Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『犯罪「幸運」』

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監督:ドリス・ドゥリー キャスト:アルバ・ロルバケル、ビンツェンツ・キーファー/2012年
 
皆様、掃除はこれからですか。
最近、面白いことが二つありました。
 
娘は、NHKの『にほんごであそぼ』がお気に入りで、「汚れっちまった悲しみに・・・」などと口ずさんでいるので、「すごいねえ」と言いました。すると、姉が褒められれば同等の扱いを受けずには気が済まない弟が(逆もまた然りだが)、割り込んできて足を組み、私を見ながら気取った様子で歌い始めました。
 
コガネムシは~、金持ちだ~♪
金蔵建~てた蔵建てた~♪
 
うん・・・。なんだろね、キミって面白いよ。
 
その後、これをバカにした姉との間で戦争が勃発。息子の膝が娘の唇にクリーンヒットして流血事件に発展しました。息子に比べれば遥かに信頼のおける強く優しい系女子な娘ですが、これも結構な調子乗りで、ふざけすぎて乳歯のころ前歯を折ったことがあります。
 
もう一つは、リエコとLINEをしていたときのこと。彼女が「今日ラザニアを作ったよ〜」と言ってきたので、へえレシピ教えてと言ったら、秒で青の洞窟のリンクと「健康と信頼の日清」というコメントが送られてきました。専業主婦なのに手抜きを怠らず、独身時代の貯金で10万円の靴を買うリエコを私は愛しています。
 
さて、年内最後の更新です。
私も忙しいんです。掃除、洗濯、掃除、正月用にそれらしい料理の制作、また掃除。その合間に子供をシバき、上司のケツも蹴り上げなければなりません。
 
本日紹介する映画に、「2019年やなぎやアワード大賞」を差し上げます。
そんな賞があったんだぜ。 
 

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◇あらすじ
祖国の内戦で幸福な日々を奪われたイリーナ(アルバ・ロルバケル)は、ベルリンに流れ着き、「ナターシャ」という名の娼婦となっていた。彼女はある日、黒い犬を連れたホームレスの青年カッレ(ビンツェンツ・キーファー)と出会う。
 
2012年製作のドイツ映画。この二人の幸福を全力で祈らずにはいられない。
幸福とはなにか、愛とはなにか。うんざりするほど繰り返され、だが人が逃れられないテーマを、身を寄せ合って生きようとする男女を通して映した大変いい映画です。示唆に富んだ作品だと思うが、気取った感じや小難しさはない。

鑑賞時には、うっすいパンとハチミツを用意して臨むことをお勧めする。パンにハチミツで好きな相手の名前を書くと、なお良し。
 
何はともあれ、邦題やパッケージを見て避けないで欲しい(このパッケージはマシなの探してきたが、Amazonのはぎょっとする)。
原題は「Glück」(グリュック)、ドイツ語で「幸福」という意味だ。何がどうなって、『犯罪「幸運」』という題名になったのか、そしてあのようなグログロしいパッケージになったのかが皆目わからん。確かに一か所、目を逸らしたくなるシーンはある。だが、そこまで観続けた人間なら、その行為にむしろ嘆息せずにはいられないはずだ。
 
冒頭、イリーナの両親との幸福な日々、そして家族を襲った残酷な出来事が一切の台詞なくスローモーションで映される。故郷の赤い花畑と、ベルリンで生活するようになった彼女の銀髪の白々しさとの対比が印象的だ。
 
身を落としながらも踏み留まるイリーナの誠実さは、規則正しい生活の描写で伝えられる。仕事を終えて安ホテルに帰り、素顔になり、一枚のパンにハチミツを塗って窓際で食べる。食事の時はテーブルにクロスをかけ、きちんと皿を置く。監督の、人間が人間らしくある所以は生活にあるとする考えが見えるかのようだ。
 
強制送還の恐怖に怯えながら吐き気のするような相手に身体を売り、その日その日をどうにか食いつなぐ、そんな中でなぜ見知らぬ青年にブランケットなどを買い与えてやれるのか?どのような悪環境でも、イリーナの生来の優しさは損なわれないことが静かに伝えられる。ブランケットが、彼女の幸福の象徴である真っ赤な色であるのがまた切ない。
 
赤の色とともに、幸福な時代を思い起こさせるのは、ハチミツの黄金色。一人で食べていたパンは、やがて丁寧に半分に分けられようになり、またある日、食卓が三人になったときは、「これはステーキよ」とフォークとナイフで小さく切り分けられる。パンは、イリーナに人との繋がりができたことの幸福の象徴となる。
また、故郷から持ってきた羊と花の刺繍がされた白い布は、恐ろしい世界と自分を遮断するときに使われる。
 

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「カッレ」と書いているよ。
 
 
カッレくん
詳しい背景は語られないが、劣悪な家庭環境から路上で生活するようになったらしいカッレくんは、イリーナにブランケットをもらった後、彼女の後をくっついて回るようになる。やがて二人は、イリーナが自宅兼仕事場として借りた小さなアパートに一緒に住むように。イリーナは、彼に生活のために働くよう勧めるが、カッレくんは通行人に小銭を無心する以外の、生計の立て方を知らない。
 
そこで得たのは、新聞配達の仕事。これがなかなか厄介な作業だ。詳しく説明すると、自転車に新聞の束を積んで移動し、人々のポストに新聞を入れる。だが、ポストの口は非常に狭い。瞬時に適切な大きさを見極めて新聞を綺麗に折り畳み、スムーズに入り口に差し込まなければならない。つまり、この仕事は時間勝負だし、熟練の技術が必要なのだ・・・。
 
 
って、そんなわけあるか!
 
カッレは、新聞を折る気もなくズボッ!と無理くりポストの口に突っ込もうとするので、そりゃうまく入らないし、時には落ちる。それにイライラし、ついに新聞の束を投げ捨てて、花壇から盗んだ花を手土産にスキップしながらイリーナの家に戻るカッレ。すがすがしいほどダメな野郎だな!顔はめっちゃカワイイけど!
 
主にイリーナの方が彼に与える描写が続く。最初は赤いブランケット。シャワーと食べ物、住む家、愛情と忍耐。カッレが盗んできた花を、窓から投げ捨てることで、「私は貴方を見捨てない」ことを示す。また、これは終盤への布石ともなるのだが、徹底したベジタリアンであるカッレのために、手をかけて用意していた鶏肉をやはり同じ窓から投げ捨てる。繰り返される「捨てる」行為は本作の中で重要な意味を持っていて、イリーナがカッレに示す愛情、これを物理的に見せるのが、窓から捨てるという行為だ。

一方カッレも、耳や唇につけていたピアスを外し、長い髪を切り、自分のこだわりを捨てることでイリーナの愛情に応える。
 
 
捨てる=与える
穏やかな日々が過ごしていた矢先、「ナターシャ」の常連客の男が、彼女の部屋で心臓発作を起こして死んでしまう。人の死にショックを受けると同時に、警察と関わることができない事情を抱えるイリーナは動揺し、部屋を飛び出す。入れ違いに部屋に戻ってきたカッレは、彼女が客を殺したと勘違いをしてしまう。カッレはついにベジタリアンであることまでを捨て、イリーナに対する愛を示す。
 
・・・こう書くと、カッレがデブの客を食べたみたいなんだけど、比喩表現です。カッレは見るだけで嫌悪感を覚えるほど肉の生生しさと血が苦手。先に書いた通り、イリーナは彼のために、鶏肉を投げ捨てた。彼女に報いるため、カッレは巨大な肉塊を「調理」する(現にここで使用するのは調理用カッター)。
 
繰り返されてきた、「捨てることで与える」行為の集大成だ。カッレが最後の砦を崩してまで、イリーナに与えてもらったものを返すことが暗喩されている。私はここでカッレと一緒に泣いた。
 
案の定、どこかのレビューで、「死んだ人を切り刻むなんて不謹慎。それが愛だなんてただの美化だ」というコメントを見たけれどオーケー、学級委員長、道徳的に不謹慎であろうとなかろうと、デブの客はここでは「肉塊」なんだよ。
 
だからデブなの。ガリガリの客だったら、ベジタリアンのカッレが挑む肉としてふさわしくないだろ?
 
主に二人の世界だけを映す本作には、唯一、第三者がいる。死体損壊の罪で逮捕されたイリーナとカッレを担当することになる弁護士だ。生真面目で人の良い弁護士は、二人の事情を知るうち、「自分は愛のために罪を犯したことがない」ことに劣等感を感じる。そして彼は、事件の解決後、赤い花を花壇から盗んで愛する妻に贈るのである。
 
真面目な男が自身の正義を裏切り、自分にしか分かり得ない形で、これもまた愛のためにささやかな犠牲を払う。フフンフン、と頷きたくなるような小洒落た脚本ではないか。
やはりどこかのレビューで、「最後に弁護士が花を盗むのはちがうとおもいます」というコメントを見たが、オーケー、ちょっとおねえさんと温泉にでも浸かろう、委員長。
 
本作の登場人物は全員が誠実でピュア、表面だけなぞれば綺麗事に見えるかもしれないが、イリーナの優しさが絵空事を超えて、どうかこの二人を放っておいてやってくれ、という気持ちにさせられるんだなあ。
 
また、全編通して、音楽が良い。ラストの曲は、切なく痛々しい物語から一転、観た人をハッピーな気持ちにしてくれるだろう。
そんなわけで、私はこの映画に心を奪われました。是非、年末年始のお休みにどうぞ。ハチミツとパンを忘れないでください。
 
って、これ前にイクコさんがミーハーdeCINEMA』で賞賛してた映画じゃないの!
やられたわあ、流石イクコさんだわあ。イラストが美麗!!
 
さて皆様、今年も個性溢れる楽しい記事をありがとうございました。
 
イクコさんはもう持ち上げたからっと、5児の父の人、孤高の天才、北海道の素敵主婦、出張来ても連絡くれない南国の人、大体服着てない新潟県人、車とリンゴとコーヒーの人、内容で★の数を変えてくれる音楽を愛する会社員の人、ザッカリー狂の漫画家、旅好きカップル、お菓子のあい間に映画とサザンな人、神奈川在住二児のパパ、SF好きのコーイチさん。
 
今後もまた楽しませて下さい。あまり交流できず上に挙げることができなかった方、いつも★をありがとうございます。来年はよろしくお願いします。
 
う~ん、誰か忘れてるような気がするのよね・・・?
確か、Gがついたような?

『2019年に観た映画ベスト10』

皆さん、こんにゃちは。
 
表題の通りです。お友達のブロガーが、こぞってテンテン言い始めたので、私もやりたい。ただ、沢山の中から限られた件数を選ぶのが苦手です。そこで、製作や公開年に関わらず今年観た映画のベストを考えてみました。
 
ちなみに、友人のS氏が毎年、頼んでもないのに「オレのベスト10」を送ってくるので、「今年は?」と訊いたら、「今年のベストの発表は31日に決まってるだろ」と言われました。まあ、そうね、暫定ね。
 
本日はリトル・ヤナギヤと共に、ゆるっとお送りします。長いです。
 
 
◇10位から1位
 
第10位 『アナと雪の女王2』(2019)
2019年製作/103分/アメリ
監督:クリス・バック ジェニファー・リー

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リトル・ヤナギヤ「この映画、子供たちと観に行ってたわね。席についた途端、子供じゃなくてあなたがポップコーンをぶちまけたのよね」
やなぎや「まあ、そうです。」
リトル・ヤナギヤ「アナと雪の女王(2013)は好きなの?」
やなぎや「普通かなあ。圧倒的に2がよかった。エルサが自分の出生の謎に食らいつくように迫るときのスピード感が素晴らしかった。アアーアアー♪のメロディも忘れられない」
リトル・ヤナギヤ「そういえば最近、あなたの息子が鼻ほじってパクッて口にしたの見て仰天したんだけど。前作でクリストフが言ってたわね、『男はみんなやる』って」
やなぎや「シー、うちの息子の恥を晒すな!・・・びっくりして怒ったんだけど、ホントに男は皆やるのかな?」
リトル・ヤナギヤ「天下のディズニーが言ってんだから間違いないでしょ」
 
 
 
第9位 『ONCE ダブリンの街角で
2006年製作/87分/アイルランド
監督:ジョン・カーニー

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リトル・ヤナギヤ「『はじまりのうた』(2013)でお馴染みのジョン・カーニーがその前に撮った作品ね」
やなぎや「全体的に暗いしハンディカム(多分)の映像は見にくいし、お世辞にも綺麗とは言えないんだけど、歌がいい!楽器店で二人が歌を合わせるところと、ヒロインが夜道を歩きながら歌うシーンが好き」
リトル・ヤナギヤ「歌がいい、しか言えないからレビューを書かなかったのね」
やなぎや「まあ、そうです。主人公
二人には、それぞれ引きずっている相手がいる。でも惹かれ合っていて、互いを支える様子が音楽を通じて静かに描かれていくんだよ」
リトル・ヤナギヤ「惹かれ合ってもすぐに寝ないところが、アメリカ映画と違って慎ましいわよね」
 
 
 
第8位 『勝手にふるえてろ
2017年製作/117分/日本
監督:大九明子

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やなぎや「これは良かった」
リトル・ヤナギヤ「『これは良かった』しか言えないからブログに書かなかったのね」
やなぎや「まあ、そうだよ。松岡茉優が素晴らしかったし、ぞっとするくらいリアルだった」
リトル・ヤナギヤ「好きだった人に覚えてもらってないとか、そもそもホントにその人のことが好きだったのかも実は分かってないとか」
やなぎや「そうそう。本人は善意のつもりの友達のお節介が許せなかったり」
リトル・ヤナギヤ「でも、人と関わらずに閉じこもっては生きていけないもんね」
やなぎや「渡辺大知も良かった。最後にドアに足を突っ込んで、松岡が守っていた聖域にずいずい入って来るとこが好きね」
リトル・ヤナギヤ「松岡に自己紹介するときの『俺のこと知ってくれてます?』がキモかったじゃない」
やなぎや「確かに気持ち悪かった~、『知ってます?』でいいじゃない。でも、それも妙にリアルだった」
 
 
 
第7位 『レスラー』
2008年製作/109分/アメリカ・フランス合作
監督:ダーレン・アロノフスキー
 
 
リトル・ヤナギヤ「レビュー上げたあとに『娘がかわいそうすぎる』って人も結構いたわねえ」
やなぎや「言われて私も『ありゃ、ないよな』って思った。けど、ラムの無骨さがいとおしくて」
リトル・ヤナギヤ「やっぱりベストはあのシーンよね」
やなぎや「ラストで跳ぶところ!」
リトル・ヤナギヤ「ちっげーよ、惣菜売り場を、めっちゃ回すとこだよ!」
やなぎや「・・・いきなり怒らないで」
リトル・ヤナギヤラム・ジャムラム・ジャム!(`□´) 」
 
 
 
第6位 『駅馬車
1939年製作/99分/アメリ
監督:ジョン・フォード

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リトル・ヤナギヤ「今更!?」
やなぎや「今更ながら荒野の決闘(1946)と続けて観ました。良かった」
リトル・ヤナギヤ「どちらも、馬車と馬の爆走シーンがド迫力だわよね」
やなぎや「そうそう・・・。ところで、2019年中にはっきりさせておきたいことがあるんだけど」
リトル・ヤナギヤ「なに?ダンナから回収できてない雑費の額?」
やなぎや「『シーン』と『シーケンス』が未だによく分からんと。例えば、上で『シーン』と言った馬車と馬の場面は『シーケンス』が正しいのかな」
リトル・ヤナギヤ「そんなの私が知るわけないじゃん。適した人を呼びましょうよ。
ちょっと、ふかづめさん、ふかづめさん(ドンドンドン!!)。シーンなのシーケンスなの!?とっとと答えるんだよォォ
やなぎや「ちょ、やめて!前にふかづめさんちドンドン事件で怒られたんだから!」
 
リトル・ヤナギヤ「で、『駅馬車』のどこが良かったの?」
やなぎや「乗合馬車が町から町へ人を運ぶわけだけど、その中の人間模様が良かった」
リトル・ヤナギヤ「『荒野の決闘』も同じよね。弟殺しと牛泥棒を追っていたはずなのに、保安官になって街に居ついちゃって、一目惚れしてダンスまでしてるぞオイ」
やなぎや「ジョン・ウェインの、演技してんだかしてないんだか分からない演技が魅力的だった。ブラっと来てブラっと帰る、みたいな
リトル・ヤナギヤ「日本映画で言うと、三船敏郎っぽいわね」
 
 
 
第4位 『駆込み女と駆出し男
2015年製作/143分/日本
監督:原田眞人
 
 

リトル・ヤナギヤ「・・・?5位がトンだわよ」
やなぎや「第5位はギレルモ・デル・トロパシフィック・リム(2013)です。ぱちぱちぱち」
リトル・ヤナギヤ「なんで書かないの」
やなぎや「綺麗と熱いと面白かった、しか言えないから。こういうの、感想書けないやつなんだよ~。とにかく5位は『パシフィック・リム』です!」

リトル・ヤナギヤ「まあいいや。で、4位これね~」
やなぎや「言葉もなにもかも情報量が多いから苦手な人もいると思うけど、美しくてパワーがある作品だった。あとやっぱり時代劇が好きね」
リトル・ヤナギヤ「あの場面で、全部持っていかれるわ」
 
ヤ&や「べったべった、だんだん!」
 
リトル・ヤナギヤ「原田眞人監督は好き?」
やなぎや「全部観ているわけじゃないけど、面白い試みをする監督だと思っていてチェックはしてる。来年5月、山田裕貴主演の『燃えよ剣が楽しみ!」
リトル・ヤナギヤ「主演、違うわよ」
やなぎや「え!?・・・山田くんは徳川慶喜役!?主演は岡田准一??土方には年齢行き過ぎでしょ。山田くんでいいよ、きっとうまくやるよ?」
リトル・ヤナギヤ「だからって、いきなりあのレベルの主役はないわよ」
やなぎや「それより今、もえよけんって打ったら『萌えよ健』って出てきたんだけどww健だれww草生える」
リトル・ヤナギヤ「今年一番どうでもいいわ」
 
 
 
特別賞
リトル・ヤナギヤ「ここで特別賞の発表でーす」
やなぎや「はい、これでーす」
 

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『ハウス・ジャック・ビルト』(2018)
2018年製作/152分/デンマーク・フランス・ドイツ・スウェーデン合作
監督:ラース・フォン・トリアー
 
リトル・ヤナギヤ「製作に関わった国多すぎじゃない?この国全部、ド変態ってことでいいわよね
やなぎや「頭がおかしいのはトリアーでしょ。個人的には『ヘレディタリー』(2018)で経験したのと同じ種類の笑いが、そこここでこみ上げたね」
リトル・ヤナギヤ「わたしはアレ、未亡人を殺した後、強迫性の潔癖症のせいで何度も何度も家の中に戻るやつ」
やなぎや「あれは笑った・・・」
リトル・ヤナギヤ「その後、死体引きずってくとこも」
やなぎや「お前は警官を、死体てんこもりの隠れ家に案内する気か、と」
リトル・ヤナギヤ「で、最強はあれよね。『にっこりぼうや』
やなぎや「死ぬかと思った・・・。家で観てよかった。映画館で観てたら笑い過ぎて不謹慎の罪で学級委員長に追い出されてる
リトル・ヤナギヤ「本作を今年ベストに挙げたinoチャンのブログを改めて読んだんだけど、ツボるわツボるわ。『未亡人すりおろし』『団子5兄弟』魔改造』!
やなぎや「inoち、『しかもトリアー、魔改造した子供をいたく気に入ったのか、その後も隙あらば画面にINさせやがる!』って」
リトル・ヤナギヤ「・・・みぞおちに入った・・・」
やなぎや「・・・私も笑い過ぎて動けない・・・」
リトル・ヤナギヤ「思ったもん。『なんでちょいちょい画面に映りこませるの!?気に入りすぎでしょ!』って」
やなぎや「いやもう、穴に落ちた後とか、ホントなにやってんの??で」
リトル・ヤナギヤ「けど、妙~に忘れられないのよね、あの感じ。くせになるわあ」
 
 
 
第3位 『オーバー・フェンス』
2016年製作/112分/日本
監督:山下敦弘

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リトル・ヤナギヤ「これ良かったわね~」
やなぎや「これ良かった~」
リトル・ヤナギヤ「職業訓練所のメンバーにそれぞれクセあって」
やなぎや「勝間田さんが最高だった。ソフトボールのメンバーに選ばれたときの『ええ~!』。わたし、あの『ええ~!』をマスターしたい」
リトル・ヤナギヤ「頑張れば。オダジョーが毎日弁当とビール二本買って部屋で食べるのは『孤独』だったのかしら?」
やなぎや「『孤独』とは感じなかったなあ。
決まった生活をすることで『俺は普通だ』って言い聞かせているようだった、人を壊す人間なんかじゃない、と。ぶっ壊れた女とぶっ壊す男が惹かれ合っては反発し合うのにヒリヒリした」
リトル・ヤナギヤ「改めて蒼井優の恐ろしさに唸ったわ。『こんな女むり』って男性目線のレビューを割と見かけたけど、そもそもアンタの人生圏内にいない女だしアンタの価値観関係ないって思う」
やなぎや「思った、思った」
リトル・ヤナギヤ「人の痛みも分からない自己評価だけは東京タワーな野郎が生意気に女選べる立場だと思ってんのかァ?お前みたいな奴が大概飲み会で女子がサラダ取り分けるの待ってたりクリプレに手編みのマフラー貰って『重い』とかぬかすんだよなこの豚野郎がって思ったわよね」
やなぎや「いや、思ってません。」
リトル・ヤナギヤ「オダジョーは、こういうのよね」
やなぎや「うん、オダジョーはこういうの!」
 
 
 
第2位 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
2019年製作/161分/アメリ
監督:クエンティン・タランティーノ

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リトル・ヤナギヤ「あ、二位なんだ?観たあと、えっらい興奮してたけど」
やなぎや「Blu-ray出たら買うかも」
リトル・ヤナギヤ「ブログには書かなかったのね?」
やなぎや「すごい濃いレビューがあちこちで上がってたからねぇ。私これは結構、ブラピとデカプの関係性とか絡みが良かったに尽きるのよね。あと、マーゴット・ロビーが映画館にいく場面が好きで」
リトル・ヤナギヤ「好きな音楽流したり、タラちゃんが好きなハリウッドの夕暮れの街をブラつかせたり、ゆるっとした流れから、事件当日に向かって締まっていく感じはすごかったわ」
やなぎや「職場の、あまり映画を観ない友達が観に行くっていうから、シャロン・テート事件を知ってるか訊いたら、やっぱり知らないんだよね。観た後、『すっごく面白かった、シャロン・テート事件聞いといてよかった』って喜んでた」
リトル・ヤナギヤ「まあ、知らなくても、カルトのヒッピーがラリったブラピにボコボコにされて、デカプの火炎放射器ここに繋がる!?ってので十分面白いんじゃない」
やなぎや「いやあ、あの火炎放射器のとこは、あ、リエコと観に行ったんだけど互いに手を握って身を捩るほど爆笑したよ」
リトル・ヤナギヤ「いい年して」
やなぎや「年は関係ないじゃん」
 
 
 
第1位 ???
リトル・ヤナギヤ「??? 一位はなんなの?」
やなぎや「来週、今年最後の更新として、レビューを書きます」
リトル・ヤナギヤ「はあ?なんのためにそんな勿体ぶるわけ?」
やなぎや「勿体ぶっているわけじゃないし。最後に一本書きたいだけだもん」
リトル・ヤナギヤ「誰も気にしている人なんかいないわよ。更新した日で100、その他の日は30くらいのPVのくせに」
やなぎや「100もあれば立派でしょうが!大体、PVとかどうでもいいんだよ。マジ興味なくて草生えるw」
リトル・ヤナギヤ「覚えたての草生えるを使いまくるのやめて」
やなぎや「じゃあもう帰って。よいお年を!」
 
 
◇それ以外
順位はつけられなかったものの、印象的だった作品は以下の通りです。
 
・青春でしょう:ワンダー 君は太陽(2017) 
監督:スティーブン・チョボウスキー
お姉ちゃんとその友達のエピソードが良かったね!けれど私としては、同監督『ウォールフラワー』(2012)が、2018年に観た映画のベスト5に入るくらいのお気に入りなので、つい比べてしまいました。
 
・思いのほか面白かったでしょう:『ロスト・バケーション』(2016)
監督:ジャウム・コレット=セラ
ブレイク・ライヴリーランボー並みのサバイバル力にうっとりする。『シンプル・フェイバー』(2018)ではめちゃめちゃカッコよかったし、ブレイク・ライヴリー大好き。
 
・最強ババアでしょう:『あなたの旅立ち綴ります』(2016)
監督:マーク・ペリントン
憎ったらしいシャーリー・マクレーンが最高だった。
 
・ジャンクーでしょう:『罪の手ざわり』(2013)
監督:ジャ・ジャンクー
S氏に教えてもらった監督。良いです。来年は、ジャ・ジャンクーを掘ります!
 
 
<オマケ>
映画じゃなくてドラマなんですけどね。今年は特に、衝撃的なのが二つありました。
 
『全裸監督』
「お待たせしました。お待たせしすぎたかもしれません」がしばらく耳から消えない。
森田望智の体当たりぶりと、それを受け止める山田孝之に観入る。森田望智は蒼井優に憧れているそうで「天才」と言っていたけど、この人も天才肌だよなあ。あと、『オーバー・フェンス』でも思ったけど、満島真之介はいい俳優だよね。
 
チェルノブイリ
これは凄まじく面白かった。最終話はあまりの圧迫感と辛さで涙が出そうになった。
HBOのドラマは素晴らしい。
 
来年は、もっと一杯映画を観たい。
本日は以上です。チャオ。

『ボーダーライン』

 
みなさん、こニャニャちは。
 
前回の薔薇の名前では、映画の話が全然できませんでした。いや、普段から映画の話なんかできていないのですが、これまで少なくとも「コレ観てみたい」という声はもらっていたのね、友人知人から。
しかし前回に関しては、正直者が多い私の友達の中でもドストレートのドSで知られるつっちーが「守りに入ってない? 攻めてるのは『おねえさん』てキーワードだけじゃねえか」みたいなこと言ってきて。
 
うるせェな、書きたいこと書いたんだよ、このドSが!
 
ところで、このブログの存在は、職場ではブログタイトルを考えてくれたN氏だけ知っているのですが、N氏が自分の営業先で「同僚の映画ブログのネーミングしたんすよ」とネタにしていて、同席していたチャラ男の営業がそれ聞いていて、「ぎーやなパイセン(←私)、アレすか、やっぱブログに『●●(←部長)消えろ。ハチミツでも舐めてろ(←プーさんに似てるから)』とか書き殴ってるワケすか」と言われて地獄です。
 
やっぱり、職場にはバレたくないよね。そこは、ボーダーライン引きたいよね・・・。
というわけで、本日の映画は『ボーダーライン』です。ワーオ。
 
 
◇あらすじ
巨大化するメキシコの麻薬カルテルを殲滅するため、米国防総省の特別部隊にリクルートされたエリートFBI捜査官ケイトは、謎のコロンビア人とともにアメリカとメキシコの国境付近を拠点とする麻薬組織撲滅の極秘作戦に参加する。しかし、仲間の動きさえも把握できない常軌を逸した作戦内容や、人の命が簡単に失われていく現場に直面し、ケイトの中で善と悪の境界が揺らいでいく。(映画.com)
 
原題の『Sicario』に対し、邦題は『ボーダーライン』。あらすじでも当たり前のように「善と悪の境界線」と書かれているが、日本のドラマとか映画ってホント善と悪に境界線引くのが好きだよねえ。

大まかに説明しますと、本作は、正義を為そうとするエミリー・ブラントが全く力及ばぬ世界があることを思い知り、無力感と口惜しさに苛まれたまま終わるブラント迫害映画となっております。あ、ネタバレだよ!
 
ヴィルヌーヴ監督は大好きな監督で、作品は恐らく全て観ていると思う。なんといっても、全世界の婦女子を卒倒させたロキ刑事(ジェイク・ギレンホール)の壁ドンが見られる『プリズナーズ』、こちらは過去に当ブログでも取り上げております。卒倒壁ドンについて、異論は許さない。
 
不穏な空気を描かせたらピカイチな監督だが、中でも冒頭、カルテル所有の家屋で大量の死体が発見されるシーンはキング・オブ・不穏。個人的に、壁の中に何かあるとかが本当に嫌なのよ。
 
凄惨な現場を経験したエミリーは、カルテル撲滅の特殊作戦にアサインされて静かに情熱を燃やす。だが、彼女の意気込みを挫くように、作戦の責任者ジョシュ・ブローリンと謎の男ベニチオ・デル・トロは作戦の内容や目的を一切明かさない。エミリー受難の日々が始まる。
 
 
◇心臓バクバク国境シーン
碌に説明を受けぬまま、ある重要人物をメキシコの裁判所からアメリカ国内に移送する作戦に加わるエミリー。危険な地に赴くというのに、エミリーにインプットされた情報は、「帰りの国境地帯がもっとも危険」ということのみだ。行き先がメキシコということも、その場で知らされた。
 

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「ウェルカム トゥ フアレス」じゃねーよ。メキシコ行くなら先に言っとけ。

あ、エミリーは誘拐事件のスペシャリストであり、麻薬関係は専門外なのです。
 
ジョシュ・ブローリンの乗る車、デル・トロとエミリーが乗る護送車が連なってフアレスの街を抜け、重要人物をピックアップするまでの緊迫のシーケンス、そして国境地点でのシーンが本作一番の見どころだ。
エミリーと観客は、状況が把握できない点において同じ立場におり、帰りの国境が危険ということだけ頭にこびりついている。そして一行は、まさにその危険な場所で、渋滞する車の列に巻き込まれ停車を余儀無くされる。前後左右、どこからカルテルに送り込まれた殺し屋が襲ってくるか分からない。停まった車の中で、エミリーと観客の緊張はピークを迎える。
 
ここの緊迫感は、ヴィルヌーヴ監督の名を世に知らしめた『灼熱の魂』(2010)のバス襲撃シーケンスに通じるものを感じる。あれはすごかった。ヴィルヌーヴ監督作品の中でお気に入りの場面を挙げろと言われたら、間違いなくアレだ。
ジェイクの壁ドン?ソレはアレだ。
 
主人公はある少女の命を救うために咄嗟の芝居をし、努力むなしく少女は射殺されてしまうのだが、そこでカメラが映すのは主人公の無の表情で、その背後でバスが燃え上がる画が非常にクール。本作でも終盤、デル・トロがカルテルの幹部アラルコンの子供二人を射殺するが、これも直接には観客の目に触れない。対象物を映さずに事の非情さを伝えるのも、監督の得意技だと思う。
 
 
◇エミリー受難の日々
有無を言わさずフアレスに連れて行かれ、銃撃戦に巻き込まれてクタクタで戻ってきたエミリーは、その段階になってもまだ自分の役割が分からない。当然、彼女と立ち場を同じくするこちらの消化不良感もすごい。ガムをくちゃくちゃするジョシュ・ブローリンにイライラするわあ。
 
凡庸な作品ならば、エミリーがここで味わった悔しさをバネに本来以上の力を発揮し、ジョシュ・ブローリンやデル・トロに一目置かれる存在になっていく・・・という展開になるのだろう。だが、世の期待にヴィルヌー監督は応えない。全容を知るのはキーマンの二人のみ、その後も主人公の蚊帳の外状態は続く。
 
エミリーと観客の抱く感情が、映像に反映されているのが面白い。
メキシコの広大な土地を映した俯瞰の画に感じるのは、荒野に一人立っているような心細さと恐怖。件の国境シーンで渋滞した車が縦に長く並ぶ画は、のちの特殊作戦の際、侵入経路となる米国-メキシコ間のトンネルの映像とリンクする。どちらにも、物理的にも心理的にも先行きが見えない不安や焦燥感を煽る効果がある。
 
トンネルからメキシコに抜けたのちは、カメラの被写体はエミリーからデル・トロへと移る。ゴールの見えない縦の構図が印象的な彼女のパートとは正反対に、デル・トロの目標物は常に彼の目前、手の内にある。アラルコンとの対峙シーンで真横の構図が取られるのも、状況はデル・トロのコントロール下にあることを示す。

最後まで自分の立ち位置がつかめず、理解と力の及ばぬ世界で戸惑うエミリーと、そちら側の世界で生きるデル・トロ。境界線があるとすれば、その間ではないだろうか。
 

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この息苦しさ。
 
 
◇恋愛要素も・・・あったよね?
ストレスマックスなエミリーは、憂さを晴らすために飲みに行った先で警官をお持ち帰りする。だが、そいつはカルテルの手先で、危ういところをデル・トロに救われることとなる。彼女は、カルテルに買収された警官を炙り出すためのカモにされたのだった。状況を逆手に取ったジョシュ・ブローリン&デル・トロの老獪さばかりが際立ち、反対に、エミリーの身の置きどころのなさと言ったらない。気の毒すぎるよ、もうー。
 
だが、ここまで必要最低限のことしか喋らなかったデル・トロが、「大丈夫か」と無愛想ながら彼女を気遣う。「殺し屋と寝ようとしたなんて」、自嘲するエミリーを無骨に慰めるデル・トロ。そして言う。
 
「君は、俺の大切な人に似ている」。
 
 
え・・・? なんで、そんなこと?
 
 
ここまで、得体が知れない上にイヤな事しか言わないデル・トロを、ブラピの出来損ないめと思ってきたが、そんなことをポツリ言われたら、がらりと印象が変わってしまう。しょぼくれ顔の皺は大木に刻まれた年輪のごとく頼もしく、辛気臭い表情は、壮絶な人生を送ってきたがゆえの渋みに思えてきてしまって・・・。
 
エミリーも、初めて人間らしい表情を見せたデル・トロに戸惑う。もしかしたら、ちょっとドキッとしたかもしれまない。
だが、オーマイガー、何と言うことだろう、これもラストで肩透かしを食らうこととなる。
 
「大切な人」って、そっちかよ。誤解しただろうが、このしょぼくれたブラピがァ。
 
やること為すこと裏目に出て、コケにされ続けるエミリーが気の毒である・・・。だが、デル・トロの言う通り、全編、怯えた少女のようなエミリーが美しい。
 
 
◇『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ
続編のボーダーライン:ソルジャーズ・デイ(2018)にも軽く触れておこう。この扱いを見れば分かる通り、『ボーダーライン』と比較すれば、取り立てて語るべきところのない凡作だ。
 
カルテルが扱う商品を、麻薬から不法入国者へと切り替えたものの、途中から不法入国問題はどこへやら。「俺は荒っぽいぜ」と宣言したジョシュ・ブローリンが言葉以上にムチャをやりよったせいでアメリカ政府がビビり、事態収束の代償としてデル・トロとカルテルのボスの娘の抹殺を要求、二人の逃亡劇になってしまう。
 
前作で「君は俺の娘に似ている」と言ってエミリー・ブラントをがっかりさせたデル・トロは、今度は攫った敵の娘に亡き娘の面影を重ね、「人質を始末しろ」というジョシュの指示に逆らうのである。ことさらにデル・トロの過去に触れ、前作では無機質であった彼の人間性が炙り出されていく。まあ、それを評価する人もいるんだろうけど、この男は前作で顔色も変えずに子供を殺した「シカリオ」なのよ?今度は敵の子供を守らせて、何がしたいん。
 
ジョシュ・ブローリンのキャラクター造形もひどい。

『ボーダーライン』では、登場時のビーサンに象徴される通り、ドンパチは部下に、拷問はデル・トロに任せてニヤついているワケのわからないおっさんというキャラが秀逸だった。指揮官は手を下さず判断するのみ、実はこういう奴が一番ワルくて怖いという見本のような人物だったのだ。が、続編では完全に実働部隊の一員になっている上、基本政府の言いなりで、ぐっとハクが落ちる(人質の娘を殺せという命令に逆らって、ちょぴっとの反骨精神を見せるあたりもショボい)。

要は、「得体の知れなさ」が「あちら側の世界」の不気味さを体現していた二人に、正体を与えてしまったのが逆効果だった。メインのストーリーもぼやけ気味だったしね。
 
というわけで、結論、「ドゥニ・ヴィルヌーヴはよい」ということになりましょうか。
今日はこの辺でお別れです。チャオ。
 
引用:(C)2015 Lions Gate Entertainment Inc. All Rights Reserved.

『薔薇の名前』

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みなさん、こにゃにゃちは。
 
小学二年生の娘の担任(社会人一年目/ジャニーズ系/おっとり系)が、ダンス好き&音楽好きで、毎週音楽の時間に自分のお勧めの曲を生徒たちに紹介してくれます。子供たちはこれをとても楽しみにしていて、親にも評判がよいです。うちの娘などは、私達両親も音楽好きなので、一所懸命、歌詞を覚えて歌っています。先日の個人面談の際に先生にそう伝えました。照れて喜んでました。
 
最初の曲は、GReeeeN『キセキ』とベタでしたが、その後は、スピッツ空も飛べるはずいきものがかり茜色の約束など、無難でありながらいい曲を選んでくれていると思います。だって、ヒルクライムとかだと困るでしょ。
 
私が今、聴きたい曲は、曽我部恵一BAND『チワワちゃん』とEGO-WRAPPIN'の『サイコアナルシス』です。
聴くと鳥肌が立つ曲は、尾崎豊『卒業』です。
 
今日ご紹介する映画は薔薇の名前です。きまったね。
 
 
◇あらすじ
14世紀前半の中世イタリア。フランチェスコ会の修道士ウィリアム(ショーン・コネリー)と見習修道士のアドソ(クリスチャン・スレーター)は、北イタリア山中に建つベネディクト会の修道院を訪れる。到着早々、ウィリアムは修道院長から、若い修道士が不審な死を遂げたことを打ち明けられる。その後、修道院では次々と殺人事件が起こる。
 
原作は、イタリアの哲学者であり言語学者であり文献学者でもあるウンベルト・エーコの同名長編小説。エーコの肩書がすげえ。
私はこの本を持っております。昔、読んだはずなのだが、ビタイチ記憶になく、今読もうとしても・・・。
 

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うおっふぅ。勘弁してくれ。1ページ読むのに一晩かかるよ。
 

さて、劇中の中世イタリアは、教皇派と皇帝派が富と権力を巡って対立していた時代だ。小説では、複雑な時代背景の描写やカトリックにおける「異端」の考え方、「笑い」に対する教義上の見解の説明に重きが置かれ、それが何層にも関わって、荘厳な修道院で起こる連続殺人事件をミステリアスに彩っていくのだが、当然ながら映画ではこういった部分は省かれる。
 
不審死を遂げた写本絵師アデルモに続き、ギリシャ語翻訳者ヴェナンツィオが死に、連続殺人に修道院中が震撼する・・・といったミステリー主体になっております。それにしてもヴェナンツィオの死にざまときたら、豚の血を溜めたデカい壺に逆さに突っ込まれ、二本足がニョッキリ突き出ているというもので。観た瞬間、「スケキヨ!」(~『犬神家の一族』より~)と叫んだよ。正確には、あれはスケキヨじゃないわけだけど。
 
本日はめんどくさい内容の感想になりますが、16、7歳のクリスチャン・スレーターが出てるよってことだけ覚えておいてください。
 

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右ですよ。このコがヘロインやって女を殴るようになるとはねえ・・・。
 
 
◇おねえさん(私)とお勉強しましょう
小説の存在を知らずに観ても何も問題ない。とはいえ、特殊な世界の話であるので、ちょっと知識があると楽しめるだろう。大体、初めて観た人は、なんでウィリアムとアドソがこの修道院を訪れたのかすら正確には分からないんじゃない?そうじゃない?
簡単に説明すると、↓こう。
 
✔ ローマ=カトリック教会(教皇派)と神聖ローマ帝国(皇帝派)が激しい権力抗争を繰り広げている時代
✔ ウィリアムが属するフランチェスコ修道会はカトリック教会内の組織で、教義として清貧の精神を掲げており、この点で教皇派と考えを異にする
✔ そのために教皇派とフランチェスコ会は対立しており、関係改善のための話し合いの場が、ベネディクト修道会の修道院で設けられることとなった
✔ ウィリアムは両者の調整役として修道院に招かれ、両使節団の到着を待っている間に不審死の相談をされた・・・
 
といった流れだ。ほら~。こんなの絶対わからないでしょ?私は分からなかった。
さらに「異端」についてもインプットしておこう。
 
✔ 畏怖すべき存在として語られ、後半、教皇側の使節団の代表として登場する異端審問官は、カトリックの正統信仰から外れた者を糾弾することを任務とし、その権力は絶対だった
✔ ウィリアムらが出会うドルチーノ派の修道士は所謂「異端」で、この修道院に隠れ住んでいる
 
さらにさらに、小説『薔薇の名前』は、中世の普遍論争に深く関係していると、一般的に解釈されている。誰も読まないだろうから、ちっちゃく書くよ!
 
普遍論争とは、「普遍」の実在性に関する議論で、『実在論』と『唯名論』という異なる考えに分かれる。
実在論は普遍は個に先立って実在し、個は普遍のあとに成り立つとする主張。例えば、Aさん、Bさんという個人がいたとして、彼らは「人間」という普遍の概念で括られる。この「人間」という普遍が、個によりも先に実在するとする。実在論』とは逆に、人間とは名前だけの概念にすぎず、実在するのはあくまで「個」であるとするのが唯名論(ゆいめいろん)。
ローマ=カトリック教会において『実在論』が正統であるとされていたが、14世紀にウィリアム=オッカムなどによって『唯名論』が立場を強めていく。
 
薔薇の名前』のバスカヴィルのウィリアムのモデルは、『唯名論』の代表的な提唱者であるウィリアム・オッカムであろうと推測ができる。従って劇中のウィリアムは、保守的な世界において、ただ一人、真理を尊重する合理的先進的な人物なのだ。
 
それだけ。
 
どの修道士もコソコソモゾモゾしていて見るべきものから目を逸らしまくる中、きらきらと目を輝かせて真実を求めるショーン・コネリーが気持ちがいいよ、って言いたかっただけ。
 
 
◇修道士全員、顔が怖い
映画化されて良かったことは、どんよりと澱んだ土地や修道院の荘厳さ、不可侵感が表現され、「絶対わけのわからんことが起きるぞ」と説得力を以って観る者の視覚に訴えることだ。

ウィリアムとアドソを追うカメラの中に修道院の様子を見るうち、観客はここが世俗と断絶された世界であることを知る。この場所に、金や人情のもつれによる殺人など相応しくない。物語が進むにつれ、一般社会では考えられない動機が浮かびあがってくるのにワクワクする。
 
それにしても、修道士たちが外見からして不気味である。
 
修道院長アッボーネ、通称カールおじさん・・・ホモ疑惑
ホルヘ長老、通称ジジイ・・・怪しい
文書館長マラキーア、通称ワシ鼻・・・怪しい
副司書ベレンガーリオ、通称百貫デブ・・・ホモ
厨房係レミージョ、通称デブ・・・好色
レミージョの助手サルヴァトーレ、通称乱杭歯・・・怖い
施療院の薬草係セヴェリーノ、通称おしゃれ髪・・・怪しい
 
画像がないのが残念だが、とにかく映る奴映る奴、みんな気色が悪い。
全員、何か知っていながら隠している。百貫デブは度々アドソに秋波を送ってくるし、乱杭歯は突然飛び跳ねたり、人の鼻に噛みつきそうなほど間近に顔を寄せてくるのが嫌だ。不審死の件で異端審問所に目を付けられることを恐れるカールおじさんは、謎の究明をウィリアムに依頼する人物だが、ウィリアムへのキスの挨拶が妙にねっとりしていて嫌だ。ジジイは白目が気持ち悪い。
 
もちろん、犯人はこの中にいる。
 
ウィリアムを演じたショーン・コネリーは、すっとぼけて茶目っ気があるいつもションコネ。知識と経験を頼まれ招かれたものの、異端に近い先進的な考え方と度を過ぎた好奇心が、閉鎖された空間に嵐を巻き起こす。「笑い」についてジジイと議論する場面では、それを悪とするジジイに対し、アリストテレスは失われた著書の中で笑いを肯定していたという持論を展開、主張の中身と同時に空気の読まなさで、文書室内をザワつかせる。
 
怪しい修道士連の中にあって、現代的なウィリアムと美しいアドソは別世界の住人のように見えるが、この修道院が、二人の「罪」を炙り出すところがまた面白くて。
ウィリアムは異端審問官時代の苦い過去と向き合うことになる。また、彼の度し難いほどの書物に対する執着は、罪深いものとして描かれる。
無垢だったアドソは、あることをきっかけに肉欲に屈してしまう。
 
 
◇禁断の欲望の妖しさ
「笑い」に対するものにせよ「肉欲」にせよ、禁じられるがゆえに求めることの甘美さと破滅の空気が、一貫して映画の中には流れている。
 
直接的には描かれないものの、そこかしこに漂う男色の妖しさ。
また、アドソはある人物を追ううち、修道院の厨房に迷い込む。この薄汚い厨房は、一人の貧しい少女が修道士から食物の施しを受け、代償として身体を提供している場所だった。二人は偶然に出会い、清廉なアドソに魅せられた少女は彼の身体を奪う。
 
野性的で官能的なシーンだ。以前、敬愛する『シネマ一刀両断』のふかづめさんが、同じジャン=ジャック・アノー監督『愛人/ラマン』(1992)の、エロスを描きながらエロスが表現されていないことに憤っておられたが(そして、それには同意見だが)、本作のこのシーンはエロティックだ。少女主導の行為は妙に猟奇的で、アドソが未知の快楽に堕ちていく様は背徳の空気に満ちている。

さて、多くのレビューに書いてあるので今更だが、題名の『薔薇の名前』は、本作で唯一名前を持たなかった少女のことを指すと思われる。
 
特徴的であるのは、少女が、物語の最後まで言葉を発さないことだ。
ここに、(ほとんどの人が読み飛ばしただろうが)前述の普遍論争における『実在論』と『唯名論』を絡めて考えると面白いじゃないですか。
 
果たして、この少女は、普遍という概念であったのか個であったのか?
 
彼女は修道院からしてみれば村の貧民、修道士から見れば欲望を満たす道具、異端審問官からは魔女と呼ばれ、しかし、アドソにとっては生涯に唯一の恋人となった。
アドソから見たときだけ少女は「個」、つまり、師ウィリアムの『唯名論』は弟子アドソに受け継がれたのである・・・。
 
絶対そう、いや多分そう。
 
それはともかく、ラスト、アドソが遠い日の師ウィリアムに思いを馳せ、少女を薔薇に例えて懐かしむシーンが美しい。
 
気が付けば、修道士の顔が怖いって話と、私のインテリジェンスを見せつけただけで、メインである連続殺人の犯人や動機、二人の謎解きアドベンチャーにまったく触れませんでした。まあ、いいよね。犯人は、一番怪しいあいつだよ。
 
以下のサイトを参考にさせていただきました!
・作雨作晴 『薔薇の名前』と普遍論争(https://blog.goo.ne.jp/askys/e/fc23827f5a274b67bdd1fa17ae8df641
・ホンシェルジュ(https://honcierge.jp/articles/shelf_story/6631

『キングダム』

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監督:佐藤信介 キャスト:山崎賢人吉沢亮長澤まさみ/2019年
 
新作で『小さな恋のうた』『キングダム』を借りました。『小さな恋のうた』は、私には合いませんでしたが、『キングダム』は、面白かった!

※超、最低ラインで褒めてます。
 
土台、無理だわな、あんな長いドラマを二時間ちょいにまとめるのは。映画版『レディージョーカー』(2004)や『64 ロクヨン(2016)に深みが全くなかったのと一緒だな。そうなると、キャラクターとアクションとビジュアルを「楽しめるか否か」に視点が集約されてしまうのはやむを得ず、そういう意味では「楽しめました」と軽い感想を吐くしかない。
 
こんなこと書いたら、「『キングダム』面白いよ!」と言ってくれたikukoさんやコンマさんに悪いわぁ。遠慮なく書くけど。
 

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あらすじ

紀元前245年、春秋戦国時代の秦国。孤児の少年・信と漂は天下の大将軍になることを夢見て、日々剣術の鍛錬に励んでいた。その様子を目撃した秦の武将・昌文君により漂が召し上げられ、信と漂はそれぞれ別の道を歩むこととなる。だが、ある日、深手を負って王宮から逃げてきた漂は、信に志を託して息絶える。

原作、未読です。読みたいきもちはある。

主演が山崎健吉沢亮ということ以外、あまり情報なく観た。夫が後ろから「これ、大沢たかおも出てたっけ?」というのに、「出てないよ(怒)」と返しました。

私は大沢たかおが苦手なのです。
 
しかし、始まってすぐ、幼い信が憧れを抱く天下の大将軍として登場したのが・・・。
 

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筋骨隆々で、めちゃ幅利かせる感じで出てるぅ~。
 
あ~やだな~♪ドヤ顔の大沢~♪(『おじゃる丸』エンディングテーマより)
 
あくまで、この時点での私の気持ちです。後々、訂正が入ります。

結論から言うと、この映画の主役は、大沢たかおです。
 
 
監督はアイアムアヒーロー(2016)、いぬやしき(2018)、図書館戦争(2013)など、原作ありきの軽めな作品ばかり撮っている佐藤信。よく知らないが、『アイアムアヒーロー』は面白かったよ。ちなみに私は『図書館戦争』の作者の有川浩が嫌いです。
 
冒頭はあらすじの通りの展開。友であり兄弟にも等しい漂(吉沢亮)を失った信(山崎賢人)は、漂の意志に従ってある村を目指す。刺客を倒し、辿り着いた村には、漂に瓜二つの青年がいた。彼は、弟に玉座を追われた秦王贏政(えいせい)(吉沢亮)だった。信は、漂が武術の腕でなく容姿を理由に、贏政の替え玉として召し上げられたことを知る。
 
まず褒めるべきは、主演の二人だろう。吉沢亮は、冷徹冷静な王というキャラクターに恵まれたが、それにしても良かった。顔が特徴的だから、こういう派手な役が似合うんだろな。山崎賢人は暑苦しい。いや多分、原作の信も暑苦しいんだろうが、演出に問題があると思う。この手の主人公は見ていると恥ずかしくなってくるのだが、恥ずかしさが20%くらいで済んだのは、山崎賢人が振り切って信を演じてくれたおかげ、かな(それでも20%くらいは恥ずかしかったが)。
 
信に関する演出は全体的に、いただけない。漂を看取るシーンでは、お約束通りの声が枯れんばかりの悲痛な慟哭。漂が贏政の身代わりに殺されたと知ったときには、全身で怒りを爆発させる。贏政の、漂の命を軽んじたように取れる一言を聞き咎めれば、「てめェ・・・!漂はなあ、漂はなあ!」と贏政に詰め寄る。
 
・・・おねーさん(わたし)ねえ、もう、できれば愁嘆場は少なく生きていきたいん。

いや、よく考えれば十代の頃から、人の死に関する大げさな演出は、見れば見るほど醒めていくタイプだった。
なぜ絶望や悲しみを表すのが「全身全霊で泣き叫ぶ」という表現でなくてはいかんの?
 
漂の死のシーンについては100歩譲るとしても、いつまでも「俺がどんなに悲しいか」を画面いっぱいに押し出し、悲しみの大安売りをしてくるのである。非常につらい。
何度目か信が「ひょう!ひょう!」とひょうパニックを起こした際、逆に信の襟首を掴み上げる贏政が実にクールであった。曰く「漂はこの役目のリスクを分かっていた。のし上がるために賭けに出て、そして負けたのだ、それだけのことだ」。
 
イエース、イエース。このシーンのいいところは、言葉にしなくとも、贏政なりに漂に抱いていた情と彼を失った口惜しさが垣間見えるところだ。
 
立ち直りの早い信は、贏政の叱責に納得し、「別に仲間になったわけじゃないからねッ!利用するだけなんだからッ!」と玉座奪還の仲間になる。頭の悪いやつだ。しかもこいつは「ひょうパニック」だけでなく「天下の大将軍パニック」も抱えている。
 
一方、王宮では、兄から玉座を奪った弟・成蟜(せいきょう)(本郷奏多)が、器用に口をひん曲げながら側近や将軍たちに当たり散らしていた。ちなみに本郷奏多は、かなりイイです。
そこへ、贏政の右腕である昌文君(高嶋政宏)の首を手土産に、伝説の将軍、王騎(大沢たかお)が現れる。
 
でた。ホントやだ、ムキムキの大沢たかお~。
 
「何用ですかな」と尋ねる竭(けつ)(石橋蓮司)に対し、王騎が答える。
 
「何用とは、あんまりですネ♡」
 
オネエなのかよ!
 
 
ソファから落ちた。
不思議なもので、何を考えているのか分からない不気味なオネエ将軍としての大沢たかおは悪くなく。不思議なものでっていうか、あっさり「あら、王騎さん良いわね」ってなった私がアホなのか。
 
その後は、山の民を統べる楊端和(ようたんわ)(長澤まさみ)を仲間にしたり、河了貂(かりょうてん)を演じる橋本環奈のふくろうが、めっちゃかわいかったりしながら、徐々に反旗を翻す体制が整っていく。
 

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環奈ちゃんは死ぬほどかわいいが、ふくろうも可愛すぎるし困る。
 
 
突っ込みます。
前半は十分に堪能した。残念なのが、本来なら最も盛り上がるべき王宮での戦闘のくだりに、突っ込みどころが多すぎたことだ。
 
玉座奪還の準備を整えた贏政と信は、いよいよ作戦の実行に移る。
作戦はこうだ。秦と以前同盟関係にあった山の民の王・楊端和が、再度の同盟案をぶら下げて訪ねていけば王宮の門は開くだろう。中に入ったら、信率いる精鋭部隊は隠し通路を通り、本丸の成蟜を押さえる。その間、贏政、楊端和、昌文君らは、敵に応戦し時間を稼ぐ。

敵は八万の兵を擁しているが、八万の大軍が動くには時間がかかる。すぐに動ける王宮内の兵のみを相手と考えれば、信らが玉座の間に到達するまでの時間を稼ぐことは可能、という目論見だ。
 
この八万の兵は観客に対する疑似餌で、途中で一度、CGの大軍を見せられるが、実際には上述の理由で、この敵は考慮しなくてよいものとして物語の外に弾き出される(というか、そうせざるを得ない)。
 
八万、二十万という壮大な数は言葉だけで片付けられ、メインキャラのアップを中心にした立ち回りが、狭っ苦しい画面に映される。規模感としては、城を舞台にした天下一武道会や暗黒武術会と何ら変わりはなく、王が簒奪された座を取り戻す壮大さがない。
 
一番残念なのが、作戦を無意味化する、根性無敵論ね。
 
多勢に無勢の状況にあって、勝利の鍵は「信が如何に早く成蟜の身柄を押さえるか」にある。信が遅れるほど、囮の仲間たちの命は危機に晒されることになるのだが、「時間との闘い」を感じさせるヒリヒリ感は、ほとんど描写されない。
信は隠し通路の途中で待ち伏せていた怪物の撃退に時間を取られ(そもそも隠し通路に伏兵がいた時点で、この作戦は失敗だろう)、玉座の間に辿り着いてからは、ラスボス左慈坂口拓)との闘いに時間を取られる。
 
さらに萎えるのが、信と左慈が刃を交えながら、「夢」について言い争うことだ。「海賊王に、俺はなる!」・・・じゃなかった、「天下の大将軍に、俺はなる!」と言う信に、拓ちゃんは「夢?バカなことを言うな」と、やたら反応してくる。多分、過去になんかトラウマがあるんだろう、夢見て敗れたとか愛する人に裏切られたとか。
 
私は拓ちゃんのラスボスを楽しみにしていたのに、左慈ときたら、なぜか口調はチンピラ風、ガキの夢語りに同レベルで応じてくれるような親しみやすい刺客なのである。
(死に方もいつも一緒だから、別パターンを考えようぜ、拓ちゃん!)
 
一度は地に倒れた信は、「夢見て、何がワリィんだよ・・・」と再び立ち上がる。根性と気力が肉体の限界を超えてくる、いつもの少年漫画的展開。結局のところ、信にあるのは超人的な跳躍力のみ、剣や戦術に見るべき点はなく頭も悪いのだが、夢と友情で困難な状況を打開するっていうね・・・。いつものやつだよ、残念。
 
さて、ここまでで、恐らく想定の三、四倍ほどの時間を食っている。囮部隊はそろそろ全滅しているころだろう。だが実際には、贏政を中心としたメインの人物たちは消耗しながらも生き残っており、周囲には敵の兵の屍が転がっている。
 
・・・じゃあ、全員で正面から突っ込めばよかったんじゃない?という話になる。
 
また、飛ぶ(跳ぶ)=アクロバティック&ダイナミックとしたアクションのカッコ悪さ。斬り結んだ相手は敵、味方問わず、斬られることなく宙を飛ぶ(だから味方は柱にはぶつかりはするが、誰も死なない)。『SHINOBI』の感想で、下村勇二を日本を代表するアクション監督と紹介した私の気持ちをどうしてくれるんだ!
 
そんなグダグダな展開の中、またしても一番目立つ形で登場するのが、王騎こと大沢たかおだ。門閉まってただろ?どうやって入ってきた。
 
王騎は、「んっふ」「んっふ」「でっす」と言いながら、場を掌握してしまう。さらに、昌文君の領地を奪ったかに見せて実は彼の家族を保護していたこと、民が王宮の内紛に巻き込まれないよう守っていたことなどが分かり、おいしいところを全部掻っ攫っていったのである・・・。
 
一見文句ばっかり言っているように見えるでしょうが、私はこの映画をせいいっぱい褒めました。褒めてないって?言葉だけに振り回されてはいけません。今後は私のことを「『キングダム』見守り隊(たい)」と呼んでください。
 
もちろん続編が出たら観ます。でも・・・いやこれ監督が悪いよ。変えてもらえないかな!?
 

引用:(C)原泰久集英社 (C)2019映画「キングダム」製作委員会

『砂漠でサーモン・フィッシング』

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お久しぶりです。秋は何故かバタつきます。
 
昨日、同僚たちと昼ご飯を食べていたとき、一人が「流行語大賞に入ってるドラクエウォーク』ってなに?」と言い出し、全員知りませんでした。しかし、私の頭には、以前ふかづめさんが『シネ刀』の中で使っていた「ドラクエ歩き」という言葉が鮮烈に残っていた。ふかづめさんが生み出したアルマゲドン歩き」(数人で横に広がって歩くこと)と相対する言葉として使われていたのだ。
 
もう予想はついたでしょうが、私は「『ドラクエウォーク』って、広がらず縦一列に並んで歩くことだよ!」と堂々、知識を披露した。みな、「それ、流行語大賞候補になる?」と首を傾げたが、重ねて「反対語は『アルマゲドン歩き』だよ!」(ってふかぴょんが言ってた)と言うと、これが全員のツボに入り、最終的に「アルマゲドン歩きは、ローラー作戦時にもっとも効果的」というところに終着して昼が終わりました。
 
しかし席に戻って若い衆に聞いたところ、なんと『ドラクエウォーク』はポケモンGOに似たゲームの名前だというではないかっ。「ドラクエ歩き」は流行語大賞になんら関係なく、ましてや「アルマゲドン歩き」はもっと関係ないことが判明。しかし、「アルマゲドン歩き」は再びその場の全員のツボに入り、誰かがエアロ・スミスの歌まで歌った。
 
どわな くろーじゅ まあーいず〜♪
ふかぴょん、荒んだ東京砂漠に潤いをありがとう。
 
はいッ、というわけで本日は、無類の犬好きで知られるラッセ・ハルストレム監督がお撮りになった『砂漠でサーモン・フィッシング』ですネ。
 
え?犬好き違うの?
 
だってリチャード・ギアに「HACHI!」と言わせたことで有名だし、僕のワンダフル・ライフ(2017)、『僕のワンダフル・ジャーニー』(2019)で犬好きたちを号泣させた人でしょう。
 

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めっちゃカッコいいんだが、ラッセ・ハムストレス。
 
 
◆あらすじ
英国の水産学者ジョーンズ博士のもとに、イエメンの大富豪から、鮭釣りがしたいのでイエメンに鮭を泳がせてほしいという依頼がもちこまれる。不可能と一蹴したジョーンズだったが、中東との緊張緩和のため英国政府や首相まで巻き込んだ荒唐無稽な国家プロジェクトに展開してしまう。(映画.com)
 
ハルストレム監督と言えばギルバート・グレイプ(1993)ですね。あの映画はよかったよねぇ。デカプーがバスタブでガタガタ震えていたのが印象的です。監督は他にも、『やかまし村の子どもたち』(1986)、『やかまし村の春・夏・秋・冬』(1986)を撮っていて、『やかまし村』といえば、『長靴下のピッピ』『ロッタちゃん』シリーズでもお馴染みの児童文学の名手アストリッド・リンドグレーンの代表作。私の娘も大好きで、本当に素晴らしい児童文学であります。
 
ラッセ監督はあれか、動物と子供が好きなんだな。本作で加わるのは魚ときた。
 
金持ちの道楽で始まったトンデモ計画が、投資コンサルタントや水質学者、政府官僚まで巻き込んで、てんやわんやするくだりと、癖のある脇役たちが面白い。特に、政府の広報官マクスウェルを演じたクリスティン・スコット・トーマスが最高だった。
 
クリスティン登場シーンでは度々画面が複数に切り分けられ、電話で罵り気味に指示を飛ばしまくる様子、人にぶつかっても気に留めず早足で歩く様子などが同時に映され、彼女の頭が目まぐるしく回転するさま、そして傍若無人っぷりが一発で伝わる。

また、クリスティンと首相とのメールの会話がすごくコミカルで。それぞれの写真のアイコンに吹き出しが出るたび、ホワンッと間抜けな音が響く(クリスティンのアイコンの顔も好き)。
 
「首相、釣りは?」
「場合による」
「釣り人の有権者は何と200万人!」
「なら
、得意だ」
 
さらに後日。
「首相、釣れますね」
「うん」
「本当に?」
「ごめんむり」
「じゃあ外務大臣を」
 
この流れでイエメンに連れてこられた外務大臣が全く釣りできないのにも笑う。
 
クリスティンが絡めば、事態は常人が追いつけぬ速さで動き、思いも寄らない方向へと突き飛ばされる。 
こんな人、現実にいないと思いますでしょ?うちの会社にいますのよ、ええ。周囲の事情や状況、人情や気遣いは優先順位としてゲゲゲの下、「今目の前にあるタスク」を「自分の思うあるべき形」で解決すべく一点集中&中央突破してくる感じがそーっくり。映画で他人事として観ている分には楽しいが、実際に関われば地獄を見る女、それが本作のクリスティン・スコット・トーマスです。
 
テンポのいいクスッと感とユルさがこの映画の魅力。多分、私が個人的に、深刻な問題の裏側で当事者たちは割に能天気でいい加減な会話しているような、ヌケ感が好きなんだわね。

 
◆養殖鮭としてのユアン
イエメンの大富豪シャイフ・ムハマド(アムール・ワケド)による「砂漠に川を作ってシャケを泳がせたい」との荒唐無稽な計画を実現しようと奮闘するのが、彼の投資コンサルタントエミリー・ブラント。私の中では誰よりも防弾チョッキと銃が似合う女優だが、本作では知的でキュートな女性を演じている。エミリー・ブラントから相談を受けてプロジェクトに加わるジョーンズ博士がユアン・マクレガーだ。
 
ハルストレム監督が哺乳類と魚類好きなら、ユアン・マクレガーだって負けてはいない。リトル・ヴォイス(1998)では、話し相手は主に鳩の鳩寵愛青年を演じ、本作では魚を愛する中年を演じる。「トビケラの報告書が云々」などと、相変わらず内向的な男を演じさせたらピカイチだ。
 
しかし、『リトル・ヴォイス』での純な青年と比べると、本作でのユアンは、嫌いな上司の写真を職場の部屋の扉に貼り、ルアーをぶつけてストレス発散するなど、なかなかに陰湿。また仕事至上主義の妻メアリーとうまく行っておらず、言い争いになると、話の途中で庭の池へと逃げる。そして、鯉にエサをやりながらブスくれる。メンドくせェ。
 
ユアンは、家庭内でもビジネスライクなメアリーと対照的に、鮭プロジェクトに真摯に取り組むエミリー・ブラントに惹かれていく。それを知ったメアリーが「あなたは私の元へ戻って来る。それがあなたのDNAよ」と言うように、イエメンに放流される鮭には、ユアン自身が投影されている。
 
本能を殺された養殖の鮭と、つまらない日常に雁字搦めになったユアンは言わば同類。そして最終的に見事、遡上を始めた鮭と同様、ユアンも本能に従って行動する。
 
また、計画の発案者であるシャイフの真意は、一見不可能な物事に対して「信念」を貫くことが如何に大切か、身を以て示すことにあった。まるで養殖の鮭のように、本能を失ってフラフラと迷っていたユアンが、エミリーとシャイフから信念を学ぶ。これが、「鮭釣り」を通じて描かれる乙な作品となっているんだ。
 
 
◆ケチをつけます
だがしかし、いまひとつ、胸に迫ってこないのはどうしたわけか。
 
第一の問題は、国家をも巻き込む難題プロジェクトであるはずが、その苦労と苦悩があまり表現されていないことだろう。鮭を一時的にでなく生息させるためには、鮭の本能とも言える「遡上」をさせ、産卵させる必要がある。だから、流れのある川を作らなければいけない。現実的な手段としては、ダムを作って放流し人工の川を作ること。なるほどそれは大変だと思ったら、「ダムは2年前に完成している」とユアンに告げるエミリー。
 
あ、ダムは、もうできてるんだ? サンキューね。助かったわ。
 
いや、サンキューね、じゃねーよ。川作りはやらないの?そこが観たいよ。
 
まあね、「砂漠でフィッシング」がメインであって、「砂漠にダムを作ろう」ではないから、すっ飛ばすもありだろう。しかしそうなると、プロジェクトの課題は「鮭をどう手配するか」と「どのようにイエメンまで運ぶか」となり、当初想定していた難易度に照らすと、「なんとかなるんじゃね?」と。
 
シャイフの不屈の精神は立派だ。ハンパでない金持ちらしい常識に囚われない感性もステキだし、何より超イケメン。こんな人格者なら、たくさんいる妻の一人に加えて頂きたいものである。が、ダムは既に完成しており、プロジェクトの最重要課題が「シャケ、どう運ぶ?」になった今、シャイフの「困難だから諦めるのか?」と言った精神論が立派過ぎて浮いてしまっていて。
 
また、一番の問題は、ユアンとエミリーの恋の成就が、どうにも腑に落ちないことだろう。
 
ユアン夫妻の危機の原因は、昇進のためにジュネーヴに行ってしまう妻にもあるが、先にも書いた通り、やっぱり私は、ブスくれては鯉にエサをやりに行くユアンが気になる。めんどくせェ。意中の相手が出来た途端、碌に話し合いもせずにメールでメアリーとの関係を切ろうするのにもモヤモヤ。
 
またエミリー側の脚本も強引だ。彼女の恋人は軍人で、途中、極秘の軍事作戦により死亡と報告される。精神的にどん底に陥ったエミリーはユアンと過ごすうちに彼を憎からず思う。それはいい。ところが、実は恋人は生きていた。
 
余談だが、この恋人生存の事実をすぐにエミリーに教えずイエメンの地で再会させ、劇的感動の場面を中東との関係緩和に利用するマクスウェル(クリスティン)の悪辣冷酷な戦略には、うっとりするわー。
 
さてユアンが身を引くのかと思いきや、この軍人の恋人が、「シャケをイエメンで泳がせる?アホなこと言いなや」と、劇中でご法度とされてきた信念のない考えをぽろっと露呈、エミリーの顔を曇らせる。それを布石として、最後は突然「君が好きな方を選んでいいんだ」とエミリーを解放。
あまりに都合よく、いい加減じゃないかい、死地から生還した恋人の人物像がさ。
 
そして、放流されたエミリーは本能に従い、ユアンに向かって遡上する。
 
つまり、エミリーは砂漠で男を釣ったし、ユアンは女を釣った。シャイフは夢を釣った。

で?

「シャーケシャーケ(そうけそうけ)、みんなハッピーでよかったねえ」と拍手しろと?
 
いやいや、エミリーとユアンが無事くっついてめでたしのロマンスが、あまりに杜撰じゃないの。イエメンで鮭が跳ねる画を背景に、幸せそうな二人の姿を撮りたいがため、各パートナーを疎かにした監督は、劇中、強引な広報活動を行うクリスティン・スコット・トーマスと同じ。
 
なんだかエミリーは不実に見えてしまうし、ユアンは最後まで情けな&ちょっとイヤなヤツの印象のまま。私としては「シャーケシャーケ、よかったのう」と言うわけにはいかなかった。
 
そんなわけで、不満は残りますが、全体的に面白い映画なので、おススメです。
ところで、『I Don't Want To Miss A Thing』が頭から離れません。
 
どわな くろーじゅ まあーいず〜♪は1分12秒あたりから!
 

『モネ・ゲーム』

 
英語が話せないことで有名な日本人ですが、私の周囲は両極端、仕事場には英語が流暢で外国人とのコミュニケーションにも手馴れている人が多いです。
しかし、当ブログに何度か登場している友リエコなどは「そちらさんが日本語を話されたらええでっしゃろ」の姿勢を崩しません。
 
ある日、お店で食事をしていたとき。リエコが隣でビジネスランチ中の七、八人のフランス人に「ちょっといいですか」と突然話しかけ、「その料理ってなんですか?私も同じものを頼もうと思って」と完全に先方の会話をぶった切ったのには冷や汗をかきました。
 
またある日、着物で歩いていたら、外国人からパシャリと写真を撮られました。リエコはツカツカとそちらに歩み寄り、「いま何したの?写真?みせて」とデジカメを確認。そして、「コレ、写りが悪いから撮り直してくれる?」と撮り直しをさせていました。
 
なんで通じるんだろね?
 
こんな話をするのは、今日の映画と関係があるような。ないような。
 
コリン・ファースの雇い主ライオネルの商談相手として、日本人の集団が出てきます。英語は全く話せず通訳頼み(また通訳の英語がひどい)、全員揃ってドーモドーモとお辞儀する姿は、歪曲された悪しきイメージのジャパニーズ・ビジネスマン。脚本が日本に興味がないコーエンズなので(やなぎやの持論です)仕方ないと思いつつも、ここだけ観ると、あまりにも極端で悪意を感じるの。
 
実際、「人種差別だろ」なんてレビューも見かけましたが、よーしよし、どうどうどう。これ、フリなので大丈夫です。
 
ネタバレ全開でいきます。
この映画のラストを指して「どんでん返し」とするレビューの多さにびっくりしております。
 
本作のオチは、どんでん返しではなぁい。
 と思うよ!
 

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◆あらすじ
ジョエル&イーサン・コーエン兄弟が脚本を手がけた犯罪コメディ。学芸員のハリー(コリン・ファース)は、相棒の”少佐”(トム・コートネイ)と共に、印象派の巨匠モネの名画「積みわら」の贋作を制作する。協力者のPJ(キャメロン・ディアス)が絵画の所有者になりすまし、億万長者シャバンダーをカモにしようとするが、次々とトラブルに見舞われる。
 
泥棒貴族(1966)のリメイクですが、似て非なる映画となっております。
 
簡単に言うと、大手メディアグループの経営者ライオネル・シャバンダー(アラン・リックマン)の絵画蒐集癖に付け込み、彼の専属キュレーターであるコリン・ファースが、仲間の”少佐”と共に、贋作を売りつけようする話だ。ターゲットとなる絵画がクロード・モネ『積みわら』。一言に『積みわら』と言っても、同じ対象物を異なる時間や季節、天候の下で描き分けたもので、わらクズの山の絵が何十枚と存在する、素人にしてみれば、けったいな美術品だ。
 
ライオネルが執着しているのは『積みわら(夜明け)』と『積みわら(夕暮れ)』で、前者はオークションで日本人実業家に競り勝ち、現在彼の屋敷の美術室に収まっている。コリンらの計画は、贋作名人である少佐が描いた『積みわら(夕暮れ)』の絵がライオネルの目に留まるように仕向け、持ち主に仕立てたPJに1200万ポンドで交渉させるというもの。
 
 
英国紳士の印象が強いコリンだが、本作ではコミカルで間抜けな姿を見せてくれる。ライオネル・カモ作戦を現実にするため、テキサスにPJを訪ねるコリンと少佐。事はトントン拍子に進み、彼女は喜んで計画に参加、ライオネルをうまいこと騙くらかし、華麗に1200万ポンドを奪取する・・・という冒頭の一連の流れは、まさに観客がコリンに期待するスマートな展開だ。
 
しかし、これは全て妄想。劇中のコリンは人と話すのも下手なら空気も読めず、やることなすこと裏目に出てしまう間抜けな人物である。
 
コリンの妄想の中のライオネルは粗野な振舞いやファッションセンスが笑ってしまうほどひどいのだが、これはコリンの逆恨みと嫉妬から生じた歪んだ虚像で、実際のライオネルはビジネスセンスを具えた傑物だ。
 
こんな情けないコリン・ファース、イヤよねー。
この冒頭で、きちんと説明されている、コリンは「都合よく妄想してしまう人物」であることが。ここを忘れないで欲しい。
 
 
アンジャッシュ的「すれ違いコント」
たまたま私のツボにハマったのか、ハリーのSAVOYホテルのホテルマンとのやり取りや、飾られていた美術品を盗んで右往左往するくだりは爆笑もの。
 
フロントでのチェックインの場面。前のシーンで、ハリーはズボン(股間に近い部分)を氷で濡らしてしまう。濡れた箇所を拭いていた少佐のハンカチにオイルがついていて逆にシミになってしまったなどと、「ズボンのシミが取れない」描写が不自然なほど続くのだが、これはフロントマンとのコントのための前振り。
 
コリンとキャメロンは、「少佐の(ハンカチの)せいで、シミが」「少佐は百戦錬磨なんだぞ」と、仲間の”少佐”を指して話しているのだが、フロントマンの二人「少佐=コリンの下半身」であると解釈する。隠喩を用いた会話術を余儀無くされる職種だからこその、心得顔がイチイチおかしい。
 
同じ事について話しているのに、互いの解釈が異なることで生まれるズレ、要はお笑いのアンジャッシュのすれ違いコント的手法と言えば分かってもらえるかしら。
 
さらに、ハリーはバカ高いホテル代を捻出するため、廊下に飾ってあった明の壺を盗み、ホテル内を右往左往するうちにズボンを失う。

・・・あ、唐突でしたかね、スボンの失い方が。めんどくさいので、ここは観て頂戴。とにかくズボンを無くしてパンツ一丁でウロウロするうち、一人で滞在している婦人の部屋に侵入してしまう。そこに例のホテルマンがバレエのチケットの件で、婦人の部屋をノック。
 
婦人は、部屋の中のコリンに気付いていない。ホテルマンからは、下半身パンツ一丁のコリンが見える。
 
テルマン「・・・チケットは一枚でよろしいので?」
婦人「?」「ええ、もちろん」
テルマン「では、よい夜を。この部屋には誰も取り次ぐなと言っておきますので」(ドヤ顔)
婦人「?」「すぐベッドに行くわ。夫も出かけているし」
テルマ「・・・それはそれは、さぞお寂しいことでございましょう」(ウインク)
 
との会話が為され、ホテルマンは、コリンの”少佐”が相手問わずの百戦錬磨である確証を得る、と。
 
文章で書いても面白さが伝わらないので、是非観て頂きたい!
 
 
◆スマートなコリンを疑え
コリンの中では、優秀な自分と成金ライオネルだが、現実は反対である。コリンの無能さに愛想をつかしたライオネルは、代わりのキュレーターとしてドイツ人のザイデンベイバー(スタンリー・トゥッチ)にオファー。これを知ったコリンは姑息な手段で、ザイデンベイバーの方からオファーを断るよう仕向ける。
 
そんな中、ライオネルの別荘で行われたパーティでは、日本人ビジネスマンとの商談と、キャメロンが持ち込んだ『積みわら(夕暮れ)』の鑑定と価格交渉が行われようとしていた。
 
ここまで『積みわら』の存在を忘れていたでしょう!私もです。
 
ライオネルの美術室に入り込み、『積みわら(夜明け)』(ライオネルが過去に競り落とした本物)をいじくり回すコリン。その後ろを、どこからやってきたのかチョロチョロ動き回る変な種のネコ。何度目か、コリンが違和感を感じて振り返ると、そこにはネコではなく、ライオンがいた。
 
・・・ここはもう流しましょう。ライオネル曰く「特別なセキュリティ」らしいが、あまり深く考えても仕方ない。「ライオン」=ライオネルorコリンが理想とする自分自身、「ネコ」=実際のコリン、のメタファーかと思うので。
 
キャメロンがテキサスで鍛えた投げ縄によりライオンを捕獲すると(ウソや)、絵をいじくり回されたことに激怒してライオネルがやってくる。三人の目の前には、本物の『積みわら(夜明け)』と、”少佐”の描いた贋作の『積みわら(夕暮れ)』。
 
本来ならコリンが贋作を本物と鑑定する作戦だが、そもそもライオネルに全く信頼されていないので、始めから計画は破綻している。ここに突然、隣室のドアが開き、ザイデンベイバーが入って来て、おもむろに『積みわら(夕暮れ)』の鑑定を始める。
 
さあ、ピンチである。追い払ったはずのザイデンベイバーは、ドイツで実績と名のある学芸員。しかし、驚いたことに彼は贋作を「本物だ!」と断言。と思ったら、コリンが「いや、これは偽物だ」と、芸術を愛する者としてのプライドを見せるのである。消沈するライオネルを残し、堂々と別荘を後にするコリンとキャメロン。
 
ここからが「どんでん返し」だ。
 
コリンと”少佐”が空港に向かうと、例の日本人ビジネスマンの集団と、以前ライオネルと『積みわら(夜明け)』を競ったタカガワ氏が待っている。そう、コリンの狙いは始めから、ライオネルが所蔵する『積みわら(夜明け)』を贋作とすり替え、タカガワ氏に渡すこと。ジャパニーズと組んで企てた計画だったのである。
 
かくして、タカガワ氏から絵の代金を受け取ったコリンと”少佐”は、意気揚々と華麗に去っていく…。
 
 
ちょ、待てよ。(キムタク)
 
 
ういー、待った待った!なんでこれが「意外な結末!」「そういうことだったのね!」となるのか!?
 
繰り返すが、コリンは「都合のよい妄想をする」名人なのだ。ちょっと、ザイデンベイバーがいきなり入ってきたところまで戻って欲しい。
 
大体、何故、ザイデンベイバーは招待客としてではなく隣室から湧いて出たのか。タイミングも都合がよすぎる。そして、確かな鑑定眼を持つ彼が、なぜ贋作を「本物だ」と見誤るのか。なぜ、ここまでプライドの欠片もなかったコリンが、突然絵画に対する敬意を示してみせたのか。
 
もちろん、ザイデンベイバーが部屋に入ってきた時点から、コリンお得意の妄想に移行しているのである。
 
 
さらに言えば、”少佐”も虚構の人物であろう。
コリンが作り出した、都合のよい相棒だ。根拠はシンプル。少佐は二度ほど、「有能なディーン氏(コリン)にも」「いかに優秀なディーン氏と言えども」と言う。コリンが優秀であるのは妄想の中のみ、つまり少佐も妄想が作り出したキャラクター。
 
大体、「少佐」っておかしいじゃないの、皆さん違和感は持っていたでしょう。何者なのよ?二人の関係は?なんでいつも、ぴったりとコリンの横にいるの?って。
 
カッコいいことを言うと、『モネ・ゲーム』自体が、観客に仕掛けられたゲームだよということだ(やなぎやさんカッコいい!)。現実、コリンがどうなったかはどうでもいいが、まあライオンに殺されたのかもしれないね!
 
では最後は、素敵ビジネスマンだったアラン・リックマンが、キャメロンを口説く際の唸り声でお別れしましょう。
 
「まだキミにシャバンダー・ライオンを紹介していなかったかな・・・。ガルゥ」
 
がるるゥ!
 
引用:(C)2012 Gambit Pictures Limited