Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『エージェント・ウルトラ』

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監督:ニマ・ヌリザデ キャスト:ジェシー・アイゼンバーグクリステン・スチュワート/2015年
 
皆さん、こにゃにゃちは。給付金振り込まれてるぅー?

昨年は私、小学校のPTA役員と学童の父母会役員を兼任した地獄の年でした。特に学童の方が市内10クラブを横断する組織での活動だったものでコミュニケーションが難しく、何より困ったのが各クラブで持つデータを例年USBで引き継いでいること(詳細は省くが、USBがクラブ分10個存在すると想像されい)。
 
コロナで新役員への対面での引き継ぎができなくなり、10人グループのLINEで「あのUSBは誰に渡せば?郵送?手渡し?」とか「あのデータはどこに入れればいいんですか」「こっちです」「いやこっちですよ」と大混乱。あまりに代表クラブの仕切りがむちゃむちゃだったもんで、黙して坐していた私は、ついに抜刀した。クラウドにアカウントを作ってデータを入れ、送りつつこう書いたね。
 

いまどきUSBって、USB(うそだべ)?
 
 
キマったね。
 
まあ、10人もの人間がワチャワチャやり取りしている間は発言しないのが賢明ですよね。「私も〇〇さんに賛成です」とか言われてもさ、顔もよう覚えてないのに「私」が誰で「○○さん」が誰かも分らんし、仮に建設的な意見が投じられても混乱の濁流に流されてしまう。なので、抜刀のタイミングが重要なんだよ。
 
以上、やなぎや抜刀斎の居合抜き講座でした。ここまで読んだ人は講座代金置いてってよねっ。
本日はエージェント・ウルトラ』で、USB(うさばらし)!
 
 

◇あらすじ

日々をのらりくらりと過ごしてきたダメ男のマイクは、恋人フィービーに最高のプロポーズをしようと決心するが、なかなかうまくいかない。そんなある日、アルバイト先のコンビニで店番をしていたところ、謎の暗号を聞かされたマイクは、眠っていた能力が覚醒。スプーン1本で2人の暴漢を倒してしまう。実はマイクは、CIAが極秘計画でトレーニングされたエージェントだった。マイクは、計画の封印を目論むCIAに命を狙われることになるが……。(映画.com)


ある田舎町で、質素ながら幸福な毎日を送る二人。精神不安定なジャンキー男子マイクはスイッチが入るとすごい勢いで妄想を巡らせるクセがあり、常識は欠如しているが、恋人フィービーへの愛情は深い。

マイクを演じたのはアメリカの二宮和也ことジェシー・アイゼンバーグアメリカの坂口健太郎とも言われる。若いのかと思ったら、もう36歳なのねー。デヴィッド・フィンチャーソーシャル・ネットワーク(2010)が良かった。

 

フィービーにはクリステン・スチュワート、当ブログでは以前『トワイライト 初恋』にてタマネギ女優として紹介済みである。『トワイライト』シリーズで共演したロバート・パティンソンと付き合うもフロに入らないことに辟易して別れたとかそうじゃないとか、レッドカーペットでヒールを脱ぎ捨てるパフォーマンスを見せるなどクールなトンガリ系女優だが、私はヒールでないと完成しないファッションもあると思っているので、クリステンには気が向いたらヒールも履いてもらいたい。

ジェシーとクリステンは『カフェ・ソサエティ(2016)でも共演しており、ハイソでセレブな『カフェ・ソサエティ』鑑賞後に本作を観ると、パンクな二人をより楽しめること請け合い。特にジェシーをきりりと支えるクリステンは、ずっと見ていても飽きないくらいに眼福。

 

 

◇ご当地系CIAエージェント
あらすじの通り、実はジェシーはCIAの実験プログラム「ウルトラ計画」で造り出された超人的な能力を持つエージェントだった!
彼の教育担当であったラセター(コニー・ブリットン)がある理由から計画を中止、以降ジェシーは記憶と能力を封じられ、監視を受けながら一般人として生活していた(だから、様子がおかしかった)。しかし、失敗作ジェシーをこのまま生かしておくことに反対するCIAの新たな指揮官イェーツトファー・グレイスジェシーの抹殺を決定、暗殺部隊“タフガイ”を送り込む・・・。

という話なのだが、まあまあ、ゆるいよ。というかラブストーリーなんで、CIAとか陰謀などは話を盛り上げるための恋の障害物と思ってください。ご当地感が楽しく、”タフガイ”の襲撃場所はジェシーの働くスーパー、自宅、ホームセンターなど日常的な場所だし、何と言ってもジェシーが手近にある物を引っ掴んで殺傷道具に変えてしまうことのおかしみね。
 
さらに四角と円形の日用品がそれぞれ襲撃と撃退を表していて、スーパーの看板、店内の陳列、真上から映されるレジスター、ローズのサングラスなど、これから起こる災厄を予感させるものは四角く、カップ麺とスプーン、フライパンにラセターのサングラスとジェシーの身を守ってくれるものは丸い。

そう、よくわからないが、私は四角と丸に敏感なのである!コレはしかくだね、これはまるじゃないのと気になりだしたら止まらない。集中できなくなるから誰か止めて欲しい。え?コンビニの看板はだいたい四角だし、丸いレジスターなんてないじゃん、ですって?
USB(うるせえ些細なことはいいだろブゥー)。
 
 

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◇イェーツどつきまわしの刑
ジェシーは頭がイカれているので、タイミングもよく外す。クリステンのため計画したハワイ旅行を自らおじゃんにしたというのに、気落ちしているクリステンを窺いながら「今がいいかも」とプロポーズをしようとする。絶対に今じゃないと思う。
 
ジェシーがどんな奇天烈な行動を取ろうと、彼を盲目的に愛するクリステンだが、異常な包容力には理由があった。みんな、途中で何となく気付くだろう。
クリステンの正体を知り一旦は拒否したジェシーが、彼女を助けるためホームセンターに「君を愛している!」とトラックで突っ込んでくる場面で、ハワイ旅行用のアロハシャツに着替えているのには爆笑した。それ、今着るの?

このホームセンターで、ジェシーVSタフガイ、クリステンVSイェーツの戦いが繰り広げられ、物語は盛り上がりを見せるのだが、クリステンとラセターの女二人によるイェーツどつきまわしが、これまた面白い。
計画の新しい指揮官がイェーツだと知ったラセターは、「まさか、あなたが責任者?」「媚を売る天才」「誰の決定?ダフィー・ダックと言いたい放題。クリステンは「事務職のあんたが、ここでなにしてんのさ」と馬鹿にする(このときのクリステンの顔!)
 
イェーツ、あんまりな言われよう。

その後、イェーツに引きずられたりぶん殴られたり、殴り返したり蹴飛ばしたりするクリステンのズタボロ感が迫力なのだが、血に染まった歯をむき出して中指を立てるショットはトゥルー・ロマンス(1993)のアラバマにそっくり。先輩イカカップルへのオマージュなのかしら。どっちがイカれてるか選手権をするといいと思う。
 
でも、ラストはなかなかに感動的なの。
ジェシーとクリステンが傷だらけになりながらも敵を倒し、外に出ると、ホームセンターは警察に包囲されていた。ヘリとパトカーのライトで照らされる中、よろよろと指輪を取り出しクリステンに差し出すジェシー今かよ!

両手で口を抑え、感極まるクリステン。お前もな。
 
エスをもらったジェシーは喜びのあまり、「結婚するぞー!」と警察に叫んでテーザー銃で撃たれる。銃の線と倒れた二人が交差してできたバツ印が恋の成就を示し、「■+●=×」の式が完成するところなんか、オシャレかもしれない。
 
眼福だし楽しいし、憂さ晴らしに打ってつけの映画です。別にそんなにウサに拘る理由なんかないし、ウサが溜まっているわけじゃないけどさ?むしろ、私は元気なので、本日はUSB(うさぎ跳び)しながら、お別れです。
 
ピョン、ピョン、ピョン。それではみなさん、また会う日まで〜。
 
(C)2015 American Ultra, LLC. All Rights Reserved.

『魂萌え!』

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監督:阪本順治 キャスト:風吹ジュン三田佳子/2006年
 
主婦の皆さん、こんにちは。
 
友人のリエコは、子供達の休校が延びるたびに「しぬ・・・」となっています。
私のように在宅勤務という大義名分があれば、ちょっと
息抜きもできますが、専業主婦はそうもいかないようで。終始、子供らの相手をして日が暮れる、本当にお疲れさまです。そんなリエコから、一昨日と昨日に以下のようなLINEが来ました。
 
「いまテレビで、中村俊輔(※サッカー選手)が女装してると思ったら、あいみょんだった」
「いまテレビで、りんごちゃん美人になったなと思ったら、JUJUだった」
 
うん。とりあえずテレビつけっ放しなんだなと思った。たまには消そうね。
 
私はと言えば、最近「グリルの呪い」にかかっています。
先日、何か一品足りないなと思って、ナスとトマトにオリーブオイルとパルメザンチーズを振りかけ「おしゃれなもんができそう、アハン」とグリルにイン。数日後、変な臭いがするな~と思ってグリルを見ると、焼いたまま放置したナスが黴びていた。
さらに昨日のこと、またしても妙な臭いを鼻に感じた私は、おそるおそるグリルを開けた。そこには焼く直前で忘れ去られ、暖かい気候の中で二日間熟成されたサザエが・・・。腐ったサザエの臭いって初めて嗅いだわ。
 
本日は良き主婦のための映画魂萌え!をご紹介します。
旦那が死んだ後、別の女がいたと知ったらどうする!?
 
 

◇あらすじ

突然夫が他界し、途方に暮れている団塊世代の専業主婦・敏子は夫の携帯電話から、夫の愛人の存在を知る。そこに子供たちの身勝手な行動も重なり、自らを取り巻く環境にうんざりした敏子は家出を決行する。(映画.com)

原作は2004年刊行の桐野夏生の同名小説。以前から何度か触れているが、私は大の桐野夏生ファン。ファンだったといった方が正しいかも。作品を追わなくなって久しく、改めて確認したら、2010年代以降は数冊しか読んでいなかった。『顔に降りかかる雨』に代表される女探偵村野ミロシリーズのハードボイルド路線から、徐々に女たちの情念を描くようになった1990年代~2000年代始めが、私にとっての桐野夏生の円熟期。『柔らかな頬』『玉蘭』『グロテスク』が特に好きです。
特に『柔らかな頬』はさ、池袋の古本屋で買ったとき、いい感じに汚い店主に無表情で「これ面白いよ」って言われたんだよねー。あの本屋、もうないだろうな。
 
ある作品を機に桐野夏生は、がらりと作風を変える。村野ミロシリーズの久々の新作『ダーク』で、主人公ミロ自身を、そして彼女が信頼する数少ない人間たちとの関係を徹底的にぶっ壊して見せたのだ。何よりも衝撃だったのは、繊細で誇り高くミロの心の支えであった親友のトモさんが、『ダーク』では突然、薄汚く低俗な人物として描かれたこと。
 
その後の、やはり女たちを中心に世間の闇を描いた作品群は、猜疑心や虚栄、騙し合いや裏切りなどのこってりとした『悪意』に塗りたくられ、それゆえにどこか現実感のなさを漂わせる。「人間そうも簡単に『悪意』を噴出させるものではない」ということだ。
 
魂萌え!も、その作品群の一つで、主婦である主人公と二人の子供、学生時代からの三人の友人、そして夫の死後に存在が判明する愛人との関係を主軸に物語が展開していく。本筋は、世間と遮断された家庭で過ごしてきた団塊世代の妻が、否応なく社会での無力さを突きつけられ、やがて乗り越えていく過程を描いた主婦のための応援歌といったところだが、登場人物たちは腹を探り合い見栄を張り、笑ったと思ったら突然卑屈になったりと、素直なまでに己が内の「負の部分」を露呈する。つまり、『魂萌え!』も私にとっては、上述の「簡単に曝け出されるがゆえに全く恐ろしくない悪意」の印象を受ける作品のひとつだ。
 
だが、これを映画化した本作は、原作に漂うモヤモヤした空気を切り捨て、本筋の要素だけを抜き取った爽やかな女性の成長譚となっていた。
 
監督は阪本順治。この監督、好きです。できれば近々感想を書きたいと思っているのだけど、大鹿村騒動記』(2011)が素晴らしかった。ちょっと前にポンちゃんことポン・ジュノが日本のTV番組に出演してお勧め作品を三本上げており、一本が阪本順治『顔』(2000)だったのだが、これも面白い。ポンちゃんのチョイスは他も予想を裏切らずというか如才なくというか、黒沢清是枝裕和だった。ちなみに、是枝裕和はあまり好きじゃない。
 
 

◇主婦のロードムービー
夫の葬式を済ませた敏子風吹ジュンは、クローゼットのスーツの中で夫の携帯が鳴っていることに気がつく。「伊藤」と名乗った相手の女が夫と只ならぬ関係にあったこと、さらに蕎麦打ちを習いに行っていた毎週木曜日、夫はその女に会いに行っており二人の関係が十年と長いものであったことを知り、衝撃を受ける。
 
その他にも夫の死による問題は彼女に伸し掛かるのだが、永遠の少女という雰囲気の風吹ジュンの、ほわんほわん色が全体を占め、おかげで「女性の成長譚」と表現するのはちょっと大げさなくらい、ロードムービー感が漂う。
 
印象的なのは、ここぞという場面でじっくりと映される顔のショット。
例えば、夫の定年の夜、突然夫に握手を求められ、ワケが分からずポカンとした風吹ジュンの顔は、次に喪服を着て空を見上げる顔に切り替わる。この間には三年が経過しており、あの晩、何と言われたのかが思い出せないまま煙になった夫を見送っているという状況だ。
 
また、夫の愛人伊藤三田佳子が線香を上げるために家を訪ねてくるシーン。風吹ジュンは、チャイムが鳴ってから口紅を引き忘れていることに気づいて唇に触れる。次のショットは訪問者の三田の顔ではなく、唇に赤い紅がしっかりと引かれた風吹ジュンの顔だ。無言の彼女の顔に、状況や感情が強調されるようになっている。
 
互いの矜持がぶつかり合う女同士の対決が見どころなのだが、二人が対面で会話するのは二回きり、そして、この二回の対比が面白い。
家を訪ねてきた三田佳子は、予想に反して白髪交じりの年嵩の女だった。だが、全体的に品があり、所作は玄人じみている。家に上がる瞬間、黒いストッキングの下の爪に綺麗にペディキュアが塗られているのを見た風吹ジュンは、相手が「現役の女」であると感じる。さらに『阿武隈』という蕎麦屋を経営することを知り、夫が蕎麦打ちを習いに行っていた事実と結びついて、どうしようもない敗北感に襲われるのだ。ストッキングの下の赤いペディキュアと慌ててつけた口紅に、優劣が表現される一度目の対峙。
 
彼女は「ぬくぬくと家庭で守られてきた世間知らずの主婦」という自分の姿と対峙する。そして子供たちの身勝手にうんざりしてカプセルホテルにプチ家出をするのだが、このカプセルホテルっていうのが、桐野夏生なんだよねぇ、そうは思いませんか。
だって、カプセルホテルに行かないじゃない!?
しかも15年ほども前のことだから、いかにもなカプセルホテルなわけだ。桐野夏生という人は、お嬢さんぽい人を、いきなり別世界、様々な事情を抱えた人間が集まり悪意が渦巻いているような場所に放り込みたがるような、そんなクセがある。
 
映画でも、このカプセルホテルのくだりが面白い。ここで登場するのが第三の女、加藤治子ホテルに住み着いている老婆である加藤治子は壮絶な転落人生を送っており、その苦労話を「売って」いる。風呂場で偶然、時には必然的に一緒になった相手に、するすると世間話のごとく自分の身の上話をし、後で「奥さん、ただで人の不幸話を聞こうと思っちゃいけませんよぉ」と金銭を要求するのだ。
原作では渋々の体で金を払う敏子が、映画では心から感謝して当然のものとして支払うのも面白い。
加藤治子の小狡く逞しい生き方が、一人の男を挟んで揉めている風吹ジュン三田佳子を「まだまだヒヨッコ」と笑い飛ばしているかのよう。
 
二回目の対決は、愛人側の三田佳子に主眼を置いて観ると面白いだろう。線香を上げに来たときとは打って変わり、男の死と、男が残したものは何一つ自分に受け継がれないという事実に打ち拉がれている。それを示すのがペディキュアが拭い去られた裸足の足。
「勝ち負け」に拘る彼女は、前回は、思いもよらない事態にオドオドする妻に対して明らかに優位に立っていた。だからこそ、線香を上げさせてもらった礼は言っても、詫びることはしなかったのだ。だが、自分を取り戻した風吹ジュンの佇まいが、逆に三田佳子を追い詰める。
 
この映画は、風吹ジュンのささやかな挑戦を、ゆるゆるとした空気とユーモアを交えて追うことで、どちらの女も手放さなかった夫や悪びれもしない三田佳子の罪を断ずる方向に導かないよう工夫がなされているように思う。
夫の不実は、もはや意味はなく、女たちが自分の存在意義を己に問うための装置でしかない。
観客は、「あなたはいつでも取り換えの利く家具と言われていたのよ」と精一杯の攻撃をする三田佳子に憤激する間もなく、「だったら取り換えればよかったのに、何故そうしなかったの?」と切り返す風吹ジュンの変化と強さにハッとなる。そんな感じだ。
 
それにしても、阪本順治は音楽のチョイスと使い方が良いと思う。
あと、書き切れなかったけど、いつも役者がよいよ。
ではまた。チャーオ。

悪ノリをやめたい

本日はお日柄もよく、映画から脱線した話をしたいと思う。

題名の通りなのだが、私は悪ノリがひどい。悪ノリというのか、真剣にならなければいけないときほど、場を混ぜっ返したりしてしまう。「そんなに深刻になっても解決しないよ?」と周囲の緊張を解きほぐそうとか、先陣切って余裕を見せなければとか、そんな意識から来るものなのだが、多分、生真面目な人からは嫌がられると思う。

以前、娘が私設の保育園に通っていたときのこと。園長が「ほっしゃん。」(旧)に激似だった。その園長が、年度が変わるか何かで保護者の前で挨拶することがあり、第一声、「保護者の皆さま、いつもきちんと保育料を支払って下さり、ありがとうございます」と言った。

当然ジョークだと思った私は、「あーはっはッは!」と声を出して笑ったのだが、笑ったのは私一人だった・・・。

 

少し前には、娘が通うサッカークラブで試合があったときのこと。若いコーチ陣のリーダーが何というのか、外見はサッカー少年がそのまま成長した感じなのだが、中身がゆるキャラのような好青年で。時に指導に熱中するあまり周囲が見えなくなるが、人柄の良さがカバーして熱さが鬱陶しく映らない。話し方がちょっと舌ったらずなのも可愛らしい。私は、このコーチの喋り方をマスターし、日々、娘に「コーチがいつも言ってることがみっつあります」と真似をしてはイヤがられているのだが、さて、試合の後に、コーチから子供たちにお話があった。

「コーチがいつも言ってることがあります。それは、お父さんとお母さんに感謝すること。」と始めたコーチが例によって舌ったらずな熱の入った口調で、「お父さんお母さんが、汗水垂らして働いてくれるおかげで、皆ユニフォームや靴が買えるんだよ」と続けたもので、私はツボって「うーふっふッフ!」と爆笑した。が、誰一人笑っていなかった・・・。

夫からは後で「あんなに笑うやつがいるか」と言われた。

 

また、つい先日のこと。仕事が全面的に在宅体制になるに当たり、部長と部署のメンバーと社内チャットでやり取りをしていた。部長が「部署から一名は出社することになった」と書くべきところを「部署から一命」と誤字をしたが、誰もそれに触れないまま話は進んだ。ついに我慢が出来なくなった私は、「『一命』はシャレにならないでしょー!」と書いた。すると部長は「あ・・・申し訳ありません、不謹慎でした」と。

 ・・・。


そこはさ?うまくノるべきではないのか?言った私が鬼みたいじゃない。
冗談が分からない奴だなッ( ゚д゚)、ペッ

まあ、上記の件は割とどうでもいいので、本題に行きたいと思う。

 

 

◇本題

同じチームの二十代の女の子が、滅多にお目にかからないほど賢くて美しいコだ。すらりと背が高く、構わない服装やノーメイクの時も多いが、それすらいいなと思わせてしまう。コミュニケーション能力が高くて、英語が堪能。人懐っこいが媚びは一切なく、若干男勝りでパワフルで、意外にずぼらな感じがまた愛らしい。

ふんだんな愛情と教養を与えられて育った人間というのは、ここまでコンプレックスと無縁になれるものなのかと感心する。

彼女は二年前にうちの部署に異動してきて、私とすぐに仲良くなり、ランチに行ったり、誕生日にはプレゼントあげたりと楽しい関係を築いている。そんな中で、先日起こった話です。 

彼女から、営業(29歳男)と私にメールが来た。↓こんな感じ。

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>●●ぱいせん
押してた甲斐があって、○○社から依頼来ました!

>やなぎやさん
私はまだ対応出来ませんが、勉強したい気持ちはあります。やなぎやさん主体で進めてもらって、私も訪問に同行させて頂いていいですか?

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私は、いつも真面目な彼女が仕事を取って浮かれてるのがカワイイなと思い、私にパスしてもいいのに自分でやろうとするのも嬉しかった。「『ぱいせん』てなんだよ」とおかしくて、これは突っ込まねば、と以下のようにメールを返した。


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「ぱいせん」にイラッとしました。

さて、アポの件ですが・・・(以下略)

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で、そのまま昼休憩に行った。
・・・ここまで読んで頂いた方は、この後、何があったか分かりますよね?
いま改めて見ると、なんて恐ろしい文章なんでしょう。

私は職場で、指導はするし注意はするが、感情的にはならないよう気を付けている。社歴が長い人間として、下の人間にはとにかく声をかけているので、為人は分かってもらっているし信頼もしてもらっているという油断があった。

昼から帰ってくると、彼女が席にいて、昼を取った様子がない。すぐに神妙な顔で立ち上がり、「やなぎやさん、ちょっとお話いいですか?」と言われた。
なんだなんだ、と思いながら、言われるまま後に続いた。

彼女は会議室に入ると、しっかり私の目を見ながら、「仕事上であんな言葉使いをして申し訳ありません。受注が取れて浮かれてしまいました」と頭を下げた。

 

・・・ん?

・・・え?

 

混乱した私は、やがて、床に叩きつけられるような気がした。

 

「ぱいせん!?もしかして、ぱいせんのこと!?」

 

会議室で「ぱいせん」を連呼。
その後、慌てて、冗談だったと説明したことは言うまでもない。

彼女は「本当ですか。。。」と強張りを解き、
「私の受け取り方が悪かったんです。メールを送ったあと、あ、ちょっと砕けすぎたかな、と後ろめたい思いがあったので、覚えがあるところを指摘された気がして。やなぎやさんと仲の良いことに、甘えて過ぎたかなとも思って」

彼女の目は、ホッとしたせいで、ちょっと潤んでいる・・・。

 

うあああ、ごめんごめんごめん。
私は自分が冗談耐性が強いために、どこまでも悪ノリしてしまうところがある。親しい人間に好意を示すとき、いじり倒すような絡み方をしてしまい、相手には冗談でなく本気に捉えられてしまったということが、あったでしょ、これまでも!ばかばか、わたしのばか!

それにしても、職場で絶対泣かないタイプの子が、こういうことで目を潤ませるのかぁ。昼も食べずに。まずメールで返信して私の反応を探る、ってテだってあったろうに。怖いだろうに、メールで済ませず面と向かって解決しようとする、そういうところだよね。

とか考えたら、もう、申し訳ないやら、かわいいやらで。

私たちは手を取り合い、「ごめん~」「いえ、わたしこそ~。よかったです~」と会議室で騒いだのでした・・・。

ホントにね、調子に乗らない!親しき仲にも礼儀あり!

『ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命』

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監督:ニキ・カーロ キャスト:ジェシカ・チャステインダニエル・ブリュール、ヨハン・ヘルデンベルグ/2017年
 
皆さん、こんにゃちは。
 
こないだ、超素敵な高校生男子を見たんですよ。朝、駅に向かうために家の近くの道を自転車で渡ろうとしていた時のこと。車が多い道で、歩行者の方の信号は押しボタン式になっているんですが、このボタンがある場所が狭い上に電柱が立っていて、自転車で入るには億劫な場所で。
 
私が家を出るのは朝早いので、車が通っていなければさっと渡ってしまうのですが、その日は途切れる様子がなく、こりゃボタンを押しに行かなければならないか、と思っていたとき。反対側から歩いてきた男子高生がチラリと私を見て状況を悟ったらしく、自分は横断歩道を渡らないのに通り抜けざま押しボタンを押し、軽く会釈をして通り過ぎて行ったのです。
 
↓これ図解ね。
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自転車が描けません。
 
素敵過ぎじゃない!?さりげないのが、またいい。
そんな行動を取る高校生がいると思わなかった私は、びっくりして見送ってしまった。恥ずべき四十代です。私も年と共に図々しくなり、例えば小学校で娘の友達に会えば「●●ちゃーん」とダッシュして驚かせたり、娘の友達が遊びに来て「トイレを貸して下さい」と礼儀正しく言えば、「いいとも言えるし、ダメだとも言える」と返して相手が凍り付くのを楽しむなど(娘が「もーお、お母さん!」と飛んでくるのがまたカワイイ)、修行を積んできたのですが、その時は咄嗟に「ありがとう」も言えなかった。
あの少年に幸があって欲しい。
 
全然関係ありませんが、本日はユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命』というモタッとした題名の映画をご紹介します。
 
 
 
あらすじ
1939年の秋、ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が勃発した。ワルシャワでヨーロッパ最大規模を誇る動物園を営んでいたヤンとアントニーナ夫妻は、ユダヤ人を強制居住区域から救出し、動物園に匿う。夫婦によるこの活動がドイツ兵に見つかった場合、自分たちやわが子の命も狙われるという危険な状況にありながら、夫婦はひるむことなく困難に立ち向かっていく。(映画.com)
 
 
またしてもナチスの悪行とユダヤ人を救った人々の「実話」の映画化となる。皮肉な言い方になってしまうのは、単純にどれだけ作りゃ気が済むんだい、というくらいナチス関連の映画が量産されているからだ。もはやこの問題は、様々な形でいじくり回されるコンテンツになってしまった。その上、「事実に基づいた物語」」と聞けば、どうしても「まーた、実話を掘り出してきて有難がるのか」と醒めた気持ちが先に立つ。
かつては友達に「前世でナチスに何かされたのか?」と言われるほど、さんざっぱら、この種の映画を観てきた私も、最近は余程興味を惹かれなければ手に取らなくなった。
 
大体、近年のヒトラーを捏ね繰り回した映画が好きじゃない。ヒトラーを親しみやすくコミカルに、ましてやカッコよさげに描いたり、こういうのって、他人が迂闊に踏み込むべきでない境界線をズカズカ越えるような無遠慮な印象を受けてしまうんだよね。
 
そういうわけで、私は帰ってきたヒトラー(2015)も好きじゃないし、ジョジョ・ラビット』(2019)にも懐疑的な視線を向けているわけ(未見だけど!)。例えば『コリーニ事件』(2019)のように、ドイツが己の過去の所業に真摯に向き合おうとする映画の存在を知れば尚更だ(いや、コリーニも公開前だけど!)。
 
いきなり脱線したが、新たに作られるナチス関係の映画を観るときは、「今、何故、これを?」のフィルタがかかる。この映画に対しても「動物が可愛そう」とか「なんて崇高な行動。これが実話とは・・・」なーんてカラッポな反応はしませんことよォォオッ。
 
 
 
◇美しい映画ですね
全編を通して、「美しい」映画と言えるでしょう。それを体現するのはもちろん、戦時中であろうとも見目麗しいジェシカ・チャステイン。大好きな女優である。けぶるような眉と、眉と目の間がすっごい狭いのが好き。作品は、なんといってもゼロ・ダーク・サーティ(2012)とクリムゾン・ピーク(2015)が良い。『ゼロ・ダーク・サーティ』は、まだブログを始めるずっと前、昔のインスタかなんかに「今年観た中で最高」と書いていたわ。
本作では、空襲やドイツの施策によって愛する動物たちを失う中、迫害されるユダヤ人を一人でも国外に逃そうとした実在の夫婦の妻を演じる。
 
この映画でのチャステインは、上の出演作に加えて女神の見えざる手(2016)やモリーズ・ゲーム(2017)などからイメージする強い女ではなく、使命を抱きながらも決して強靭とは言えない女性。物語は、ファッショナブルな格好で自転車に跨り、動物園の様子を見て回る生き生きとしたチャステインの姿で始まる。現場主義型のオーナーである彼女は、飼育員たちからの信頼も厚く、動物に「あなたは美しいわ」と自らリンゴを与えるような愛情深い人物であることが描き出されていく。
 
だが、それに注力するあまり、「動物園」と「戦争」が添え物になってしまったと感じたのは私だけだろうか・・・
空になった動物園にユダヤ人を匿い、国外に逃がすサスペンスフルなストーリーである。となれば、処分される動物たちに、虐殺されるユダヤ人の姿を重ねるのが定石なのではないだろうか?
 
動物園を去るものと、代わりにやってくるものの対比とか、「選別」されることの共通点とかさ、なんかシャレた工夫ができたんじゃないの?
 
だが、カメラは心を痛めるチャステインの姿を映し、動物たちは主にそんな彼女を引き立てるものとして存在する。もっと言えば、動物を愛でるチャステインを、夫が、そしてナチスの学者であるダニエル・ブリュールが「動物をかわいがるお前が一番かわいいよ」と愛でる映画だよね、これ。
 
そうじゃないって?だったら作り方が悪い!
 
チャステインの、動物に対して慈悲深い人物像も実に曖昧。「美しい」と称賛する象の出産には命がけで臨み、可憐なヒョウの子供をブリュールに引き渡すときには、抱き上げて別れを惜しむ。だが、ワルシャワ空襲時に自宅から避難する際は、息子がペットとして飼っていた動物(スカンクだかモモンガだか、もしくは別の生物)を「置いていきなさい!」と迷うことなく置き去りにする。
 
 
うん?よく分からない。
 
 
カメラは、チャステインがヒョウの子に頬ずりしてキスするさまをじっくりと映し、さらにそんな彼女に感情ダダ洩れの熱い視線を送るブリュールを映す。
動物なんか、どうでもいいんじゃないかな、この監督。
 
 
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悲劇の中で、チャステインが常に「庇護」されるが故に美しさを保っているのも、どうにも居心地が悪い。使命を共にする夫がおり、古参飼育員イエジクの彼女への忠誠は厚い。途中、ユダヤ人を匿っていることが家政婦にバレてしまうのだが、その家政婦も全てを悟りながら「奥様には良くして頂きました」と黙して職場を去るのである。
 
何と言っても、ブリュールがチャステインにベタ惚れているため、事が露見したときには死が待っているというドキドキ感がない。色仕掛けすれば何とかなるんじゃないの?と思うくらい、ブリュールはチャステインに執着しているのだが、貞操を守らせることで主人公を汚さないこの映画は、最後まで彼女主導の色仕掛けを行わせない。
 
 
何だか妙だ。
 

動物の交配と、チャステインに対するブリュールの欲望や夫婦のセックスは露骨に重ねて見せるのに、露骨な色仕掛けは禁じ、恥じらい抵抗させることで主人公の高潔を保とうとする。うまく言えないが、そのあたりが、どうもすっきりしなかった・・・。
 
そもそも、チャステインとブリュールには共通の目的もあり、ナチスであることを除けばチャステインは決してブリュールを嫌っているわけではない。利用されていたことを知ったブリュールが激怒するシーンで、本来ならば同志である二人が戦争により立場を異にする、そんな悲しさを描くこともできるはずなのに、ただ痴話喧嘩めいて終わってしまう。しかも、ここでのチャステインは、下品な口紅ばかりが目立つ。そういうわけで、私にとっては少々残念な出来の作品だった。
 
 

◇サービスタイムです
とはいえ、あれでしょ、チャステインのおっぱいに興味深々の男子一同、父兄諸君は「別に動物とか戦争とかどうだっていいよ」と思っているんでしょ。
 
苦境に耐えるチャステインがけなげ!とか、とにかくおっぱいがデカいとか、アホな感想ばかり世には転がっているに決まっているよ。そんな父兄諸君のために、私は露骨すぎて辟易したが、チャステインを愛でるのに最適なシーンを紹介しよう。
どうせお前らも、動物を愛でるお前が一番カワイイよ系の男子なんだろ?
 
初っ端の、象の出産の場面。
夫妻は客を招いて小さなパーティを催している。そこへイエジクが急を知らせにくる。象が出産したが、赤ん坊の象が息をしていないというのだ。現場に駆け付けたチャステインは、興奮して攻撃的になっている親の象をものともせず、産まれたての象を
介抱する。何事かとパーティ会場から駆け付けた人々は、象が息を吹き返す奇跡の瞬間を目撃する・・・。

ってな感じなんだけど、「しっかり!」「息をして」という度に、たださえバックリと胸元と背中の空いたドレスがズリズリと落ち、もはや象が生きるかどうかより、「落ちる!」「見える!」ばかりに気を取られてしまう罪作りな場面。
 

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ここは気が散るでぇ。
赤ん坊の象は、気が付いたら生き返っていた。
 
また、バイソンの交尾をさせる際、ブリュールが縄を引きながら露骨にチャステインの背後から身体を押し付けてくる場面では、バイソンの発情とブリュールの欲望が露骨に重ねられる。さらに、のちに嫉妬に身を焼いた夫が彼女と交わるシーンでも、やはり動物たちの交尾を連想せずにはいられないのだ・・・(なんだそりゃ?)
 
 
ごめん、あまりサービスタイムにならなかったわ。
 
 
強かにナチスを出し抜く女性像を期待したのは私の勝手だが、虐殺される動物に、ユダヤ人の姿ではなく、あくまで主人公を重ねる自己主張の強い演出にシラけてしまったというところ。チャステインの服装と髪型は好きだったな。
 
それにしても、ダニエル・ブリュールは、一体どれだけナチの間男を演じれば気が済むのかしら?

『昼下がりの決斗』

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監督:サム・ペキンパー キャスト:ランドルフ・スコット、ジョエル・マクリー/1962年

 

皆さん、こニャンちは。お久しぶりの更新となります。

何が忙しいって、在宅勤務&期末のダブル攻撃もしんどいけど、休校中の小二の娘がずっと家にいたり仕事が終わればすぐ保育園に息子を迎えに行ったりと、なかなか自分の時間が取れない。でも、娘とずっと一緒なのも楽しい。
 
娘は、本当に姉弟か?と疑いたくなるほど息子とは真逆で、明るく優しく、ちょっと甘えん坊で、それでいて自分の意志を貫くことができるカッコいい女子です。
好きな食べ物はナスと蕎麦。趣味は温泉に入ること、好きなおやつは茎わかめ。今も隣で食べてます。

そんな娘の今日のハイライトは、「(HUNTER×HUNTERの)ハンターが現実の職業だと思っていた」です。
 
ちなみに息子の最近のハイライトは、「おかあさーん、私のパジャマ、襟が伸びてきちゃった~」と言う娘に対し、「ああそれね、おねーちゃんが寝てる間に、きんにくもりもりの人がおねーちゃんのパジャマ着て『フンッ!』って力入れて伸ばしてたよ」とゲラゲラ笑っていたことです。どっから来るんだよ、その発想。
 
本日はサム・ペキンパー監督の『昼下がりの決斗』の感想です。
 
 
 
◇あらすじ

ティーブ・ジャッドは、かつて名保安官として鳴らした男だったが、今では西部の人々からも忘れ去られていた。ところが、シエラ山中のコース・ゴールドに金が発見され再び彼が脚光を浴びることになった。コース・ゴールドの人たちが、掘り当てた金を預け入れるために銀行の出張を熱望したため、その重任にふさわしい人として正義の男ジャッドが選ばれたのだ。黄金を預かっての帰りの山道はあらゆる危険が予想されるため、彼は協力者2人を雇うことにした。(映画.com)

サム・ペキンパー監督第二作目だそうです。 

ふかづめさんが「フォード、ワイルダー、ホークスは見といて損ないよ、あんたはペキンパーとかアルドリッチがいいんじゃない?」と言ったので、まずはジョン・フォードを全部観ようとしてたら、「もういいでしょ、次に行きなさいよ」と言われたので、ペキンパーに移りました。真面目なオーバーフォーティ、滝川クリステルと同い年です。

フォードはわが谷は緑なりき(1941)が素晴らしかったですね。

 

いやでも、ホントに観始めてみて良かった。俳優の知識がないので、その辺の話はまったくできませんが、楽しいです。
ちなみに、これまで観たことがあるペキンパー作品は戦争のはらわた(1977)のみだった。思い出しただけで鳥肌が立つ文句なしの名作である。むっさいけど。
 
ペキンパー=バイオレンスのイメージであると聞くが、この頃は(と言っていいのか)バイオレンス色はなく、かつては優れた保安官であった老人が残り火を燃やすさまが、哀愁深く情感豊かに描かれる。
鉱山から銀行へ金を運ぶ仕事のために、ある町にやってきたスティー(ジョエル・マクリー)。彼の名声は過去のものであることが、冒頭から説明される。スティーブが町に入ると人々から歓声が上がり、彼はそれが自分に向けられていると思い応えるが、実は馬のレースへ送られたもの。「どけ、爺さん」などと言われてしまう。また、銀行で渡された契約書を裸眼で読むことができず、トイレに行き老眼鏡を取り出して読んだりする。
 
危険な仕事ゆえに協力者として雇うのが、偶然再会したかつての助手ギルランドルフ・スコットだ。ギルもまた老いており、詐欺まがいの商売で小銭を稼ぐ日々だった。ギルは自分の子飼いで血の気の多い青年ヘック(ロナルド・スター)を同行させ、道中で金を奪おうと目論む。
 
結束のない三人の旅の物語は、山に向かう途中で立ち寄った牧場の娘エルサ(マリエット・ハートレイ)の登場から、方向性を変える。ヘックがエルサに一目惚れしてしまうのだ。そこからは、ヘックがエルサにちょっかいを出したり、エルサがまんざらでもなさそうだったり、敬虔すぎるクリスチャンでエルサに近寄る男を異様に警戒する封建主義の父親と揉めたり殴られたりといった展開が続く。
 
 
あの・・・。まだ目的地に着いてもいないよ。早く出発しませんか。
 
 
ついでに私も脱線するが、いい加減にしてくれないかな、『決闘』という言葉のつく題名たち。書き始めるまで、この映画のことを荒野の決闘(1946)だと思ってたけど、それはジョン・フォードだったでしょ。でも『真昼の決闘』(1952)って映画もあるでしょ。
 
大体さあ、『荒野の決闘』の原題って『My Darling Clementine』だよ? 最初に流れる「オーマイ ダーリン、オーマイ ダーリン、オーマイ ダーリン クレメタイン♪」の曲が素敵なのに、それが何故『決闘』になってしまうの。
それにしてもさあ、この歌って、日本では勝手にどっかの山岳部の連中が「雪よ岩よ われ等が宿り 俺たちゃ 街には 住めないからに♪」って歌詞にしちゃって、それが罷り通るんだから意味がわからないよね。
 
 
 
◇悪夢の結婚式
さて、大輪の薔薇ならぬ野に咲く花といった風情のエルサは、見た目通り雑草魂を持ったジャジャ馬だった。鉱山で金を掘る男たちの中に求婚者がいるらしく、「あたし、山に行ってビリーと結婚する!」と家出してスティーブ一行に加わる。カメラはエルサの雑草パワーと、彼女のことが気になって仕方ないヘックへと向けられ、ジジイ二人は恋に浮き立つ若者の諫め役に回る事態に。
 
私が「ああ、そういう話なのね」と気づくのが遅かっただけで、本作は金を無事に運べるか?に纏わるサスペンスや、敵役となる悪たれ五人兄弟とのガンアクションがメインではなく、かつては活躍した老人たちが、新しい世代のために道を拓いてやる話なのだよね。途中までは若者たち中心の物語が続くが、だからこそ最終的に、老いたるものの魅力が光る。
 
エルサが求婚者のビリーの元へ辿り着いた辺りからは、実に不穏な空気が漂い出す。掘っ建て小屋のバー兼売春宿で二人の結婚式が執り行われるのだが、付き添い人となる女主人と美しく着飾ってはいるが空虚な女たちは、何かを含んだ視線をエルサに送る。ビリーの四人の兄弟たちは、花嫁を得る兄をからかう、というには行き過ぎた野卑な言動を繰り返す。それもそのはず、ビリーらは、花嫁として一族に加わる女を「共有」することを慣習としてきたのだ。
 
 
うえ~、最悪や~。おまけに全員クサそう。
 
 
げらげら笑いながら踊る招待客、毒々しい化粧の女主人、ベロベロに酔っ払いながら結婚宣言を行うアル中の判事、襲いかかってくる夫の兄弟たち。悪夢のような乱痴気騒ぎの中、エルサを救いに現れたのはスティーブだった(ヘックも来たが、すぐ殴り倒された)。
この事件をきっかけに、エルサを親の元へ帰そうとするスティーブ、怒りながら花嫁を奪還しようと追ってくるビリーら兄弟との闘いが始まる。
 
 
 
◇毒には毒を
草臥れながらも自尊心を失わない正義漢スティーブと、そのスティーブに半分は尊敬の念、半分は嫉妬心やコンプレックスという複雑な思いを抱え、どこかケチな男として描かれるギル。そして、この物語をより面白く盛り立てるのはギルの方だ。なぜならギルは、誠実なまま老いたスティーブと異なり、悪党の側へ片足を突っ込んでいるからだ。だからこそ、スティーブには思いもつかない方法で、コトを片付ける。
 
例えば、悪たれどもからエルサを取り返す手段。一番の障害は、この結婚が正式な資格を持つ判事が認めたリーガルなものであることだ。スティーブは、あくまで正論で立ち向かおうするが、そんなものが通用しないと知るギルは、酔っ払っている判事にさらに酒を浴びせて脅し、彼の資格を無いものとすることで無理やり結婚を無効にしてしまう。
 
まさに毒を以て毒を制す。こういうときに、毒の役を担うキャラクターが魅力的に見えるのは当然のことではないかー。
 
その後、スティーブと衝突して一行から離脱したギルは、エルサの父の牧場で待ち伏せていた五人兄弟とスティーブらの銃撃戦を高見から見物する。だが、スティーブが撃たれたのを見ると、条件反射のように馬を走らせて参戦。
 
うわ~、ここ、じわっとなる~。
 
何だかんだ言いつつ友のピンチに本能で身体が動く。そして、悪党になりかけていても、かつて名保安官の隣にあった日々のことは身に刻まれているのだ。
 
若者を中心に映していたカメラは、本来の主役の老人たちへと向けられ、その老骨魂をしっかと観客に届けてくれる。確執を乗り越え、「もちろん昔のように正面突破だ」と敵に向かって同じ歩幅、同じリズムで歩き出す二人の姿にグッと来る。お勧めの激シブ西部劇です。
 
さて、そんな感じで、やなぎやは、また在宅勤務へ戻ります。
 
ところでさ~、ランボー ラスト・ブラッドの公開、6月12日から26日に延びた~。
同じ12日に、『犯罪「幸運」』と同じくフェルディナント・フォン・シーラッハ原作の『コリーニ事件』が公開になるから、ハシゴしようと思ってたのにッ。

『ランボー 最後の戦場』

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監督:シルベスター・スタローン キャスト:シルベスター・スタローン、マシュー・マースデン/2008年
 
皆さん、こんばんにゃ。
 
何だか、段々、社会全体が疲れてきていますね。こういうときこそ、人とのコミュニケーションを怠ってはなりません。ただでさえ、スマホやネットのせいで他人と話せない社会になっとるでね。
 
例えば、私のように、スーパーで買ったものを詰めているときに、カゴを戻す場所が遠くて手を伸ばそうとしているおばちゃんのカゴを受け取って代わりに戻してあげるとかね(ニコッ)、くるくる巻いてあるビニール袋を取れずに苦労しているおじいちゃんの代わりに取ってあげるとか、そして私も大概、指に脂がなくなってきているので代役を買って出たくせに取れずに照れるとかね、そんなんでいいですよ。
 
マスクはハンカチと髪ゴムでも作れるからネ! 
 
そんな平和主義の私がお送りする、本日の映画はランボー 最後の戦場だよ!
 
 
あらすじ
シリーズで初めてスタローン自らメガホンを取り、ミャンマーの社会情勢を盛り込みつつランボーの壮絶な戦いを描き出す。タイとミャンマーの国境付近でミャンマー軍事政権によるカレン族の迫害が激化。タイ辺境のジャングル地帯で暮らすランボーは状況を知りつつも静観の構えを見せていたが、彼がミャンマーの村へ案内したNGO団体が行方不明になり、救出のために再び戦いの中に身を投じていく。(映画.com)
 
ランボー(1982)について詳しく語ることは、もはや不要だろうが、さらっとおさらいする。誰のために。私のために。
ベトナムの戦場では特殊部隊に所属しその働きを讃えられたランボーは、帰国すると一転、大量殺人者だ赤ん坊殺しだと周囲から謗られる。訪れたある町で、一人の保安官との諍いをきっかけに、州警察や州兵を相手取った大規模な戦いへと発展、町を戦場へと変えていく。面白いのが、戦ううち、ここがアメリカなのかベトナムなのか、現実との境界線が曖昧になり、それにより殺人のスキルが研ぎ澄まされていくことの皮肉さ。また、彼にとってベトナムが、忌まわしくも懐かしい地であるという複雑な感情が、哀愁漂う無法者を作り上げているのが魅力的だ。
 
暴れ狂うランボーには、ベトナム戦争で疲弊し、挙句、敗戦したアメリカの姿が投影されている。1960年代後半から1970年代半ばにかけてアメリカでは、ベトナムの地で泥沼の戦いを続ける政府へ反発から、反体制的および反戦をテーマにした作品が数多く製作され、それらは「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる。説明の必要もないだろうが、俺たちに明日はない(1967)、イージー・ライダー(1969)などが、その代表作と言われている。
 
この年表に従えば、1982年製作の『ランボー』はニューシネマの潮流から外れているわけだ。
 
ベトナム戦争終結とともにニューシネマの時代が終わると、今度は鬱々とした空気を払うような映画、ジョーズ(1975)、『ロッキー』(1976)、スター・ウォーズ(1977)などに代表される痛快で明るく、夢と希望を描いた映画が人気を博す。ここで注目すべきは、ニューシネマに取って代わった作品群の中に、スタローンの出世作となった『ロッキー』があることだよね。あのような映画を作っておきながら(もちろん『ロッキー』も死ぬほど好きだ)、1982年に「おい、忘れてくれるな」と言うように、ベトナム戦争の傷を再びアメリカに思い起こさせたスタローン。
 
以下に「シネマ一刀両断」で、ふかづめさんと対談したときに自分が言った言葉を引用。
 
ランボー』の「何も終わっちゃいません、何も」から始まる長台詞で、観客はランボーの心中を知って胸打たれると思うんだよね。アレがなかったらどれだけの人がベトナム戦争の傷を感じとれたのかな?
 
かつての上官トラウトマン大佐の「戦争は終わったんだ」という説得に対し、ランボーが激白する際の台詞なわけだが、この台詞なくして、ベトナム戦争を知らないアメリカ以外の国の人々が「ベトナム戦争の傷」を知ることは難しかっただろう。保安官たちに対しては碌に弁解もしない寡黙なランボーが、親同然のトラウトマンを目の前にして爆発するように心中を語るこのシーンに、ランボーの苦悩と反戦のメッセージが込められ、ゆえに人々の胸を打った。
 
ランボー 最後の戦場を『ランボー』に並ぶ名作だと思うのは、同じく反戦の意図を込めながらランボーの言葉が極力排除され、監督スタローンが見せたかったものがストレートに表現されているためだ。とにかくランボーが喋らない。私の記憶する限り、「家に帰れ」と「お前が決めろ」しか言っていない。
 
衝撃的なショットとシーンにより、ただ「見ろ」とするスタローンからの力強いメッセージ。
 
ランボー 怒りの脱出』(1985)、ランボー3 怒りのアフガン』(1988)は、アクションを中心に娯楽色を強く打ち出したために一作目より低く評価されがちだが、どの作品も好きな私にとっては、『最後の戦場』にそれら全てからの継承があることも嬉しい。
 
例えば、捕虜の奪取とジャングルでの戦いというシチュエーションは『ランボー 怒りの脱出』と同じだが、あのときは死なせてしまった信念を持つ女性(ランボーに取っては神聖なもの)を本作では救うことで、長く抱いていた悔恨の念が昇華される。『ランボー3 怒りのアフガン』とは、それまでがランボー自身の戦争であったのに対して他者の戦争への介入であることが共通しており、ヒーロー性がより色濃い。
 
過去三作の血筋を受け継ぎつつ、観る者に映像で訴えかける強烈な反戦映画。さらにランボーのヒロイックな魅力と緊迫感のあるアクションといったエンタメ性も存分に織り込んだ、文句なしに100点満点の戦争映画なのだ!
 
 
ハァ、ハァ、ハァ・・・。
言いたいことは全部言ってしまったが、今日はここでお時間というわけにもいかない。ここからはストーリーや個性豊かなキャラクターを追いつつ、ゆるりと語って参りましょう。あ、ネタバレです!
 
 
 
◇ミャンマーの海賊コワイ
あらすじの通り、平和主義のキリスト教NGO団体のメンバーたちが、危険を冒してミャンマーの村に薬を届けたいというので、渋々ボートを出してやるランボー。メンバーの一人サラジュリー・ベンツニコール・キッドマンナオミ・ワッツを足したような顔をしている。女性に弱いランボーです。
 
川旅の途中で、海賊に襲われます(川だけど海賊って言ってるんで)。海賊=ジョニー・デップと思っている人には是非観て頂きたい。こえェよ。ただただ、女を寄越せ!って言ってくるミャンマーの海賊こえェ。
 
ランボーは素晴らしいテクニックで海賊たちを射殺、ここで「ノー!」と叫ぶNGOのリーダーが鬱陶しい(殺らなきゃお前の女がヤラれるんだよ!)。村に辿り着いた一行は村人たちに薬を与え聖書を読むなどして交流をするが、平和な時間も束の間、政府軍が押し寄せて村人たちを虐殺し、サラらを連れ去る。ランボーは米国政府が雇った傭兵たちと共に、彼らの救出へと向かう。
 

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散々な目に遭うジュリー・ベンツ
 
 
ここまでで語るべきは二か所。ひとつは虐殺のシーケンス。
実際に銃器で撃たれた人間の体がどうなるのか、一方的に行われる蹂躙とはどういうものなのかをじっくり観客に理解させるパートとなっている。人体が破壊されて吹き飛び、子供が刃物でゆっくりと胸を貫かれ、赤ん坊が火に放り込まれる、目を覆いたくなるような映像が続く。スタローンのメッセージが一番強く出ており、また、平和主義のサラたちの理想が粉々に打ち砕かれる場面だ。
 
二つ目は、その後、傭兵たちが村に辿り着いたときのシーケンス。百戦錬磨の彼らが、あまりに凄惨な現場に鼻を覆ってたじろいでいると、ミャンマー軍が捕虜の村人達を連れて現れる。地雷を投げ込んだ田圃に捕虜を追い立て、誰が生き残るか賭けをしようというのだ。為す術なく身を隠す傭兵たち。そこへ現れたランボーが、お馴染みの武器であるボウガン(コンパウンドボウという武器らしい)で、あっという間にミャンマー兵を倒す。矢を構えるランボーを下から斜めに捉えたショットがめちゃめちゃカッコいい。
 
そして、予想以上の地獄のあり様に、引き返そうとするリーダーの鼻先に矢を構えて言う。
 
「こんなところにいたい奴はいない。だが俺たちのような男の仕事はここにある」
「無駄に生きるか、何かのために死ぬか、お前が決めろ」
 
 
ちびる・・・。
 
この作品の一番ホットな場面はココ。説得力が半端ない。容赦ない虐殺と、傭兵たちが躊躇するほど凄惨な跡地を見せられた後では、何の躊躇もなく「行くぞ」と言い切るランボーの胆力に鳥肌と失禁を禁じ得ない。戦争のリアルに重きを置くどころか、シリーズトップのヒーロっぷりとなっております。
 
 
 
◇キャラと兵器を楽しもう!
映画の途中ですが、傭兵たちのキャラもなかなかに立っているので、何人かご紹介しましょう。

まずはこいつ、スクール・ボーイ(マシュー・マースデン)
 

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いい奴だし、カッコいい。
初登場時、ボートの中の台詞が印象的である。他の傭兵たちが、まんまと捕まったNGOの皆さんを「アホどもが」と腐す中、一人悠々と「えらいよ。丸腰で本や薬を届けるなんて」と格の違いを見せつける。何でこの仕事してるの?そしてこんな仕事しながら、なんでそんなイイ奴でいられるの?
 
 
 

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名前は忘れたが、浦和レッズのFW興梠慎三に似ていることから何だか気になる存在になってしまった髭面の人。私の心の中でだけ「シンゾウはん」と呼ばれる。残念ながら終盤で死んでしまう。
 
 
 

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傭兵部隊のリーダーで、分かりやすくランボーの凄さを演出するために設置された生贄キャラ。通称、生贄ハゲ。「おいボート屋」「ボート屋は黙ってろ」とバカにしていた相手が実は殺しのプロだったことを知った後は、大人しくランボーの指示に従う。ケガした足を、ミャンマー軍のホモのヒゲに、グリグリされるのがかわいそう。
 
反目し合っていた彼らと、行動するうちに戦友のような意識が芽生える感じがいい。何しろランボーと言えば孤独、喋る相手は大体トラウトマン。
サラを救い出して村から脱出するとき見張りに見つかり、身を投げ出してサラを庇うランボーと、時間に遅れたランボーを、一人待ってくれていたスクール・ボーイが見張りの首を吹っ飛ばして救うシーンは、お約束なようでいて胸アツだった。
 
ところで、遅まきながら未見の人に言っておくと、本作はグロいって言えばグロいですよ。
 
ただ、様々登場する武器とそれを使いこなすキャラクターに注目すればもう、すごいもんを見せてもらったな、という感想にしか至らないわけで。
 
イケメン・スクール・ボーイが使用するライフル「バレットM82A1」は狙撃した兵士の頭部を丸ごと吹っ飛ばし、凄まじい破壊力を観客にみせつける。スマートなスクール・ボーイのキャラクターに合ったクールな武器だ。
 
また本作最大の武器となる第二次世界大戦の遺物「トールボーイ」。この大型爆弾を使った罠を仕掛けるのは、やはり戦争の遺物とも言えるランボーだ。また、終盤、ミャンマー軍に捕らえられた傭兵たちを救うためにランボーがぶっ放す「ブローニングM2」は、人間をたちまち赤い肉片へと変える。この恐ろしい武器は人間兵器であるランボーそのもの。
 
「ブローニングM2」を構える兵士の後ろに、ぬうと現れるランボーのドアップで始まるミャンマー兵殲滅のシーケンスは、前半の虐殺に対する究極のカタルシスタイム、二度目の失禁ポイントだ。
 

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これがなくっちゃいけない。
反戦メッセージ、現実を見ろと思考を促すだけでは戦争映画とは言えない。ミャンマー軍の悪辣さがあってこその壮絶な復讐劇が、本作を最高の戦争映画として輝かせる。

勘違いしている人が多いので言っておくと、実際にミャンマーを含む軍事政権による少数民族の弾圧がどのようなものであるのかは別の話だ。映画では、軍事政権は血も涙もない完全な悪、村人とNGO団体は善の存在として描かれ、ランボーが悪をぶっ潰す単純な勧善懲悪の物語が展開される。映画の中でスタローンにより作り出された「現実」に息を飲み、カタルシスに酔えばいいだけのこと。
 
近代兵器の恐ろしさを容赦なく見せつけつつ、至高のエンタテインメントを演出してくれたスタローンに、ありがとう。
そしてラストは、長い年月をかけてようやく地獄の故郷を捨て、本来の故郷に戻っていくランボーの姿に感涙。ウンウン、長かったね・・・。
 
と思ったのに、今度はメキシコに行くのかよ。
ランボー ラスト・ブラッドは6月12日公開です。有給決定。
  
 

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こちら、浦和レッズのヒーロー、シンゾウはん。
 
 
※兵器の名前はネットで調べました。
引用:(C)2007 EQUITY PICTURES MEDIENFONDS GMBH & CO. KG IV

『ランボー 最後の戦場』を書こうと思ったが脱線した

先日、親友のリエコを「ランボーの新作が始まったら観にいこ」と誘いました。当たり前だと思って。ランボーの新作が始まったら映画館に行くのは、もう空気を吸うくらい自然なことだと思って。でもリエコは「私、一作も観たことないもん」と言う。優しい私は「大丈夫!私が最初から、手取り足取り導いてあげるわ」と提案しました。


そうしたらホラ、ランボーごっこができるじゃない?仕事や家事が終わるたび、「なにも終わっちゃいません、なにも!」って叫んだり。もしリエコがラーメン屋のパートをクビになったら、「ここには駐車場係の仕事すらないんだ!」って嘆くとかさ。

わたしたち、そんな遊びを繰り返してきたじゃない。


ところが、リエコのやつ何て言ったと思います?「スタローン、今は油が抜けたからまだ観られるけど、若い頃って、病気でさっぱりしたものが食べたいときに目の前に突きつけられる脂ましましのとんこつラーメンって感じだからムリ」。

 


アホめ・・・。

 

スタローンの魅力も分からずに、「メイクを取ったペニーワイズ、マジでイケメン~」などと年甲斐もなくキャッキャッとはしゃぎやがって。オーバーフォーティにはオーバーフォーティの嗜みってもんがあるだろうが。

私はスタローンが死ぬほど好きだし、なんといっても『ランボー』に『ロッキー』とものすごい作品を二つも持ってんだぞ!


大体リエコには、年齢に対する自覚が足りない。確かに異様に若くは見えるが。

先日は地元駅前で黒人にナンパされ「23歳に見えるって言われた!」と喜んでいた。声かけた黒人もびっくりだよ。毎日100人くらいに相手かまわず「キミ、23歳くらいに見えるね!」と言っているに違いないのに、本気で信じる40歳がいるとはな。


遡れば、忘れもしないタイ旅行。私もリエコも20代半ばだった。宿泊した川沿いホテルからは、駅や観光場所との行き来のために専用の船が出ていて、その船には雑用係のボーイが乗っていた。アホチャイだかパーチャイだかいう名前のお調子者で、全ての日本人の女の客に「カワイイねー」と声をかけていた。完全無視案件、なんならシャラップ案件。日本人の女が全員「かわいい~」しか言わないと思ってんじゃねえよ。

だが、人を無視することをしないリエコはアホチャイに都度応じ、そのうち「かわいいね~、メアド教えて」と言われてメアドを教え出す始末。アホチャイもびっくりだよ、多分1000分の一くらいの成功率だっただろうから。

船を使うたび、アホチャイが調子に乗ってリエコに犬のようにつきまとい、私は無視を決め込んでいたが、挙句リエコのやつ、一人優雅に川風を浴びている私を指さし、アホチャイに何て言ったと思います?


「ねえ、あの子にもメアド聞いてあげてよ~」。


アホめ・・・。


おお何ということ、アホチャイ(プレデターみたいな顔してた)が、憐れみを含んだ薄ら笑いを浮かべて私を見ている!

あの屈辱は忘れまい。


あと、道ですれ違う全ての犬に声をかけるのをやめてくれ。京都旅行に行ったときは最悪だった。やたらと犬を散歩させている人が多い場所に行ってしまい、いちいち「触らせてもらっていいですか」と声を掛けて飼い主と談笑、やっと歩き出したと思ったら、3メートル先の別の犬にも声を掛けるのだ!進まない、目的地につかない。


あと、ホームレスに道を訊くのもやめて欲しい。

ティッシュとかチラシ配りの人に丁寧に「結構です」って言わなくていいよ。居酒屋の呼び込みにいちいち「あ、他の店を予約しているんです」って言う必要もないんだよ!


でも、『IT イット“それ”が見えたら、終わり。』のことはごめん。IT全然怖くないよって私が言ったから、子供に観せちゃってギャン泣きさせたことはごめん。お宅の子供が泣いたって聞いて、うちの子供には観せるのやめたこともごめん。


そんなわけで私には、意地でもリエコをランボー ラスト・ブラッドに連れて行く理由がある。本日は『ランボー ラスト・ブラッド』の予告映像解禁を祝してランボー 最後の戦場をご紹介しようと思いましたが、お時間となりましたので、お別れです。

多分、これから始まる期末のせいで、しばらく更新ができません。寂しいな。チャオ。

 

www.youtube.com