Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『薔薇の名前』

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みなさん、こにゃにゃちは。
 
小学二年生の娘の担任(社会人一年目/ジャニーズ系/おっとり系)が、ダンス好き&音楽好きで、毎週音楽の時間に自分のお勧めの曲を生徒たちに紹介してくれます。子供たちはこれをとても楽しみにしていて、親にも評判がよいです。うちの娘などは、私達両親も音楽好きなので、一所懸命、歌詞を覚えて歌っています。先日の個人面談の際に先生にそう伝えました。照れて喜んでました。
 
最初の曲は、GReeeeN『キセキ』とベタでしたが、その後は、スピッツ空も飛べるはずいきものがかり茜色の約束など、無難でありながらいい曲を選んでくれていると思います。だって、ヒルクライムとかだと困るでしょ。
 
私が今、聴きたい曲は、曽我部恵一BAND『チワワちゃん』とEGO-WRAPPIN'の『サイコアナルシス』です。
聴くと鳥肌が立つ曲は、尾崎豊『卒業』です。
 
今日ご紹介する映画は薔薇の名前です。きまったね。
 
 
◇あらすじ
14世紀前半の中世イタリア。フランチェスコ会の修道士ウィリアム(ショーン・コネリー)と見習修道士のアドソ(クリスチャン・スレーター)は、北イタリア山中に建つベネディクト会の修道院を訪れる。到着早々、ウィリアムは修道院長から、若い修道士が不審な死を遂げたことを打ち明けられる。その後、修道院では次々と殺人事件が起こる。
 
原作は、イタリアの哲学者であり言語学者であり文献学者でもあるウンベルト・エーコの同名長編小説。エーコの肩書がすげえ。
私はこの本を持っております。昔、読んだはずなのだが、ビタイチ記憶になく、今読もうとしても・・・。
 

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うおっふぅ。勘弁してくれ。1ページ読むのに一晩かかるよ。
 

さて、劇中の中世イタリアは、教皇派と皇帝派が富と権力を巡って対立していた時代だ。小説では、複雑な時代背景の描写やカトリックにおける「異端」の考え方、「笑い」に対する教義上の見解の説明に重きが置かれ、それが何層にも関わって、荘厳な修道院で起こる連続殺人事件をミステリアスに彩っていくのだが、当然ながら映画ではこういった部分は省かれる。
 
不審死を遂げた写本絵師アデルモに続き、ギリシャ語翻訳者ヴェナンツィオが死に、連続殺人に修道院中が震撼する・・・といったミステリー主体になっております。それにしてもヴェナンツィオの死にざまときたら、豚の血を溜めたデカい壺に逆さに突っ込まれ、二本足がニョッキリ突き出ているというもので。観た瞬間、「スケキヨ!」(~『犬神家の一族』より~)と叫んだよ。正確には、あれはスケキヨじゃないわけだけど。
 
本日はめんどくさい内容の感想になりますが、16、7歳のクリスチャン・スレーターが出てるよってことだけ覚えておいてください。
 

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右ですよ。このコがヘロインやって女を殴るようになるとはねえ・・・。
 
 
◇おねえさん(私)とお勉強しましょう
小説の存在を知らずに観ても何も問題ない。とはいえ、特殊な世界の話であるので、ちょっと知識があると楽しめるだろう。大体、初めて観た人は、なんでウィリアムとアドソがこの修道院を訪れたのかすら正確には分からないんじゃない?そうじゃない?
簡単に説明すると、↓こう。
 
✔ ローマ=カトリック教会(教皇派)と神聖ローマ帝国(皇帝派)が激しい権力抗争を繰り広げている時代
✔ ウィリアムが属するフランチェスコ修道会はカトリック教会内の組織で、教義として清貧の精神を掲げており、この点で教皇派と考えを異にする
✔ そのために教皇派とフランチェスコ会は対立しており、関係改善のための話し合いの場が、ベネディクト修道会の修道院で設けられることとなった
✔ ウィリアムは両者の調整役として修道院に招かれ、両使節団の到着を待っている間に不審死の相談をされた・・・
 
といった流れだ。ほら~。こんなの絶対わからないでしょ?私は分からなかった。
さらに「異端」についてもインプットしておこう。
 
✔ 畏怖すべき存在として語られ、後半、教皇側の使節団の代表として登場する異端審問官は、カトリックの正統信仰から外れた者を糾弾することを任務とし、その権力は絶対だった
✔ ウィリアムらが出会うドルチーノ派の修道士は所謂「異端」で、この修道院に隠れ住んでいる
 
さらにさらに、小説『薔薇の名前』は、中世の普遍論争に深く関係していると、一般的に解釈されている。誰も読まないだろうから、ちっちゃく書くよ!
 
普遍論争とは、「普遍」の実在性に関する議論で、『実在論』と『唯名論』という異なる考えに分かれる。
実在論は普遍は個に先立って実在し、個は普遍のあとに成り立つとする主張。例えば、Aさん、Bさんという個人がいたとして、彼らは「人間」という普遍の概念で括られる。この「人間」という普遍が、個によりも先に実在するとする。実在論』とは逆に、人間とは名前だけの概念にすぎず、実在するのはあくまで「個」であるとするのが唯名論(ゆいめいろん)。
ローマ=カトリック教会において『実在論』が正統であるとされていたが、14世紀にウィリアム=オッカムなどによって『唯名論』が立場を強めていく。
 
薔薇の名前』のバスカヴィルのウィリアムのモデルは、『唯名論』の代表的な提唱者であるウィリアム・オッカムであろうと推測ができる。従って劇中のウィリアムは、保守的な世界において、ただ一人、真理を尊重する合理的先進的な人物なのだ。
 
それだけ。
 
どの修道士もコソコソモゾモゾしていて見るべきものから目を逸らしまくる中、きらきらと目を輝かせて真実を求めるショーン・コネリーが気持ちがいいよ、って言いたかっただけ。
 
 
◇修道士全員、顔が怖い
映画化されて良かったことは、どんよりと澱んだ土地や修道院の荘厳さ、不可侵感が表現され、「絶対わけのわからんことが起きるぞ」と説得力を以って観る者の視覚に訴えることだ。

ウィリアムとアドソを追うカメラの中に修道院の様子を見るうち、観客はここが世俗と断絶された世界であることを知る。この場所に、金や人情のもつれによる殺人など相応しくない。物語が進むにつれ、一般社会では考えられない動機が浮かびあがってくるのにワクワクする。
 
それにしても、修道士たちが外見からして不気味である。
 
修道院長アッボーネ、通称カールおじさん・・・ホモ疑惑
ホルヘ長老、通称ジジイ・・・怪しい
文書館長マラキーア、通称ワシ鼻・・・怪しい
副司書ベレンガーリオ、通称百貫デブ・・・ホモ
厨房係レミージョ、通称デブ・・・好色
レミージョの助手サルヴァトーレ、通称乱杭歯・・・怖い
施療院の薬草係セヴェリーノ、通称おしゃれ髪・・・怪しい
 
画像がないのが残念だが、とにかく映る奴映る奴、みんな気色が悪い。
全員、何か知っていながら隠している。百貫デブは度々アドソに秋波を送ってくるし、乱杭歯は突然飛び跳ねたり、人の鼻に噛みつきそうなほど間近に顔を寄せてくるのが嫌だ。不審死の件で異端審問所に目を付けられることを恐れるカールおじさんは、謎の究明をウィリアムに依頼する人物だが、ウィリアムへのキスの挨拶が妙にねっとりしていて嫌だ。ジジイは白目が気持ち悪い。
 
もちろん、犯人はこの中にいる。
 
ウィリアムを演じたショーン・コネリーは、すっとぼけて茶目っ気があるいつもションコネ。知識と経験を頼まれ招かれたものの、異端に近い先進的な考え方と度を過ぎた好奇心が、閉鎖された空間に嵐を巻き起こす。「笑い」についてジジイと議論する場面では、それを悪とするジジイに対し、アリストテレスは失われた著書の中で笑いを肯定していたという持論を展開、主張の中身と同時に空気の読まなさで、文書室内をザワつかせる。
 
怪しい修道士連の中にあって、現代的なウィリアムと美しいアドソは別世界の住人のように見えるが、この修道院が、二人の「罪」を炙り出すところがまた面白くて。
ウィリアムは異端審問官時代の苦い過去と向き合うことになる。また、彼の度し難いほどの書物に対する執着は、罪深いものとして描かれる。
無垢だったアドソは、あることをきっかけに肉欲に屈してしまう。
 
 
◇禁断の欲望の妖しさ
「笑い」に対するものにせよ「肉欲」にせよ、禁じられるがゆえに求めることの甘美さと破滅の空気が、一貫して映画の中には流れている。
 
直接的には描かれないものの、そこかしこに漂う男色の妖しさ。
また、アドソはある人物を追ううち、修道院の厨房に迷い込む。この薄汚い厨房は、一人の貧しい少女が修道士から食物の施しを受け、代償として身体を提供している場所だった。二人は偶然に出会い、清廉なアドソに魅せられた少女は彼の身体を奪う。
 
野性的で官能的なシーンだ。以前、敬愛する『シネマ一刀両断』のふかづめさんが、同じジャン=ジャック・アノー監督『愛人/ラマン』(1992)の、エロスを描きながらエロスが表現されていないことに憤っておられたが(そして、それには同意見だが)、本作のこのシーンはエロティックだ。少女主導の行為は妙に猟奇的で、アドソが未知の快楽に堕ちていく様は背徳の空気に満ちている。

さて、多くのレビューに書いてあるので今更だが、題名の『薔薇の名前』は、本作で唯一名前を持たなかった少女のことを指すと思われる。
 
特徴的であるのは、少女が、物語の最後まで言葉を発さないことだ。
ここに、(ほとんどの人が読み飛ばしただろうが)前述の普遍論争における『実在論』と『唯名論』を絡めて考えると面白いじゃないですか。
 
果たして、この少女は、普遍という概念であったのか個であったのか?
 
彼女は修道院からしてみれば村の貧民、修道士から見れば欲望を満たす道具、異端審問官からは魔女と呼ばれ、しかし、アドソにとっては生涯に唯一の恋人となった。
アドソから見たときだけ少女は「個」、つまり、師ウィリアムの『唯名論』は弟子アドソに受け継がれたのである・・・。
 
絶対そう、いや多分そう。
 
それはともかく、ラスト、アドソが遠い日の師ウィリアムに思いを馳せ、少女を薔薇に例えて懐かしむシーンが美しい。
 
気が付けば、修道士の顔が怖いって話と、私のインテリジェンスを見せつけただけで、メインである連続殺人の犯人や動機、二人の謎解きアドベンチャーにまったく触れませんでした。まあ、いいよね。犯人は、一番怪しいあいつだよ。
 
以下のサイトを参考にさせていただきました!
・作雨作晴 『薔薇の名前』と普遍論争(https://blog.goo.ne.jp/askys/e/fc23827f5a274b67bdd1fa17ae8df641
・ホンシェルジュ(https://honcierge.jp/articles/shelf_story/6631

『キングダム』

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監督:佐藤信介 キャスト:山崎賢人吉沢亮長澤まさみ/2019年
 
新作で『小さな恋のうた』『キングダム』を借りました。『小さな恋のうた』は、私には合いませんでしたが、『キングダム』は、面白かった!

※超、最低ラインで褒めてます。
 
土台、無理だわな、あんな長いドラマを二時間ちょいにまとめるのは。映画版『レディージョーカー』(2004)や『64 ロクヨン(2016)に深みが全くなかったのと一緒だな。そうなると、キャラクターとアクションとビジュアルを「楽しめるか否か」に視点が集約されてしまうのはやむを得ず、そういう意味では「楽しめました」と軽い感想を吐くしかない。
 
こんなこと書いたら、「『キングダム』面白いよ!」と言ってくれたikukoさんやコンマさんに悪いわぁ。遠慮なく書くけど。
 

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あらすじ

紀元前245年、春秋戦国時代の秦国。孤児の少年・信と漂は天下の大将軍になることを夢見て、日々剣術の鍛錬に励んでいた。その様子を目撃した秦の武将・昌文君により漂が召し上げられ、信と漂はそれぞれ別の道を歩むこととなる。だが、ある日、深手を負って王宮から逃げてきた漂は、信に志を託して息絶える。

原作、未読です。読みたいきもちはある。

主演が山崎健吉沢亮ということ以外、あまり情報なく観た。夫が後ろから「これ、大沢たかおも出てたっけ?」というのに、「出てないよ(怒)」と返しました。

私は大沢たかおが苦手なのです。
 
しかし、始まってすぐ、幼い信が憧れを抱く天下の大将軍として登場したのが・・・。
 

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筋骨隆々で、めちゃ幅利かせる感じで出てるぅ~。
 
あ~やだな~♪ドヤ顔の大沢~♪(『おじゃる丸』エンディングテーマより)
 
あくまで、この時点での私の気持ちです。後々、訂正が入ります。

結論から言うと、この映画の主役は、大沢たかおです。
 
 
監督はアイアムアヒーロー(2016)、いぬやしき(2018)、図書館戦争(2013)など、原作ありきの軽めな作品ばかり撮っている佐藤信。よく知らないが、『アイアムアヒーロー』は面白かったよ。ちなみに私は『図書館戦争』の作者の有川浩が嫌いです。
 
冒頭はあらすじの通りの展開。友であり兄弟にも等しい漂(吉沢亮)を失った信(山崎賢人)は、漂の意志に従ってある村を目指す。刺客を倒し、辿り着いた村には、漂に瓜二つの青年がいた。彼は、弟に玉座を追われた秦王贏政(えいせい)(吉沢亮)だった。信は、漂が武術の腕でなく容姿を理由に、贏政の替え玉として召し上げられたことを知る。
 
まず褒めるべきは、主演の二人だろう。吉沢亮は、冷徹冷静な王というキャラクターに恵まれたが、それにしても良かった。顔が特徴的だから、こういう派手な役が似合うんだろな。山崎賢人は暑苦しい。いや多分、原作の信も暑苦しいんだろうが、演出に問題があると思う。この手の主人公は見ていると恥ずかしくなってくるのだが、恥ずかしさが20%くらいで済んだのは、山崎賢人が振り切って信を演じてくれたおかげ、かな(それでも20%くらいは恥ずかしかったが)。
 
信に関する演出は全体的に、いただけない。漂を看取るシーンでは、お約束通りの声が枯れんばかりの悲痛な慟哭。漂が贏政の身代わりに殺されたと知ったときには、全身で怒りを爆発させる。贏政の、漂の命を軽んじたように取れる一言を聞き咎めれば、「てめェ・・・!漂はなあ、漂はなあ!」と贏政に詰め寄る。
 
・・・おねーさん(わたし)ねえ、もう、できれば愁嘆場は少なく生きていきたいん。

いや、よく考えれば十代の頃から、人の死に関する大げさな演出は、見れば見るほど醒めていくタイプだった。
なぜ絶望や悲しみを表すのが「全身全霊で泣き叫ぶ」という表現でなくてはいかんの?
 
漂の死のシーンについては100歩譲るとしても、いつまでも「俺がどんなに悲しいか」を画面いっぱいに押し出し、悲しみの大安売りをしてくるのである。非常につらい。
何度目か信が「ひょう!ひょう!」とひょうパニックを起こした際、逆に信の襟首を掴み上げる贏政が実にクールであった。曰く「漂はこの役目のリスクを分かっていた。のし上がるために賭けに出て、そして負けたのだ、それだけのことだ」。
 
イエース、イエース。このシーンのいいところは、言葉にしなくとも、贏政なりに漂に抱いていた情と彼を失った口惜しさが垣間見えるところだ。
 
立ち直りの早い信は、贏政の叱責に納得し、「別に仲間になったわけじゃないからねッ!利用するだけなんだからッ!」と玉座奪還の仲間になる。頭の悪いやつだ。しかもこいつは「ひょうパニック」だけでなく「天下の大将軍パニック」も抱えている。
 
一方、王宮では、兄から玉座を奪った弟・成蟜(せいきょう)(本郷奏多)が、器用に口をひん曲げながら側近や将軍たちに当たり散らしていた。ちなみに本郷奏多は、かなりイイです。
そこへ、贏政の右腕である昌文君(高嶋政宏)の首を手土産に、伝説の将軍、王騎(大沢たかお)が現れる。
 
でた。ホントやだ、ムキムキの大沢たかお~。
 
「何用ですかな」と尋ねる竭(けつ)(石橋蓮司)に対し、王騎が答える。
 
「何用とは、あんまりですネ♡」
 
オネエなのかよ!
 
 
ソファから落ちた。
不思議なもので、何を考えているのか分からない不気味なオネエ将軍としての大沢たかおは悪くなく。不思議なものでっていうか、あっさり「あら、王騎さん良いわね」ってなった私がアホなのか。
 
その後は、山の民を統べる楊端和(ようたんわ)(長澤まさみ)を仲間にしたり、河了貂(かりょうてん)を演じる橋本環奈のふくろうが、めっちゃかわいかったりしながら、徐々に反旗を翻す体制が整っていく。
 

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環奈ちゃんは死ぬほどかわいいが、ふくろうも可愛すぎるし困る。
 
 
突っ込みます。
前半は十分に堪能した。残念なのが、本来なら最も盛り上がるべき王宮での戦闘のくだりに、突っ込みどころが多すぎたことだ。
 
玉座奪還の準備を整えた贏政と信は、いよいよ作戦の実行に移る。
作戦はこうだ。秦と以前同盟関係にあった山の民の王・楊端和が、再度の同盟案をぶら下げて訪ねていけば王宮の門は開くだろう。中に入ったら、信率いる精鋭部隊は隠し通路を通り、本丸の成蟜を押さえる。その間、贏政、楊端和、昌文君らは、敵に応戦し時間を稼ぐ。

敵は八万の兵を擁しているが、八万の大軍が動くには時間がかかる。すぐに動ける王宮内の兵のみを相手と考えれば、信らが玉座の間に到達するまでの時間を稼ぐことは可能、という目論見だ。
 
この八万の兵は観客に対する疑似餌で、途中で一度、CGの大軍を見せられるが、実際には上述の理由で、この敵は考慮しなくてよいものとして物語の外に弾き出される(というか、そうせざるを得ない)。
 
八万、二十万という壮大な数は言葉だけで片付けられ、メインキャラのアップを中心にした立ち回りが、狭っ苦しい画面に映される。規模感としては、城を舞台にした天下一武道会や暗黒武術会と何ら変わりはなく、王が簒奪された座を取り戻す壮大さがない。
 
一番残念なのが、作戦を無意味化する、根性無敵論ね。
 
多勢に無勢の状況にあって、勝利の鍵は「信が如何に早く成蟜の身柄を押さえるか」にある。信が遅れるほど、囮の仲間たちの命は危機に晒されることになるのだが、「時間との闘い」を感じさせるヒリヒリ感は、ほとんど描写されない。
信は隠し通路の途中で待ち伏せていた怪物の撃退に時間を取られ(そもそも隠し通路に伏兵がいた時点で、この作戦は失敗だろう)、玉座の間に辿り着いてからは、ラスボス左慈坂口拓)との闘いに時間を取られる。
 
さらに萎えるのが、信と左慈が刃を交えながら、「夢」について言い争うことだ。「海賊王に、俺はなる!」・・・じゃなかった、「天下の大将軍に、俺はなる!」と言う信に、拓ちゃんは「夢?バカなことを言うな」と、やたら反応してくる。多分、過去になんかトラウマがあるんだろう、夢見て敗れたとか愛する人に裏切られたとか。
 
私は拓ちゃんのラスボスを楽しみにしていたのに、左慈ときたら、なぜか口調はチンピラ風、ガキの夢語りに同レベルで応じてくれるような親しみやすい刺客なのである。
(死に方もいつも一緒だから、別パターンを考えようぜ、拓ちゃん!)
 
一度は地に倒れた信は、「夢見て、何がワリィんだよ・・・」と再び立ち上がる。根性と気力が肉体の限界を超えてくる、いつもの少年漫画的展開。結局のところ、信にあるのは超人的な跳躍力のみ、剣や戦術に見るべき点はなく頭も悪いのだが、夢と友情で困難な状況を打開するっていうね・・・。いつものやつだよ、残念。
 
さて、ここまでで、恐らく想定の三、四倍ほどの時間を食っている。囮部隊はそろそろ全滅しているころだろう。だが実際には、贏政を中心としたメインの人物たちは消耗しながらも生き残っており、周囲には敵の兵の屍が転がっている。
 
・・・じゃあ、全員で正面から突っ込めばよかったんじゃない?という話になる。
 
また、飛ぶ(跳ぶ)=アクロバティック&ダイナミックとしたアクションのカッコ悪さ。斬り結んだ相手は敵、味方問わず、斬られることなく宙を飛ぶ(だから味方は柱にはぶつかりはするが、誰も死なない)。『SHINOBI』の感想で、下村勇二を日本を代表するアクション監督と紹介した私の気持ちをどうしてくれるんだ!
 
そんなグダグダな展開の中、またしても一番目立つ形で登場するのが、王騎こと大沢たかおだ。門閉まってただろ?どうやって入ってきた。
 
王騎は、「んっふ」「んっふ」「でっす」と言いながら、場を掌握してしまう。さらに、昌文君の領地を奪ったかに見せて実は彼の家族を保護していたこと、民が王宮の内紛に巻き込まれないよう守っていたことなどが分かり、おいしいところを全部掻っ攫っていったのである・・・。
 
一見文句ばっかり言っているように見えるでしょうが、私はこの映画をせいいっぱい褒めました。褒めてないって?言葉だけに振り回されてはいけません。今後は私のことを「『キングダム』見守り隊(たい)」と呼んでください。
 
もちろん続編が出たら観ます。でも・・・いやこれ監督が悪いよ。変えてもらえないかな!?
 

引用:(C)原泰久集英社 (C)2019映画「キングダム」製作委員会

『砂漠でサーモン・フィッシング』

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お久しぶりです。秋は何故かバタつきます。
 
昨日、同僚たちと昼ご飯を食べていたとき、一人が「流行語大賞に入ってるドラクエウォーク』ってなに?」と言い出し、全員知りませんでした。しかし、私の頭には、以前ふかづめさんが『シネ刀』の中で使っていた「ドラクエ歩き」という言葉が鮮烈に残っていた。ふかづめさんが生み出したアルマゲドン歩き」(数人で横に広がって歩くこと)と相対する言葉として使われていたのだ。
 
もう予想はついたでしょうが、私は「『ドラクエウォーク』って、広がらず縦一列に並んで歩くことだよ!」と堂々、知識を披露した。みな、「それ、流行語大賞候補になる?」と首を傾げたが、重ねて「反対語は『アルマゲドン歩き』だよ!」(ってふかぴょんが言ってた)と言うと、これが全員のツボに入り、最終的に「アルマゲドン歩きは、ローラー作戦時にもっとも効果的」というところに終着して昼が終わりました。
 
しかし席に戻って若い衆に聞いたところ、なんと『ドラクエウォーク』はポケモンGOに似たゲームの名前だというではないかっ。「ドラクエ歩き」は流行語大賞になんら関係なく、ましてや「アルマゲドン歩き」はもっと関係ないことが判明。しかし、「アルマゲドン歩き」は再びその場の全員のツボに入り、誰かがエアロ・スミスの歌まで歌った。
 
どわな くろーじゅ まあーいず〜♪
ふかぴょん、荒んだ東京砂漠に潤いをありがとう。
 
はいッ、というわけで本日は、無類の犬好きで知られるラッセ・ハルストレム監督がお撮りになった『砂漠でサーモン・フィッシング』ですネ。
 
え?犬好き違うの?
 
だってリチャード・ギアに「HACHI!」と言わせたことで有名だし、僕のワンダフル・ライフ(2017)、『僕のワンダフル・ジャーニー』(2019)で犬好きたちを号泣させた人でしょう。
 

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めっちゃカッコいいんだが、ラッセ・ハムストレス。
 
 
◆あらすじ
英国の水産学者ジョーンズ博士のもとに、イエメンの大富豪から、鮭釣りがしたいのでイエメンに鮭を泳がせてほしいという依頼がもちこまれる。不可能と一蹴したジョーンズだったが、中東との緊張緩和のため英国政府や首相まで巻き込んだ荒唐無稽な国家プロジェクトに展開してしまう。(映画.com)
 
ハルストレム監督と言えばギルバート・グレイプ(1993)ですね。あの映画はよかったよねぇ。デカプーがバスタブでガタガタ震えていたのが印象的です。監督は他にも、『やかまし村の子どもたち』(1986)、『やかまし村の春・夏・秋・冬』(1986)を撮っていて、『やかまし村』といえば、『長靴下のピッピ』『ロッタちゃん』シリーズでもお馴染みの児童文学の名手アストリッド・リンドグレーンの代表作。私の娘も大好きで、本当に素晴らしい児童文学であります。
 
ラッセ監督はあれか、動物と子供が好きなんだな。本作で加わるのは魚ときた。
 
金持ちの道楽で始まったトンデモ計画が、投資コンサルタントや水質学者、政府官僚まで巻き込んで、てんやわんやするくだりと、癖のある脇役たちが面白い。特に、政府の広報官マクスウェルを演じたクリスティン・スコット・トーマスが最高だった。
 
クリスティン登場シーンでは度々画面が複数に切り分けられ、電話で罵り気味に指示を飛ばしまくる様子、人にぶつかっても気に留めず早足で歩く様子などが同時に映され、彼女の頭が目まぐるしく回転するさま、そして傍若無人っぷりが一発で伝わる。

また、クリスティンと首相とのメールの会話がすごくコミカルで。それぞれの写真のアイコンに吹き出しが出るたび、ホワンッと間抜けな音が響く(クリスティンのアイコンの顔も好き)。
 
「首相、釣りは?」
「場合による」
「釣り人の有権者は何と200万人!」
「なら
、得意だ」
 
さらに後日。
「首相、釣れますね」
「うん」
「本当に?」
「ごめんむり」
「じゃあ外務大臣を」
 
この流れでイエメンに連れてこられた外務大臣が全く釣りできないのにも笑う。
 
クリスティンが絡めば、事態は常人が追いつけぬ速さで動き、思いも寄らない方向へと突き飛ばされる。 
こんな人、現実にいないと思いますでしょ?うちの会社にいますのよ、ええ。周囲の事情や状況、人情や気遣いは優先順位としてゲゲゲの下、「今目の前にあるタスク」を「自分の思うあるべき形」で解決すべく一点集中&中央突破してくる感じがそーっくり。映画で他人事として観ている分には楽しいが、実際に関われば地獄を見る女、それが本作のクリスティン・スコット・トーマスです。
 
テンポのいいクスッと感とユルさがこの映画の魅力。多分、私が個人的に、深刻な問題の裏側で当事者たちは割に能天気でいい加減な会話しているような、ヌケ感が好きなんだわね。

 
◆養殖鮭としてのユアン
イエメンの大富豪シャイフ・ムハマド(アムール・ワケド)による「砂漠に川を作ってシャケを泳がせたい」との荒唐無稽な計画を実現しようと奮闘するのが、彼の投資コンサルタントエミリー・ブラント。私の中では誰よりも防弾チョッキと銃が似合う女優だが、本作では知的でキュートな女性を演じている。エミリー・ブラントから相談を受けてプロジェクトに加わるジョーンズ博士がユアン・マクレガーだ。
 
ハルストレム監督が哺乳類と魚類好きなら、ユアン・マクレガーだって負けてはいない。リトル・ヴォイス(1998)では、話し相手は主に鳩の鳩寵愛青年を演じ、本作では魚を愛する中年を演じる。「トビケラの報告書が云々」などと、相変わらず内向的な男を演じさせたらピカイチだ。
 
しかし、『リトル・ヴォイス』での純な青年と比べると、本作でのユアンは、嫌いな上司の写真を職場の部屋の扉に貼り、ルアーをぶつけてストレス発散するなど、なかなかに陰湿。また仕事至上主義の妻メアリーとうまく行っておらず、言い争いになると、話の途中で庭の池へと逃げる。そして、鯉にエサをやりながらブスくれる。メンドくせェ。
 
ユアンは、家庭内でもビジネスライクなメアリーと対照的に、鮭プロジェクトに真摯に取り組むエミリー・ブラントに惹かれていく。それを知ったメアリーが「あなたは私の元へ戻って来る。それがあなたのDNAよ」と言うように、イエメンに放流される鮭には、ユアン自身が投影されている。
 
本能を殺された養殖の鮭と、つまらない日常に雁字搦めになったユアンは言わば同類。そして最終的に見事、遡上を始めた鮭と同様、ユアンも本能に従って行動する。
 
また、計画の発案者であるシャイフの真意は、一見不可能な物事に対して「信念」を貫くことが如何に大切か、身を以て示すことにあった。まるで養殖の鮭のように、本能を失ってフラフラと迷っていたユアンが、エミリーとシャイフから信念を学ぶ。これが、「鮭釣り」を通じて描かれる乙な作品となっているんだ。
 
 
◆ケチをつけます
だがしかし、いまひとつ、胸に迫ってこないのはどうしたわけか。
 
第一の問題は、国家をも巻き込む難題プロジェクトであるはずが、その苦労と苦悩があまり表現されていないことだろう。鮭を一時的にでなく生息させるためには、鮭の本能とも言える「遡上」をさせ、産卵させる必要がある。だから、流れのある川を作らなければいけない。現実的な手段としては、ダムを作って放流し人工の川を作ること。なるほどそれは大変だと思ったら、「ダムは2年前に完成している」とユアンに告げるエミリー。
 
あ、ダムは、もうできてるんだ? サンキューね。助かったわ。
 
いや、サンキューね、じゃねーよ。川作りはやらないの?そこが観たいよ。
 
まあね、「砂漠でフィッシング」がメインであって、「砂漠にダムを作ろう」ではないから、すっ飛ばすもありだろう。しかしそうなると、プロジェクトの課題は「鮭をどう手配するか」と「どのようにイエメンまで運ぶか」となり、当初想定していた難易度に照らすと、「なんとかなるんじゃね?」と。
 
シャイフの不屈の精神は立派だ。ハンパでない金持ちらしい常識に囚われない感性もステキだし、何より超イケメン。こんな人格者なら、たくさんいる妻の一人に加えて頂きたいものである。が、ダムは既に完成しており、プロジェクトの最重要課題が「シャケ、どう運ぶ?」になった今、シャイフの「困難だから諦めるのか?」と言った精神論が立派過ぎて浮いてしまっていて。
 
また、一番の問題は、ユアンとエミリーの恋の成就が、どうにも腑に落ちないことだろう。
 
ユアン夫妻の危機の原因は、昇進のためにジュネーヴに行ってしまう妻にもあるが、先にも書いた通り、やっぱり私は、ブスくれては鯉にエサをやりに行くユアンが気になる。めんどくせェ。意中の相手が出来た途端、碌に話し合いもせずにメールでメアリーとの関係を切ろうするのにもモヤモヤ。
 
またエミリー側の脚本も強引だ。彼女の恋人は軍人で、途中、極秘の軍事作戦により死亡と報告される。精神的にどん底に陥ったエミリーはユアンと過ごすうちに彼を憎からず思う。それはいい。ところが、実は恋人は生きていた。
 
余談だが、この恋人生存の事実をすぐにエミリーに教えずイエメンの地で再会させ、劇的感動の場面を中東との関係緩和に利用するマクスウェル(クリスティン)の悪辣冷酷な戦略には、うっとりするわー。
 
さてユアンが身を引くのかと思いきや、この軍人の恋人が、「シャケをイエメンで泳がせる?アホなこと言いなや」と、劇中でご法度とされてきた信念のない考えをぽろっと露呈、エミリーの顔を曇らせる。それを布石として、最後は突然「君が好きな方を選んでいいんだ」とエミリーを解放。
あまりに都合よく、いい加減じゃないかい、死地から生還した恋人の人物像がさ。
 
そして、放流されたエミリーは本能に従い、ユアンに向かって遡上する。
 
つまり、エミリーは砂漠で男を釣ったし、ユアンは女を釣った。シャイフは夢を釣った。

で?

「シャーケシャーケ(そうけそうけ)、みんなハッピーでよかったねえ」と拍手しろと?
 
いやいや、エミリーとユアンが無事くっついてめでたしのロマンスが、あまりに杜撰じゃないの。イエメンで鮭が跳ねる画を背景に、幸せそうな二人の姿を撮りたいがため、各パートナーを疎かにした監督は、劇中、強引な広報活動を行うクリスティン・スコット・トーマスと同じ。
 
なんだかエミリーは不実に見えてしまうし、ユアンは最後まで情けな&ちょっとイヤなヤツの印象のまま。私としては「シャーケシャーケ、よかったのう」と言うわけにはいかなかった。
 
そんなわけで、不満は残りますが、全体的に面白い映画なので、おススメです。
ところで、『I Don't Want To Miss A Thing』が頭から離れません。
 
どわな くろーじゅ まあーいず〜♪は1分12秒あたりから!
 

『モネ・ゲーム』

 
英語が話せないことで有名な日本人ですが、私の周囲は両極端、仕事場には英語が流暢で外国人とのコミュニケーションにも手馴れている人が多いです。
しかし、当ブログに何度か登場している友リエコなどは「そちらさんが日本語を話されたらええでっしゃろ」の姿勢を崩しません。
 
ある日、お店で食事をしていたとき。リエコが隣でビジネスランチ中の七、八人のフランス人に「ちょっといいですか」と突然話しかけ、「その料理ってなんですか?私も同じものを頼もうと思って」と完全に先方の会話をぶった切ったのには冷や汗をかきました。
 
またある日、着物で歩いていたら、外国人からパシャリと写真を撮られました。リエコはツカツカとそちらに歩み寄り、「いま何したの?写真?みせて」とデジカメを確認。そして、「コレ、写りが悪いから撮り直してくれる?」と撮り直しをさせていました。
 
なんで通じるんだろね?
 
こんな話をするのは、今日の映画と関係があるような。ないような。
 
コリン・ファースの雇い主ライオネルの商談相手として、日本人の集団が出てきます。英語は全く話せず通訳頼み(また通訳の英語がひどい)、全員揃ってドーモドーモとお辞儀する姿は、歪曲された悪しきイメージのジャパニーズ・ビジネスマン。脚本が日本に興味がないコーエンズなので(やなぎやの持論です)仕方ないと思いつつも、ここだけ観ると、あまりにも極端で悪意を感じるの。
 
実際、「人種差別だろ」なんてレビューも見かけましたが、よーしよし、どうどうどう。これ、フリなので大丈夫です。
 
ネタバレ全開でいきます。
この映画のラストを指して「どんでん返し」とするレビューの多さにびっくりしております。
 
本作のオチは、どんでん返しではなぁい。
 と思うよ!
 

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◆あらすじ
ジョエル&イーサン・コーエン兄弟が脚本を手がけた犯罪コメディ。学芸員のハリー(コリン・ファース)は、相棒の”少佐”(トム・コートネイ)と共に、印象派の巨匠モネの名画「積みわら」の贋作を制作する。協力者のPJ(キャメロン・ディアス)が絵画の所有者になりすまし、億万長者シャバンダーをカモにしようとするが、次々とトラブルに見舞われる。
 
泥棒貴族(1966)のリメイクですが、似て非なる映画となっております。
 
簡単に言うと、大手メディアグループの経営者ライオネル・シャバンダー(アラン・リックマン)の絵画蒐集癖に付け込み、彼の専属キュレーターであるコリン・ファースが、仲間の”少佐”と共に、贋作を売りつけようする話だ。ターゲットとなる絵画がクロード・モネ『積みわら』。一言に『積みわら』と言っても、同じ対象物を異なる時間や季節、天候の下で描き分けたもので、わらクズの山の絵が何十枚と存在する、素人にしてみれば、けったいな美術品だ。
 
ライオネルが執着しているのは『積みわら(夜明け)』と『積みわら(夕暮れ)』で、前者はオークションで日本人実業家に競り勝ち、現在彼の屋敷の美術室に収まっている。コリンらの計画は、贋作名人である少佐が描いた『積みわら(夕暮れ)』の絵がライオネルの目に留まるように仕向け、持ち主に仕立てたPJに1200万ポンドで交渉させるというもの。
 
 
英国紳士の印象が強いコリンだが、本作ではコミカルで間抜けな姿を見せてくれる。ライオネル・カモ作戦を現実にするため、テキサスにPJを訪ねるコリンと少佐。事はトントン拍子に進み、彼女は喜んで計画に参加、ライオネルをうまいこと騙くらかし、華麗に1200万ポンドを奪取する・・・という冒頭の一連の流れは、まさに観客がコリンに期待するスマートな展開だ。
 
しかし、これは全て妄想。劇中のコリンは人と話すのも下手なら空気も読めず、やることなすこと裏目に出てしまう間抜けな人物である。
 
コリンの妄想の中のライオネルは粗野な振舞いやファッションセンスが笑ってしまうほどひどいのだが、これはコリンの逆恨みと嫉妬から生じた歪んだ虚像で、実際のライオネルはビジネスセンスを具えた傑物だ。
 
こんな情けないコリン・ファース、イヤよねー。
この冒頭で、きちんと説明されている、コリンは「都合よく妄想してしまう人物」であることが。ここを忘れないで欲しい。
 
 
アンジャッシュ的「すれ違いコント」
たまたま私のツボにハマったのか、ハリーのSAVOYホテルのホテルマンとのやり取りや、飾られていた美術品を盗んで右往左往するくだりは爆笑もの。
 
フロントでのチェックインの場面。前のシーンで、ハリーはズボン(股間に近い部分)を氷で濡らしてしまう。濡れた箇所を拭いていた少佐のハンカチにオイルがついていて逆にシミになってしまったなどと、「ズボンのシミが取れない」描写が不自然なほど続くのだが、これはフロントマンとのコントのための前振り。
 
コリンとキャメロンは、「少佐の(ハンカチの)せいで、シミが」「少佐は百戦錬磨なんだぞ」と、仲間の”少佐”を指して話しているのだが、フロントマンの二人「少佐=コリンの下半身」であると解釈する。隠喩を用いた会話術を余儀無くされる職種だからこその、心得顔がイチイチおかしい。
 
同じ事について話しているのに、互いの解釈が異なることで生まれるズレ、要はお笑いのアンジャッシュのすれ違いコント的手法と言えば分かってもらえるかしら。
 
さらに、ハリーはバカ高いホテル代を捻出するため、廊下に飾ってあった明の壺を盗み、ホテル内を右往左往するうちにズボンを失う。

・・・あ、唐突でしたかね、スボンの失い方が。めんどくさいので、ここは観て頂戴。とにかくズボンを無くしてパンツ一丁でウロウロするうち、一人で滞在している婦人の部屋に侵入してしまう。そこに例のホテルマンがバレエのチケットの件で、婦人の部屋をノック。
 
婦人は、部屋の中のコリンに気付いていない。ホテルマンからは、下半身パンツ一丁のコリンが見える。
 
テルマン「・・・チケットは一枚でよろしいので?」
婦人「?」「ええ、もちろん」
テルマン「では、よい夜を。この部屋には誰も取り次ぐなと言っておきますので」(ドヤ顔)
婦人「?」「すぐベッドに行くわ。夫も出かけているし」
テルマ「・・・それはそれは、さぞお寂しいことでございましょう」(ウインク)
 
との会話が為され、ホテルマンは、コリンの”少佐”が相手問わずの百戦錬磨である確証を得る、と。
 
文章で書いても面白さが伝わらないので、是非観て頂きたい!
 
 
◆スマートなコリンを疑え
コリンの中では、優秀な自分と成金ライオネルだが、現実は反対である。コリンの無能さに愛想をつかしたライオネルは、代わりのキュレーターとしてドイツ人のザイデンベイバー(スタンリー・トゥッチ)にオファー。これを知ったコリンは姑息な手段で、ザイデンベイバーの方からオファーを断るよう仕向ける。
 
そんな中、ライオネルの別荘で行われたパーティでは、日本人ビジネスマンとの商談と、キャメロンが持ち込んだ『積みわら(夕暮れ)』の鑑定と価格交渉が行われようとしていた。
 
ここまで『積みわら』の存在を忘れていたでしょう!私もです。
 
ライオネルの美術室に入り込み、『積みわら(夜明け)』(ライオネルが過去に競り落とした本物)をいじくり回すコリン。その後ろを、どこからやってきたのかチョロチョロ動き回る変な種のネコ。何度目か、コリンが違和感を感じて振り返ると、そこにはネコではなく、ライオンがいた。
 
・・・ここはもう流しましょう。ライオネル曰く「特別なセキュリティ」らしいが、あまり深く考えても仕方ない。「ライオン」=ライオネルorコリンが理想とする自分自身、「ネコ」=実際のコリン、のメタファーかと思うので。
 
キャメロンがテキサスで鍛えた投げ縄によりライオンを捕獲すると(ウソや)、絵をいじくり回されたことに激怒してライオネルがやってくる。三人の目の前には、本物の『積みわら(夜明け)』と、”少佐”の描いた贋作の『積みわら(夕暮れ)』。
 
本来ならコリンが贋作を本物と鑑定する作戦だが、そもそもライオネルに全く信頼されていないので、始めから計画は破綻している。ここに突然、隣室のドアが開き、ザイデンベイバーが入って来て、おもむろに『積みわら(夕暮れ)』の鑑定を始める。
 
さあ、ピンチである。追い払ったはずのザイデンベイバーは、ドイツで実績と名のある学芸員。しかし、驚いたことに彼は贋作を「本物だ!」と断言。と思ったら、コリンが「いや、これは偽物だ」と、芸術を愛する者としてのプライドを見せるのである。消沈するライオネルを残し、堂々と別荘を後にするコリンとキャメロン。
 
ここからが「どんでん返し」だ。
 
コリンと”少佐”が空港に向かうと、例の日本人ビジネスマンの集団と、以前ライオネルと『積みわら(夜明け)』を競ったタカガワ氏が待っている。そう、コリンの狙いは始めから、ライオネルが所蔵する『積みわら(夜明け)』を贋作とすり替え、タカガワ氏に渡すこと。ジャパニーズと組んで企てた計画だったのである。
 
かくして、タカガワ氏から絵の代金を受け取ったコリンと”少佐”は、意気揚々と華麗に去っていく…。
 
 
ちょ、待てよ。(キムタク)
 
 
ういー、待った待った!なんでこれが「意外な結末!」「そういうことだったのね!」となるのか!?
 
繰り返すが、コリンは「都合のよい妄想をする」名人なのだ。ちょっと、ザイデンベイバーがいきなり入ってきたところまで戻って欲しい。
 
大体、何故、ザイデンベイバーは招待客としてではなく隣室から湧いて出たのか。タイミングも都合がよすぎる。そして、確かな鑑定眼を持つ彼が、なぜ贋作を「本物だ」と見誤るのか。なぜ、ここまでプライドの欠片もなかったコリンが、突然絵画に対する敬意を示してみせたのか。
 
もちろん、ザイデンベイバーが部屋に入ってきた時点から、コリンお得意の妄想に移行しているのである。
 
 
さらに言えば、”少佐”も虚構の人物であろう。
コリンが作り出した、都合のよい相棒だ。根拠はシンプル。少佐は二度ほど、「有能なディーン氏(コリン)にも」「いかに優秀なディーン氏と言えども」と言う。コリンが優秀であるのは妄想の中のみ、つまり少佐も妄想が作り出したキャラクター。
 
大体、「少佐」っておかしいじゃないの、皆さん違和感は持っていたでしょう。何者なのよ?二人の関係は?なんでいつも、ぴったりとコリンの横にいるの?って。
 
カッコいいことを言うと、『モネ・ゲーム』自体が、観客に仕掛けられたゲームだよということだ(やなぎやさんカッコいい!)。現実、コリンがどうなったかはどうでもいいが、まあライオンに殺されたのかもしれないね!
 
では最後は、素敵ビジネスマンだったアラン・リックマンが、キャメロンを口説く際の唸り声でお別れしましょう。
 
「まだキミにシャバンダー・ライオンを紹介していなかったかな・・・。ガルゥ」
 
がるるゥ!
 
引用:(C)2012 Gambit Pictures Limited

『セブンティーン・アゲイン』

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こんにちは。当ブログを読んで下さっている皆さまには驚かれるでしょうが、わたくしは案外と毒吐き屋なんです。驚かないんですか?どうかしてますね。
 
本題より前置きを楽しみにしてくれているどこかの新潟県人が、「給湯室でだらだら話しているようなゆるい雰囲気」をお好みのようなので、毒は抑えてます。まあ、自分でも「つまんないこと言っちゃったな」って後悔するのは嫌だしね。職場の女々しい奴のネタだけで数十本は記事を書ける気がするんだが、ソーシャルメディアポリシーだのコンプラだのうるさいし、「女々しい」って書いただけで、あーだこーだ言われる時代です。
 
そんなで毒は吐きませんが、一個だけいいかな。
 
「紳士のスポーツ」「紳士のスポーツなんやで」って言ってたラグビーサポーターが、日本対スコットランド戦のプチ乱闘を受けて、「スコットランドは紳士じゃない」ってツイートしていたのには笑ったよね。
 
あと、こぞって言うね、「ラグビーは敵味方のサポーターが混ざり合って応援し互いを讃え合うスポーツ」って。芋づる式に言う。ずるずるずるずる言う。
 
そうなんだね。対戦相手同士で罵り合ったり日韓で蹴り合ったり、ゴール裏に『F○CK』の絵文字を作ろうとして作れなかったり(永遠に語り継がれる鹿島アントラーズの愚行)、そんな相手を「やーりなおーせ」と煽ったり、「Japanese Only」って段幕掲げて協会から制裁喰らったり(永遠に語り継がれる我が浦和レッズの愚行)、南で相手サポーターと小競り合いが起こってふと自陣の北を見たらコア連中がいるはずの中心ががっぽり空席になってて「やっべ、連中、南に殴り込んだわ」って青ざめた経験なんてないわけだ。
 
そりゃあ、スコットランドは紳士じゃないわね。
となると、スコットランドが負けて、「イェェェェ、ざまぁぁぁ!」と叫んでいたイングランド人の位置づけはどうなるのだろう?
 
いや、ラグビーそのものに対して、いいとか悪いとか、犬派とか猫派とか言っていないですよ。事実と純粋な疑問を提示したまでです。当ブログのモットーは多様性でございますので・・・。
 
 
◇あらすじ
バスケットボール部のスター選手として活躍する高校生マイクは、恋人スカーレットの妊娠をきっかけにバスケの道を断念する。それから20年後、冴えない中年男になってしまった彼は、ひょんなことから17歳の姿に変身。人生をやり直そうと2度目の高校生活を送りはじめるが・・・。(映画.com)
 
アメリカのティーンズ青春映画を観るたび疑問なのだが、ボート部とかアメフト部とかバスケ部とか、脳筋連中の地位が校内で異常に高いのは何故なのだろう。頭がいい奴がトップ・オブ・スクールカーストではないのか?運動神経がいいと単純にカッコよく見えるのと、その種のスポーツができるということは家庭も裕福、かつ将来的にも有望だからということなのか。だとしても、部員が大体お揃いで着ているダッさいロゴ入りジャンパーみたいのがイヤ。青と黄色の配色のやつ。私は青と黄色の組み合わせの服装が好きだけどね。紫×黄色もよく着ます。
 
冒頭は将来有望なバスケ部の花形選手として、充実した高校生活を送るマイクの姿に始まる。マイクは、高校のスポーツ選手と聞いてイメージする脳筋ではなく、努力家であるし、大学のスカウトが見ている大事な試合の前にチアのダンスに飛び入り参加してしまうようなお調子者、無邪気で憎めない奴といった感じ。とてもかわいい彼女がいる。その彼女スカーレットに妊娠していることを告げられる。
 
あろうことか、スカーレットが事実を打ち明けたのは、大一番の試合直前のコート横。
直前やで。スカーレットも動揺していたのだろうが、もう少し考えてから話せば良かった。「この試合でマイクがスカウトされれば将来は約束されたも同然。籍は入れさせた上でマイクを大学に行かせ、私は実家の世話になりながらマイクの出世を待つ。将来設計バッチリやでぇぇ。だから絶対にこの話は今言ったらあかん。スカウトさせるのが先や」と冷静に頭を働かせるべきだった(関西方面の方にはお詫びします)。
 
17歳ですなあ。私の心は腐った大人です。
 
しかし、その後、試合をおっぽり出してスカーレットを追いかけていき、「一番大事なのは君だ」と告げて逃げなかったマイクに私も胸キュン。何歳になっても、乙女心は捨てきれないのです。
 
だが、世間知らずのガキの幻想など、簡単に挫くのが世間というもの。バスケの道を諦めて凡庸な大人となったマイクは、どうやら無邪気な性格そのままに、「あのときのことがなければ、庭を整えるのに人くらい雇えたのに」などに代表される無神経発言を繰り返し、スカーレット(レスリー・マン)の心を少しずつ削っていったようだ。
そんなわけで現在の二人は離婚直前。マイクは職を失い子供たちにも軽んじられ、高校時代からの親友、オタクのネッド(トーマス・レノン)の家に居候している。反対にスカーレットは、得意の造園の技術を活かして自立しようとしていた(個人的にはスカーレットに庭造りのセンスがあるとは思えないが)。そんなとき、不思議な老人により、マイクは17歳へと戻されてしまう。
 

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面白いのが、これがタイムスリップではなく、マイクだけが高校生の身体に戻ってしまったこと。だから「離婚調停の日なのにどこにいるの!?」とスカーレットから電話がかかって来るし、ネッドが偽造した書類で入学した高校には、自分の子供であるマーガレットとアレックスがいる。そのため、「違う将来のためにやり直す」はずだった当初のマイクの目的は、如何に子供たちの道を正し、より良い環境を作ってやるかへとシフトしていくことになる。
 
17歳のマイクを演じたのがザック・エフロン。言うまでもなくハイスクール・ミュージカル(06)で一躍有名になったアイドル系俳優だ。そこからアホな役ばかりやっているイメージだけど、いい作品も多い。以前、当ブログで取り上げたグレイテスト・ショーマンでは、作品にもザックにもいいところが感じられなかったが、『セブンティーン・アゲイン』の後に観た主演『WE ARE YOUR FRIENDS ウィー・アー・ユア・フレンズ』(15)はとても良かった。
 
 
監督のバー・スティアーズの他作品は、同じくザックとタッグを組んだ『きみがくれた未来』(10)が割と面白く、脚本を勤めた10日間で男を上手にフル方法(03)ではベタなラブコメをきちんとベタなラブコメにしていたのが印象によい。
 
 
◇母娘で観よう
ザック・エフロンのイケメンぶりに、同世代の女子たちがキャアキャアなったのは間違いないが、別の年齢層のハートも鷲づかみにしたことを忘れてはいけない。言わずもがな、スカーレット世代のお母さんたちだ。スカーレットを愛しそうに見つめたりハグするのは、ザックにとっては実に自然な行為なのだが、こちら側(アラフォー&育児と生活に疲れた誰かの妻または誰かの母親)から見れば、自分たちがピチピチなイケメンヤングに迫られているようなもの。
 
スカーレットがザックに言う「あなたたち世代って、母親くらいの女と寝てみたいんでしょ」の台詞に「マジで!?」と目ン玉が飛び出そうになり、スタイルのいいザックにリードされダンスを踊るシーンには、ときめくはず。つまり、高校生の夫と現在のままの自分という設定が憎いわけ。
 
ちなみにうちでは、後ろからチラチラ観ていた夫が、ザックがスカーレットを抱き上げるところで「イヤァァ!本人って言ったって、こんなのもう別人じゃないのよ!若い方がいいの!?」とおネエ言葉で騒いでいたが、うるさい、若い方がいいに決まっとろうがボケェ。
 
というわけで、17歳のザックに、それぞれ心を乱されるスカーレット&マーガレットは、そのまま画面のこちら側の観客層と合致する。母娘で鑑賞すれば、最高に盛り上がる映画なのではないでしょうか。
 
 
◇選択は同じ
女子二世代のハートをかき乱しながらも、この映画があくまで嫌味なく爽やかであるのは、ザックの行動が常に父親目線であるからだ。
 
ザックに迫ってくる尻軽な3人のギャルに「君たち、座りなさい」と説教するシーンが好き。「自分を大事にしないと軽く見られるだろ」というザックに、「軽く見て・・・」「わたし軽いの」と聞く耳持たずのギャルズ。挙句「名前も覚えてくれなくていいから」というギャルに他の二人が、「ワオ、それってすっごく軽い!」と、なぜか誰が一番軽いかの競い合いに発展。ザックお父さんもお手上げである。
 
ビッチ気味な娘は、とんでもなくアホそうな男(バスケ部)と所構わずチュッチュッしているし、息子はバスケ部員たちにいじめられている。流行りのファッションと髪型で外見を整えて、いざ再びの青春を謳歌するのかと思いきや、父親として子供たちの世話を焼いてしまうザックの焦り気味の行動がおかしい。性教育のクラスで、「婚前交渉はすべきじゃない」とイケイケの外見とは大きく矛盾する演説を打ったり、諭し方がいちいちおじさんくさかったり、これこそギャップ萌えというやつ。
 
そうかあれか、父、母、娘で観て楽しむ映画なのかっ!
 
と思いきや、離婚を進める裁判で、スカーレットへの手紙を読むあたりから、じんわりさせられるので油断がならない。個人的にああいう、咄嗟のアドリブ展開が好きなのだ。書かれていたはずのことが書かれてないとか、あるはずのものがないとか、ないと思ったらあったとか。分かるでしょうか。
 
さらに、20年前の状況が再現されるラストシーン。スカウトの前で行われる大切な試合で、ザックの行動に動揺したスカーレットは、あの日と同じように会場から出て行く。追うか否かの選択を迫られるザック。そして、結局のところ、「何度、過去をやり直しても自分の選択は同じ」であること、あのとき自分は人生最高の選択をしたはずなのにそれを忘れていたことを思い知る。
 
20年の時を経て、二人が「君は重くなったな」「あなたこそダイエットしないとね」と交わす会話が素敵である。17歳は輝いていた。37歳、綺麗な腹筋は消えて考え方も古くさくなったけれど、代わりに重ねたものがある。ここからまた20年後を、二人は違う形で迎えるはず。ほっこりしつつも身につまされる映画でした。
 
※疲れた主婦がイケメンヤングにときめく云々は一般論であり想像であります。また、やなぎや個人の趣味とは関係ありません。17歳とか、ザック・エフロンにときめくかボケェ。
 
引用:(C)2008 NEW LINE PRODUCTIONS

子供の「ごっこ遊び」がフツーじゃない

金曜日ですね。
 
昨夜一時過ぎに寝たもので、「今日の午後は死亡だな。」と思っていたのですが、他部署のカワイイ女のコから「やなぎやさん」と、きらきらした目で話しかけられ、「十二国記がお好きと聞きました!わたしもです!」と手を握られたので、一気に目が覚めました。
 
十二国記』シリーズ
小野不由美著、異世界十二国」を舞台に繰り広げられるファンタジー小説。一作目『月の影 影の海』(1992年)を皮切りに、六作品八冊を刊行(講談社文庫版/短編集除く)、2001年の『黄昏の岸 曉の天』を最後にストップしていたが、このほど十八年ぶりに新作が発表されることになり、その発売日が関東台風直撃が危ぶまれる明日10月12日なのです!びちょびちょになっても買いにいくよ。大塚の24時間営業の本屋では、今夜0時から発売だって。マジか。誰か~。チラッ(→ダンナ)。
 
話題は変わりまして。ジブリアニメの中で、多くのキッズが好きなセリフとして、
 
・「すり抜けながらかっさらえ!」「40秒で支度しな」「見ろ、人がゴミのようだ」「目が、目がぁー!」(天空の城ラピュタ
・「お前んち、おっばけやーしきー」(となりのトトロ
・「飛ばねぇ豚は、ただの豚だ」(紅の豚
 
などが挙げられると思いますが、息子(5歳)のお気に入りの台詞は風の谷のナウシカから、「セラミック刀が欠けちゃった。うふふ、アハハ」です。
 
さて、うちの子供たちは、あまりおもちゃを持っていません。娘の保育園時代、服も物もふんだんに与えられている女の子がいて、その子の家に遊びに行った際、ドレスやらキッズ用のメイクセットやら人形やら、リカちゃんハウス、おままごとセットなど品揃えにビックリしたものです。思わず、「あわわ」と、娘の様子を横目で伺いました。別に、「たくは○○式育児を取り入れてますの」「物でなく人と関わることこそ情操教育上、重要であって」などの主義はないです。おもちゃって、何買っていいかまったくわからなかったのです・・・。
 
その結果、姉弟は二人で、私の父が若いころ登山に使っていたザイルだのカラビナだのランプだの、ダンボールだのを使って(空きダンボールが出ると奪い取りに来る)、「ごっご遊び」を毎日延々やっております。「じゃあこれがお屋敷ってことね」「僕は飼い猫で、泥棒が襲ってきたってことね」。脅威の想像力を駆使して、おもちゃ不在を補っている。なんと不憫な。ううう・・・。しかし隙あらば「お母さんは●●ってことね」と引っ張り込まれるので、ごっこ遊びが始まると、私は出来る限り存在を消すようにしています。
 
先日夕飯の前、二人はまた何やらのごっこ遊びに興じていました。ごはんだよーと呼んで食卓についたら息子の様子がヘン。片肘をつき、拳にムニと片頰を乗せ、ニヒルにこちらを見ている。「肘つかないよ」と言ったら、低いニヒルな作り声で、こう言ってきた。
 
 
「くだらねぇ世の中だな」。
(~エレファントカシマシ『ガストロンジャー』より~)
 
 
一旦無視することにし、「暑くない?窓開けない?」というと、「バカだな。雨が降るかもしれないだろ?」と言う。「降ったら閉めればいいじゃない」「それもそうだな、ふっ」。その後はスプーンで食事しながら「うまいな。」と低い声で呟くので、耐えきれず娘に「あの人だれ?」と訊くと娘は澄まして、「あ、あの人はロッシガードさんです」。怖くて、なにごっこなのかが訊けませんでした。
 
また別の日は、階段にロープを張り巡らし、宇宙飛行士ごっこをしていました。宇宙飛行士の何たるかも知らないので、「わあ、海だ」「あ、あれってニモじゃん!?よーし、すいせんかん(※潜水艦)に変身だー」とかやってて、そんな軽い宇宙飛行士に最先端の技術使ってミッションを与えたくないなと思った。そこからお風呂に入るときには、二人でお尻をぷりぷりさせながら、「あのブラックホールをどうにかしないとねー」と話していたので、まあ、ちょっとは宇宙のこと知っているのね。
 
特にゴッコが加速したのは、今年の夏、祭りで娘はウサ耳、息子は音が超うるさい光る剣を手に入れた直後でした。私は、本当に、この遊びに巻き込まれるのがイヤで身を潜めているのですが、そのときは捕まってしまった。「僕がベルトっていう戦士で、お姉ちゃんがラビットちゃんていう相棒、お母さんは博士ね」(←なぜか私はいつも博士)。
 
ちなみに息子の戦士ベルトは、『幽☆遊☆白書』のアニメの飛影がモデル。ご存知の方は、あの憎ったらしい声で再生して下さい。
 
ベルト「さっき悪者から『今日の11時にベルトの剣を盗む』と予告状が来たぜ」
はかせ「うわー大変、隠さなきゃ!」(棒読み)
ラビットちゃん「じゃあ、気がついたら盗まれてたってことね」(隠した意味なし)
 
ラビットちゃん「大変、剣が盗まれてる!」
ベルト「しかし、まだ夜の11時じゃないぞ?」
ラビットちゃん「11時って、昼の11時だったのよ。。。」
 
これは、『名探偵コナン』の見過ぎ。
 
ベルト「実は俺はロボットなんだ。・・・やめろ、服をまくるな、中身だけロボットってこと!」
はかせ「じゃあ、塩をかけたらサビちゃうの?」
ベルト「ああ。だから悪者は世界中の塩を持っていて、俺がロボットかどうか確かめるために塩をかけてくる。まいるぜ
 
 
世界中の塩。
 
 
ラビットちゃん「ベルトは一度、塩をかけられて死んじゃったのよね」
ベルト「ああ。それで宇宙救急車で運ばれた」
 
 
宇宙霊柩車じゃない?
 
 
はかせ「でも、生きてるよね?」
ベルト「ラビットが生き返らせたんだ。・・・あ、、バタ」(ベルト倒れる)
ラビットちゃん「大変、電池が切れたんだわ!」
 
 
ベルト、とんだ旧式ロボット。
 
 
ラビットちゃん「待って、今電池を入れ替えるわ。きゅいーん、ベルト大丈夫!?」
ベルト「ところで、俺たちは普段、城に住んでいる」
 
生き返ったそばから、話題転換がすごい。
 
ラビットちゃん「でも、お城が広いから、ベルトは時々迷子になるの」
ベルト「ンふ、まあな」(←足を組みながら)
 
最終的には、「○○(息子の名前)、アホすぎ!」「アホっていうな!」と小競り合いが勃発して終わります。
 
どうでしょうか。楽しそうですか?それは他人事だからです。私は、この「ごっこ遊び」に二時間付き合ったことがあります。地獄です。
 
それでは皆さん、良い週末を!

『殺人者の記憶法』『殺人者の記憶法 新しい記憶』

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監督:ウォン・シニョン キャスト:ソル・ギョング、キム・ナムギル/2017年
 
こんにちは。うちの家の近所は、とにかく老人が多いんです。
 
そうそう、今朝、職場(赤坂)の駅のエレベーターにコンビニで買ったコーヒーを持って乗っていたら、小さい爺さんが「そのコーヒーは、ちゃんと暖かいのですか?」と上品に話しかけてきました。「持ってみますか?」とカップを渡したら、「ほっほ、結構熱いのですね」と微笑まれまして、降りるときは「レディ・ファーストですから」とエレベーターのドアを開けてくれました。
 
そんな爺さんならいいんですよ。しかし、うちの近所のジジイどもは、そうではなぁい。真後ろの家のジジイと左側の路地奥のジジイについては、新居を建てている最中、音がうるさいだのお宅の住宅メーカーの営業の態度が悪いだの文句言われたことを、私は根深く恨んでいるのです。
 
引っ越し当初、「やるならやったるでー」と腕まくりしていたのですが、夫が「あんな分かりやすい人たちを転がせないでどうすんのよ」と、どらやきを持って出掛けていき手懐けてきました。ちっ。
 
住んでみれば、やはり例のジジイ二人が突出して横柄。また暇なもんで、朝早くからふらふらと近所をパトロールしているのですが、あちらから挨拶をしない。私は毎日会うたびに、「今日こそお前から挨拶せェや。なんで毎回毎回私から挨拶せなあかんのじゃ」とジトーッと見るのですが、してこない。仕方なく「おはようございます」というと「はい、おはよう」。なんだよ、はいおはようって、うちの社長かよ。
 
と夫に話したら、夫が笑って「俺には、普通にあっちから挨拶するよ」。
きー。ジジイども、人見て使い分けてやがる。
 
なお、私が将来目指す老人像は動物のお医者さんのハムテルのおばあさんです。
 
というわけで・・・というわけでって、全然繋がってないよもー。本日は、老いた殺人鬼VSルーキー殺人鬼の戦いを描いた映画をご紹介、これが同じ話を2つのパターンで別の映画にした変わり種です。あなたは殺人者の記憶法派?それとも、殺人者の記憶法 新しい記憶』派!?ネタバレはしませんが、予想できてしまうかもしれないので、よろしくネ。
 
 
◇あらすじ
かつて連続殺人犯であったビョンスソル・ギョングは、アルツハイマー病に侵され、記憶の喪失に度々悩まされつつも、娘のウンヒ(キム・ソリョン)と静かな日々を送っていた。ある日、道路で接触事故を起こした相手の男ミン・テジュ(キム・ナムギル)が、自分と同じ殺人鬼ではないかとの疑いを持つ。
 
ったくねー。面白い映画を作りやがるよねー、韓国は。こんな不穏ながら哀愁に満ちたサイコスリラーを、今の日本に作れるかしら。きー、悔しいわあ。
 
観る順としては『殺人者の記憶法』が先なのだろうが、私は何も考えずに『殺人者の記憶法 新しい記憶』から観てしまった。特に問題はないが、片方を観たら、もう片方が気になるのは間違いない。
 
内容は、古参の殺人鬼と新参の殺人鬼が偶然に出会い、互いに相手を消し去ろうとするもの。家族を虐待する父親を殺したことをきっかけに、制裁を受けるべき人間への私刑を繰り返してきたビョンス。彼は、十七年前の事故が原因でアルツハイマーを患っている。ある日、霧の濃い道で接触事故を起こしてしまい、ぶつかった車のトランクから血が流れていることに気づく。そして、事故の相手ミン・テジュが自分と同じ殺人者であること、最近付近で起こっている女性の連続殺人が彼の仕業であると確信を抱く。
 
「同類」の匂いを感じ取る霧のシーンから二人の戦いは始まる。「殺人鬼」という一風変わった設定ではあるものの、要はベテランVSルーキーの意地のぶつかりあい。新旧世代交代が為されるのか、経験値の高い方に軍配が上がるのか?緊迫感のあるストーリーとなっております。
 
 
ソル・ギョングが素敵。
ビョンスを演じたソル・ギョングの出演作はシルミド』(2003)力道山』(2005)が有名だと思うが、イ・チャンドン監督の『ペパーミント・キャンディ』(1999)『オアシス』(2002)がとても良い。韓国とNHKの合作である『ペパーミント・キャンディ』は、ソル・ギョング演じる一人の男が、同窓生がピクニックを楽しむ河原にふらりと現れて鉄道で自殺を図る場面から始まり、そこに至るまでの20年間を過去に遡りつつ、七つのパートに分けて描いた映画だ。
 
疑り深く汚い人間である男の辿ってきた人生を追い、20年前は写真家を夢見る心優しい青年であったことを知る頃には、なんとも言えない感動に包まれる。「次に何が起こるのか」がよく読めないまま少しずつ過去に戻り、戻る度に、初恋の女と添い遂げられなかったこと、その理由などが明らかになる。嫌な男が、映画が進むに連れ、少しずつ嫌な男ではなくなっていく、これが不可思議な感覚を生む。
 
過去への遡るたび、電車の逆回しのショットが挿入されるが、印象深いのは、三つに分かれた分岐のうち一つの線路から電車が逆走していく画だ。過去から未来に進むのであれば、男には様々な選択肢があるはず。違う分岐を選べば、もしかしたら警察官にならず暴力を振るわずに済む未来があったかもしれない。あるいは、初恋の女に正直な思いを告げられていれば。愛のない結婚をしていなければ。だが、電車が戻る先の線路は一本で、もはや変えられない過去を示している。床に散らばる、二人の純愛の象徴であるキャンディの白さも切ない。
 
すっかり『ペパーミント・キャンディ』に脱線してしまいました。いい映画なのでお勧めです。
 
さて、本作では体重を落とし、老いた殺人者を演じたソル・ギョング。言われなければ『ペパーミント・キャンディ』の主人公と同一人物とは気づかないほど念の入った役作りだ。『力道山』では体重を増やしていたしね。
 
ビョンスに記憶の消失が起こるときの合図が顔左側の痙攣なのだが、この恐ろしい反応を境にした、殺人者の顔から好々爺への変貌ぶりは見ものである。ただ、役作りよりも何よりも、本作で楽しいのはソル・ギョングの一人芝居。悶々したり鬱々したり頭を掻きむしったり、とにかく一人芝居が多い。緊迫した雰囲気と矛盾して、ちょっと微笑ましく思えるほどだ。
 
特にね、ミン・テジュを疑っているときに「町内に殺人犯が二人。」と独りごちるのが好き。「町内に」って。「ご町内に芸能人が二人も」とかじゃないんだからさ。「この街に」とかで良くない?いや、翻訳の問題なんだけど。
 

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ご町内に殺人鬼は一人でいいのだ」と怒るビョンスさん。
 
また、キム・ナムギルの、ピチピチでフレッシュなサイコパスぶりもよい。ナムギル演じる新参の殺人鬼ミン・テジュは表の顔は警察官。犯罪者を追っている最中、ガタイのいい相手に捕まり首を締め上げられる。その状態のまま無表情に腰のベルトを外し、壁を使って逆に相手の首を絞めるシーンが恐ろしい。この数分で、彼が修羅場をくぐってきた人物であることと、冷徹な人格がビシッと印象付けられる。
 
・・・ビョンスだのギョングだの、ナムギルだのテジュだの分かりにくいでしょうが、一応、劇中の話をするときは役名で、俳優の話をしたいときは俳優の名前で書いてます、だから頑張って。
 
 
アルツハイマーの使い方
面白いのが、アルツハイマーによる記憶の消失が、ビョンスの思考を邪魔するノイズ・障害となる一方で、彼の別の顔、煩わしい記憶や不安や柵から自由になった素の部分を引き出し、ユーモラスに見せる装置となっている点だ。
 
ノイズは「あいつが連続殺人犯だ」「あいつは娘を狙っている」と頭に刻み付けたはずの警告を、全て反故にしてしまう。だが、痙攣を起こした後ですっかり記憶を失ったビョンスが、「以前お会いしましたっけ」「娘をよろしくお願いします」など邪気ない目でテジュを見つめるそのギャップが面白い。観客は基本、ビョンスの裏の顔を見ており、彼が殺人鬼の仮面を取った後の「表の顔」はどのようなものなのだろうという純粋な好奇心を満たしてくれるわけである。
 
例えば、ビョンスが映画館で娘ウンヒを探すシーン。テジュはビョンスへの威嚇のためにウンヒに近づき、ウンヒは魅力的なテジュに惹かれている。ビョンスは彼女を連れ戻そうと、映画館に駆けつけるが、途端に例の痙攣が起こってしまい、次のショットでは座席に座り、他人のポップコーンをばくばく食べつつ映画を楽しんでいる。人より反応のタイミングが遅れると序盤に説明される通り、他の観客が大笑いしているときは真顔、周囲が真剣な表情で画面に見入るときに大笑いをするズレが、なんともおかしい。
 
まさかこの映画を観て、「アルツハイマーの描き方が医学的に正しくない」「病人を笑うなんて不謹慎だ」などと言う人がいないことを祈ります・・・。
 
残念なのは、レコーダーがうまく活かされなかった点。
ビョンスは、度々欠落する記憶を補うため、日々の出来事をレコーダーに録音している。当然こちらとしては、終盤、このレコーダーがカギとなり、例えばメメント(2000)のように、これまでの認識や記憶がひっくり返されることを期待する。
 
しかし、ビョンスが録音を聞いて知るのは、あくまで「過去に起こった事」であるので、彼にとって初耳でも、観客にしてみれば既成の事実の繰り返し(少なくとも『殺人者の記憶法』では)。また、知らぬうちにウンヒがレコーダーに吹き込んでいた内容を聞いて娘の危機を知るなど、あくまで事実を一歩遅れて認識するに過ぎない(ストーリー上いくつかの引っかけはあるが、これにレコーダーは何ら関係してない)。
 
 
◇二作品の違い
殺人者の記憶法』『殺人の記憶法 新しい記憶』との違いだが、構成や編集が若干異なるのと、いくつかのシーンが追加・削除されている。

殺人者の記憶法』の方のみにある、ウンヒがビョンスの髪を切るシーンは、父と娘の暖かな繋がりを感じさせる。また、テジュとの対決に備えて突然筋力トレーニングを始めたビョンスが「十七年のハンデは大きい」と床に倒れ込むところや、「昔は簡単に握り潰せた」はずのリンゴを潰そうとウンウン格闘し、最後は勢いで齧りつくなど(これも全部一人芝居ね)、生身の人間くささを微笑ましく感じる場面も多い。
 
これらが『新しい記憶』から削除された理由は明白で、それこそが二作の一番の相違点に関係している。『新しい記憶』のラストでは、これまで描かれてきたことと真逆の事実が観客に示される。軽くネタバレになるが、両作品のパッケージがある意味思いっきり違いを示唆しているので、勘のいい人なら途中で十分、予測可能だろう。
 
さて、二つの作品、どちらの方がいいかと言えば、私としては別にどちらでもいい。
『新しい記憶』を作りたかった気持ちはよく分かるし、仮にこちらの結末が気に入らなかったとしても、『殺人者の記憶法』が台無しになるわけではない。
 
ベテランとルーキーが生死をかけてぶつかり合う姿と、ソル・ギョングの一人芝居が見どころとなっていて、どの部分がビョンスの妄想であったのか、現実であったのかは些細なことだと思う。
 

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誰よりも爪楊枝の似合う男、オ・ダルスも出ているよ。
 
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