。かなり繊細というか偏屈な人でした。ある日、焼き鳥屋に行こうとなったんだけど「日本の鶏はぎゅうぎゅう詰めで飼育されてストレスの塊だろ。そんな気の毒な鳥の肉は食べられない」とか「タコを尊敬しているから、絶対に食べない」とか。またある時「君は歩きながら物を食べる?」と訊かれ、「行儀悪いからしない」と答えると、「僕は時間短縮のためにそうしているのに、日本に来てからマナーが悪いと非難される!」いきなり怒られました。
フレディはサッカー誕生の地で育ちながら、サッカーを嫌い、ラグビーをこよなく愛する男でした。曰く「サッカーのサポーターは全員ヤクザ。ラグビーは敵味方が入り混じって応援しても友好的、紳士のスポーツだよ。君はマナーを大事にするのによくサッカーなんて観られるよね?」(←歩き食べの件から、マナーにうるさい人として何かとイヤミを言われるように)
2008年のEURO(UEFA欧州選手権)にイングランドが出られなかったときは、「あ~、よかった。ホント、あんな大会出るもんじゃない。バカなサポーターが海越えてやってくるんだから、キミみたいなね!」(やなぎや訳)。しかし2016年、ウェールズ代表がEUROで快進撃を見せたときは「国中がサッカーの話をしているよ!」と興奮したメッセージを送ってきました。どっちやねん。
そんなこんなで本日は、多分スポーツへの情熱を知っておいた方がより楽しい、『世界にひとつのプレイブック』です。
7/13に同監督の『世界にひとつのロマンティック』が公開されるが、ちょっとひどいよね、この題名。私のジェイクが出演するので観に行きたいけど。それにしても、ジェイクってば、スパイダーマンの新作に続き、『ゴールデン・リバー』『ワイルドライフ』と出演作が多くて追いつけない。
◇あらすじ
妻の浮気が原因で心のバランスを崩したパット(ブラッドリー・クーパー)は、仕事も家も失い、両親とともに実家暮らし。いつか妻とよりを戻そうと奮闘していたある日、事故で夫を亡くして心に傷を抱えた女性ティファニー(ジェニファー・ローレンス)に出会う。愛らしい容姿とは裏腹に、過激な発言と突飛な行動を繰り返すティファニーに振り回されるパットだったが・・・。(映画.com)
まず、ブラッドリー・クーパーが苦手と言ってきたことをお詫びする。この映画のブラッドリーは良かった。ただ、私の目的はとにかくジェニファー・ローレンス。『ウィンターズ・ボーン』(2010年)はお気に入りの映画の一つだが、そのときに彼女の顔ヂカラにやられた。『ハンガー・ゲーム』シリーズも、眠りそうになりながら完走。最後に幸せそうに微笑むジェニファー以外、大体忘れたが、カットニス・エヴァディーンというヘンな名前はなかなか忘れない。
本作『世界にひとつのプレイブック』出演時、ジェニファーは22、3歳。ダイエットに興味がないと公言している通り、生命力溢れるバディと健康的に張った頬は彼女の魅力で、それが堪能できるダンス大会のシーンは、二人の下手なダンスも含めて見所だ。しかし若干不満なのは、ジェニファーの顔の映りがシーンごとにちぐはぐだった点で、ティファニーの荒れた心を表す凄みのある表情にハッとさせられるときもあれば、子供のように幼く見えてしまうときもあった。
◇深刻だがユーモラス。ユーモラスだが深刻。
ストーリーはそれぞれに心に深い傷を負った男女が出逢い、ぶつかり合ううちに恋に落ちていくというもの。
パットは自分は「まとも」で、妻ニッキとの間にまだ愛情があり障害を乗り越えてこそ愛はより深まると信じている。この思い込みがまさにパットの精神不安定の原因なのだが、本人は全く自覚しておらず、そのため周囲も腫れ物に触るように扱う。
一方のティファニーは、夫の死のショックから性的な自傷行為を繰り返している。
好印象を抱くのは、二人の病状を観客に伝える描写が、笑いを誘いながらシリアスであることと、そのバランスだ。
例えば、パットがランニングするときにゴミ袋を被るルーティンと、そのランニングコースにティファニーが「ヘイ!」と乱入してきて追いかけっこになる場面はつい笑いが漏れる。しかし、このシーンでは、二人の問題が判り易く表現されている。「発汗のため」とゴミ袋を着続けるパットの思い込みは強迫観念じみているし、自分の感情を構わず押し付けるティファニーは、人との距離の取り方を見失っている。
パットは思ったことを全部口に出しまう。心を開いて自分の荒れた所業を打ち明けたティファニーに、「ヤッた中に女もいた?」などと訊き、その後は笑いながら彼女をアバズレ扱い。しかし翌日には実家を訪ね、「彼女は賢くて芸術家だ」などとのたまう。いやいや、コロコロ言うこと変えて、お前の本心はどこ。しかし、全てが、そのとき刹那刹那のパットの本心なのである。
考えずに発言する癖は、これぞ躁うつ病と思わせるが、必ずしもそれだけが理由でないことが家庭の描写で明らかになる。ロバート・デニーロ演じる父親はアメフトの地元チーム、イーグルスを妄信的に愛し、試合があるときはリモコンの位置を揃えハンカチを握る。ジンクスと言えば聞こえはいいものの、これも一種の強迫性のものだろう。
兄は、何もかも失った弟に、「言いにくいな。お前は妻に逃げられ俺は婚約する。お前は家と仕事を失ったが、俺は新居を建てるし仕事は順調」とやっぱり思ったことを全部口に出す。優秀であるはずの兄の、傍若無人ぷりに笑いが漏れるが、実はパットの抱える問題、恐らくニッキとの家庭が崩壊した理由も、家庭が元凶であることが分かる。
どうでしょう、こう考えると、「笑いの要素も多いよね」とコメディパートだと思いつつ観ていたシーンが、「あれ?よく考えるとこれって深刻の裏返しだよな?」と思うでしょう。思いますね?
ゴミ袋を着用するクーパー氏。
◇ジェニファー
さらに穿った見方をすれば、小型犬のように愛らしいパットの母親は、家庭内で重要な何かが決定されるとき選挙権を持たない(旦那がノミ屋開業したり全財産を賭けたら窓から蹴り出すでしょう)。男たちが揉めると周りでおたおたするか、またそうでないときは大体カニのスナックを作っている。つまり、パットの育ったのは夫権家庭なわけだ。もちろんデニーロが演じた父は愛すべきキャラだけど、あれはあれで困るよねってこと。
だからこそ、勝負の二倍賭けが行われるシーンで、男たちを黙らせるティファニーが非常に痛快だ。異を唱えることを許さない強引な理論、攻撃的で滑らかな口調、ここぞとばかり発揮される強烈な目ヂカラ!やっぱジェニファーは持ってくわああ。オヤジをやり込めた後で、シュポンッとビールの栓抜いて煽る仕草が気持ちいいよね。
ティファニーの人とのコミュニケーションの取り方は基本的にケンカ腰、沸点が低くてキレやすい。パットとティファニーが互いの傷を抉るような言葉を叩きつけ合うのにハラハラするが、やがてこのぶつかり合いが精神に不安を抱える者同士にしか為し得ないセラピーなのだと気づく。「怒鳴り合いのシーンが多くてうるさい」と批判するレビューも見かけるが、怒鳴り合いはこの映画に必要だ。感情の爆発の中で本音をぶちまけ整理し、少しずつ傷や悲しみを浄化していく、いわば荒療治なのだから。
破天荒で乱暴な言動のため、ティファニーの人柄がカーテンの向こうに隠れがちだが、彼女は心優しい女性であり、グッとくるのが、いじらしすぎるこじらせ。パットがニッキに書いた手紙への返事を、ティファニーが書いていたことは一読瞭然で、いじらしさにキュンとなる。ラストは二人の傷が癒えていくさまに、そしてティファニーの思いが成就したことに思わず落涙。
◇余談です
以前『ボストン ストロング』の感想でも書いた通り、度々映画の中で描かれるスポーツでのチーム愛は、時に人生を捧げるほどに強烈だ。イーグルス中心の生活を送る父親や、球場での乱闘などを理解不能と断じてしまえば、この映画の魅力は半減してしまう。日本にも、一部サッカーに熱狂的な地域があることは、以前も語った。ここでも余談でサッカーのことを書こうと思うのだけど、疲れてきたので、突然ですが、リトル・ヤナギヤ(※)にバトンタッチします。
※リトル・ヤナギヤとは:
サッカー選手の本田圭佑がACミランへの入団会見時にミラン移籍を決断した理由を質問され、「私の中のリトル・ホンダに『どこのクラブでプレーしたいんだ?』と訊くとリトル・ホンダは『ACミランだ』と答えた。それで移籍を決めた」と発言したことから。以来サッカーファンの間では、決断に迷って自問自答する際に使用される。
使用例:「迷ったけど、私の中のリトル○○がGOと言ったから決心したの」
★★★★★★★★★★★★★
リトル・ヤナギヤ:
お久しぶりでーす。前に『エール!』で登場したときには、やなぎやさんの友達のリエちゃんに「『ゴシップガール』みたいな会話だね」って言われたんです。ウフ。これからもゴージャスでスウィートな女子を目指していきたいと思っているの。
ところで、やなぎやさんのパパ友にさーちゃんて人がいてね、子供の運動会に黄色いグラサンかけて、ギターケース型のバッグだかギターケースだかを背負ってぶらりと現れるような変人、じゃなかった、イケダンなんだけど、さーちゃんサッカーアレルギーなのね。
なぜかっていうと、昔W杯の時に知り合いに、「え!?W杯観ないなんて非国民なの?」って言われたみたいで・・・。可哀そうよね・・・。
サッカーがね、さーちゃんじゃなくて。「にわかサッカーファンを憎んでサッカーを憎まず」って標語もあるじゃない?
そんなさーちゃんのような人のために今日は私、「こんな人はサッカーファンじゃないわよ」を教えるわね。じゃあ、早速読んでみて!
・「Jリーグは観ません」という
・「え!?W杯観てないの!?」という
・「リーガ・エスパニョーラかセリエA中心っすね、Jってレベル低くて」
・「女子サッカーとか、パススピードのろくて見てられなくないすか」
・日本代表の実力を見誤っている(過大評価、過小評価ともに)
いるいる~!
・点を決められると「ああ、終わったね」という
・「松木の実況(あるいは北澤の解説)って馬鹿にしたものじゃないっていうか、何気にあれこそ純粋なサッカーの楽しみ方?」
・W杯、もしくはチャンピオンズリーグのときだけ「ね、昨日の試合観た!?」と言ってくる(←EUROのときは言ってこない)
ああ・・・いる、わね、こういう人。
・ゴール裏にいる監督気取り
・ゴール裏にいる戦術家気取り
・ゴール裏にいる解説者気取り
・ゴール裏にいるヤジラー
・Jの贔屓のチーム一筋型。「代表の試合?逆にぜんっぜん観ない~。うちのチームの選手が出てれば観るけど!」
・「『ファン』じゃなくて『サポーター』な?」という
・「メッシ、メッシ」しか言わない出っ歯の芸人
ホントに多いのよね、物事の一部しか見てない片手落ち野郎。もちろん自称ヨーロッパサッカー好きやニワカもウザイけど、Jの地元チーム好きをステータスにし過ぎて、他は排除する保守的「チーム愛」標榜かんちがい野郎もウゼええええ。
サッカー好きってこたあ、あまねくレベルと規模と国と性別のFOOTBALLを愛するということよな?サッカー好きっつッてんのに「あ、バルサしか観ないんで」じゃねーよな?
じゃあバルサの選手全員、言ってみ?
メッシとスアレスとピケとブスケツとラキティッチとビダル以外言ってみ?
言えないのか?
そりゃァおかしいですわいなァァ?「バルサの試合でメッシが出たときだけ、試合時間と夕飯の時間が合えばメシ食いながら観る程度には好きです、メッシ好きだけに」くらいにしとけ。サッカー好き名乗るのは辻褄合わんよな??辻と褄が駅でバイバイしてもうとるよなあ!??
うふ。ちょっと興奮しちゃったけど、これで「こんな奴はサッカーファンじゃねェ。消えろ」のコーナーを終わりまーす。またね、バイビー。
★★★★★★★★★★★★★
◇「クレイジー」ってなにかね?
なんでしたっけ。あ、『世界にひとつのプレイバック Part2』。
私としてはパットの友人ロニーがツボで。ロニーがストレスを訴える仕草や、それに対するパットのすっとぼけた反応がおかしいのだが、ここには特に笑いに交えた、痛烈な皮肉が込められていて。ロニーは、自宅のモダンな内装、壁中に飾られた幸せそうな家族写真、美しいテーブルセットに手の込んだ料理、妻が血道を上げて飾り立てた理想の我が家に、そして妻自身に押し潰されそうになっているのだ。それこそ、いつ精神の病を患ってもおかしくないくらいの抑圧だよなあ。
つまり、最後のパットの台詞「みんなクレイジーな部分はあるだろ?」がすべてだ。
病気というハンデを負い、じたばたする者がクレイジーなのか?では、世間が決めた「よい仕事と家」のステータスに振り回される人間はクレイジーではないのか?「メタリカ」を大音量でかけるのがクレイジー?どの部屋でも子守歌が流れ、壁に暖炉があるような家はクレイジーじゃないのか?
クレイジーと非クレイジーの境目を決める規準などない、自分らしくあれと、シリアス且つユーモラスに歌い上げた悩める者への応援歌、それが『世界にひとつのプレイブック』。
私はブラッドリー・クーパーを克服しました。
今日は余談が長かったね。
ジェニファー、キュートだね。
引用:(C)2012 SLPTWC Films, LLC. All Rights Reserved.
『ドント・ブリーズ』
◇『クワイエット・プレイス』
まず「音を立ててはいけない」という設定に対してぶつけてきた「どうしたって音を出さざるを得ない状況」の発想が良い。最大の痛みが襲う瞬間と、どう努力しても止めようのない音、そう、妊婦が陣痛を迎えて出産するときと、赤ん坊の泣き声。出産を経験した女性からの「うわ~!つらいつらいつらい!」の声をゲットすべく考えられたマニアックな視点が非常にナイス。
踏むって踏む~!とヒヤヒヤする時間を意地悪く長引かせ、エミリー・ブラントがそれは見事にぶっすりと踏むのだが、その後も釘の存在を観客に意識させる。子供が踏む!?いや、もしかして「何か」(バケモノ)が踏むのか!?・・・って踏まないのかい!
水音で自分たちのたてる音が消せる、しかしそれすなわち、仮に「何か」が近づいてきたときに、自分たちもその音に気付くことができないということだ。それは危険だね?だから滝の側には住めないよね?わかりましたね?
◇どこが超人的な聴覚だコラ
先に言っておくが、私は常日頃、話のアラや矛盾を探しまくっているわけではない。ただ、相手が人間だろうが霊だろうが、絶叫系だろうがサイレントだろうが、ホラー映画で矛盾を感じたくないの。なぜなら、矛盾を覚えれば疑問が生じ、気が散って怖がれなくなるから。「うひー、怖い怖い!」って悶絶したいの。世には、なぜわざわざ怖がるために映画を観るのか理解できない人民もいれば、ホラーを全く怖がらない人民もいるが、そんな連中のことは知らん。私はソファの上で転げまわりたいの!だから、お粗末な話はやめて。低予算で金の足りないところは人力で補って。
業を煮やしたロッキーは、なんとガラスを割って家の中に侵入する手段に出る。しかも彼女が内側から鍵を開けるのを待つ間、外の二人は今しなくてもいい小競り合いをおっ始める。うるさいって。帰ってからやれって。
めちゃめちゃ耳が良くて夫からはデビルイヤーと呼ばれている。階の異なる部屋で、誰かが扇風機を付けたらウィーンという音が、プレステの電源を入れたらピッという音がはっきりと聞こえます。ピザを頼めば、遠方から近づくバイクの音が聞き分けられます。ピザ屋のお兄ちゃんはチャイムを鳴らした瞬間にドアが開いてびっくりすることになります。
なんでこれは察知しないのさ。
◇ジジイがイニシアチブ握る理由なし
また、相手が優勢でこちらが劣勢、という状況を決定付ける条件や道具が何もない。元軍人、感覚が鋭敏。・・・で?そうはいってもジジイは目が見えないのである。後ろを取って殴り倒すくらい訳がないのだが、チャンスがない。ジジイのガードがよくてチャンスがないわけではなく、奇襲が成功すれば映画が終わってしまうので、話の都合上そうさせない、シラけるパターンだ。
◇超人過ぎ
うそ~!なにこれ、よめなかった。ちょういがいなてんかい!
これはもう、ジジイの目、見えてるよね?
「製作:サム・ライミ」の文字を。