Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『昼下がりの決斗』

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監督:サム・ペキンパー キャスト:ランドルフ・スコット、ジョエル・マクリー/1962年

 

皆さん、こニャンちは。お久しぶりの更新となります。

何が忙しいって、在宅勤務&期末のダブル攻撃もしんどいけど、休校中の小二の娘がずっと家にいたり仕事が終わればすぐ保育園に息子を迎えに行ったりと、なかなか自分の時間が取れない。でも、娘とずっと一緒なのも楽しい。
 
娘は、本当に姉弟か?と疑いたくなるほど息子とは真逆で、明るく優しく、ちょっと甘えん坊で、それでいて自分の意志を貫くことができるカッコいい女子です。
好きな食べ物はナスと蕎麦。趣味は温泉に入ること、好きなおやつは茎わかめ。今も隣で食べてます。

そんな娘の今日のハイライトは、「(HUNTER×HUNTERの)ハンターが現実の職業だと思っていた」です。
 
ちなみに息子の最近のハイライトは、「おかあさーん、私のパジャマ、襟が伸びてきちゃった~」と言う娘に対し、「ああそれね、おねーちゃんが寝てる間に、きんにくもりもりの人がおねーちゃんのパジャマ着て『フンッ!』って力入れて伸ばしてたよ」とゲラゲラ笑っていたことです。どっから来るんだよ、その発想。
 
本日はサム・ペキンパー監督の『昼下がりの決斗』の感想です。
 
 
 
◇あらすじ

ティーブ・ジャッドは、かつて名保安官として鳴らした男だったが、今では西部の人々からも忘れ去られていた。ところが、シエラ山中のコース・ゴールドに金が発見され再び彼が脚光を浴びることになった。コース・ゴールドの人たちが、掘り当てた金を預け入れるために銀行の出張を熱望したため、その重任にふさわしい人として正義の男ジャッドが選ばれたのだ。黄金を預かっての帰りの山道はあらゆる危険が予想されるため、彼は協力者2人を雇うことにした。(映画.com)

サム・ペキンパー監督第二作目だそうです。 

ふかづめさんが「フォード、ワイルダー、ホークスは見といて損ないよ、あんたはペキンパーとかアルドリッチがいいんじゃない?」と言ったので、まずはジョン・フォードを全部観ようとしてたら、「もういいでしょ、次に行きなさいよ」と言われたので、ペキンパーに移りました。真面目なオーバーフォーティ、滝川クリステルと同い年です。

フォードはわが谷は緑なりき(1941)が素晴らしかったですね。

 

いやでも、ホントに観始めてみて良かった。俳優の知識がないので、その辺の話はまったくできませんが、楽しいです。
ちなみに、これまで観たことがあるペキンパー作品は戦争のはらわた(1977)のみだった。思い出しただけで鳥肌が立つ文句なしの名作である。むっさいけど。
 
ペキンパー=バイオレンスのイメージであると聞くが、この頃は(と言っていいのか)バイオレンス色はなく、かつては優れた保安官であった老人が残り火を燃やすさまが、哀愁深く情感豊かに描かれる。
鉱山から銀行へ金を運ぶ仕事のために、ある町にやってきたスティー(ジョエル・マクリー)。彼の名声は過去のものであることが、冒頭から説明される。スティーブが町に入ると人々から歓声が上がり、彼はそれが自分に向けられていると思い応えるが、実は馬のレースへ送られたもの。「どけ、爺さん」などと言われてしまう。また、銀行で渡された契約書を裸眼で読むことができず、トイレに行き老眼鏡を取り出して読んだりする。
 
危険な仕事ゆえに協力者として雇うのが、偶然再会したかつての助手ギルランドルフ・スコットだ。ギルもまた老いており、詐欺まがいの商売で小銭を稼ぐ日々だった。ギルは自分の子飼いで血の気の多い青年ヘック(ロナルド・スター)を同行させ、道中で金を奪おうと目論む。
 
結束のない三人の旅の物語は、山に向かう途中で立ち寄った牧場の娘エルサ(マリエット・ハートレイ)の登場から、方向性を変える。ヘックがエルサに一目惚れしてしまうのだ。そこからは、ヘックがエルサにちょっかいを出したり、エルサがまんざらでもなさそうだったり、敬虔すぎるクリスチャンでエルサに近寄る男を異様に警戒する封建主義の父親と揉めたり殴られたりといった展開が続く。
 
 
あの・・・。まだ目的地に着いてもいないよ。早く出発しませんか。
 
 
ついでに私も脱線するが、いい加減にしてくれないかな、『決闘』という言葉のつく題名たち。書き始めるまで、この映画のことを荒野の決闘(1946)だと思ってたけど、それはジョン・フォードだったでしょ。でも『真昼の決闘』(1952)って映画もあるでしょ。
 
大体さあ、『荒野の決闘』の原題って『My Darling Clementine』だよ? 最初に流れる「オーマイ ダーリン、オーマイ ダーリン、オーマイ ダーリン クレメタイン♪」の曲が素敵なのに、それが何故『決闘』になってしまうの。
それにしてもさあ、この歌って、日本では勝手にどっかの山岳部の連中が「雪よ岩よ われ等が宿り 俺たちゃ 街には 住めないからに♪」って歌詞にしちゃって、それが罷り通るんだから意味がわからないよね。
 
 
 
◇悪夢の結婚式
さて、大輪の薔薇ならぬ野に咲く花といった風情のエルサは、見た目通り雑草魂を持ったジャジャ馬だった。鉱山で金を掘る男たちの中に求婚者がいるらしく、「あたし、山に行ってビリーと結婚する!」と家出してスティーブ一行に加わる。カメラはエルサの雑草パワーと、彼女のことが気になって仕方ないヘックへと向けられ、ジジイ二人は恋に浮き立つ若者の諫め役に回る事態に。
 
私が「ああ、そういう話なのね」と気づくのが遅かっただけで、本作は金を無事に運べるか?に纏わるサスペンスや、敵役となる悪たれ五人兄弟とのガンアクションがメインではなく、かつては活躍した老人たちが、新しい世代のために道を拓いてやる話なのだよね。途中までは若者たち中心の物語が続くが、だからこそ最終的に、老いたるものの魅力が光る。
 
エルサが求婚者のビリーの元へ辿り着いた辺りからは、実に不穏な空気が漂い出す。掘っ建て小屋のバー兼売春宿で二人の結婚式が執り行われるのだが、付き添い人となる女主人と美しく着飾ってはいるが空虚な女たちは、何かを含んだ視線をエルサに送る。ビリーの四人の兄弟たちは、花嫁を得る兄をからかう、というには行き過ぎた野卑な言動を繰り返す。それもそのはず、ビリーらは、花嫁として一族に加わる女を「共有」することを慣習としてきたのだ。
 
 
うえ~、最悪や~。おまけに全員クサそう。
 
 
げらげら笑いながら踊る招待客、毒々しい化粧の女主人、ベロベロに酔っ払いながら結婚宣言を行うアル中の判事、襲いかかってくる夫の兄弟たち。悪夢のような乱痴気騒ぎの中、エルサを救いに現れたのはスティーブだった(ヘックも来たが、すぐ殴り倒された)。
この事件をきっかけに、エルサを親の元へ帰そうとするスティーブ、怒りながら花嫁を奪還しようと追ってくるビリーら兄弟との闘いが始まる。
 
 
 
◇毒には毒を
草臥れながらも自尊心を失わない正義漢スティーブと、そのスティーブに半分は尊敬の念、半分は嫉妬心やコンプレックスという複雑な思いを抱え、どこかケチな男として描かれるギル。そして、この物語をより面白く盛り立てるのはギルの方だ。なぜならギルは、誠実なまま老いたスティーブと異なり、悪党の側へ片足を突っ込んでいるからだ。だからこそ、スティーブには思いもつかない方法で、コトを片付ける。
 
例えば、悪たれどもからエルサを取り返す手段。一番の障害は、この結婚が正式な資格を持つ判事が認めたリーガルなものであることだ。スティーブは、あくまで正論で立ち向かおうするが、そんなものが通用しないと知るギルは、酔っ払っている判事にさらに酒を浴びせて脅し、彼の資格を無いものとすることで無理やり結婚を無効にしてしまう。
 
まさに毒を以て毒を制す。こういうときに、毒の役を担うキャラクターが魅力的に見えるのは当然のことではないかー。
 
その後、スティーブと衝突して一行から離脱したギルは、エルサの父の牧場で待ち伏せていた五人兄弟とスティーブらの銃撃戦を高見から見物する。だが、スティーブが撃たれたのを見ると、条件反射のように馬を走らせて参戦。
 
うわ~、ここ、じわっとなる~。
 
何だかんだ言いつつ友のピンチに本能で身体が動く。そして、悪党になりかけていても、かつて名保安官の隣にあった日々のことは身に刻まれているのだ。
 
若者を中心に映していたカメラは、本来の主役の老人たちへと向けられ、その老骨魂をしっかと観客に届けてくれる。確執を乗り越え、「もちろん昔のように正面突破だ」と敵に向かって同じ歩幅、同じリズムで歩き出す二人の姿にグッと来る。お勧めの激シブ西部劇です。
 
さて、そんな感じで、やなぎやは、また在宅勤務へ戻ります。
 
ところでさ~、ランボー ラスト・ブラッドの公開、6月12日から26日に延びた~。
同じ12日に、『犯罪「幸運」』と同じくフェルディナント・フォン・シーラッハ原作の『コリーニ事件』が公開になるから、ハシゴしようと思ってたのにッ。

『ランボー 最後の戦場』

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監督:シルベスター・スタローン キャスト:シルベスター・スタローン、マシュー・マースデン/2008年
 
皆さん、こんばんにゃ。
 
何だか、段々、社会全体が疲れてきていますね。こういうときこそ、人とのコミュニケーションを怠ってはなりません。ただでさえ、スマホやネットのせいで他人と話せない社会になっとるでね。
 
例えば、私のように、スーパーで買ったものを詰めているときに、カゴを戻す場所が遠くて手を伸ばそうとしているおばちゃんのカゴを受け取って代わりに戻してあげるとかね(ニコッ)、くるくる巻いてあるビニール袋を取れずに苦労しているおじいちゃんの代わりに取ってあげるとか、そして私も大概、指に脂がなくなってきているので代役を買って出たくせに取れずに照れるとかね、そんなんでいいですよ。
 
マスクはハンカチと髪ゴムでも作れるからネ! 
 
そんな平和主義の私がお送りする、本日の映画はランボー 最後の戦場だよ!
 
 
あらすじ
シリーズで初めてスタローン自らメガホンを取り、ミャンマーの社会情勢を盛り込みつつランボーの壮絶な戦いを描き出す。タイとミャンマーの国境付近でミャンマー軍事政権によるカレン族の迫害が激化。タイ辺境のジャングル地帯で暮らすランボーは状況を知りつつも静観の構えを見せていたが、彼がミャンマーの村へ案内したNGO団体が行方不明になり、救出のために再び戦いの中に身を投じていく。(映画.com)
 
ランボー(1982)について詳しく語ることは、もはや不要だろうが、さらっとおさらいする。誰のために。私のために。
ベトナムの戦場では特殊部隊に所属しその働きを讃えられたランボーは、帰国すると一転、大量殺人者だ赤ん坊殺しだと周囲から謗られる。訪れたある町で、一人の保安官との諍いをきっかけに、州警察や州兵を相手取った大規模な戦いへと発展、町を戦場へと変えていく。面白いのが、戦ううち、ここがアメリカなのかベトナムなのか、現実との境界線が曖昧になり、それにより殺人のスキルが研ぎ澄まされていくことの皮肉さ。また、彼にとってベトナムが、忌まわしくも懐かしい地であるという複雑な感情が、哀愁漂う無法者を作り上げているのが魅力的だ。
 
暴れ狂うランボーには、ベトナム戦争で疲弊し、挙句、敗戦したアメリカの姿が投影されている。1960年代後半から1970年代半ばにかけてアメリカでは、ベトナムの地で泥沼の戦いを続ける政府へ反発から、反体制的および反戦をテーマにした作品が数多く製作され、それらは「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる。説明の必要もないだろうが、俺たちに明日はない(1967)、イージー・ライダー(1969)などが、その代表作と言われている。
 
この年表に従えば、1982年製作の『ランボー』はニューシネマの潮流から外れているわけだ。
 
ベトナム戦争終結とともにニューシネマの時代が終わると、今度は鬱々とした空気を払うような映画、ジョーズ(1975)、『ロッキー』(1976)、スター・ウォーズ(1977)などに代表される痛快で明るく、夢と希望を描いた映画が人気を博す。ここで注目すべきは、ニューシネマに取って代わった作品群の中に、スタローンの出世作となった『ロッキー』があることだよね。あのような映画を作っておきながら(もちろん『ロッキー』も死ぬほど好きだ)、1982年に「おい、忘れてくれるな」と言うように、ベトナム戦争の傷を再びアメリカに思い起こさせたスタローン。
 
以下に「シネマ一刀両断」で、ふかづめさんと対談したときに自分が言った言葉を引用。
 
ランボー』の「何も終わっちゃいません、何も」から始まる長台詞で、観客はランボーの心中を知って胸打たれると思うんだよね。アレがなかったらどれだけの人がベトナム戦争の傷を感じとれたのかな?
 
かつての上官トラウトマン大佐の「戦争は終わったんだ」という説得に対し、ランボーが激白する際の台詞なわけだが、この台詞なくして、ベトナム戦争を知らないアメリカ以外の国の人々が「ベトナム戦争の傷」を知ることは難しかっただろう。保安官たちに対しては碌に弁解もしない寡黙なランボーが、親同然のトラウトマンを目の前にして爆発するように心中を語るこのシーンに、ランボーの苦悩と反戦のメッセージが込められ、ゆえに人々の胸を打った。
 
ランボー 最後の戦場を『ランボー』に並ぶ名作だと思うのは、同じく反戦の意図を込めながらランボーの言葉が極力排除され、監督スタローンが見せたかったものがストレートに表現されているためだ。とにかくランボーが喋らない。私の記憶する限り、「家に帰れ」と「お前が決めろ」しか言っていない。
 
衝撃的なショットとシーンにより、ただ「見ろ」とするスタローンからの力強いメッセージ。
 
ランボー 怒りの脱出』(1985)、ランボー3 怒りのアフガン』(1988)は、アクションを中心に娯楽色を強く打ち出したために一作目より低く評価されがちだが、どの作品も好きな私にとっては、『最後の戦場』にそれら全てからの継承があることも嬉しい。
 
例えば、捕虜の奪取とジャングルでの戦いというシチュエーションは『ランボー 怒りの脱出』と同じだが、あのときは死なせてしまった信念を持つ女性(ランボーに取っては神聖なもの)を本作では救うことで、長く抱いていた悔恨の念が昇華される。『ランボー3 怒りのアフガン』とは、それまでがランボー自身の戦争であったのに対して他者の戦争への介入であることが共通しており、ヒーロー性がより色濃い。
 
過去三作の血筋を受け継ぎつつ、観る者に映像で訴えかける強烈な反戦映画。さらにランボーのヒロイックな魅力と緊迫感のあるアクションといったエンタメ性も存分に織り込んだ、文句なしに100点満点の戦争映画なのだ!
 
 
ハァ、ハァ、ハァ・・・。
言いたいことは全部言ってしまったが、今日はここでお時間というわけにもいかない。ここからはストーリーや個性豊かなキャラクターを追いつつ、ゆるりと語って参りましょう。あ、ネタバレです!
 
 
 
◇ミャンマーの海賊コワイ
あらすじの通り、平和主義のキリスト教NGO団体のメンバーたちが、危険を冒してミャンマーの村に薬を届けたいというので、渋々ボートを出してやるランボー。メンバーの一人サラジュリー・ベンツニコール・キッドマンナオミ・ワッツを足したような顔をしている。女性に弱いランボーです。
 
川旅の途中で、海賊に襲われます(川だけど海賊って言ってるんで)。海賊=ジョニー・デップと思っている人には是非観て頂きたい。こえェよ。ただただ、女を寄越せ!って言ってくるミャンマーの海賊こえェ。
 
ランボーは素晴らしいテクニックで海賊たちを射殺、ここで「ノー!」と叫ぶNGOのリーダーが鬱陶しい(殺らなきゃお前の女がヤラれるんだよ!)。村に辿り着いた一行は村人たちに薬を与え聖書を読むなどして交流をするが、平和な時間も束の間、政府軍が押し寄せて村人たちを虐殺し、サラらを連れ去る。ランボーは米国政府が雇った傭兵たちと共に、彼らの救出へと向かう。
 

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散々な目に遭うジュリー・ベンツ
 
 
ここまでで語るべきは二か所。ひとつは虐殺のシーケンス。
実際に銃器で撃たれた人間の体がどうなるのか、一方的に行われる蹂躙とはどういうものなのかをじっくり観客に理解させるパートとなっている。人体が破壊されて吹き飛び、子供が刃物でゆっくりと胸を貫かれ、赤ん坊が火に放り込まれる、目を覆いたくなるような映像が続く。スタローンのメッセージが一番強く出ており、また、平和主義のサラたちの理想が粉々に打ち砕かれる場面だ。
 
二つ目は、その後、傭兵たちが村に辿り着いたときのシーケンス。百戦錬磨の彼らが、あまりに凄惨な現場に鼻を覆ってたじろいでいると、ミャンマー軍が捕虜の村人達を連れて現れる。地雷を投げ込んだ田圃に捕虜を追い立て、誰が生き残るか賭けをしようというのだ。為す術なく身を隠す傭兵たち。そこへ現れたランボーが、お馴染みの武器であるボウガン(コンパウンドボウという武器らしい)で、あっという間にミャンマー兵を倒す。矢を構えるランボーを下から斜めに捉えたショットがめちゃめちゃカッコいい。
 
そして、予想以上の地獄のあり様に、引き返そうとするリーダーの鼻先に矢を構えて言う。
 
「こんなところにいたい奴はいない。だが俺たちのような男の仕事はここにある」
「無駄に生きるか、何かのために死ぬか、お前が決めろ」
 
 
ちびる・・・。
 
この作品の一番ホットな場面はココ。説得力が半端ない。容赦ない虐殺と、傭兵たちが躊躇するほど凄惨な跡地を見せられた後では、何の躊躇もなく「行くぞ」と言い切るランボーの胆力に鳥肌と失禁を禁じ得ない。戦争のリアルに重きを置くどころか、シリーズトップのヒーロっぷりとなっております。
 
 
 
◇キャラと兵器を楽しもう!
映画の途中ですが、傭兵たちのキャラもなかなかに立っているので、何人かご紹介しましょう。

まずはこいつ、スクール・ボーイ(マシュー・マースデン)
 

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いい奴だし、カッコいい。
初登場時、ボートの中の台詞が印象的である。他の傭兵たちが、まんまと捕まったNGOの皆さんを「アホどもが」と腐す中、一人悠々と「えらいよ。丸腰で本や薬を届けるなんて」と格の違いを見せつける。何でこの仕事してるの?そしてこんな仕事しながら、なんでそんなイイ奴でいられるの?
 
 
 

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名前は忘れたが、浦和レッズのFW興梠慎三に似ていることから何だか気になる存在になってしまった髭面の人。私の心の中でだけ「シンゾウはん」と呼ばれる。残念ながら終盤で死んでしまう。
 
 
 

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傭兵部隊のリーダーで、分かりやすくランボーの凄さを演出するために設置された生贄キャラ。通称、生贄ハゲ。「おいボート屋」「ボート屋は黙ってろ」とバカにしていた相手が実は殺しのプロだったことを知った後は、大人しくランボーの指示に従う。ケガした足を、ミャンマー軍のホモのヒゲに、グリグリされるのがかわいそう。
 
反目し合っていた彼らと、行動するうちに戦友のような意識が芽生える感じがいい。何しろランボーと言えば孤独、喋る相手は大体トラウトマン。
サラを救い出して村から脱出するとき見張りに見つかり、身を投げ出してサラを庇うランボーと、時間に遅れたランボーを、一人待ってくれていたスクール・ボーイが見張りの首を吹っ飛ばして救うシーンは、お約束なようでいて胸アツだった。
 
ところで、遅まきながら未見の人に言っておくと、本作はグロいって言えばグロいですよ。
 
ただ、様々登場する武器とそれを使いこなすキャラクターに注目すればもう、すごいもんを見せてもらったな、という感想にしか至らないわけで。
 
イケメン・スクール・ボーイが使用するライフル「バレットM82A1」は狙撃した兵士の頭部を丸ごと吹っ飛ばし、凄まじい破壊力を観客にみせつける。スマートなスクール・ボーイのキャラクターに合ったクールな武器だ。
 
また本作最大の武器となる第二次世界大戦の遺物「トールボーイ」。この大型爆弾を使った罠を仕掛けるのは、やはり戦争の遺物とも言えるランボーだ。また、終盤、ミャンマー軍に捕らえられた傭兵たちを救うためにランボーがぶっ放す「ブローニングM2」は、人間をたちまち赤い肉片へと変える。この恐ろしい武器は人間兵器であるランボーそのもの。
 
「ブローニングM2」を構える兵士の後ろに、ぬうと現れるランボーのドアップで始まるミャンマー兵殲滅のシーケンスは、前半の虐殺に対する究極のカタルシスタイム、二度目の失禁ポイントだ。
 

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これがなくっちゃいけない。
反戦メッセージ、現実を見ろと思考を促すだけでは戦争映画とは言えない。ミャンマー軍の悪辣さがあってこその壮絶な復讐劇が、本作を最高の戦争映画として輝かせる。

勘違いしている人が多いので言っておくと、実際にミャンマーを含む軍事政権による少数民族の弾圧がどのようなものであるのかは別の話だ。映画では、軍事政権は血も涙もない完全な悪、村人とNGO団体は善の存在として描かれ、ランボーが悪をぶっ潰す単純な勧善懲悪の物語が展開される。映画の中でスタローンにより作り出された「現実」に息を飲み、カタルシスに酔えばいいだけのこと。
 
近代兵器の恐ろしさを容赦なく見せつけつつ、至高のエンタテインメントを演出してくれたスタローンに、ありがとう。
そしてラストは、長い年月をかけてようやく地獄の故郷を捨て、本来の故郷に戻っていくランボーの姿に感涙。ウンウン、長かったね・・・。
 
と思ったのに、今度はメキシコに行くのかよ。
ランボー ラスト・ブラッドは6月12日公開です。有給決定。
  
 

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こちら、浦和レッズのヒーロー、シンゾウはん。
 
 
※兵器の名前はネットで調べました。
引用:(C)2007 EQUITY PICTURES MEDIENFONDS GMBH & CO. KG IV

『ランボー 最後の戦場』を書こうと思ったが脱線した

先日、親友のリエコを「ランボーの新作が始まったら観にいこ」と誘いました。当たり前だと思って。ランボーの新作が始まったら映画館に行くのは、もう空気を吸うくらい自然なことだと思って。でもリエコは「私、一作も観たことないもん」と言う。優しい私は「大丈夫!私が最初から、手取り足取り導いてあげるわ」と提案しました。


そうしたらホラ、ランボーごっこができるじゃない?仕事や家事が終わるたび、「なにも終わっちゃいません、なにも!」って叫んだり。もしリエコがラーメン屋のパートをクビになったら、「ここには駐車場係の仕事すらないんだ!」って嘆くとかさ。

わたしたち、そんな遊びを繰り返してきたじゃない。


ところが、リエコのやつ何て言ったと思います?「スタローン、今は油が抜けたからまだ観られるけど、若い頃って、病気でさっぱりしたものが食べたいときに目の前に突きつけられる脂ましましのとんこつラーメンって感じだからムリ」。

 


アホめ・・・。

 

スタローンの魅力も分からずに、「メイクを取ったペニーワイズ、マジでイケメン~」などと年甲斐もなくキャッキャッとはしゃぎやがって。オーバーフォーティにはオーバーフォーティの嗜みってもんがあるだろうが。

私はスタローンが死ぬほど好きだし、なんといっても『ランボー』に『ロッキー』とものすごい作品を二つも持ってんだぞ!


大体リエコには、年齢に対する自覚が足りない。確かに異様に若くは見えるが。

先日は地元駅前で黒人にナンパされ「23歳に見えるって言われた!」と喜んでいた。声かけた黒人もびっくりだよ。毎日100人くらいに相手かまわず「キミ、23歳くらいに見えるね!」と言っているに違いないのに、本気で信じる40歳がいるとはな。


遡れば、忘れもしないタイ旅行。私もリエコも20代半ばだった。宿泊した川沿いホテルからは、駅や観光場所との行き来のために専用の船が出ていて、その船には雑用係のボーイが乗っていた。アホチャイだかパーチャイだかいう名前のお調子者で、全ての日本人の女の客に「カワイイねー」と声をかけていた。完全無視案件、なんならシャラップ案件。日本人の女が全員「かわいい~」しか言わないと思ってんじゃねえよ。

だが、人を無視することをしないリエコはアホチャイに都度応じ、そのうち「かわいいね~、メアド教えて」と言われてメアドを教え出す始末。アホチャイもびっくりだよ、多分1000分の一くらいの成功率だっただろうから。

船を使うたび、アホチャイが調子に乗ってリエコに犬のようにつきまとい、私は無視を決め込んでいたが、挙句リエコのやつ、一人優雅に川風を浴びている私を指さし、アホチャイに何て言ったと思います?


「ねえ、あの子にもメアド聞いてあげてよ~」。


アホめ・・・。


おお何ということ、アホチャイ(プレデターみたいな顔してた)が、憐れみを含んだ薄ら笑いを浮かべて私を見ている!

あの屈辱は忘れまい。


あと、道ですれ違う全ての犬に声をかけるのをやめてくれ。京都旅行に行ったときは最悪だった。やたらと犬を散歩させている人が多い場所に行ってしまい、いちいち「触らせてもらっていいですか」と声を掛けて飼い主と談笑、やっと歩き出したと思ったら、3メートル先の別の犬にも声を掛けるのだ!進まない、目的地につかない。


あと、ホームレスに道を訊くのもやめて欲しい。

ティッシュとかチラシ配りの人に丁寧に「結構です」って言わなくていいよ。居酒屋の呼び込みにいちいち「あ、他の店を予約しているんです」って言う必要もないんだよ!


でも、『IT イット“それ”が見えたら、終わり。』のことはごめん。IT全然怖くないよって私が言ったから、子供に観せちゃってギャン泣きさせたことはごめん。お宅の子供が泣いたって聞いて、うちの子供には観せるのやめたこともごめん。


そんなわけで私には、意地でもリエコをランボー ラスト・ブラッドに連れて行く理由がある。本日は『ランボー ラスト・ブラッド』の予告映像解禁を祝してランボー 最後の戦場をご紹介しようと思いましたが、お時間となりましたので、お別れです。

多分、これから始まる期末のせいで、しばらく更新ができません。寂しいな。チャオ。

 

www.youtube.com

『ワイルドライフ』

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監督:ポール・ダノ キャスト: キャリー・マリガンジェイク・ギレンホールエド・オクセンボールド/2018年
 
以前、世間の四、五歳児のブームが「ウ●コ」であるところ、うちの息子の場合は「ブタみたいだね。」であると報告をしました。ところが最近になって、「おんか(おかあさん)、この絵見て~。水色のウ●コ!」などと言うようになり・・・。遅れてのウ●コ期到来。世のガキのウ●コ期が、うちの息子のブタ期なのだと思っていたのに、これはどういうこと?息子にだけ余計なブタ期があったということ?
 
このウ●コ期、就学前には終わると思うでしょう?
小二の娘の報告によれば、先日給食に渦巻き状のデニッシュが出た際、男子がそれを分解して細長くし、「ウ●コ!」と言ったそうで。しかも、それをやったコに他の男子が「マジでお前、天才だな・・・」と羨望のまなざしを向け、次々とデニッシュを解体し出したというのです!男子のアホ期、いつ終わるのでしょうか。
 
最近の息子の流行りは私に「おんかは、まだつかえるよ」と優しく囁いてくること。「おんかはまだ、ここ何年かつかえるよ」「おんかは、まだ下駄としてつかえるよなど日々恐ろしいアレンジを加えてくる五歳児!ひぃぃぃ~っ、本気で将来が心配。
 
さぁ。本日はアホ男子とは縁遠く、大人にならざるを得なかった少年のお話ワイルドライフです。少年ジョーを演じたのはエド・オクセンボールド。おじいちゃんのオムツ&おばあちゃんのオケツ映画として知られる『ヴィジット』(2015)で、少年タイラーを演じていたコだよ。あのラップは最高だったよね。
 
 

◇あらすじ
1960年代、モンタナ州の田舎町で暮らす少年ジョー(エド・オクセンボールド)は、仲の良い両親ジェリー(ジェイク・ギレンホール)とジャネット(キャリー・マリガン)のもとで豊かではないが幸せな毎日を送っていた。ところがある日、ジェリーがゴルフ場の仕事を解雇され、山火事を食い止める危険な出稼ぎ仕事へと旅立ってしまう。残されたジャネットとジョーもそれぞれ仕事を見つけるが、生活が安定するはずもなく、優しかったジャネットは不安と孤独にさいなまれるようになっていく。(映画.com)
 
お待たせしました、ジェイク・ギレンホール祭り第二弾です。いつ、そんな祭りが始まったんだ。さっきだ。そして今回で終わる。

監督は、本作が初監督作品となるポールのダノちん。ジェイクが立ち上げたナイン・ストーリーズ・プロダクションズ製作作品です。
ダノちん&ジェイクと聞いて誰しもが思い浮かべるのが、コレ↓ですよね。
 

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ジェイクの取り調べに、「ノオーゥ」「ノオーゥ」と気持ちの悪い声を出すダノちん(『プリズナーズ』)

 
 
父親の失業をきっかけにバラバラになっていく家族を描いた本作。
物語は、越してきた地で得たゴルフコーチの職を、ジェイクが早々にクビになるところから始まる。この時点では、まだ優しく、しっかり者の妻キャリーは「あなたならもっといい仕事がある」とジェイクを励まし、「父さんは失業する度に仕事を見つけてきた」とエドを諭す。しかし、家庭に燻っていた「職の安定しない父親」という下火は、ついに大火事を引き起こすことになる。
 
家族の変化は、主にエドの目を通して描かれていく。ゴルフ場で父を見守るエドの不安気な表情から、観客はジェイクが解雇されたことを知り、キャリーがその事実を告げられるシーンでは、彼女に据えられたカメラが、エドが何より母の反応を心配していることを伝える。
 
このように、エドは自分のことよりも両親に気を配る大人びた少年だ。対して、本作のジェイクは、甘ったれでプライドの高さゆえに転職を繰り返しがちなドリーミング野郎。後日、ゴルフ場のオーナーからあった復職の申し入れも蹴り、ついには「俺は山火事を消しにいく」と家を出ていってしまう。
 
山火事は、その出来事自体は重要でなく、火種がやがて燃え上がる様が、また「下草を焼き払い森を再生させる」という点で、家族の有り様を象徴している。
 
エドは父の行動を、驚きつつも受け入れようとする。初雪が降る頃には父は帰る、父が帰れば家族は元に戻る、というエドなりのゴールがあるからだ。だからこそ、父よりも醜く年を取った男と関係を持ち、子供のように甘える母に理解が及ばず、困惑してしまう。
 
 

◇バービー人形としてのキャリー
ここからのキャリー・マリガンの、良き妻良き母であった女性が変貌していく様は見ものだ。行動や口調も然りだが、心理的な変化を表すファッションが楽しい。まずはピンク色のカーディガン。最初にこれを羽織っているキャリーは慎ましくも野暮ったいが、ジェイクが去った後、同じカーディガンを素肌に着て庭に立つ場面では憂いを含んだ表情も相まって色っぽい。
 
突然、私のファッション感をぶちこんですみませんが、カーディガンってのは、すごいヤツだと思いませんか。シャツの上に羽織ると清潔感があってキチンと見えるし、同じ服装でも袖を通さず肩に掛ければ、ユルッと力の抜けた感じに。「オンオフの切り替えにマストなヘビロテアイテム☆オフィスでのデキる女風からカレとの夜デートでは、さりげなくスキを演出して!」 とか定期的にファッション誌でも取り上げられている、たぶん。
前ボタンを留めて一枚で着れば、カジュアルにもセクシーにも使えるじゃないですか(あ、こういう言い方するから、息子が「つかえる」とか言うのかしら・・・)。
 
キャリーのカーディガンの着方を見て、私は、ほらね!と思った。
「おかあさん」だった人が、見知らぬ女性に見える瞬間、それを演出する小道具としての厚ぼったいピンクのカーディガンです。
頭を包んでいるスカーフは、ちょっと私には使いこなせない。あと、私はリカちゃんでなくバービー派だったの。
 
赤のセーターに深緑のワンピースといったキャリーの服装は彼女の変化を観客に印象付け、若い頃に好きだったという、やや幼稚な紫のブラウスをはしゃいで着て見せる頃には蓮っ葉ささえ感じさせるように。極めつけは、浮気相手のミラー宅を訪ねる際の背中と胸がばっくり開いたドレス。比例するように、彼女の振る舞いはヒステリック且つ幼いものへと変わり、反抗期のごとく親を放棄した母と冷静にならざるを得ない子の、母子逆転現象が起こってゆく。
 
その間、山火事を消しに行ったジェイクは、まったく出てきません。
 
 

◇家族は再生できるか
キャリーの行動を「浮気」と呼ぶのは、どうも違和感がある。ミラーに惹かれたというよりは、若くして結婚した過去を悔い、別の人生をやり直したいと望んだ結果、短絡的な思考が向かわせた先が権力のある男を得るという選択だったのだろう。ミラーは、たまたまそこにいた金持ちで包容力がある(ように見える)男に過ぎない。
 
やがてキャリー自身も、この状況が本当に自分が望んだものであるのかが分からなくなった頃、ようやく初雪が降る。母を持て余し、父のいる山に向かおうとバスを待つエドの前で雪が舞い出し、エドがバスに乗らずに駆け出すシーンは美しい。
 
さて、初雪とともに舞い戻ったものの、妻の裏切りを知って荒れるジェイク。
 
あ、やっぱり、そこは怒るんだね・・・。怖い怖い、その、いきなりバーン!って席立ったりされるのコワイ。いやまあ、怒るだろうけど、放ったらかしてったの、おまえやん?
 
キャリーの相手がミラーであると知ったジェイクはミラー宅に突撃、ガソリンを撒いて放火する。
 
 
さっきまで火ィ消しに行ってたのに、火ィつけた。
 
火消したいの?つけたいの?
さすがジェイク、考え得る中でも最悪の報復手段を採って私をびっくりさせてくれたが、この騒ぎにより現実へ引き戻されたキャリーの反抗期は終わりを告げる。

その後、家族はどうなったのか。
 
本作の印象的なジャケットは、エドがアルバイトをする写真店で家族写真を撮ろうとするシーケンスの一幕だ。
円満であった頃の食卓ではエドが中心になり、三人の支点を担っていた。事件の後、各自が異なる席についた同じ構図の食卓は、家族のちぐはぐであることを感じさせる。
 
だが、エドの発案で写真を撮るとき、それまで視線を合わせなかったキャリーとジェイクの二人は、エドのために空けた椅子を挟んでそっと視線を交わす。再生の予感を感じさせるラストシーンだった。
 
徹底的にぶっ壊すことで再生を試みる映画と言えば、同じくジェイク主演の『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』(2015)を思い出さずにはいられない。ジェイクがとてもジェイクらしい良い映画だったが、本作でも、積み上げたものを壊し、更地としたのちに再生させるところが共通している。
あと、どっちも原因は自分。←ここポイントね。
 
ジェイクには、今後もぶっ壊し俳優として、ぶっ壊し映画に積極的に出演して頂きたい。
 

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そういえば、キーボードもぶっ壊してたな❤︎

 

映画を差し置いて中島みゆき特集

 

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ひどい風邪を引きました。幸い会社が、社員たちのしつこい「在宅、在宅制度を導入せい!」の声を受けて試験期間を開始、週二回までテレワークOKだったので助かった。

私は見栄っ張りで、社内で「今、忙しいですか?」と相談事を持ちかけられたとき、よくいるでしょ、「今ムリ!後にして」とか「いつでも忙しいけど・・・なに」と忙しいアピールするヤツ、それが嫌いなんですよ。だから「うわああ。今ムリ」と内心では思っても、「大丈夫だよ」と言うようにしてるんです。
この見栄のせいで後で「さっきまで何やってたっけ」と白目になるわけだけど。

在宅勤務だとそれがない。客からもウチの営業からも電話が掛かって来ない(ウチの営業、電話かけてきすぎ)。何より、通勤がないことの素晴らしさよ!しかも時間差出勤も利用してるから、17時には自宅でフリーですからね。イヤ、モンスターが二匹いて、全然フリーじゃないけど。
 
 
さて。唐突ですが、私は中島みゆきが好きです。ビッグ・ビガー・ビゲストファン、それはそれはファン。
両親が好きだったので小さい頃から自然と口ずさんでいたし、やがて立派なみゆきフリークとなり、両親ですら私のみゆき愛に追いつけなくなりました。もちろん小中学校では変わり者扱いされたけど、脇目も振らずに、みゆきLOVEでした。
高校生になって仲良くなったコーラス部の部長が、文化祭で発表する曲として選択したのが『世情』だったときにはムチャムチャ感動した覚えがある。高校生が歌う歌じゃないよ、と。
 
私の人生の節目節目に中島みゆきがいたと言っても過言ではありません。
辛いことも中島みゆきの歌と共に乗り越えてきました。
うちの娘もすっかり中島みゆき好き・・・。ちなみに我が家では「みゆきちゃん」と呼んでます。
 
音楽活動45週年を迎え、全国ツアーは今年が最後と宣言しています。そのコンサートツアーの名称が「結果オーライ」。なんとも、らしいね。
前から、みゆき愛を語る記事を書きたいと思っていたところ、先日テレビをつけたら『ミュージックステーション』で45週年を記念して彼女の音楽史を振り返る特集と、何人かのミュージシャンによるカバーが放送されていたので、「あ、このタイミング」と思って記事を書く次第です。ありがとうございます。
 
 
 
70年代の歌姫
中島みゆき音楽史を紐解くには、活動期間があまりに長く曲数があまりに多い。世には、年代ごとの曲の特徴や音楽性の変遷などを緻密に分析・批評しているブログもあるので、それはそちらを参照させて頂くとして、私はみゆきちゃんのことになると「好き」「天才」「最高」と語彙不足に陥る。思い入れが強すぎて上手く書けないんだ。今回も「ああもう、こんな陳腐な表現じゃ表せない!」とこねくり回した挙句、ワケの分からない文章になったので、開き直って陳腐な表現をすることにした。文章の推敲もせず短時間でウワーっと書いた。よろしく。
 
1975年のデビューから1983年まで、数々のヒット曲を世に送り出してきた中島みゆき。デビュー曲『アザミ嬢のララバイ』や次のシングル『時代』はデビューアルバム「私の声が聞こえますか」(1976)に、有名な『わかれうた』なんかは4枚目のアルバム「愛していると云ってくれ」(1978)に収録されております。また、アルバムの名前もいいでしょ?

そして1980年、『うらみ・ます』を始め衝撃的な曲ばかりを収録した、ファンの間でも最も凶悪なアルバムとして語り継がれる「生きていてもいいですか」をリリース。デビューから80年代始めまで、まさに駆け抜けたという感じね。
 
中島みゆきは、言わずもがな同じ時代にディーバとして名を馳せた松任谷由実とよく比較され、「失恋ソングの女王」と言われております。確かに叶わぬ恋の曲が多く、そのイメージを本人に対しても抱く人が多い。しかし、彼女が話すのを聞いたことがあるだろうか。テレビに出ない主義の人なので、私が中島みゆきがどんな人か知ったのは、受験勉強しながら聴いていた土曜深夜のラジオだった(私は音楽がガンガン流れていても気にならない)。
 
喋り方が衝撃だった。天然か作りか?と今でも話題になるが、間違いなく生来のもの。あっけらかんとしていて可愛らしい人なのだ、元々、大したお嬢様だしね。ラジオでは視聴者からのハガキを紹介するコーナーで、バックに流れる鳥の鳴き声かなんかに対して、いつも「んもう、ちゃーちゃーちゃーちゃーうるさいわねッ!」と言うのが楽しかった。

「テレビに出ない」を貫いてきた人が、「プロジェクトX」主題歌の地上の星(2000)のヒットを受け、黒部ダムからの中継という条件で紅白に出場したわけだが、その後「もう、さっぶいのさっぶいのって!あーた、あたしの格好見た!?あの場所、気温何度か知っているぅ?」とぎゃーぎゃー言っていて爆笑よ。私はこの年と『麦の唄』のとき紅白をリアルで観ていたんだけど、「ああ緊張してる~!」と正座して見守ってしまい、歌どころではなかった。
 
脱線したが、「楽曲と本人の為人は別」。失恋ソングを書いているから、本人も失恋ばかりしている暗い人?そんなわけがない。前に作家の桐野夏生が、「子供を愛せない母親」の小説を書いたら「桐野は自分の子供を愛していないらしい」とどこかで書かれたと。「んなわけないだろ」と娘さんと一緒に笑ったと話していた。創作ってものを、みんながみんな、自分の体験を元に身を削って絞り出していると思わないで欲しいよね。もちろん、そういうスタイルの歌手や作家もいるだろうし、中島みゆきの歌にも明らかに自身の経験を歌ったものはある。でもそれで終わる人間は、終わってしまう。これだけの曲を「創作」し続けてきたことこそ、稀有の天才たる所以なわけだ。
 
さらに、中島みゆきの音楽にジメッと感があるかと言えば、ないの、案外と、これが。からしてみたら、ガサガサ声で「バスルームにルージュの伝言」とか言ってる方が陰湿だよ。
こちとら、ドアに爪で書いてゆくわ!
桜井和寿がカバーした『糸』の方がよほど、ぬめっとしてるしな。
もちろん『うらみ・ます』『異国』『エレーン』(全てアルバム「生きていてもいいですか」に収録)のように救われないまま終わる曲もあるんだけど、多くの曲が恋敵や別れた相手に対する恨みと情念を噴出させつつも、どこかあっけらかんとして人間味に溢れている。
あの人柄で、ああいう曲を書くこと、それがみゆきちゃんの凄さだと私は思っている。
 
 
 
御乱心時代!
1983年から1988年まで、この五年間をのちに本人が「御乱心時代」と評したために、ファンからもそのように呼ばれている。いわゆるスランプ期、みゆきちゃんが自身の音楽性の変換を図ろうと模索し悩んでいた期間のようだ。アルバムで見ると、様々な意見があるが、「はじめまして」「御色なおし」「miss M.」「36.5℃」「中島みゆきあたりがそれに当たると言われている。
 
なにが御乱心か?簡単に言うと、楽曲や歌い方をフォークからロックへ変えようとした。私はこの時代の曲も好きだけど。「miss M.」に収録された『あしたバーボンハウスで』『ノスタルジアはカッコいいし、「中島みゆき」の一曲『ローリング』は、後にリメイクされたバージョンよりも、こちらのオリジナルの方が味があって好き。だがしかし、「御乱心時代」幕開け直前のアルバム「予感」、これは私の超お気に入りのアルバムなのだが、この無機質とも感じる淡々としたフォークから、急に『幸福論』『生まれた時から』の音を聞いた当時のファンの衝撃は、推して知るべしといったところ。
 
年代で考えると、やっぱり70年代の曲が大好き。「予感」までのアルバムが良すぎたね。
 
 
 
みゆきちゃんの真骨頂は「応援ソング」ではない
ミュージックステーション」での、コンサートに訪れたお客さんへのインタビューでは皆「励まされる」「年代問わず寄り添ってくれる気がする」と言っていたので、「暗い曲と言わない人がこんなにたくさんいる」と嬉しくなった(中学のとき、暗い暗い言われ続けたので)。
 
ただ。AI、TOSHI、竹原ピストルが披露したカバーの三曲、これは番組側の選曲だと思うんだけど、まあ予想通りで。
 
 ・『空と君のあいだに』
 ・『糸』
 ・『ファイト!』
 
やはり、「中島みゆき的応援ソング」というテーマがぶち上げられてしまっていた。
「ファイト」の直接的な言葉、「縦の糸はあなた」「君が笑ってくれるなら」など誰の耳にも触りがよく、「励まされた!」という感想に直結するような飲み込み易い歌詞、そういうものが応援ソングとして賞賛されることに、ちょっとがっかりしてしまったのね。
 
いや、私も嫌いではない、これらの曲。でも「嫌いではない」であって、みゆきちゃんの凄さはここにはない、という思いの方が強くて。

この中でも『ファイト!』は、実はトンがってる内容なんだが(地方から東京に出してもらえない若者や、男にひどい目にあった女とかディープ)、「ファーイトッ」という軽快なシャウトと徐々に明るくなっていく曲調が災いし、あっという間に大衆向け応援歌として消費されてしまった。本当は、どうしようもない場所で藻掻く人を歌った、ダークな曲だと思うんだけどね(だから曲調は明るい)。ヘンに皆が口にするようになってから、イヤになっちゃった。
 
まあ、そこは前述した人柄にも繋がるわけだけど、中島みゆきは異様に寛容なのだ。自分のために作った曲だったのに、TOKIOにちょうだいと言われて「え・・え・・」って思いながらあげちゃったとか、ラジオでケラケラ~と話していたし。アーティストっぽい気難しさがない。それで、みゆきちゃんの曲を私はカラッと感じるのかもしれない。多分「こう解釈してほしくない!」とかムッとした顔で言わないんだろうなあ。
 
中島みゆきが再び大衆の目に触れるようになったのは、まずは『空と君とのあいだに』(1994)、その後は『地上の星』(2000)などだと思うのだけど、他にも『誕生』(1992)、『命の別名』(1998)、『宙船』(2006)、『麦の唄』(2014)、『倒木の敗者復活戦』(アルバム「常夜灯」)などの、ドスが効いた声でシャウトし人生賛歌を浪々と歌い上げる系の曲は、もちろんいい曲だが、私の中ではそれほど価値は高くなく、ましてや「応援ソング」だと思ったことはない。これらの曲は系譜としては、件の「御乱心時代」を継いでいると思っていて、そうするとやはり80年代、90年代~現代に至るまでの中島みゆきより、70年代の中島みゆきが鮮烈だったと思わずにはいられないんだ。
 
ミュージックステーション」でのカバーに関して言えば、AIの『空と君のあいだに』に、TOSHIの『糸』は凡庸さで私の顔を能面のようにさせたが、『ファイト!』を歌った竹原ピストルは、私をちょっとニコッとさせました。番組としては一般に寄るのは仕方ないが、コアなみゆきファンは「それじゃないんだよなあ」と観ていたんじゃないかな?
 
あ、ちなみに、前にSNSのファンコミュニティに入ったことあるけど、細かくてねちっこい奴が多かった(気持ち悪くてすぐ抜けた)。なので、私は誰とも語り合ったことがない孤高のファンです。
 
 
 
じゃあ何が応援ソングだ
そもそも「応援ソング」って言い方が気持ち悪いな。私が思う、グサッと刺さる曲を紹介します。
 
1)『ばいばいどくおぶざべい』
 
「次の仕事が決まったんだってね ロックシンガー」で始まる、だいぶロックテイストな曲。それもそのはず、ミュージシャンを目指し店でギターを弾いていた男が左手をダメにしてしまい、一生ギターが弾けなくなったことの絶望と決別を歌った歌だ。「どくおぶざべい」はオーティス・レディングの「ドック・オブ・ザ・ベイ(Sitting On The Dock Of The Bay)」のこと。
 
酔っ払ったような、投げ遣りな歌い方が大変いい。次の土曜の晩には、代わりの奴がいるんだろうな。俺はもう弾けないけど、最後に歌ってくれよと。
そして、サビの歌詞がこれ。
 
「幕を引かないでくれ 明かりを消さないでくれ」
「みんなわかってるから 誰も何も言わないでくれ」
「だから最後の歌は空より明るい ばいばいどくおぶざべい」
 
男の人生がここで終わってしまうくらい悲壮な内容なのだが、それを「空より明るい」と歌って幕引きしてみせる。カッコいいねえ、切ないね。
 
2)『怜子』
 
誰にも心を開かない男と一人で町も歩けないほど頼りない女、怜子が出会い、二人とも目を瞠るほどに変わっていく。それを傍で見ている「わたし」は実は、その男のことが好きだったという歌で。
ぎゅーっとなる歌詞がコレ。
 
「ひとの不幸を祈るようにだけは なりたくないと願ってきたが 今夜お前の幸せぶりが 風に追われる私の胸に痛すぎる」
 
うわああああ!!もうねえ、「人の不幸を祈るようにだけはなりたくない」ってところでハッとさせられるんだよォォォ!
 
3)『ホームにて』
 
飛び出してきた故郷に帰ろうと、何度も故郷ゆきの列車の切符を買う。ホームに停車した列車の中で、他の帰り人たちは暖かな灯りに包まれて楽しそうに笑っているが、自分の足はどうしても暗いホームから動かない。目の前でまた列車のドアが閉まる・・・という歌。
 
「走りだせば間に合うだろう かざり荷物をふり捨てて」
「ネオンライトでは燃やせない ふるさとゆきの乗車券」
 
哀しい物語に対して、なんとも美しいメロディと優しい歌声。
『ファイト!』の中にも出てくるが、地方に縛られる若者というのは、みゆきちゃんの中で一つのテーマのようだ。
 
4)蕎麦屋
 
これはね、みゆきちゃんのコアファンなら、多分ベストに入れる曲じゃないかな。
「世界じゅうがだれもかも偉い奴に思えてきて まるで自分ひとりだけがいらないような気がする時」と染み入るような歌声に、息が止まりそうになる歌い出し。
 
旧知の「おまえ」から電話が来て、蕎麦でも食おうと言う(これは実体験らしい)。風で暖簾がバタバタと鳴り、ラジオから大相撲中継が流れている蕎麦屋で、「今更お前と差し向かいで蕎麦なんか」と照れ臭く思っていたら、急に「おまえ」が言う。
 
「あのね、わかんない奴もいるさって」
「あんまり突然云うから 泣きたくなるんだ」
 
うわあああん!!!
 
そして二人は余計なことは話さず、風がのれんをばたばたなかせる音と知ったかぶりの大相撲中継を聴きながら、蕎麦を啜るのだ。
 
5)『化粧』
 
「化粧なんてどうでもいいと思ってきたけれど せめて今夜だけでもきれいになりたい」
 
年代を超えて全婦女子の目をカッと見開かせるような歌詞。けだるげな歌い方は『ばいばいどくおぶざべい』と似ているが、あちらの男視点に対して、こちらの歌い手は間違いなく女。

好きだった相手は、他の女と一緒にいて、自分を笑いものにしている。決別を告げる今夜、死んでもいいから綺麗になって、あいつを捨てなきゃよかったなと思わせたい、そんな女の意地を歌った歌なんだ。
 
「流れるな 涙 心でとまれ」
「流れるな 涙 バスが出るまで」
 
バスが出るまで、ってところが泣けるじゃないかァァ。
 
 
 
◆好きな歌詞
つかれてきた・・・。今までで一番の文字数だぞ。 気力を振り絞って、好きな歌詞を少しだけ紹介する。
 
『狼になりたい』から
 
 「買ったばかりのアロハは どしゃ降り雨で よれよれ まぁいいさ この女の化粧も同じようなもんだ」
 夜明け間際の吉野屋で、俺の分早く作れよこっちのが先だぜ、ってクダ巻いてる歌。
 どんな歌よ。
 
 「ビールはまだかァ!?」が最高。
 
 
『それ以上言わないで』から
 
 「君は強い人だからいいね1人でも だけど僕のあの娘は」
 「・・・それ以上言わないで」
 
 おい「僕」、ふざけんな!って毎回なる。
 
 
ノスタルジアから
 
 「泣いてないわ悔やまないわ もう一杯お酒頂戴」
 「嘆かないわ愚痴らないわ もう一本タバコ頂戴」
 「裁かないでね叱らないでね 思い出は物語」
 
 なんと、逞しくあろうとする歌でしょうか。こうありたいよね。

 
『異国』
 
 噂の『うらみ・ます』より、よっぽど落ち込む歌。
 「くにはどこかときかれるたびに まだありませんと うつむく」
 ぎゃー!!ってなる、聴くたびに。
 
 
『霧に走る』から
 
 「とりとめもない冗談になら あなたはいつでもうなづくのに やっと言葉を愛にかえれば あなたの心は急に霧もよう」
 
 あなたの心は、わたしにはないんですよ・・・ううう。って毎回なる。
 
キリがない! 
 
 
 
◆お気に入りのアルバムベスト3
 
第3位:
パワフルな歌に気持ちが高揚し叫び出したくなる「夜を往(ゆ)け」(1990)。名前もカッコいい!
 
第2位:
御乱心時代幕開け前夜、円熟の「予感」(1983)。
 
第1位:
言うまでもなく、凶悪アルバム「生きていてもいいですか」(1980)。聴くときは要注意だ!
 
 
 
◆好きな曲ベストテン
好きな曲、ベスト10を発表する。なんせ曲数が半端ないから少々迷うが、ここまでずっと聴き続けていると、ある程度は固まってブレないものだ。忘れてはいけないのは、中島みゆきは「北の国、北海道の女」だということ。なので雪や海、船乗りの歌が多い。体感し耳にし、生まれ育ったものにしか分かり得ない情感が歌詞とメロディに込められていて、トップ10も自然とその辺りの曲が多くなりました。
 
 
11位 ふたりは
10位 タクシードライバー
9位  裸足で走れ
8位  船を出すのなら九月
7位  化粧
6位  ばいばいどくおぶざべい
5位  冬を待つ季節
4位  根雪
3位  蕎麦屋
2位  雪
1位  誰のせいでもない雨が
 
おい、11曲あるじゃねェかよ。
 
特にベスト3は不動ですね。『誰のせいでもない雨が』は、私の人生のベストでもあります。
 
あと、『雪』はヤベえよ、『雪』は!
 
尽きないので、唐突ですが終わります。誤字脱字があったら教えてください。誰が読むのでしょうかこれみゆきファンは読むな

『ゴールデン・リバー』

 
皆さん、こニャンちは。
 
先日、S氏から「四月にクルレンツィスが来日する。歴史に残る第九になるかもしれんぞ」とメールが来たのですが、私はクルレンツィス氏が誰かを知りません。
 
誰も興味ないでしょうが説明すると、S氏は元々、私の夫の同僚です。家に遊びに来るうちに、たまたま居合わせた私の父とクラシックの話で意気投合、私の知らんとこで、手紙やCDをやり取りしているようなのです。なんだそれ。
 
なので、まあ父のためにクルレンツィス氏の公演のチケット取ってやれというメールだったんですね。「優しくしてやれよ」と書いてあったのですが、一体わたしのことをなんだと思っているのでしょうか。
 
じゃあ、うちの父が優しくされて喜ぶタイプの老人かというと、ノー。大病して身体こそガリガリですが、頭と自立心とプライドだけは人一倍キレているジジイで、ロッキンなエピソードには事欠きません。そんな父が「今回のクルレンツィスを聴けたら死んでもいい」みたいなことを言っているので、何とかチケットを取りたいところですが、激戦らしい。ゴールドラッシュ並みのチケット争奪戦となりそうだよ。この流れ、天才かよ。
 

◇あらすじ
ゴールドラッシュに沸く1851年、最強と呼ばれる殺し屋兄弟イーライ&チャーリー・シスターズは、町の権力者「提督」の命を受けて、黄金を探す化学式を発見したという化学者を追っていた。連絡係を務める男とともに化学者を追う兄弟だったが、ともに黄金に魅せられた男たちは、成り行きから手を組むことに。しかし、本来は組むはずのなかった4人が行動をともにしたことから、それぞれの思惑が交錯し、疑惑や友情などさまざまな感情が入り乱れていく。(映画.com)
 
シスターズ兄弟の兄にジョン・C・ライリー、弟にホアキン・フェニックス化学者にリズ・アーメッド、連絡係の男にジェイク・ギレンホールという超クセがありそうな顔ぶれでお送りします。
 
まず、この映画が面白いのが、監督がフランス人である点。
面倒くさいので、一足先に本作を取り上げたふかづめたんの『シネマ一刀両断』からパクると、
 
アメリカ西部になんの思い入れもないであろうフランス人のジャック・オーディアールが監督を務めていることから分かるように西部劇正史からは大きくかけ離れた作品」であり、「全ライリスト、全ホアキニスト、全ジェイカー必見の作」なのだ!
 
ライリストなんているのかよ。
 
何だか暗くて地味そうなこの映画に、私が劇場公開時から目をつけていたのは、もちろんジェイク・ギレンホールが出ているからに他ならない!(例によって主演ではない!)
私の好きな俳優と言えばジェイクとキリアン・マーフィだが、バーミンガム辺りで威張り散らかしてばかりのキリアンと異なり、ジェイクはコンスタントに映画に出てくれるし、特に昨年は出演作公開が続いた。『世界にひとつのロマンティック』(2015)は記憶から消去するとして、キャリー・マリガンとのワイルドライフ(2018)や本作は、らしいなって感じでした。ジェイカーの私としては、とても嬉しい。
 
まあ、最も存在感を放っていたのは、原作の『シスターズ・ブラザーズ』に惚れて映画化の権利をゲットしたジョン・C・ライリーだったが。
 
「ジェイカー」という言葉もふかづめたんが編み出したものだった。著作権を侵しまくったお詫びとして、将来ふかたんが本を出版したときは、300円までなら買うし、「著者近影」の写真は私が撮ることを約束します。カメラは苦手です。
 

◇シスターズ兄弟★珍道中
巷のうわさ通り、西部劇だと思ったらなんか違う。金に群がる人間たちの醜悪さや欲望が描き出されるのかと思ったら、どうもそんな感じでもない。
 
西部劇の定石に照らして語るほど西部劇を観てはいないが、それでも「こういうモンだろう」というイメージはある。例えば、敵と味方の間に引かれた境界線であったり、お約束のキャラクター造形(ニヒルor乾いてるor飄々)であったり。だが監督はフランス人であるので、そもそも「こういうモン」に拘泥する様子もなく、観客は、物語が徐々に西部劇のラインからズレていく感覚を味わうことになる。
 
シスターズ兄弟は、提督ルトガー・ハウアーの命令で、砂金を特定できる薬品を発明した科学者リズを追っている。先の町マートル・クリークでは、兄弟が到着するまでの偵察役として、ジェイクがリズを見張っていた。本作でのジェイクは気取り屋で、報告記録や手紙を書く時にもどこか詞的になりがちなインテリジェンス野郎。やはり思考を掘り下げるタイプであるリズに共鳴すると、共に理想郷を実現すべく、あっさりと役目を放棄してしまう。
 
兄弟が目的の町についてみれば、寝返ったジェイクとリズは既に発った後。彼らを追ってジャクソンビル→メイフィールド→サンフランシスコと旅をしていく中で、歯ブラシを手に入れたり酔っ払って馬から落ちたり森で蜘蛛に刺されたり、メイフィールド一族を返り討ちにしたりと、ジェイクとリズに関係のない物語が綴られていく。
 
とにかく、シスターズ兄弟の素の顔とやり取りが面白い。
 
アホの弟、ホアキンは、いつも酔っ払っている。
一見狂暴そうなジョン・C・ライリーは、弟のフォローに明け暮れる面倒見のいい兄貴。ライリーに関しては、そこここで垣間見られるコンプレックスの描写が、なかなかに切なくて。女性からもらったショールを夜な夜な取り出してスーハーするライリー。買った娼婦にそのシチュエーションを演じさせ、「もっと優しく」「そこはショールを見ないと!」と細かい演技指導をつける。
 
ある店で買った歯ブラシで初めて歯を磨き、口臭を確かめてニマッとするところでは、なぜか胸がキュンとね。あれ・・・?わたしジェイクを観てたのに、いつの間にか、磨いてんのが歯だか唇だかも分かんないライリーにキュンとしてるぞ、みたいなね。
慣れた仕草で歯を磨くジェイクと、口を泡だらけにしながら縦磨きに懸命なライリーの対比で、彼が殺し以外で如何に不器用な人間かがとっても分かる。
 
私のオススメシーンは、兄弟が殺し屋家業をやめるやめないで揉めるシーンだ。前の晩、ライリーを殴ったことを覚えていないと言い張るアホアキン
 
ホアキン「じゃあ、俺を殴れ、それでチャラだ」
ライリー、グーで殴る。
ホアキン「いってー、俺は平手だっただろうが!」
ライリー「ほーら、覚えてるじゃんか!」
 
うーん、どうにも締まらない殺し屋たち。でも、嫌いになれない。
 
観客は早いうちで、あ、これは西部劇ではなくて、「殺し屋ブラザーズ★珍道中」なんだな、と気づくことだろう。
 

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この眉間の線は、どうやったら入りますか?
 
 
兄弟はジェイクとリズに追いつくが、メイフィールドの部下を撃退するために共闘、あっさり和解して共に黄金探しに勤しむこととなる。どこかでシスターズが牙を剥くではないかしらという私のつまらない予想が当たることもなく、自然の中で楽しそうに過ごす。
 
しかし、牧歌的な雰囲気は長くは続かなかった。
やらかしたのは、やっぱりアホアキンであった。
 
リズの作った薬品は、川の中に流すと砂金だけがキラキラ光るというものだが、水の中に入る時間を限定しなければならないほどの劇薬。だが、砂金の輝きに興奮したアホアキンは、「もっと入れろ!」と薬品の入った入れ物をひっくり返してしまう。それをモロに浴びたジェイクとリズは瀕死の状態となり、アホアキン自身も右腕に重傷を負う。
 
夢の時間は終わりを告げる。
リズは息を引き取り、アホアキンはジェイクに銃を握らせ、彼の苦しみを終わらせる。
 
 

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ハァ、やっぱジェイク、かわいいわ。

 
 
◇珍道中の最後は帰郷だった
四人に偶然共通していたものは、強権的であった父親の影を払えず、いまだその影響下にいるという点だ。幼少期の恐怖を共有するがゆえに固く結ばれていたシスターズ兄弟は、図らずも同類であるジェイクらとの縁を得て、初めて他者と交流することになる。繊細で内向的なライリーはリズに心の鬱屈を聞いてもらい、ホアキンとジェイクは川で遊びながら何となく友情を深める。
 
兄弟のボス「提督」は、名前こそ頻繁に上るものの、画面上では遠目で窓越しに映されるのみ。また、ホアキンが殺したという実の父親も、夢の中の影としてしか現れないため、人物というより概念のようだ。

兄弟は、幼少時代は父親の、そして現在は父親に代わる存在である「提督」の支配下にある。終始二人が大人になりきれていないと感じるのは、このためだろう。兄弟は、ジェイクとリズの死の犠牲を経て、
父親の呪縛から解放されるため提督を殺すことを決断する。そしてクライマックスでは母親の元に戻り、ようやく失われた子供時代を過ごすことができるのだ。
 
この支配から卒業、ってことだな、まさに。
いや、『卒業』を聴くと鳥肌が立つって言ってるじゃん。
 
つまるところ本作は、兄弟の離郷と帰郷の物語であろう。
 
私は、この結末はハッピーと見たが、ジェイクとリズとの出会いで一瞬崩れた閉鎖的な世界が、再び閉鎖してしまったことを考えると、まさに「理想郷は理想であった」とする皮肉な結末なのかもしれないよね。
 
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『T-34 レジェンド・オブ・ウォー』

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監督:アレクセイ・シドロフ キャスト:アレクサンドル・ペトロフ、ビンツェンツ・キーファー/2018年
 
あっけおめー。
皆さん、何か面白いことがありましたか?私は料理ばっかりしてました。

正月ボケしながら出社したら、隣の席の新潟男子が開口一番、「やなぎやさん、実家帰ったら、知らない間に妹が結婚してました」と面白い話を披露してくれました。
賢くて静かなユーモアを持った青年だと思うのですが、何しろ自分でも認めている通り、反応と感情が薄ーい。家族との関係が特殊で、これまで報告してくれた「知らない間に」エピソードが面白く。
 
・知らない間に、兄に子供ができていた
・知らない間に、兄が家を建てていた
・知らない間に、自分を抜かした家族全員が温泉旅行に行っていた
 
まあ、最後の旅行の話はね。友達のつっちーも昔、家帰ったら誰もいなくて、母親から「ハワイ行ってきます。大丈夫、あんたはまた行けるよ」とメールが一本来ていたと憤慨してたっけ。わたしも将来、息子をそんな風に扱うような気がする。
 
さて本日は、正月に自由時間ができたので夫を引きずって行って鑑賞した『T-34 レジェンド・オブ・ウォー』をご紹介。上映しているのが池袋のシネマロサのみだったので、何十年かぶりに行ったわ、懐かしかったー。
 
『映画.com』での点数4.0と世間の評判は異様に良く、熱狂的なファンも生まれている様子。なにより、映画とカレーを愛するミキちゃん(S氏の幼馴染という可愛そうなコだ!)が、2019年のベストテンに挙げていた作品。そして、少年少女にお勧めしたいサッカー漫画『フットボールネーション』の作者大武ユキさんが昨年から盛んに推してらっしゃる映画。
 
残念ながら、私は酷評気味です。
この盛り上がり方、ちょっと盲目的というか、マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)のときと似ているよな。
 
最初に断っておくと、「あなたはあなた、わたしはわたし」を貫いてきたので、「好きな人に悪いかしら?」と思いながら書くくらいならブログなどやらないし、「あくまで個人の意見です」なんて当たり前なことも言いたくない。
例え私が、このケーキは不味いと言っても、美味しいと思う人はそのケーキがどれだけ美味しいかを自信を持って語れば良い。
 
とはいえ、ですよ。
私も、かわいいミキちゃんや大武ユキさんに不快な思いなどさせたくないし(ユキさんは読まないだろうが。)、本当に嫌いなら、わざわざ時間を割いてブログを書いたりしない。いずれ子供達が観たいって言ったら、脇で居眠りしながら、もう一回観てもいいくらいの気持ちではある。
 
 
◇あらすじ
第二次世界大戦時、ソ連の士官イヴシュキン(アレクサンドル・ペトロフは、ナチス・ドイツ軍のイェーガー大佐(ビンツェンツ・キーファー)に敗れて捕虜となる。三年後、収容所で行われるナチスの戦車戦演習のため、ソ連軍の戦車T-34の操縦を命じられたイヴシュキンは、仲間とともに無謀な脱出計画を立てる。
 
とにかく大味な映画である。それ以外、言い表しようがない。
脚本、設定、撮影、演出、すべてが大雑把。心に響かぬ音楽も辛い。
『鬼戦車T-34』(1965)のリメイクなのかな?あちらは映画館に突っ込んだり、もっと無茶苦茶していた記憶があるが・・・。んで、バッドエンドなんだよね、当たり前だけど。
 
それなりに戦争映画を観ている立場から言うと、戦争映画の醍醐味は、ほぼない。下調べが緻密?残念ながら感じないねぇ。戦車と戦車をぶっつけたい!が先にあって自ずと舞台が大戦時になったようにしか見えず、かと言って、鋼鉄の肌を美しく撮ることに執心するでもなく、戦車に魅了された兵士たちのドラマを描くわけでもない。キャラクターありきの物語が進む。
 
ドイツ軍のイェーガー大佐を演じたのは、前回の記事で2019年ヤナデミー賞大賞に輝いた『犯罪「幸運」』のカッレくんことビンツェンツ・キーファー。カッレくんに軍服着せるとは、やってくれるじゃないの。
 
 
◇ストーリーを追っていきましょう
序盤のネフェドヴォ村の対戦から三年後、イヴシュキンは捕虜として、イェーガーは収容所の責任者として再会する。ソ連軍から奪った最新型T-34戦車を相手に実戦同様の演習を行おうとするイェーガーは、イヴシュキンと彼の部下たちを敵の戦車部隊役に指名、演習への参加を命じる。戦車の中を片付けていたイヴシュキンらは、兵士の遺体の下に砲弾と手榴弾を見つける。
 
・・・。
 
ドイツ軍は、敵の戦車の中を調べもせず捕虜に受け渡すと・・・いうのかッ?
 
いやあ、、、私、ドイツ好きじゃん?
スターリングラード(1993)やヒトラー最期の12日間』(2004)などのドイツの敗戦をドイツが撮った映画が好きだし、浦和レッズのレジェンド、ギド・ブッフバルトもドイツ人なわけ。退団セレモニーには白馬に乗って登場したんやで?
私の永遠の脳内彼氏、『エロイカより愛をこめて』の少佐も愛国主義のドイツ人、だから、ドイツ軍をナメくった映画はそれだけで評価下がるんだよね。
 
さて、ザルすぎるドイツ軍の監視に労せずして砲弾を隠したイヴシュキンらは、その後も戦車の整備を進めつつ砂で演習場のミニチュアを作って逃亡計画を練ったり、ペラペラと自由にロシア語で会話したり、捕虜生活の間にいい感じになった翻訳担当のアーニャと目と目で通じ合ったりと、やりたい放題。
 
こうなると、イェーガーがどんだけマヌケなの?という話になってしまう。
挽回するかのように、「演習場の周囲に地雷を埋めろ」と薄笑いを浮かべるイェーガー。ああ、お見通しなんだな、どうなるイヴシュキン隊!と観客をワクワクさせてくれるのだが。
 
アーニャがこの事実をイヴシュキンに告げると、地雷の件は、すっかりなかったことに。イェーガーは、地雷どこに埋めたん。自分の頭ン中か?
 
演習当日。イヴシュキン隊は隠しておいた砲弾をぶっ放してドイツ兵を蹴散らし、脱出に成功。楽しく街道を転がして、腹が減ったなと街で食料などもゲット(途中のバス停でアーニャも乗せた)、特に労せずにして、あと一時間で目的地のチェコ国境というところまで辿り着く。
 
・・・。
 
そうだね、うん、手段は色々あると思うが、ドイツ軍には、爆撃機とか。ない?
 
気を揉む私に応えるように、やっとこさイェーガーが言う、「空軍に連絡だ」。それそれ~。もう、おそいってー、数時間前に言うべきだって。
 
次の瞬間、出てきたのは偵察機だった。
ううん、違うよ、偵察機飛ばしてどうするの?頭ン中の地雷が爆発したの?
 
イェーガー「あ、空軍ですか?捕虜に戦車で逃げられちゃって、ハハッ。爆撃機出して欲しいんですが。え?全機、故障中?オーマイイェーガー」。恐らくこんな感じだろう。
 
偵察機に同乗したイェーガーは、空からイヴシュキンらの戦車を見つけると満足そうに微笑み、そして戻っていった。こっからまた戦車で出動するんだって。その間に逃げられるぞ。しかし戦車でドライブ気分のイヴシュキンらは、もう少しで国境という森の中で野営をすることに。
 
・・・。
 
いま野営を、するんじゃない。
そこ、湖で泳ぐのはドイツを脱出してからになさい。あコラ、そこの二人、ヤるんじゃない。
そんなことをしてたから、ほーら、一度戻って出直してきたイェーガーに追いつかれちゃった。てか、もう戦車にこだわる意味。捨ててけ、目立つから。
 
※ラストには、わざわざ場所を変えて戦車同士が一騎討ちするというワケのわからん一幕があるが、もはや触れまい。
 
 
◇アップショットのカッコ悪さ
本作が全編を通じて鈍重に感じられるのは、スローモーション及びストップモーションとCGの乱用による大仰な演出が原因だろう。砲弾が発射される瞬間、着弾して爆発する瞬間、あるいは弾と弾が宙ですれ違う瞬間が都度、スローモーションで切り取られる。これがダサい。
 

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こんなことせんでええ。
 
また、人物の顔のアップショットの切り返しも、うまくない。ネフェドヴォ村での戦闘や、収容所で会話する場面では、主役二人の顔のアップが交互に切り返され、それ以外の情報が入って来ない単調な画面に瞼が重くなってしまう。
 
映画終盤、ある街を舞台に再び戦車戦へと突入するのだが、理解に苦しむのは、一番の見せ場となるべきこのシーケンスを、冒頭と同様の市街戦とした点だ。
 
狭い道を戦車が塞ぎ、近距離でジーッと睨み合う退屈な時間が続く。緊迫感を演出するために戦車と人を繰り返しドアップで撮るやり方にうんざりしているのに、またぞろ、戦車同士が目と鼻の先で戦車砲を突き付け合う息苦しい画を見なければならない。
 

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これな。
 
当然、戦車は走らせるべきだ。走らせずして、戦車の獰猛さを、戦車乗りが誇る卓越した技術をどう伝えるというのか?
キュラキュラと不気味な音を響かせて迫って来るキャタピラを撮れどちらのスピードが早いか、より頑強か、操縦技術が優れているか、それを横から上から下から撮れよ。
 
この世には、『レッド・アフガン』(1998)や『フューリー』(2014)などの優れた戦車ラブ映画がある。戦車偏愛映画『レッド・アフガン』では、こちらも口の中が乾くほど緊張したし、戦車対戦車の息を飲む攻防に関しては『フューリー』が素晴らしい。ドイツの化け物ティーガーと出会して戦闘に雪崩れ込む緊迫のシーケンスを見習ってほしいものだ。
 
また鬱陶しいのが、イヴシュキンの恋の相手アーニャを絡めるために発生する、ドイツ語⇔ロシア語の翻訳のムダ時間。例えば、こうだ。
 
・イェーガーがドイツ語で何か言う(字幕出ない)
・アーニャがそれをロシア語に訳す(ここで字幕が出る)
・イヴシュキンがロシア語で答える(字幕出る)
・アーニャがそれをドイツ語に訳す(字幕出ない)
 
イヴシュキンとイェーガーの会話であるはずなのに、アーニャを介するがゆえに同じ内容のセリフを×2で聞かされることの煩わしさ。単純に二人がロシア語とドイツ語を解する設定にすれば良かっただけの話である。
 
最後の、立場は違えどの体で友情らしきものをチラつかせる演出など、恥ずかしくて直視できなかったわ。
とにかくダメなのはコレを大真面目に撮っていることだ。無茶苦茶な感じに振り切れば、まだマシだったかも。
 
あと、も一つだけ言わせて。
キーファーくん(イェーガーね)を正面、煽り気味の位置から撮るな。その理由は、キーファーくんは前歯が、すきっ歯だからだ!
 
文句言い過ぎたから、フォローしようと思ったけど、あんまり出てきませんでした。
あ、白鳥の湖のところと、バス停で待ってたら戦車来た、は面白かったと思うよ。
 
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