Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『64 ロクヨン』前編&後編

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監督:瀬々敬久 キャスト:佐藤浩市綾野剛/2016年

皆さん、こんニャ。

ランボー ラスト・ブラッドがようやく公開され、観た方の感想を頻繁に見かけます。お客様の少ない本ブログでも、ちょっと前に上げた『最後の戦場』の記事を読んでもらっているみたいで。

 

yanagiyashujin.hatenablog.com

 

でも私は、何か気分が殺がれてしまってさー。皆さんの感想を読むと評価は高いんだけど、高評価の理由が「またランボーを観られることの幸せ」という過去作とスタローンに捧げるリスペクトなんじゃないかなって気がしちゃって。
私は逆に、そういうリスペクトなしに厳しめに観てしまうと思うんだよね、「なぜ、今ランボーの続編をやるのだ?」って。で、不機嫌気味に劇場を後にするような予感がしているんだ・・・。だから、ソフト化されたら、気が向いたときに観ようと思っている。次に映画館で観るチャンスがあったら、ダルデンヌ兄弟の最新作『その手に触れるまで』がいいな。

さて、そんなわけで本日は、公開当時は大作と話題になった『64 ロクヨンをご紹介。なぜ今更?自分でもわからん。

 

◇あらすじ
わずか1週間の昭和64年に発生した少女誘拐殺人事件・通称「ロクヨン」。事件は未解決のまま14年の時が流れ、時効が目前に迫っていた。かつてロクヨンの捜査にもあたった刑事三上佐藤浩市は、現在は警務部の広報官として、記者クラブ刑事部との対立に神経をすり減らす日々を送っていた。そんなある日「ロクヨン」に酷似した誘拐事件が発生する。(映画.com)

原作者の横山秀夫は大大大好きな作家であるため、今回も原作の特徴と比較しながら語って参ります。

しかし、また・・・文句を言わないとならない。もはや日本で、ある程度の金を掛けて著名俳優をキャスティングした「豪華」な映画は、一般大衆の反応と興行収入ばかりを気にするスポンサーの下でしか作ることはできないのだろうか。

 

◇「刑事」が描かれない

原作は647ページ、新聞記者だった横山秀夫の経験が存分に活かされた緻密・濃厚な小説だ。つまりは原作の全要素を映画に反映させることなど不可能、映像表現でしか成し得ない大胆な改変が必要だったと思う。だが残念なことに脚本は、物語の見せ場となる箇所を切り取り上辺だけを撫でたような浅いものだ。

欠点は非常にシンプルで、「どのようにすれば観客(それもお茶の間の観客)が主人公に共感し気持ちを高ぶらせてくれるか」に主眼が置かれていること。それゆえに、この映画では「刑事」と「捜査」について一切描かれていない。

もう一度言います、警察が舞台で主人公は刑事、昭和最後の未解決事件と謳いながら、この映画では「刑事が描かれることはない」。

では何が描かれているのか?佐藤浩市演じる一人の男が、自分の後悔と鬱憤を吐き出していく、その「感情」の変遷と顛末のみである。さらに良くないことに、ミステリーの面白さもゼロだ。佐藤浩市は、刑事として培った経験や交渉術などを駆使することは一度もなく、手掛かりになりそうな相手にストレートに言葉をぶつけ時には締め上げることで次の手掛かりを得、同様の行動を繰り返す。そして対峙した人や物事は佐藤浩市の怒りに応え、都合のよい方向へ彼を導いていく。

また、浩市がよく泣く。
ロクヨン」で娘を失った被害者雨宮永瀬正敏家の仏壇の前で嗚咽するのにはドン引いたが、後半、誘拐の捜査車両に乗り込んで、かつての上司松岡三浦友和に涙ぐんで詰め寄るシーンでは白目になった。涙の理由も、大変エモーショナルで、およそ刑事が流すものとは思えない。共に気持ちを高ぶらせ、最後にはその「気持ち」に決着をつける佐藤浩市を観て感動しろとでもいうのだろうか・・・。観客をバカにするなと言いたいところだが、需要があるからこのようなシーンが供給されるのだと思うと、絶望的な気分になってしまう。

良質な料理を作ることができるネタを扱う権利を得ながら、調味料の種類も分量も間違えた上に、調理方法も間違った結果できてしまった残念な料理、この映画はまさにそれだ。見本とは違う料理でいい、だが不味かったら意味がない。


良質なネタとなるのは、七日しか存在しない忘れ難い年に起こった悲惨な誘拐事件という事件そのものの面白さ、十四年の時を経て発生した同様の事件と隠蔽されたある事実が関係者を昭和64年に押し戻していく魅惑的なストーリー展開の他、何より刑事であった男が、現在は望まぬ広報官の地位にあることに対する葛藤だ。

花形の刑事部から「記者の犬」と蔑まれる内勤部署に異動させられた主人公は、時に刑事に戻るために打算し、時に己の正義の中で葛藤し、記者たちや同僚との激しい軋轢の末に、広報官の仕事にやるべきことを見出す。少しずつ作り上げられる記者たちとの関係が、広報官として生きる決意を固めさせていく、ここがすごくドラマティックだ。

だが、映画では、もちろん尺の問題は仕方ないのだが、雨宮や「ロクヨン」により人生を壊された捜査官日吉窪田正孝の境遇に自らの葛藤を重ね、記者たちへ歩み寄る決断をするように見える。人の不幸を踏み台にするかのような羞恥心のなさを、佐藤浩市にまず感じてしまうのだ。

 

◇役者は奮闘

不幸なことに相変わらず役者、特に佐藤浩市は奮闘している。

見せ場は、匿名問題を巡る記者たちとの対立を経て、実名公開へ踏み切ることを発表する場面である。そこまでは寝転がりながら観ていた私も、熱に満ちた佐藤浩市VS秋川(瑛太)らの議論を、やっと真剣に見守った。ここは佐藤浩市の力だと思う。だからこそ、「いつも怒鳴っている人」にしないで欲しいのね。

 

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瑛太はええよな。

また、端役に当たるのだろうが、それぞれ刑事部の御倉と落合を演じた小澤征悦柄本佑が良かった。特に柄本佑はぺーぺーの捜査二課長ゆえに刑事部から人身御供に差し出され、記者たちの怒りのサンドバッグにされるわけだが、頼りのない様子と、最後には広報室のメンバーと一体感が生まれる辺りで妙に目を引く。

さて、広報室のナンバー2、三上のサポート役となる係長の諏訪について。映画では綾野剛が演じたが(可もなく不可もなかった)、忘れられないのはロクヨンTV版で諏訪を演じた新井浩文である。

新井浩文って・・・このまま消えてしまうのん?

TV版では三上(ピエール瀧、これも可もなく不可もなく)への、どうせ腰掛なのだろうという不審感、外様を信用しない用心深さ、スキあらば出し抜いてやろうとする野心。そんなものをギラついた目つきで表現していたのが印象的だ(まあ、酒残ってるか寝不足なんだろうなとは思った)。

いや、私も当初は「容疑者」とかイジってたけど、それは禊を済ませて戻ってくると思っていたからじゃん?でも一向に戻ってこないじゃん?罪の軽重は置いておいて、あんないい役者いなかったでしょう?このまま失ってしまうのが惜しすぎる。

褒める部分が非常に少なくて悲しいのだが、これから更に本作最大の失敗に触れなければならない。疲れてきたので、リトル・ヤナギヤにバトンタッチします。
リトル、お願い・・・。

※リトル・ヤナギヤとは:
サッカー選手の本田圭佑ACミランへの入団会見時にミラン移籍を決断した理由を質問され、「私の中のリトル・ホンダに『どこのクラブでプレーしたいんだ?』と訊くとリトル・ホンダは『ACミランだ』と答えた。それで移籍を決めた」と発言したことから。以来サッカーファンの間で、決断に迷ったときに背中を押してくれる存在、時に分身のようなものとして浸透。
使用例:「迷ったけど、私の中のリトル○○がGOと言ったから決心したの」


◇リトル・ヤナギヤでぇす

ハァイ、お久しぶりです!2019年のベスト10以来じゃなぁい?
気が付けば梅雨、振り向けば私。ってね!

ところで、最近、台湾マンゴーが出回り始めたなって思ってて。ここ数年よね?台湾マンゴーを普通に店頭で見かけるようになったのって。私は断然タイのマンゴーの方が好きなんだけど。こないだ近所のスーパーに行ったら、台湾マンゴー1個150円で投げ売りされてたのよ。私は箱の前で考えたわ。150円か絶対美味しくないわよねでも奇跡的に美味しかったらどうする?けどおいしくない可能性の方が高いわ安すぎるもの。
迷っていたら、すっと横に立ったおば様が「ねえ、、どうなのかしらねえ」と話しかけてきたの。私も「・・・ですよね」「そうなのよ・・・」と一切主語述語のない会話を交わし最後は頷き合って、どちらもマンゴーを手に取ることなく箱の前を離れたわ。次に私が向かったのは豆腐売り場。消泡剤不使用の豆腐を探していたら、

(やなぎや:え、ちょっと、何の話してるの?本題に入ってもらえる?)

ハァイ。んもう、この映画そんな興味ないのよね、観る前から推して知るべしじゃないの。えーと何だったかしら。佐藤浩市が雨宮宅仏壇前で泣いたところからウザ映画認定された本作には、さらに最大のミスが肝心のシメにあるって話よねそうそうそう。

最後はアホな観客のニーズに応えるべく追加された、映画オリジナル脚本になっているの。やなぎやが言った通り、かつて刑事だった主人公が全く異なる畑の人間、つまり広報官になっていく、その心の変化が原作の大きな魅力だし、当然映画化に当たっても引継ぐべき要素だと私は思うのね。つまり、終盤の時点で佐藤浩市「広報官になっていなければならない」わけ。

監督はこれを思い切り無視したわ、というより、物語を理解していないんでしょう。なんと佐藤浩市は、犯人目崎緒形直人の娘を誘拐したように見せかけて、緒形をおびき出し、ある根拠を元に十四年前の罪を認めるよう迫るの!

エモーショナル展開ここに極まれり・・・。

お前、既に刑事でも広報官でもねぇから。今すぐ警察手帳を返却しろ。銃持ってんのか?銃も返却しろ。手錠もある?それも返せ。
さらにアホかと思うのは、緒形直人に突きつける根拠が、「おびき出された緒形が真っ先に確認したのが(犯人しか知り得ない)十四年前の被害者の少女が遺棄された車のトランクだった」ということのみ。状況証拠にもならねえだろうよ、そんなもん。
だが緒形の野郎は、勝手にテンパり勝手に自供、駆けつけた刑事たちに逮捕されるってぇ、ご都合展開よ。しかもしかもですよ奥さん、何故殺したと問われた緒形「俺にもわからねえよそんなこと」。ヒィィー!はい、出た。動機がない犯人、急に混ざるサイコパス色。分かんねえなら言わせんな。雨宮と刑事の執念が十四年前の事件を解決したってか?解決しねぇだろ権限も証拠もねーんだから。あとで緒形が「脅されて自白してしまった」で無罪放免だよ。チャラチャララーン、ひゅらららー(音楽)じゃねぇよこの極楽クソブタ野郎がぁ。

(やなぎや:ちょっ、こわ、興奮しすぎじゃない!? あと性別変わってる)

はあ、自分、いつ女って自己紹介しましたっけぇー。そんな覚えはビタイチねぇな。
佐藤浩市を受け入れた広報室のメンバー、記者たち、ロクヨンを地道に追い続けた刑事たち、そして真面な鑑賞眼を持つ観客。このラストでどれだけの人間を馬鹿にしたのか、監督は分かってねェだろうな。マジ謝れ、まずオレに謝れ

(やなぎや:いやホント、そんなに思い入れがあるとは思わなくて気軽に頼んでごめん。これ以上はアレなんで引っ込んでもらえるかな)

へーい、ラジャりましたァ。んじゃ、七夕の願い事でもして終わるわ。

新井浩文、戻ってきてくれーい!!

(やなぎや:7月7日晴れたら叶うかもね★)

 

(C)2016 映画「64」製作委員会

『コリーニ事件』

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監督:マルコ・クロイツパイントナー キャスト:エリアス・ムバレク、フランコ・ネロ/2019年
 
いきなり家庭内の話をします。
結婚当初は「俺も映画好きだよ」みたいな顔をしていた夫が少しずつ、「ドンでん返しを期待して映画を観る人間の気が知れない」「ホラー映画を観る意味がわからん」などと言い出し、戦争映画も全然好きじゃないと知って騙されたと感じている。
私が初デートでノー・マンズ・ランド(※)に誘ったらイソイソついてきて、「面白かったね」と微笑んでたのに、完全にウソだったんだな。
 
ボスニア紛争下、ボスニアセルビアの中間地帯“ノー・マンズ・ランド”に取り残された兵士二人を通して戦争の愚かさをユーモラスかつシニカルに描いた地味な戦争映画だ、まだよく知らない相手とのデートで選んではいけない。
 
日常生活で、映画のネタを振っても全然キャッチしないのにもイラつく。
例えば、嬉しいことがあったとき、私がフィラデルフィア美術館の前で両手を突き上げるロッキー」の真似をしても「???」という顔をしているし、息子がぷぅとおならをしたので「少し肺に入った・・・」と胸を押さえてみせても、「え、なに?」。腐海でマスクを外したときのナウシカですよ!?
 
しかし先日、「いまミッドナイト・エクスプレスを観てるのー」「ああ、水野晴郎監督の?」「それはシベリア超特急だ、バッキャロウ」という会話がありましたので、まだやれそうです。
ひどい前書きを書いてしまいましたが、公開を待っていた『コリーニ事件』を観てきたので、真面目に語って参ります!ネタバレです。
 
 

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◇あらすじ

舞台は2001年のベルリン。長年ドイツ市民として暮らしてきたイタリア人ファブリツィオ・コリーニが、経済界の大物実業家を殺害する。殺害方法は頭に三発もの銃弾を撃ち込み更に靴で顔を踏みつけるという残忍なものだった。
新米弁護士カスパー・ライネンは、コリーニの国選弁護人となるが、殺害された実業家が自身の恩人ハンス・マイヤーであることを知り驚愕する。

ドイツの小説『Der Fall Collini』が原作であり、作者は私が勝手に2019年ベストに挙げた『犯罪「幸運」』の原作者でもあるフェルディナント・フォン・シーラッハ。1964年西ドイツ生まれ、小説家であると同時に刑事事件専門の弁護士としての経歴も持つ。また、祖父のバルドゥール・フォン・シーラッハはナチスの全国青少年最高指導者で、ニュルンベルク裁判で戦争犯罪者として裁かれているなど、なかなかハードな背景を持った人物だ。

 
主人公の新米弁護士ライネンを演じるのは『ピエロがお前を嘲笑う』(2014)のエリアス・ムバレク。『ピエロがお前を嘲笑う』はちょっと前に観たはずなんだが、全く記憶にないので、多分つまらなかったんでしょう・・・。すげェな、全く覚えてないぞ。
コリーニを演じたのはフランコ・ネロ、改めて紹介するまでもなく『続・荒野の用心棒』に代表されるマカロニ・ウェスタン作品で活躍した俳優で・・・と書いてはみたもののよく知らないのであった。ダイ・ハード2エスペランザ将軍だよな!
 
私としては、途中ライネンがイタリア語訳のためにスカウトする、やたらとロックなピザ屋の店員ニーナ(ピア・シュトゥッツェンシュタイン)と、敵側の辣腕弁護士マッティンガー(ハイナー・ラウターバッハ)がとても良かった。
 
鑑賞して一発目の感想は、「やっぱりドイツ好きだなあ」と「やっぱり生真面目なとこが日本に似ているなあ」。
 
ストーリーや展開は特に目新しいものではない。
熱意溢れる新人弁護士、謎の動機、沈黙し続ける被告。被害者は主人公が父と慕った人物で、その娘とはかつて愛し合った仲であるという設定も、まあ、ありがちだろう。
コリーニが隠す真相も大方、予想通りのものだ(せめて予告編は観ずに観賞することをお勧めする)。
 
他に、ニーナや疎遠だった父親が協力者になる流れはやや性急。父親に関しては本作のテーマの一つは「父と子」にあり、コリーニとその父、ライネンとマイヤー、そして実の父とそれぞれの関係性が重要な役割を持つ。沈黙を貫いていたコリーニが初めて口を開くシーンでも、きっかけとなるのは「父親」のワードだ。そのため、ライネンと父の和解が唐突に感じられるのは勿体ないが、ここはばっさりと片付けるしかなかったのだろう。
 
また、「お前は情熱以外に何持ってるん?」と突っ込みたくなるほどにライネンが当然するべき調査をしない。検事側から提示される事実に驚き、コリーニを「初耳ですよ」と責めたりもするのだが、依頼人の過去を調べるのは初手の初手ではないでしょうか。
机の上に散らばった書類を前に頭を抱えるライネンと事件に関係のありそうな語句のアップショットで、いかにも「何か調べてます」風を演出するが、実際には何を調べているのか全く定かでないシーンには思わず笑ってしまった。
 
このような理由で、多少、中弛みはする。しかし、凶器の銃をきっかけに、ようやく糸の端を見つけたライネンがイタリアのコリーニの故郷へと飛び、ある事実を掴んで臨む法廷シーケンスの緊迫感は、それらの欠点を補って余りある。
 
 
◇言葉にしないことの上品さ
度々挟まれるマイヤーとの思い出深い日々がアナログで撮影され、現代や1944年の戦時中のパートと区別されているのが印象的だ。本来なら、1944年の映像が鮮明すぎるのに違和感を覚えるところだが、敢えて回想シーンのみアナログとしたのに意図があるのだろうと思う。
 
恩人を殺したコリーニを弁護するライネンは、私情よりも職務を優先する信念の人として描かれるのだが、感心するのは、私人としてのライネンに「マイヤーの過去を知ってどう感じたのか」を一度も語らせない点だ。一方で、少年時代のノスタルジックな映像は、今なお変わらないマイヤーへの思慕を表し、言葉にされなかったライネンの答えを観客に伝えてくれる。
 
 
◇裁かれるのはコリーニではない
注目すべきは法廷で裁かれる対象が、コリーニ、次にマイヤー、最終的に「別の物」へと変遷していくことだ。
 
まず、法廷で扱われるのが「事件」であることに好感を持つ。
当たり前だと思われるかもしれませんが、私が最近アメリカの刑事ドラマにハマっているせいなんだ。当然のように司法取引が為され、証人の私生活を丸裸にし人物を貶めることで証言を無効とする。陪審員を買収する。そんな政治的な駆け引きが面白くて観ているのだけど、となると、被害者加害者の人物や動機が純粋には追及されないことへのストレスもあったりして。。。
 
その目で観ると尚更に、コリーニ事件の法廷は「法」へのリスペクトに満ちていた。
 
ライネンは最後に、被害者側の代理人であるマッティンガーを証人に召喚する。
著名な法律家でありライネンの師でもあるマッティンガーは、ゆえに敵に回せば厄介で憎らしい人物なのだが、ライネンの追求を受けるうち、法の代理人として己自身の正義に問う立場に立たされる。そして、かつて自分が制定に関わり多くの戦犯を無罪とした法を誤ったものだと認めてみせるのだ。
 
つまり、最終的に法廷で裁かれるのは「法」であり、誤った法を施行した者たちということになる。
本作は、ある
老人の起こした事件と過去の事件を骨子としながら、ドイツが過去の罪に相対し、「法とは何か」を訴える映画だ。
 
この国はどれだけ時が経とうと、国民が、そして文化人たちが、過去の罪に真摯に向き合うことを止めないらしい。
 
久々の映画館という感慨も相まって、私は映画の最中、度々涙ぐんでしまったが、その大きな理由はコリーニの人生を支配した悲劇にでも長い戦いを終えた後の安寧にでもなく、ドイツ人の勤勉さと強靭さに胸を打たれたためかなと思う。いま、日本映画で同じことはできないだろう。
 
ちなみに隣のおじさんもハンカチで一所懸命、涙を拭いていた。
 
それでは、本日はベタに水野晴郎氏の言葉を借りて終わります。
「いやぁ~、映画って本当にいいものですねー」。
 
(C)2019 Constantin Film Produktion GmbH

『エージェント・ウルトラ』

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監督:ニマ・ヌリザデ キャスト:ジェシー・アイゼンバーグクリステン・スチュワート/2015年
 
皆さん、こにゃにゃちは。給付金振り込まれてるぅー?

昨年は私、小学校のPTA役員と学童の父母会役員を兼任した地獄の年でした。特に学童の方が市内10クラブを横断する組織での活動だったものでコミュニケーションが難しく、何より困ったのが各クラブで持つデータを例年USBで引き継いでいること(詳細は省くが、USBがクラブ分10個存在すると想像されい)。
 
コロナで新役員への対面での引き継ぎができなくなり、10人グループのLINEで「あのUSBは誰に渡せば?郵送?手渡し?」とか「あのデータはどこに入れればいいんですか」「こっちです」「いやこっちですよ」と大混乱。あまりに代表クラブの仕切りがむちゃむちゃだったもんで、黙して坐していた私は、ついに抜刀した。クラウドにアカウントを作ってデータを入れ、送りつつこう書いたね。
 

いまどきUSBって、USB(うそだべ)?
 
 
キマったね。
 
まあ、10人もの人間がワチャワチャやり取りしている間は発言しないのが賢明ですよね。「私も〇〇さんに賛成です」とか言われてもさ、顔もよう覚えてないのに「私」が誰で「○○さん」が誰かも分らんし、仮に建設的な意見が投じられても混乱の濁流に流されてしまう。なので、抜刀のタイミングが重要なんだよ。
 
以上、やなぎや抜刀斎の居合抜き講座でした。ここまで読んだ人は講座代金置いてってよねっ。
本日はエージェント・ウルトラ』で、USB(うさばらし)!
 
 

◇あらすじ

日々をのらりくらりと過ごしてきたダメ男のマイクは、恋人フィービーに最高のプロポーズをしようと決心するが、なかなかうまくいかない。そんなある日、アルバイト先のコンビニで店番をしていたところ、謎の暗号を聞かされたマイクは、眠っていた能力が覚醒。スプーン1本で2人の暴漢を倒してしまう。実はマイクは、CIAが極秘計画でトレーニングされたエージェントだった。マイクは、計画の封印を目論むCIAに命を狙われることになるが……。(映画.com)


ある田舎町で、質素ながら幸福な毎日を送る二人。精神不安定なジャンキー男子マイクはスイッチが入るとすごい勢いで妄想を巡らせるクセがあり、常識は欠如しているが、恋人フィービーへの愛情は深い。

マイクを演じたのはアメリカの二宮和也ことジェシー・アイゼンバーグアメリカの坂口健太郎とも言われる。若いのかと思ったら、もう36歳なのねー。デヴィッド・フィンチャーソーシャル・ネットワーク(2010)が良かった。

 

フィービーにはクリステン・スチュワート、当ブログでは以前『トワイライト 初恋』にてタマネギ女優として紹介済みである。『トワイライト』シリーズで共演したロバート・パティンソンと付き合うもフロに入らないことに辟易して別れたとかそうじゃないとか、レッドカーペットでヒールを脱ぎ捨てるパフォーマンスを見せるなどクールなトンガリ系女優だが、私はヒールでないと完成しないファッションもあると思っているので、クリステンには気が向いたらヒールも履いてもらいたい。

ジェシーとクリステンは『カフェ・ソサエティ(2016)でも共演しており、ハイソでセレブな『カフェ・ソサエティ』鑑賞後に本作を観ると、パンクな二人をより楽しめること請け合い。特にジェシーをきりりと支えるクリステンは、ずっと見ていても飽きないくらいに眼福。

 

 

◇ご当地系CIAエージェント
あらすじの通り、実はジェシーはCIAの実験プログラム「ウルトラ計画」で造り出された超人的な能力を持つエージェントだった!
彼の教育担当であったラセター(コニー・ブリットン)がある理由から計画を中止、以降ジェシーは記憶と能力を封じられ、監視を受けながら一般人として生活していた(だから、様子がおかしかった)。しかし、失敗作ジェシーをこのまま生かしておくことに反対するCIAの新たな指揮官イェーツトファー・グレイスジェシーの抹殺を決定、暗殺部隊“タフガイ”を送り込む・・・。

という話なのだが、まあまあ、ゆるいよ。というかラブストーリーなんで、CIAとか陰謀などは話を盛り上げるための恋の障害物と思ってください。ご当地感が楽しく、”タフガイ”の襲撃場所はジェシーの働くスーパー、自宅、ホームセンターなど日常的な場所だし、何と言ってもジェシーが手近にある物を引っ掴んで殺傷道具に変えてしまうことのおかしみね。
 
さらに四角と円形の日用品がそれぞれ襲撃と撃退を表していて、スーパーの看板、店内の陳列、真上から映されるレジスター、ローズのサングラスなど、これから起こる災厄を予感させるものは四角く、カップ麺とスプーン、フライパンにラセターのサングラスとジェシーの身を守ってくれるものは丸い。

そう、よくわからないが、私は四角と丸に敏感なのである!コレはしかくだね、これはまるじゃないのと気になりだしたら止まらない。集中できなくなるから誰か止めて欲しい。え?コンビニの看板はだいたい四角だし、丸いレジスターなんてないじゃん、ですって?
USB(うるせえ些細なことはいいだろブゥー)。
 
 

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◇イェーツどつきまわしの刑
ジェシーは頭がイカれているので、タイミングもよく外す。クリステンのため計画したハワイ旅行を自らおじゃんにしたというのに、気落ちしているクリステンを窺いながら「今がいいかも」とプロポーズをしようとする。絶対に今じゃないと思う。
 
ジェシーがどんな奇天烈な行動を取ろうと、彼を盲目的に愛するクリステンだが、異常な包容力には理由があった。みんな、途中で何となく気付くだろう。
クリステンの正体を知り一旦は拒否したジェシーが、彼女を助けるためホームセンターに「君を愛している!」とトラックで突っ込んでくる場面で、ハワイ旅行用のアロハシャツに着替えているのには爆笑した。それ、今着るの?

このホームセンターで、ジェシーVSタフガイ、クリステンVSイェーツの戦いが繰り広げられ、物語は盛り上がりを見せるのだが、クリステンとラセターの女二人によるイェーツどつきまわしが、これまた面白い。
計画の新しい指揮官がイェーツだと知ったラセターは、「まさか、あなたが責任者?」「媚を売る天才」「誰の決定?ダフィー・ダックと言いたい放題。クリステンは「事務職のあんたが、ここでなにしてんのさ」と馬鹿にする(このときのクリステンの顔!)
 
イェーツ、あんまりな言われよう。

その後、イェーツに引きずられたりぶん殴られたり、殴り返したり蹴飛ばしたりするクリステンのズタボロ感が迫力なのだが、血に染まった歯をむき出して中指を立てるショットはトゥルー・ロマンス(1993)のアラバマにそっくり。先輩イカカップルへのオマージュなのかしら。どっちがイカれてるか選手権をするといいと思う。
 
でも、ラストはなかなかに感動的なの。
ジェシーとクリステンが傷だらけになりながらも敵を倒し、外に出ると、ホームセンターは警察に包囲されていた。ヘリとパトカーのライトで照らされる中、よろよろと指輪を取り出しクリステンに差し出すジェシー今かよ!

両手で口を抑え、感極まるクリステン。お前もな。
 
エスをもらったジェシーは喜びのあまり、「結婚するぞー!」と警察に叫んでテーザー銃で撃たれる。銃の線と倒れた二人が交差してできたバツ印が恋の成就を示し、「■+●=×」の式が完成するところなんか、オシャレかもしれない。
 
眼福だし楽しいし、憂さ晴らしに打ってつけの映画です。別にそんなにウサに拘る理由なんかないし、ウサが溜まっているわけじゃないけどさ?むしろ、私は元気なので、本日はUSB(うさぎ跳び)しながら、お別れです。
 
ピョン、ピョン、ピョン。それではみなさん、また会う日まで〜。
 
(C)2015 American Ultra, LLC. All Rights Reserved.

『魂萌え!』

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監督:阪本順治 キャスト:風吹ジュン三田佳子/2006年
 
主婦の皆さん、こんにちは。
 
友人のリエコは、子供達の休校が延びるたびに「しぬ・・・」となっています。
私のように在宅勤務という大義名分があれば、ちょっと
息抜きもできますが、専業主婦はそうもいかないようで。終始、子供らの相手をして日が暮れる、本当にお疲れさまです。そんなリエコから、一昨日と昨日に以下のようなLINEが来ました。
 
「いまテレビで、中村俊輔(※サッカー選手)が女装してると思ったら、あいみょんだった」
「いまテレビで、りんごちゃん美人になったなと思ったら、JUJUだった」
 
うん。とりあえずテレビつけっ放しなんだなと思った。たまには消そうね。
 
私はと言えば、最近「グリルの呪い」にかかっています。
先日、何か一品足りないなと思って、ナスとトマトにオリーブオイルとパルメザンチーズを振りかけ「おしゃれなもんができそう、アハン」とグリルにイン。数日後、変な臭いがするな~と思ってグリルを見ると、焼いたまま放置したナスが黴びていた。
さらに昨日のこと、またしても妙な臭いを鼻に感じた私は、おそるおそるグリルを開けた。そこには焼く直前で忘れ去られ、暖かい気候の中で二日間熟成されたサザエが・・・。腐ったサザエの臭いって初めて嗅いだわ。
 
本日は良き主婦のための映画魂萌え!をご紹介します。
旦那が死んだ後、別の女がいたと知ったらどうする!?
 
 

◇あらすじ

突然夫が他界し、途方に暮れている団塊世代の専業主婦・敏子は夫の携帯電話から、夫の愛人の存在を知る。そこに子供たちの身勝手な行動も重なり、自らを取り巻く環境にうんざりした敏子は家出を決行する。(映画.com)

原作は2004年刊行の桐野夏生の同名小説。以前から何度か触れているが、私は大の桐野夏生ファン。ファンだったといった方が正しいかも。作品を追わなくなって久しく、改めて確認したら、2010年代以降は数冊しか読んでいなかった。『顔に降りかかる雨』に代表される女探偵村野ミロシリーズのハードボイルド路線から、徐々に女たちの情念を描くようになった1990年代~2000年代始めが、私にとっての桐野夏生の円熟期。『柔らかな頬』『玉蘭』『グロテスク』が特に好きです。
特に『柔らかな頬』はさ、池袋の古本屋で買ったとき、いい感じに汚い店主に無表情で「これ面白いよ」って言われたんだよねー。あの本屋、もうないだろうな。
 
ある作品を機に桐野夏生は、がらりと作風を変える。村野ミロシリーズの久々の新作『ダーク』で、主人公ミロ自身を、そして彼女が信頼する数少ない人間たちとの関係を徹底的にぶっ壊して見せたのだ。何よりも衝撃だったのは、繊細で誇り高くミロの心の支えであった親友のトモさんが、『ダーク』では突然、薄汚く低俗な人物として描かれたこと。
 
その後の、やはり女たちを中心に世間の闇を描いた作品群は、猜疑心や虚栄、騙し合いや裏切りなどのこってりとした『悪意』に塗りたくられ、それゆえにどこか現実感のなさを漂わせる。「人間そうも簡単に『悪意』を噴出させるものではない」ということだ。
 
魂萌え!も、その作品群の一つで、主婦である主人公と二人の子供、学生時代からの三人の友人、そして夫の死後に存在が判明する愛人との関係を主軸に物語が展開していく。本筋は、世間と遮断された家庭で過ごしてきた団塊世代の妻が、否応なく社会での無力さを突きつけられ、やがて乗り越えていく過程を描いた主婦のための応援歌といったところだが、登場人物たちは腹を探り合い見栄を張り、笑ったと思ったら突然卑屈になったりと、素直なまでに己が内の「負の部分」を露呈する。つまり、『魂萌え!』も私にとっては、上述の「簡単に曝け出されるがゆえに全く恐ろしくない悪意」の印象を受ける作品のひとつだ。
 
だが、これを映画化した本作は、原作に漂うモヤモヤした空気を切り捨て、本筋の要素だけを抜き取った爽やかな女性の成長譚となっていた。
 
監督は阪本順治。この監督、好きです。できれば近々感想を書きたいと思っているのだけど、大鹿村騒動記』(2011)が素晴らしかった。ちょっと前にポンちゃんことポン・ジュノが日本のTV番組に出演してお勧め作品を三本上げており、一本が阪本順治『顔』(2000)だったのだが、これも面白い。ポンちゃんのチョイスは他も予想を裏切らずというか如才なくというか、黒沢清是枝裕和だった。ちなみに、是枝裕和はあまり好きじゃない。
 
 

◇主婦のロードムービー
夫の葬式を済ませた敏子風吹ジュンは、クローゼットのスーツの中で夫の携帯が鳴っていることに気がつく。「伊藤」と名乗った相手の女が夫と只ならぬ関係にあったこと、さらに蕎麦打ちを習いに行っていた毎週木曜日、夫はその女に会いに行っており二人の関係が十年と長いものであったことを知り、衝撃を受ける。
 
その他にも夫の死による問題は彼女に伸し掛かるのだが、永遠の少女という雰囲気の風吹ジュンの、ほわんほわん色が全体を占め、おかげで「女性の成長譚」と表現するのはちょっと大げさなくらい、ロードムービー感が漂う。
 
印象的なのは、ここぞという場面でじっくりと映される顔のショット。
例えば、夫の定年の夜、突然夫に握手を求められ、ワケが分からずポカンとした風吹ジュンの顔は、次に喪服を着て空を見上げる顔に切り替わる。この間には三年が経過しており、あの晩、何と言われたのかが思い出せないまま煙になった夫を見送っているという状況だ。
 
また、夫の愛人伊藤三田佳子が線香を上げるために家を訪ねてくるシーン。風吹ジュンは、チャイムが鳴ってから口紅を引き忘れていることに気づいて唇に触れる。次のショットは訪問者の三田の顔ではなく、唇に赤い紅がしっかりと引かれた風吹ジュンの顔だ。無言の彼女の顔に、状況や感情が強調されるようになっている。
 
互いの矜持がぶつかり合う女同士の対決が見どころなのだが、二人が対面で会話するのは二回きり、そして、この二回の対比が面白い。
家を訪ねてきた三田佳子は、予想に反して白髪交じりの年嵩の女だった。だが、全体的に品があり、所作は玄人じみている。家に上がる瞬間、黒いストッキングの下の爪に綺麗にペディキュアが塗られているのを見た風吹ジュンは、相手が「現役の女」であると感じる。さらに『阿武隈』という蕎麦屋を経営することを知り、夫が蕎麦打ちを習いに行っていた事実と結びついて、どうしようもない敗北感に襲われるのだ。ストッキングの下の赤いペディキュアと慌ててつけた口紅に、優劣が表現される一度目の対峙。
 
彼女は「ぬくぬくと家庭で守られてきた世間知らずの主婦」という自分の姿と対峙する。そして子供たちの身勝手にうんざりしてカプセルホテルにプチ家出をするのだが、このカプセルホテルっていうのが、桐野夏生なんだよねぇ、そうは思いませんか。
だって、カプセルホテルに行かないじゃない!?
しかも15年ほども前のことだから、いかにもなカプセルホテルなわけだ。桐野夏生という人は、お嬢さんぽい人を、いきなり別世界、様々な事情を抱えた人間が集まり悪意が渦巻いているような場所に放り込みたがるような、そんなクセがある。
 
映画でも、このカプセルホテルのくだりが面白い。ここで登場するのが第三の女、加藤治子ホテルに住み着いている老婆である加藤治子は壮絶な転落人生を送っており、その苦労話を「売って」いる。風呂場で偶然、時には必然的に一緒になった相手に、するすると世間話のごとく自分の身の上話をし、後で「奥さん、ただで人の不幸話を聞こうと思っちゃいけませんよぉ」と金銭を要求するのだ。
原作では渋々の体で金を払う敏子が、映画では心から感謝して当然のものとして支払うのも面白い。
加藤治子の小狡く逞しい生き方が、一人の男を挟んで揉めている風吹ジュン三田佳子を「まだまだヒヨッコ」と笑い飛ばしているかのよう。
 
二回目の対決は、愛人側の三田佳子に主眼を置いて観ると面白いだろう。線香を上げに来たときとは打って変わり、男の死と、男が残したものは何一つ自分に受け継がれないという事実に打ち拉がれている。それを示すのがペディキュアが拭い去られた裸足の足。
「勝ち負け」に拘る彼女は、前回は、思いもよらない事態にオドオドする妻に対して明らかに優位に立っていた。だからこそ、線香を上げさせてもらった礼は言っても、詫びることはしなかったのだ。だが、自分を取り戻した風吹ジュンの佇まいが、逆に三田佳子を追い詰める。
 
この映画は、風吹ジュンのささやかな挑戦を、ゆるゆるとした空気とユーモアを交えて追うことで、どちらの女も手放さなかった夫や悪びれもしない三田佳子の罪を断ずる方向に導かないよう工夫がなされているように思う。
夫の不実は、もはや意味はなく、女たちが自分の存在意義を己に問うための装置でしかない。
観客は、「あなたはいつでも取り換えの利く家具と言われていたのよ」と精一杯の攻撃をする三田佳子に憤激する間もなく、「だったら取り換えればよかったのに、何故そうしなかったの?」と切り返す風吹ジュンの変化と強さにハッとなる。そんな感じだ。
 
それにしても、阪本順治は音楽のチョイスと使い方が良いと思う。
あと、書き切れなかったけど、いつも役者がよいよ。
ではまた。チャーオ。

悪ノリをやめたい

本日はお日柄もよく、映画から脱線した話をしたいと思う。

題名の通りなのだが、私は悪ノリがひどい。悪ノリというのか、真剣にならなければいけないときほど、場を混ぜっ返したりしてしまう。「そんなに深刻になっても解決しないよ?」と周囲の緊張を解きほぐそうとか、先陣切って余裕を見せなければとか、そんな意識から来るものなのだが、多分、生真面目な人からは嫌がられると思う。

以前、娘が私設の保育園に通っていたときのこと。園長が「ほっしゃん。」(旧)に激似だった。その園長が、年度が変わるか何かで保護者の前で挨拶することがあり、第一声、「保護者の皆さま、いつもきちんと保育料を支払って下さり、ありがとうございます」と言った。

当然ジョークだと思った私は、「あーはっはッは!」と声を出して笑ったのだが、笑ったのは私一人だった・・・。

 

少し前には、娘が通うサッカークラブで試合があったときのこと。若いコーチ陣のリーダーが何というのか、外見はサッカー少年がそのまま成長した感じなのだが、中身がゆるキャラのような好青年で。時に指導に熱中するあまり周囲が見えなくなるが、人柄の良さがカバーして熱さが鬱陶しく映らない。話し方がちょっと舌ったらずなのも可愛らしい。私は、このコーチの喋り方をマスターし、日々、娘に「コーチがいつも言ってることがみっつあります」と真似をしてはイヤがられているのだが、さて、試合の後に、コーチから子供たちにお話があった。

「コーチがいつも言ってることがあります。それは、お父さんとお母さんに感謝すること。」と始めたコーチが例によって舌ったらずな熱の入った口調で、「お父さんお母さんが、汗水垂らして働いてくれるおかげで、皆ユニフォームや靴が買えるんだよ」と続けたもので、私はツボって「うーふっふッフ!」と爆笑した。が、誰一人笑っていなかった・・・。

夫からは後で「あんなに笑うやつがいるか」と言われた。

 

また、つい先日のこと。仕事が全面的に在宅体制になるに当たり、部長と部署のメンバーと社内チャットでやり取りをしていた。部長が「部署から一名は出社することになった」と書くべきところを「部署から一命」と誤字をしたが、誰もそれに触れないまま話は進んだ。ついに我慢が出来なくなった私は、「『一命』はシャレにならないでしょー!」と書いた。すると部長は「あ・・・申し訳ありません、不謹慎でした」と。

 ・・・。


そこはさ?うまくノるべきではないのか?言った私が鬼みたいじゃない。
冗談が分からない奴だなッ( ゚д゚)、ペッ

まあ、上記の件は割とどうでもいいので、本題に行きたいと思う。

 

 

◇本題

同じチームの二十代の女の子が、滅多にお目にかからないほど賢くて美しいコだ。すらりと背が高く、構わない服装やノーメイクの時も多いが、それすらいいなと思わせてしまう。コミュニケーション能力が高くて、英語が堪能。人懐っこいが媚びは一切なく、若干男勝りでパワフルで、意外にずぼらな感じがまた愛らしい。

ふんだんな愛情と教養を与えられて育った人間というのは、ここまでコンプレックスと無縁になれるものなのかと感心する。

彼女は二年前にうちの部署に異動してきて、私とすぐに仲良くなり、ランチに行ったり、誕生日にはプレゼントあげたりと楽しい関係を築いている。そんな中で、先日起こった話です。 

彼女から、営業(29歳男)と私にメールが来た。↓こんな感じ。

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>●●ぱいせん
押してた甲斐があって、○○社から依頼来ました!

>やなぎやさん
私はまだ対応出来ませんが、勉強したい気持ちはあります。やなぎやさん主体で進めてもらって、私も訪問に同行させて頂いていいですか?

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私は、いつも真面目な彼女が仕事を取って浮かれてるのがカワイイなと思い、私にパスしてもいいのに自分でやろうとするのも嬉しかった。「『ぱいせん』てなんだよ」とおかしくて、これは突っ込まねば、と以下のようにメールを返した。


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「ぱいせん」にイラッとしました。

さて、アポの件ですが・・・(以下略)

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で、そのまま昼休憩に行った。
・・・ここまで読んで頂いた方は、この後、何があったか分かりますよね?
いま改めて見ると、なんて恐ろしい文章なんでしょう。

私は職場で、指導はするし注意はするが、感情的にはならないよう気を付けている。社歴が長い人間として、下の人間にはとにかく声をかけているので、為人は分かってもらっているし信頼もしてもらっているという油断があった。

昼から帰ってくると、彼女が席にいて、昼を取った様子がない。すぐに神妙な顔で立ち上がり、「やなぎやさん、ちょっとお話いいですか?」と言われた。
なんだなんだ、と思いながら、言われるまま後に続いた。

彼女は会議室に入ると、しっかり私の目を見ながら、「仕事上であんな言葉使いをして申し訳ありません。受注が取れて浮かれてしまいました」と頭を下げた。

 

・・・ん?

・・・え?

 

混乱した私は、やがて、床に叩きつけられるような気がした。

 

「ぱいせん!?もしかして、ぱいせんのこと!?」

 

会議室で「ぱいせん」を連呼。
その後、慌てて、冗談だったと説明したことは言うまでもない。

彼女は「本当ですか。。。」と強張りを解き、
「私の受け取り方が悪かったんです。メールを送ったあと、あ、ちょっと砕けすぎたかな、と後ろめたい思いがあったので、覚えがあるところを指摘された気がして。やなぎやさんと仲の良いことに、甘えて過ぎたかなとも思って」

彼女の目は、ホッとしたせいで、ちょっと潤んでいる・・・。

 

うあああ、ごめんごめんごめん。
私は自分が冗談耐性が強いために、どこまでも悪ノリしてしまうところがある。親しい人間に好意を示すとき、いじり倒すような絡み方をしてしまい、相手には冗談でなく本気に捉えられてしまったということが、あったでしょ、これまでも!ばかばか、わたしのばか!

それにしても、職場で絶対泣かないタイプの子が、こういうことで目を潤ませるのかぁ。昼も食べずに。まずメールで返信して私の反応を探る、ってテだってあったろうに。怖いだろうに、メールで済ませず面と向かって解決しようとする、そういうところだよね。

とか考えたら、もう、申し訳ないやら、かわいいやらで。

私たちは手を取り合い、「ごめん~」「いえ、わたしこそ~。よかったです~」と会議室で騒いだのでした・・・。

ホントにね、調子に乗らない!親しき仲にも礼儀あり!

『ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命』

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監督:ニキ・カーロ キャスト:ジェシカ・チャステインダニエル・ブリュール、ヨハン・ヘルデンベルグ/2017年
 
皆さん、こんにゃちは。
 
こないだ、超素敵な高校生男子を見たんですよ。朝、駅に向かうために家の近くの道を自転車で渡ろうとしていた時のこと。車が多い道で、歩行者の方の信号は押しボタン式になっているんですが、このボタンがある場所が狭い上に電柱が立っていて、自転車で入るには億劫な場所で。
 
私が家を出るのは朝早いので、車が通っていなければさっと渡ってしまうのですが、その日は途切れる様子がなく、こりゃボタンを押しに行かなければならないか、と思っていたとき。反対側から歩いてきた男子高生がチラリと私を見て状況を悟ったらしく、自分は横断歩道を渡らないのに通り抜けざま押しボタンを押し、軽く会釈をして通り過ぎて行ったのです。
 
↓これ図解ね。
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自転車が描けません。
 
素敵過ぎじゃない!?さりげないのが、またいい。
そんな行動を取る高校生がいると思わなかった私は、びっくりして見送ってしまった。恥ずべき四十代です。私も年と共に図々しくなり、例えば小学校で娘の友達に会えば「●●ちゃーん」とダッシュして驚かせたり、娘の友達が遊びに来て「トイレを貸して下さい」と礼儀正しく言えば、「いいとも言えるし、ダメだとも言える」と返して相手が凍り付くのを楽しむなど(娘が「もーお、お母さん!」と飛んでくるのがまたカワイイ)、修行を積んできたのですが、その時は咄嗟に「ありがとう」も言えなかった。
あの少年に幸があって欲しい。
 
全然関係ありませんが、本日はユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命』というモタッとした題名の映画をご紹介します。
 
 
 
あらすじ
1939年の秋、ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が勃発した。ワルシャワでヨーロッパ最大規模を誇る動物園を営んでいたヤンとアントニーナ夫妻は、ユダヤ人を強制居住区域から救出し、動物園に匿う。夫婦によるこの活動がドイツ兵に見つかった場合、自分たちやわが子の命も狙われるという危険な状況にありながら、夫婦はひるむことなく困難に立ち向かっていく。(映画.com)
 
 
またしてもナチスの悪行とユダヤ人を救った人々の「実話」の映画化となる。皮肉な言い方になってしまうのは、単純にどれだけ作りゃ気が済むんだい、というくらいナチス関連の映画が量産されているからだ。もはやこの問題は、様々な形でいじくり回されるコンテンツになってしまった。その上、「事実に基づいた物語」」と聞けば、どうしても「まーた、実話を掘り出してきて有難がるのか」と醒めた気持ちが先に立つ。
かつては友達に「前世でナチスに何かされたのか?」と言われるほど、さんざっぱら、この種の映画を観てきた私も、最近は余程興味を惹かれなければ手に取らなくなった。
 
大体、近年のヒトラーを捏ね繰り回した映画が好きじゃない。ヒトラーを親しみやすくコミカルに、ましてやカッコよさげに描いたり、こういうのって、他人が迂闊に踏み込むべきでない境界線をズカズカ越えるような無遠慮な印象を受けてしまうんだよね。
 
そういうわけで、私は帰ってきたヒトラー(2015)も好きじゃないし、ジョジョ・ラビット』(2019)にも懐疑的な視線を向けているわけ(未見だけど!)。例えば『コリーニ事件』(2019)のように、ドイツが己の過去の所業に真摯に向き合おうとする映画の存在を知れば尚更だ(いや、コリーニも公開前だけど!)。
 
いきなり脱線したが、新たに作られるナチス関係の映画を観るときは、「今、何故、これを?」のフィルタがかかる。この映画に対しても「動物が可愛そう」とか「なんて崇高な行動。これが実話とは・・・」なーんてカラッポな反応はしませんことよォォオッ。
 
 
 
◇美しい映画ですね
全編を通して、「美しい」映画と言えるでしょう。それを体現するのはもちろん、戦時中であろうとも見目麗しいジェシカ・チャステイン。大好きな女優である。けぶるような眉と、眉と目の間がすっごい狭いのが好き。作品は、なんといってもゼロ・ダーク・サーティ(2012)とクリムゾン・ピーク(2015)が良い。『ゼロ・ダーク・サーティ』は、まだブログを始めるずっと前、昔のインスタかなんかに「今年観た中で最高」と書いていたわ。
本作では、空襲やドイツの施策によって愛する動物たちを失う中、迫害されるユダヤ人を一人でも国外に逃そうとした実在の夫婦の妻を演じる。
 
この映画でのチャステインは、上の出演作に加えて女神の見えざる手(2016)やモリーズ・ゲーム(2017)などからイメージする強い女ではなく、使命を抱きながらも決して強靭とは言えない女性。物語は、ファッショナブルな格好で自転車に跨り、動物園の様子を見て回る生き生きとしたチャステインの姿で始まる。現場主義型のオーナーである彼女は、飼育員たちからの信頼も厚く、動物に「あなたは美しいわ」と自らリンゴを与えるような愛情深い人物であることが描き出されていく。
 
だが、それに注力するあまり、「動物園」と「戦争」が添え物になってしまったと感じたのは私だけだろうか・・・
空になった動物園にユダヤ人を匿い、国外に逃がすサスペンスフルなストーリーである。となれば、処分される動物たちに、虐殺されるユダヤ人の姿を重ねるのが定石なのではないだろうか?
 
動物園を去るものと、代わりにやってくるものの対比とか、「選別」されることの共通点とかさ、なんかシャレた工夫ができたんじゃないの?
 
だが、カメラは心を痛めるチャステインの姿を映し、動物たちは主にそんな彼女を引き立てるものとして存在する。もっと言えば、動物を愛でるチャステインを、夫が、そしてナチスの学者であるダニエル・ブリュールが「動物をかわいがるお前が一番かわいいよ」と愛でる映画だよね、これ。
 
そうじゃないって?だったら作り方が悪い!
 
チャステインの、動物に対して慈悲深い人物像も実に曖昧。「美しい」と称賛する象の出産には命がけで臨み、可憐なヒョウの子供をブリュールに引き渡すときには、抱き上げて別れを惜しむ。だが、ワルシャワ空襲時に自宅から避難する際は、息子がペットとして飼っていた動物(スカンクだかモモンガだか、もしくは別の生物)を「置いていきなさい!」と迷うことなく置き去りにする。
 
 
うん?よく分からない。
 
 
カメラは、チャステインがヒョウの子に頬ずりしてキスするさまをじっくりと映し、さらにそんな彼女に感情ダダ洩れの熱い視線を送るブリュールを映す。
動物なんか、どうでもいいんじゃないかな、この監督。
 
 
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悲劇の中で、チャステインが常に「庇護」されるが故に美しさを保っているのも、どうにも居心地が悪い。使命を共にする夫がおり、古参飼育員イエジクの彼女への忠誠は厚い。途中、ユダヤ人を匿っていることが家政婦にバレてしまうのだが、その家政婦も全てを悟りながら「奥様には良くして頂きました」と黙して職場を去るのである。
 
何と言っても、ブリュールがチャステインにベタ惚れているため、事が露見したときには死が待っているというドキドキ感がない。色仕掛けすれば何とかなるんじゃないの?と思うくらい、ブリュールはチャステインに執着しているのだが、貞操を守らせることで主人公を汚さないこの映画は、最後まで彼女主導の色仕掛けを行わせない。
 
 
何だか妙だ。
 

動物の交配と、チャステインに対するブリュールの欲望や夫婦のセックスは露骨に重ねて見せるのに、露骨な色仕掛けは禁じ、恥じらい抵抗させることで主人公の高潔を保とうとする。うまく言えないが、そのあたりが、どうもすっきりしなかった・・・。
 
そもそも、チャステインとブリュールには共通の目的もあり、ナチスであることを除けばチャステインは決してブリュールを嫌っているわけではない。利用されていたことを知ったブリュールが激怒するシーンで、本来ならば同志である二人が戦争により立場を異にする、そんな悲しさを描くこともできるはずなのに、ただ痴話喧嘩めいて終わってしまう。しかも、ここでのチャステインは、下品な口紅ばかりが目立つ。そういうわけで、私にとっては少々残念な出来の作品だった。
 
 

◇サービスタイムです
とはいえ、あれでしょ、チャステインのおっぱいに興味深々の男子一同、父兄諸君は「別に動物とか戦争とかどうだっていいよ」と思っているんでしょ。
 
苦境に耐えるチャステインがけなげ!とか、とにかくおっぱいがデカいとか、アホな感想ばかり世には転がっているに決まっているよ。そんな父兄諸君のために、私は露骨すぎて辟易したが、チャステインを愛でるのに最適なシーンを紹介しよう。
どうせお前らも、動物を愛でるお前が一番カワイイよ系の男子なんだろ?
 
初っ端の、象の出産の場面。
夫妻は客を招いて小さなパーティを催している。そこへイエジクが急を知らせにくる。象が出産したが、赤ん坊の象が息をしていないというのだ。現場に駆け付けたチャステインは、興奮して攻撃的になっている親の象をものともせず、産まれたての象を
介抱する。何事かとパーティ会場から駆け付けた人々は、象が息を吹き返す奇跡の瞬間を目撃する・・・。

ってな感じなんだけど、「しっかり!」「息をして」という度に、たださえバックリと胸元と背中の空いたドレスがズリズリと落ち、もはや象が生きるかどうかより、「落ちる!」「見える!」ばかりに気を取られてしまう罪作りな場面。
 

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ここは気が散るでぇ。
赤ん坊の象は、気が付いたら生き返っていた。
 
また、バイソンの交尾をさせる際、ブリュールが縄を引きながら露骨にチャステインの背後から身体を押し付けてくる場面では、バイソンの発情とブリュールの欲望が露骨に重ねられる。さらに、のちに嫉妬に身を焼いた夫が彼女と交わるシーンでも、やはり動物たちの交尾を連想せずにはいられないのだ・・・(なんだそりゃ?)
 
 
ごめん、あまりサービスタイムにならなかったわ。
 
 
強かにナチスを出し抜く女性像を期待したのは私の勝手だが、虐殺される動物に、ユダヤ人の姿ではなく、あくまで主人公を重ねる自己主張の強い演出にシラけてしまったというところ。チャステインの服装と髪型は好きだったな。
 
それにしても、ダニエル・ブリュールは、一体どれだけナチの間男を演じれば気が済むのかしら?

『昼下がりの決斗』

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監督:サム・ペキンパー キャスト:ランドルフ・スコット、ジョエル・マクリー/1962年

 

皆さん、こニャンちは。お久しぶりの更新となります。

何が忙しいって、在宅勤務&期末のダブル攻撃もしんどいけど、休校中の小二の娘がずっと家にいたり仕事が終わればすぐ保育園に息子を迎えに行ったりと、なかなか自分の時間が取れない。でも、娘とずっと一緒なのも楽しい。
 
娘は、本当に姉弟か?と疑いたくなるほど息子とは真逆で、明るく優しく、ちょっと甘えん坊で、それでいて自分の意志を貫くことができるカッコいい女子です。
好きな食べ物はナスと蕎麦。趣味は温泉に入ること、好きなおやつは茎わかめ。今も隣で食べてます。

そんな娘の今日のハイライトは、「(HUNTER×HUNTERの)ハンターが現実の職業だと思っていた」です。
 
ちなみに息子の最近のハイライトは、「おかあさーん、私のパジャマ、襟が伸びてきちゃった~」と言う娘に対し、「ああそれね、おねーちゃんが寝てる間に、きんにくもりもりの人がおねーちゃんのパジャマ着て『フンッ!』って力入れて伸ばしてたよ」とゲラゲラ笑っていたことです。どっから来るんだよ、その発想。
 
本日はサム・ペキンパー監督の『昼下がりの決斗』の感想です。
 
 
 
◇あらすじ

ティーブ・ジャッドは、かつて名保安官として鳴らした男だったが、今では西部の人々からも忘れ去られていた。ところが、シエラ山中のコース・ゴールドに金が発見され再び彼が脚光を浴びることになった。コース・ゴールドの人たちが、掘り当てた金を預け入れるために銀行の出張を熱望したため、その重任にふさわしい人として正義の男ジャッドが選ばれたのだ。黄金を預かっての帰りの山道はあらゆる危険が予想されるため、彼は協力者2人を雇うことにした。(映画.com)

サム・ペキンパー監督第二作目だそうです。 

ふかづめさんが「フォード、ワイルダー、ホークスは見といて損ないよ、あんたはペキンパーとかアルドリッチがいいんじゃない?」と言ったので、まずはジョン・フォードを全部観ようとしてたら、「もういいでしょ、次に行きなさいよ」と言われたので、ペキンパーに移りました。真面目なオーバーフォーティ、滝川クリステルと同い年です。

フォードはわが谷は緑なりき(1941)が素晴らしかったですね。

 

いやでも、ホントに観始めてみて良かった。俳優の知識がないので、その辺の話はまったくできませんが、楽しいです。
ちなみに、これまで観たことがあるペキンパー作品は戦争のはらわた(1977)のみだった。思い出しただけで鳥肌が立つ文句なしの名作である。むっさいけど。
 
ペキンパー=バイオレンスのイメージであると聞くが、この頃は(と言っていいのか)バイオレンス色はなく、かつては優れた保安官であった老人が残り火を燃やすさまが、哀愁深く情感豊かに描かれる。
鉱山から銀行へ金を運ぶ仕事のために、ある町にやってきたスティー(ジョエル・マクリー)。彼の名声は過去のものであることが、冒頭から説明される。スティーブが町に入ると人々から歓声が上がり、彼はそれが自分に向けられていると思い応えるが、実は馬のレースへ送られたもの。「どけ、爺さん」などと言われてしまう。また、銀行で渡された契約書を裸眼で読むことができず、トイレに行き老眼鏡を取り出して読んだりする。
 
危険な仕事ゆえに協力者として雇うのが、偶然再会したかつての助手ギルランドルフ・スコットだ。ギルもまた老いており、詐欺まがいの商売で小銭を稼ぐ日々だった。ギルは自分の子飼いで血の気の多い青年ヘック(ロナルド・スター)を同行させ、道中で金を奪おうと目論む。
 
結束のない三人の旅の物語は、山に向かう途中で立ち寄った牧場の娘エルサ(マリエット・ハートレイ)の登場から、方向性を変える。ヘックがエルサに一目惚れしてしまうのだ。そこからは、ヘックがエルサにちょっかいを出したり、エルサがまんざらでもなさそうだったり、敬虔すぎるクリスチャンでエルサに近寄る男を異様に警戒する封建主義の父親と揉めたり殴られたりといった展開が続く。
 
 
あの・・・。まだ目的地に着いてもいないよ。早く出発しませんか。
 
 
ついでに私も脱線するが、いい加減にしてくれないかな、『決闘』という言葉のつく題名たち。書き始めるまで、この映画のことを荒野の決闘(1946)だと思ってたけど、それはジョン・フォードだったでしょ。でも『真昼の決闘』(1952)って映画もあるでしょ。
 
大体さあ、『荒野の決闘』の原題って『My Darling Clementine』だよ? 最初に流れる「オーマイ ダーリン、オーマイ ダーリン、オーマイ ダーリン クレメタイン♪」の曲が素敵なのに、それが何故『決闘』になってしまうの。
それにしてもさあ、この歌って、日本では勝手にどっかの山岳部の連中が「雪よ岩よ われ等が宿り 俺たちゃ 街には 住めないからに♪」って歌詞にしちゃって、それが罷り通るんだから意味がわからないよね。
 
 
 
◇悪夢の結婚式
さて、大輪の薔薇ならぬ野に咲く花といった風情のエルサは、見た目通り雑草魂を持ったジャジャ馬だった。鉱山で金を掘る男たちの中に求婚者がいるらしく、「あたし、山に行ってビリーと結婚する!」と家出してスティーブ一行に加わる。カメラはエルサの雑草パワーと、彼女のことが気になって仕方ないヘックへと向けられ、ジジイ二人は恋に浮き立つ若者の諫め役に回る事態に。
 
私が「ああ、そういう話なのね」と気づくのが遅かっただけで、本作は金を無事に運べるか?に纏わるサスペンスや、敵役となる悪たれ五人兄弟とのガンアクションがメインではなく、かつては活躍した老人たちが、新しい世代のために道を拓いてやる話なのだよね。途中までは若者たち中心の物語が続くが、だからこそ最終的に、老いたるものの魅力が光る。
 
エルサが求婚者のビリーの元へ辿り着いた辺りからは、実に不穏な空気が漂い出す。掘っ建て小屋のバー兼売春宿で二人の結婚式が執り行われるのだが、付き添い人となる女主人と美しく着飾ってはいるが空虚な女たちは、何かを含んだ視線をエルサに送る。ビリーの四人の兄弟たちは、花嫁を得る兄をからかう、というには行き過ぎた野卑な言動を繰り返す。それもそのはず、ビリーらは、花嫁として一族に加わる女を「共有」することを慣習としてきたのだ。
 
 
うえ~、最悪や~。おまけに全員クサそう。
 
 
げらげら笑いながら踊る招待客、毒々しい化粧の女主人、ベロベロに酔っ払いながら結婚宣言を行うアル中の判事、襲いかかってくる夫の兄弟たち。悪夢のような乱痴気騒ぎの中、エルサを救いに現れたのはスティーブだった(ヘックも来たが、すぐ殴り倒された)。
この事件をきっかけに、エルサを親の元へ帰そうとするスティーブ、怒りながら花嫁を奪還しようと追ってくるビリーら兄弟との闘いが始まる。
 
 
 
◇毒には毒を
草臥れながらも自尊心を失わない正義漢スティーブと、そのスティーブに半分は尊敬の念、半分は嫉妬心やコンプレックスという複雑な思いを抱え、どこかケチな男として描かれるギル。そして、この物語をより面白く盛り立てるのはギルの方だ。なぜならギルは、誠実なまま老いたスティーブと異なり、悪党の側へ片足を突っ込んでいるからだ。だからこそ、スティーブには思いもつかない方法で、コトを片付ける。
 
例えば、悪たれどもからエルサを取り返す手段。一番の障害は、この結婚が正式な資格を持つ判事が認めたリーガルなものであることだ。スティーブは、あくまで正論で立ち向かおうするが、そんなものが通用しないと知るギルは、酔っ払っている判事にさらに酒を浴びせて脅し、彼の資格を無いものとすることで無理やり結婚を無効にしてしまう。
 
まさに毒を以て毒を制す。こういうときに、毒の役を担うキャラクターが魅力的に見えるのは当然のことではないかー。
 
その後、スティーブと衝突して一行から離脱したギルは、エルサの父の牧場で待ち伏せていた五人兄弟とスティーブらの銃撃戦を高見から見物する。だが、スティーブが撃たれたのを見ると、条件反射のように馬を走らせて参戦。
 
うわ~、ここ、じわっとなる~。
 
何だかんだ言いつつ友のピンチに本能で身体が動く。そして、悪党になりかけていても、かつて名保安官の隣にあった日々のことは身に刻まれているのだ。
 
若者を中心に映していたカメラは、本来の主役の老人たちへと向けられ、その老骨魂をしっかと観客に届けてくれる。確執を乗り越え、「もちろん昔のように正面突破だ」と敵に向かって同じ歩幅、同じリズムで歩き出す二人の姿にグッと来る。お勧めの激シブ西部劇です。
 
さて、そんな感じで、やなぎやは、また在宅勤務へ戻ります。
 
ところでさ~、ランボー ラスト・ブラッドの公開、6月12日から26日に延びた~。
同じ12日に、『犯罪「幸運」』と同じくフェルディナント・フォン・シーラッハ原作の『コリーニ事件』が公開になるから、ハシゴしようと思ってたのにッ。