Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『ライフ』

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監督:ダニエル・エスピノーサ キャスト:ジェイク・ギレンホールレベッカ・ファーガソンライアン・レイノルズ/2017年

皆さん、こんにゃちは。

子供らの間ではまだまだ鬼滅が熱いわけで、近所の姉妹は毎日揃って鬼滅柄のマスクをしてます。うちの子供はそこまで鬼滅にハマっていないのですが、その姉妹と仲が良いため影響され、あの金髪の、映画の主役になったライオンみたいな、ホラ、穴があったら入りたい的な、ホントにド忘れしたんだけど、あの男の台詞「不甲斐なし!」をしょっちゅう叫んでいるわけ。

私も仲間に入ろうと思っ「ふがいなしふがいなし、ふがしはおかし。ナナナナー、ナナナナー」(ジョイマン)と踊ってみせたりしているのですが、子らはジョイマンを知らないらしく、娘に冷たい目線を向けられています。優しい子なのに・・・。ヨハン、素敵な名前なのに。ヤバイ、ちょっと在宅勤務が続きすぎて頭がおかしくなってるわ。相変わらず調子の出ない私をどうぞよろしくお願いします。

今日は子供たちの「わくわくする映画が観たい」のリクエストを受けて一緒に観た『ライフ』を紹介します。ベン・スティラー監督のやつじゃなくて、私のジェイクが出ている方よ。完全ネタバレですから、お気をつけあそばして。


◇あらすじ

国際宇宙ステーションISS)に滞在する六人の宇宙飛行士は、火星探査機の回収に成功し、探査機が持ち帰った土から生命体の細胞を採取する。初の地球外生命体の発見に喜ぶクルー達だったが、やがてその生命体は成長し、彼らを襲い始める。

これを観た次の日、LiLiCoがTVで「あっと驚くドンデン返し」映画として紹介していました。うーむ・・・ドンデン返しと言えばそうなんだろうけど、あのラストってもう少し別の意味があって、そして醍醐味は別にドンデン返しではないと思うのよ(リリコの映画紹介は好きだよ)。

監督はダニエル・エスピノーサチャイルド44 森に消えた子供たち(2015)がガッカリな出来だったこと以外知らん、すまん。脚本はデッドプール(2016)のレット・リース&ポール・ワーニックが担当し、同じく『デッドプール』のライアン・レイノルズがクルーの一人として出演しているが、一番先に死んでしまいます。

私のジェイクとして知られるジェイク・ギレンホールは、好んで473日間もISSに滞在し続けている変わり者の医師デビッドを演じた。「80億人のバカがいる地球には戻りたくないから」って考え方がヒネくれてる上に、相変わらずキュートォ。
検疫官ミランダ・ノースに、『ミッション・インポッシブル』シリーズのいくつかに出演しているレベッカ・ファーガソンどのミッションだったかは忘れたけれど、黄色いドレスから片足を剥き出しにしてライフル構える姿がカッコよかったよね。私は断然、ミシェル・モナハンよりレベッカ派だよ。

しかし、今回見るべき俳優は何といっても、「ショウ ムラカミ」という語呂のいい名の日本人システムエンジニアを演じた我らがHiroyuki Sanadaである!女のせいで日本からハリウッドに行ったのかと思ってたら、ちゃんと活躍していて、ヨカッタヨカッタ。

うちの子供たちは、Hiroyuki Sanadaが一番のお気に入りで、「この人好き!死なない?ねえ、死なない?」と何度も確認してくるの。ククク、死ぬで。Hiroyuki Sanadaが生命体に追っかけられるトコとか「ダメ!」「逃げて!」とすごい騒ぎだったで。
自分も覚えがある事なんだけど、この頃の映画の見方って、お気に入りのキャラ見つけてその人を応援する・・・なんだよね。不思議だわぁ。

 

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◇カルビン、コワかわ

生命体の発見は地球でも一大ニュースとなり、ある小学生によって「カルビン」と名付けられる。ちょっとだけ育ったカルビンはひらひらと動く様がまるで妖精のように美しく、宇宙生物学者ヒュー(アリヨン・バカレ)の指にじゃれついたりして、アリヨンはカルビンの養育にすっかりのめり込む。しかしカルビンはかわいい名前に反し、少しずつ不穏な形になっていく(アリヨンって響きもちょっとカワイイ)。ガーッ!ってくる形よねソレ。私の経験上、そういう形の善意の生物はいない。点検ミスによる圧力の変化でカルビンの動きが停止してしまい、アリヨンが蘇生させようと行った電気ショックが悲劇の始まりであった。

さて、見どころは何と言っても「無重力」を活かした映像である。クルーを追うカメラの動きは浮遊感があって心地よく、カルビンから逃げるときのスピード感の演出も良かったが、それ以上に重力空間とは異なる現象、液体の表現にこだわっているのがクールだった。もっと分かりやすく言うと、んー、なんだろう、「汁気」を映さなかったこと?

カルビンは、宇宙で襲ってくることでお馴染みのアイツのように、移動した後にネトネトした粘液を残したりヨダレを垂らしたり、傷口からヘンな液体を漏らしたりしない。獲物の動脈を掻っ切って血を飛ばしたりもしない。

最初の犠牲者デッドプールの死のシーンは是非見てもらいたい。カルビンがデッドプールの口から侵入したとき、多くの観客が腹を割いてピンぎゃーーー!!と血まみれで飛び出してくることを予測し期待したはず。しかし実際にはそのような派手な表現はなく、デッドプールの口からゴポッゴポッと吐き出された血が水玉のように無重力空間に浮かび、死体とともにゆらゆら漂う。血飛沫を飛ばしてみせれば観る側の恐怖感も増すし生命体の残虐性も一発で印象付けられるが、敢えてそうせず、これから起こる絶望的な出来事を予感させつつ映像美に徹した点で、数多のバケモノ退治アクション映画と一線を画したのではないかと思う。

進化と共に出来上がってくるカルビンの顔は、不気味ではあるのだが、その造形が妙にキレイで、致命的なものだと分かっていても目を離せなくなる魅力がある(もっとも最後はタコなんだけどさ)。


◇バカが住む地球と崇高な宇宙

ISS内の人間関係に雑音がないのもイイ感じだ。触わるなと言う機器に触わるバカもいなければ、隊列から離れて小便に行くバカもいない。バケモノに追いかけ回される中でドアをロックして仲間を生贄にしその隙に逃げる小賢しい奴も、カルビンをサンプルとして地球に持ち帰る極秘ミッションを遂行する奴もいないんだ!

ある程度のところで、ジェイクとレベッカを残して皆死んでしまうのだが、この死にはドラマ以上の意味がある。つまり、ジェイクの「80億人のバカがいる地球」と言う言葉の通り、宇宙から見た地球は俗で鬱陶しい場所であり、宇宙で任務のため散った彼らは崇高な精神を持つ存在なのである。

え?考えすぎだって?いやいや、だってさ。クルーたちは順番に、仲間を守るために死んでゆくのよ。デッドプールは気絶したアリヨンを助けようとして、司令官オルガ・ディホヴィチナヤはカルビンをステーション内に入れないために、自らの身を犠牲にする。そしてHiroyuki Sanadaも、生まれたばかりの子の写真を手に絶対に帰ると誓いながら、ジェイクとレベッカを巻き添えにしないよう彼らの手を振りほどき、宇宙へと消えて行くのである・・・。

さらにレベッカが辿る運命。地球のバカどもから、危険な生命体を乗せたISSを宇宙の彼方へ葬るためのソユーズが送られてくる。いざという時はクルーごと犠牲にするこの提案をしていたのは実はレベッカで、そのレベッカはどうなっただろうか。そう、他の仲間同様身を挺したジェイクによって地球に逃がされたはずが、結局一番孤独で悲惨な死を迎えることになるわけだ。

そして地球に上陸したカルビンは、バカどもを食い尽くしにかかる・・・。

タコに生きながら喰われてるジェイクが悲惨でないかどうかは、この際置いておこう。
是非、アイツに比べて汁気ないなーって視点で観て欲しい。面白いので、お勧めです。

警報:子供向けではありませんでした。

 

引用:(C)2016 CTMG, Inc. All Rights Reserved.

『ロープ 戦場の生命線』

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監督:フェルナンド・レオン・デ・アラノア キャスト:ベニチオ・デル・トロティム・ロビンス/2015年

皆さん、明けましておめでとうございます!いやあ、年明け感ゼロですねぇ。おかしいな、まだ明けたばかりのはずなのに・・・。

突然ですが、子供の頃、手の指でカエルを作る遊びをやりましたか?

6歳の息子がこれを覚えてからというもの、始終指でカエルを作っている。指の位置や組み方を微妙に変えては「ねえ、おんか、新しいカエルができた」「これは笑っているカエル」「これは怒っているカエル」など新作カエルを見せてくる。私はほぼ変わらないカエルを見せられることにうんざりしており、「すごいねー」「こないだと目が違うねー」と適当にあしらっているのだが、それでも何かにつけ、例えば、汚れた着替えを洗濯に出さずに叱られたとき、食事中「おんか、ティッシュ取ってくれる?」と手を差し出すとき、その手はカエルを作っている。これは既に何かのカエルに取り憑かれていてお祓いが必要なのでは?と疑いを抱いているレベル。

正月には、従兄たちと風船でバレーボールをしているときに一人ぼーっと突っ立ってカエルを作っていたので、その隙に得点されて泣くということがあった。

先日私と娘がソファにいると、またしても指でカエルを作った息子がやってきて、「ねえ、これ何に見える?」と言ってきた。私は娘と目を見交わし、(ここまで山ほどカエルを作ってきた息子が、わざわざ『何に見える?』と訊くからには、これはカエルではなく別の生物なんだろうね)と頷き合い、娘が「わからなーい、なんだろう?」とグッドな返事をした。すると息子は超不審そうな顔で「え?カエルよ?おねえちゃん、大丈夫?」と返してきて、二人で「カエルなんかーい」とソファから落ちた。

以上、現在も続く我が家のカエル騒動の報告でした。だれか助ケロ。
本日は『ロープ 戦場の生命線』を紹介します。

 

◇あらすじ

1995年、停戦直後のバルカン半島。ある村で井戸に死体が投げ込まれて生活用水が汚染され、国際活動家「国境なき水と衛生管理団」のマンブルゥベニチオ・デル・トロらが現地に派遣される。しかし死体を引き上げている最中にロープが切れてしまい、代わりのロープを探しに行くことに。1本のロープを求め、武装集団や地雷の恐怖にさらされる危険地帯へと足を踏み入れるマンブルゥたち。やがて不良にいじめられていた少年ニコラと一緒に彼が住んでいた家を訪れたマンブルゥたちは、そこで驚くべき事実に直面する。(映画.com)

映画好きの間で話題になっていた映画で、確かに面白い。っていうか、上手い。井戸の死体の素性や何故井戸に投げ込まれたのか?の背景にはほぼ触れられず、死体がただ引き揚げを阻害する重量物(=デブ)として描かれるところからしてブラックなんだけど、ブラック加減とユーモア加減が絶妙で。主張(反戦)を真っ向から主張しないという点も洒落れていますな。

 

◇とにかくデル・トロープ

死体のデブのせいでロープが切れてしまい、デル・トロらは水の汚染を阻止すべく、代わりのロープを求めて奔走する。たかがロープ、されどロープ。物資の少ない村では簡単にロープなど見つからず、見つかったと思っても様々な事情から所有者は彼らにロープを渡すことを拒む。
死体を排除する道具そのものである他に、ロープはさまざまなものを象徴する。ロープを探す当て所ない道中、どこまでも続く曲がりくねった細い山道、地雷が仕掛けられた牛の死体や現地民兵の妨害などにより混迷していく事態。

さらに、デル・トロのクセの強さが見ものだ。デル・トロープのロープ癖がとにかく悪いのである。奴は数年前に関係を持ったカティヤオルガ・キュリレンコとこの地で再会し、気まずさゆえに首を竦めて隠れようとする。

元々、デル・トロープにとってレンコとのことは遊びだったが、レンコの方は割と本気だったようで、恋人がいながら自分と寝たロープに怒っており、ロープはロープで、レンコが腹いせに恋人に浮気を暴露したことを苦々しく思っている。いがみ合う二人だったが、レンコの方がデル・トロープのロープに未練たっぷりなのは明らか。ロープの方もあわよくば・・・といった目つきでレンコを見つめる。始めは「くたびれてるし腹出てるなあ」「古谷一行」とか思っていた観客側(というか私)も、デル・トロープの男くささに段々とヤラれてしまう。

途中、一行(古谷じゃなくて「国境なき水と衛生管理団」の一行よ)は地雷のせいで道で夜を明かさなければならなくなり、緊張の糸が切れたことでレンコの本音が爆発、彼が恋人の写真を財布に入れていなかったこと、すなわち恋人の存在を隠していたことを責める。この財布を勝手に見るというはしたない行為にさ、レンコの必死感が表れているというか、本気だったんだなって思ってレンコに肩入れしちゃうのよね。
ところがデル・トロープは流し目をくれながら、「そっちが『恋人はいるか?』と訊かなかったから言わなかっただけ」「それに言ったとしても結果は同じだったろう?」と不遜な言葉を吐く。レンコは反論できず、観客(私)も「ぐぅ・・・」と黙らざるを得ないデル・トロープの圧倒的色気。こうしてまた、レンコはデル・トロープのロープに絡め取られてしまうのである・・・。

私は観終わってすぐ、映画好きの異常な友人S氏に「『ロープ』面白かったよ」とメールした。ヒッチコックの話が返ってきたから、「ヒッチコックの『ロープ』じゃない」と言ったら、「じゃあ、なんのロープなんだよ」と困惑していた。S氏すらデル・トロープに翻弄されてしまった・・・

ひどい文だね、自覚してる。どーも調子が出ないわ。ちなみに原題は『A Perfect Day』。ロープ関係ないんかい。

オルガ・キュリレンコ『007 慰めの報酬(2008年)、オブリビオン(2013年)と華やかな出演作を持つ綺麗な人なんだが、どうも何回見ても忘れる。レンコ以外は、そんなに私の好みではないのかもしれない。しかし、『オブリビオン』は面白かった。

 

◇ロープの話をやめます

「国境なき水と衛生管理団」の古参メンバーであり、人格破綻気味のリーダー、ビーのキャラクターが良かった。ビーを演じたティム・ロビンスは、私の中で「掘られ俳優」として不憫な印象の人だったので、ロックをガンガンに鳴らしながら地雷の仕掛けられているだろう牛の死体に車で突っ込む破天荒な所作がとても痛快だった。

新人ソフィーメラニー・ティエリー)と、デル・トロ、ティム・ロビンスの関係性は、同じくデル・トロ出演の『ボーダーライン』(2015)と似ていて、ルールや権利を盾にあるべき正義を貫こうとする若者と、そんな彼女に遠い昔の自分を見るような生暖かい視線を送る百戦錬磨のおじさん二人といった構図を思い出す。

ただし他の戦争映画と一線を画すように、本作では直接的には死体も虐殺も映されないし、地雷だらけの大地を行きながら地雷が爆発するシーンもない。セルビアムスリム民族浄化を描いた作品であれば過激なレイプと殺戮が売り物であるにもかかわらず、だ。また、停戦の直後とした設定がよかった。内戦は終わったと言っても、実際には捕虜は堂々と殺されているし、子供の元に親は帰ってこない。治安維持のために駐留する国連軍はルールと法案のグレーゾーンの中で全く役に立たず、それはデル・トロたちも同様である。

 

 

◇あんたら何もできなかったねという結論が意地悪

最初に、この地の人々はユーモアのセンスを重視することが説明され、それに応えるように映画全体がユーモアに彩られている。デル・トロらは、一見この映画の主人公なのだが、実際にはブラック・ユーモアのネタにされた、被害者のようなものだった。

ようやく死体の引き上げが成功するかに見えたそのとき、冒頭でメラニー・ティエリーが規則一辺倒の国連軍に対し、彼らの融通の効かなさを逆手に取るつもりでついた嘘が、逆に引き上げを阻む原因となってしまう。ロープは切られ、死体は井戸の中に逆戻り。メラニー・ティエリーは自分の無力さに怒り、通訳のダミールは兵士に食ってかかるが、抵抗や反発が徒労に過ぎないと知るデル・トロとティム・ロビンスは装備を解いて気だるげに煙草に火をつける・・・メラニー・ティエリーの熱意や使命感が完全に裏目に出たとした点で、皮肉に満ちたシーンだった。

井戸から手を引いたデル・トロたちは、今度は難民キャンプで便所が溢れたとの報告を受け修繕に向かうことになる。「雨が降らなきゃ楽勝さ」というティム・ロビンスの言葉に被せるように叩きつけるような豪雨が・・・。その雨は井戸の水を溢れさせて死体を浮き上がらせ、死体は地元の住民たちの手によって取り払われる。
デル・トロらがあれほど苦労して成し得なかった作業はあっさりと完了し、さらに彼らの次の仕事を困難にする雨は、住民らにとって救いの雨になるという二重の皮肉

浮いた死体を発見するのは、映画の冒頭で国連軍の兵士が止めるのも聞かず地雷原に入って行ってしまう老婆だ。彼女は警告を尻目に、牛が歩いた後を辿って安全な道を確保する。国際組織が復興を支援するつもりでいる土地で、彼ら自身が引いた線によって雁字搦めになる一方、住民は自分たちの知恵で危機を回避し生活を立て直していく。

まるで、勝手に人んちに入ってきて正義だ救済だと何を騒ぎ立てているんだ?とでも言わんばかりのラストは、クスリと笑えもするが、ここまでに増して意地悪でブラックな展開だったと言える。

面白いし時間も短いし、お勧めの映画だよ。ではまた!

『2020年に観た映画雑感&ベスト3』

皆さん、こんにちは!リトル・ヤナギヤです♡
やなぎやがトイレに入っているので、先に始めるわね。
映画に関係ないんだけど、どうしても言いたいことが2つあるから、先に言わせて。

西大伍が浦和に来たのよ・・・。

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え?西大伍(にしだいご)知らない?西と言えば、Jリーグ滅びればいいランキング一位の鹿島アントラーズに過去所属していて、そのエグいプレーによりレッズサポからは「サイコパス」と忌み嫌われていたDFよ。大きな声じゃ言えなかったけど、私は西のプレーは勿論、日本人離れした強心臓とユーモアセンスがすごい好きで、でも鹿島にいるから好きになれない、以前はそんなジレンマに日夜身を焼いていたんだから。鹿島→浦和の直通だと難しいところ、神戸という乗り換え地点を経たことと、慎三はんという先駆者がいたことで、今回の移籍の道はまだ平坦だったと言えるわね。っていうか、超好き。顔も好き。

笑ったのが、Twitterで西をブロックしていたレッズサポが、移籍が濃厚になった途端、ブロック解除&フォローして、それをこぞってツイートし出したことね、ぶっは、あんたらのブロックもフォローも、西に伝わってないし気にもされないから。

やなぎや、まだトイレから出てこないわよね?もういっこがね。やなぎやの子供がここ数日、香水がどうたらって歌を死ぬほど歌ってくるから、頭にこびりついちゃって、うっかり手とか洗いながら口ずさんだりして地獄なわけ。だって、クッソみたいな歌じゃない?超キライな感じの歌の上、「ドルチェ&ガッバーナ」がまたクソみたいなブランドだから、なおさら不愉快。ドルガバの香水ってドンキかよ。私たちの世代では「DGのベルトした男の横には座るな」って暗黙のルールがあったものよ。今、「これでいいのだ~、これでいいのだ♪」ってバカボンで上書きしようとしているところ。あ、オーナーがトイレ行ってるのにクソクソ言っちゃいけないわね、オホホホ・・・。あ、出てきた。

やなぎや「大丈夫だった~?」
リトル「バッチリ。模倣サイトとブランド侵害リスク、その対処法について語っておいたわ」
やなぎや「そう、良かった。さて、今年もあっという間に一年が過ぎて、ヤナデミー賞の季節がやってきました。ヤナデミー賞、命名ikukoさんね。去年のはこちら」

 

yanagiyashujin.hatenablog.com


やなぎや「でもベスト10は無理だ~、それくらい映画観なかった。自粛中の完全在宅で生活リズムが狂ったし、仕事で頭悩ますことがすごく多かった。なので、観たものの寸評にしようかと」
リトル「いや、それ以上にドラマを見まくってたじゃない。『BOSCH』6シーズン、『THE WIRE』5シーズン、『ホームランド』8シーズン!これだけ見れば時間取られる以上に、頭ん中もドラマになるわ」
やなぎや「そうなんです」
リトル「挙句、『RE:BORNリボーン』だかショボーンだか分かんない映画の感想とか書いてさ」
やなぎや「謝って!今のは拓ちゃんに謝って」

 

◇『運び屋』
2018年製作/116分/アメリ
監督:クリント・イーストウッド

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リトル「『ダーティ・ハリー』とか『サンダーボルト』なんかだと色気がすごいけど、イーストウッドのおじいちゃんの包容力とかノーテンキさに包まれるような、愛すべき年寄りの話だったわね」
やなぎや「家族に罪滅ぼしするために麻薬運んで金稼ごうって動機もいい加減だし」
リトル「長いドライブで、車ん中で歌を歌いまくる場面が何と言ってもよかったわ。何回か繰り返すうちに、ただ『捕まえないであげて~』って感じだった」
やなぎや「あと、好きなのはギャングの連中と顔見知りになるうちに、あちらが気を許してくるとこ。イーストウッドがニコニコ現れると、みんな顔緩ませて、よぉじいさん元気かって。だってみんな、おじいちゃんおばあちゃんには弱いものだよ、万国共通。日本人のラッパーなんて、大体じいちゃんばあちゃんマジ感謝とか歌ってるじゃん」
リトル「・・・たまにラップの話するけど、好きなの?」
やなぎや「推しはCreepy Nutsクリーピーナッツ)BAD HOPです」


◇『MUD マッド
2013年製作/130分/アメリ
監督:ジェフ・ニコルズ

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やなぎや「私の人生は『マシュー・マコノヒーとは何なのか?』っていう疑問の繰り返しで」
リトル「あんたの人生で」
やなぎや「遥か昔に観た『コンタクト』(1997)、確かマシューは一見チャラ系の学者だったと記憶してるんだけど、映画自体面白かったし好印象。評決のとき(1996)は当時ジョン・グリシャム好きで、マシューがカッコよかったし、何度か観たなあ」
リトル「U-571(2000)とかイマイチじゃなかった?」
やなぎや「多分そこら辺で観なくなってしまった。けど、これはドラマだけど『TRUE DETECTIVE』でやっぱりすごいって衝撃受けて。と思ったら、次に観たダラス・バイヤーズクラブ(2013)が全然ハマらなかった
リトル「マコノヒーちょっとキモいじゃん。撫で肩だし」
やなぎや「それね、ちょっとキモイんだよね。でもやっぱり好き」
リトル「『MUD』は少年の目を通した愛の話。マシューが演じるマッドは、好きな女のために人を殺して島に隠れ住んでいて、主人公の少年は彼の逃亡に協力しようとする」
やなぎや「両親の不仲を日々目の当りにして、『愛し合って結婚したのではなかったのか?』ってどうしても理解できないんだよね。だから、マッドと彼女に以前の両親の姿を重ねて成就させたいと思う」
リトル「自分自身も女の子に恋して、でもすれ違って、愛ってのは理想通りの美しいものじゃないという経験を経て、また次の恋をする。大人になっていくわけよ。それが、寂しいような、頼もしいような」
やなぎや「あと場所がよかったよ。船を家にして魚取って生活している人が一定数いる土地でさ。ヤクザ連中に襲撃受けたとき、川向いのじいさんがライフルでバシバシ仕留めるとことか、手に汗握った」
リトル「ただ、私的には最後は蛇足だったなあ。あんなにきれいに回収する必要あったのかしら?あれで、ちょっとお伽話みたいになってしまったと思う」

 

◇『晩春』
1949年製作/108分/日本
監督:小津安二郎

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リトル「ついに小津を観出したわね」
やなぎや「東京物語』『晩春』を観た。あと麦秋『早春』秋刀魚の味は観るつもりなのと、S氏からは『生れてはみたけれど』『風の中の牝鶏』を勧められている。最後のはどんな映画なのか想像もつかんな」
リトル「ホークスやペキンパーもちょこちょこ観てるよね」
やなぎや「もちろん、あの人の影響なんだけど」
リトル「あの人ってふかづめさんでしょ?もういいから呼んで来ようよ。どうせ炬燵に入って首にネギ巻きながら、めかぶと焼酎を交互に飲んでるんだろうからさぁ。ちょっと、ふかづめさん!ふかづめさん! ご飯食べに行こー!めかぶは主食じゃねぇんだよコラ・・・え?ふかづめさんちにG子がいた・・・どういうこと・・・」
やなぎや「余計な創作して、波紋広げないでくれる?ただひたすら面倒くさいから」
リトル「ふかづめの今年のパワーワードは『大きな画面で映画を観ることを豊かな映画体験と思っている野郎この野郎』とかそんな感じのやつだよね」
やなぎや「そんな言い方はしていないと思うよ。あと、呼び捨ては良くないよ。」
リトル「そんなことより小津よ」
やなぎや「今更あれこれ言う人ではないわけだし、技術的なことは分からないのだけど、それでも美しい構図だなとかすごい編集だな、くらいは素直に感じた。観てて心地よいの。ゆったり揺蕩うようにずーっと観てたい気持ちになる」
リトル「話としては、『晩春』よかったわ」
やなぎや「はっきりストーリーがあるもんね。映画とは離れた話になっちゃうんだけど、簡単に言えば結婚する気のない原節子を皆してお節介焼いて縁付かせちゃう話でしょ。笠智衆演じる父親が、原節子に嫁に行く決意させるためにある嘘をつくんだけど、女は生家を出るものだし結婚こそ女の幸せ、ってのが疑いもなく前提にある」
リトル「そうね、さも当然のように。当時はそれが当たり前だったわけだから」
やなぎや「でもそれって、女の権利が叫ばれ出して、『結婚は?』と訊くことすらが許されなくなった現在からすると、シンプルというか、余計な思考や主義が必要ないから映画がするりと入ってきたんだと思う。だって、父は自分亡き後、娘を託す男を探すもんだろうし、親戚のおばちゃんはお節介を焼くもんじゃん。以前からモヤモヤしてるんだけど、結婚するかしないかは私の自由ですよねって考えと、『結婚はまだ?』っていう周囲の考えをさ、真正面からぶつける必要ってあんのかね?だって、特におばちゃんおじちゃんは言うんだよ、『結婚は?』『二人目は?』って。田舎に行けば行くほど。たとえ旧態依然の価値感だとしても、根にはこっちを心配する気持ちとか、しかも一応結婚を経験して総合した結果メリットがあるという体験に裏打ちされてるわけじゃない?はいはいって言ってればいいと思うんだけど、『女の幸せは結婚』というワードに対する反発の大きさが、逆に視点を一点に絞った映画を制作する妨げになっているように思ったり」
リトル「まぁ、状況や相手にも依るし、無神経な人、超イヤな思いをしている人いるだろうから極端な考え方だとは思うけど、多様性によってややこしくなったものはあるかも。要は『結婚が女の幸せか?』という『雑念』に囚われないで素直に観られたということね」
やなぎや「そうそう、原節子だって『結婚だけが幸せじゃない』とはっきり言っているから、もちろん分かっているわけよ、小津監督だって。それでも、お前なら幸せになれると信じて送り出す父の映画だからさ、そのまんま受け取ればいいのだし」
リトル「後妻をもらった叔父に、汚らしいわ不潔よと唇を尖らせるせっちゃん、しぶしぶ見合いした男が案外と好印象で、でも結婚という行為自体にどこか生臭みを感じてたから、手の平返しで喜ぶことを気恥ずかしくも感じてるせっちゃんが愛らしかった」
やなぎや「そういえば、『東京物語』でも、母の葬式が済んですぐに形見分けの話をし出す姉に、年若い妹が嫌悪感を示すシーンがあった」
リトル「でも、せっちゃんが、『そういうものよ』とちょっと達観した目つきで、愛しそうに少女を諭す」
やなぎや「潔癖な少女が大人の女性になっていくこととかさ、家族模様を描く中での、個々人の成長、変化の表現がとっても細やかだよね~」

 

◇『少年と自転車

2011年製作/87分/ベルギー・フランス・イタリア合作
監督:ジャン=ピエール& リュック・ダルデンヌ

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リトル「これもふかづめ推し?」
やなぎや「いい加減にしないとネギで叩かれるよ」
リトル「とってもいい映画だったわよね」
やなぎや「よかった。主人公の少年は、いずれ迎えに来るという父親の言葉を信じて養護施設で生活している。ある日、父親が少年の自転車を売ったという話を聞き、信じずに父に真意を確かめに行く」
リトル「切ない話」
やなぎや「父親のダメっぷりにイライラするんだけど、少年は頑固に父を求める。だからこそ、年上のワルにひっかかってしまう。男性からの庇護や父性を求めてるんだよね。面白いなと思ったのが、母親は何故いないのか、どこにいるのかが一切出てこない。少年は初めから母性に期待してないんだよ。だからこそ、里親となった女性から差し伸べられた手をなかなか掴めない。父を諦め、母を得る話、そんな感じかなあ、難しいことはわからないけど。あと、赤色がキャッチー」
リトル「自転車はなんなの?」
やなぎや「自転車」
リトル「自転車の話なんでしょ?」
やなぎや「自転車は、、父性と母性のマクガフィンであり、、」
リトル「わかんないならいいよ。あとマクガフィンの話は今年で終わりにしてね。」
やなぎや「赤い自転車」
リトル「色はいいよ」


◇『ローマンという名の男 信念の行方』

2017年製作/129分/アメリ
監督:ダン・ギルロイ

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やなぎや「『黒い司法 0%からの奇跡』(2020)の関連で観始めたら、かなり面白かったから、あらすじから紹介します(『黒い司法』も面白かったよ!)」
リトル「デンゼル・ワシントン演じるローマン・J・イズラエルは、優秀なんだけど、人と話すのが苦手な弁護士。ある日、ローマンの保護者的存在であった法律事務所の経営者ウィリアムが倒れて亡くなってしまう。法廷に立ったり人と折衝する役はウィリアムが担い、ローマンは膨大な知識や記憶力で彼を支える役割だったから、急にほっぽり出された形になってしまうのね。生活のため職を探すのだけど、何しろ表舞台が苦手だからうまくいかない。ウィリアムに事務所の清算を頼まれた大手弁護士事務所の経営者ピアスコリン・ファレルはローマンの能力に目をつけ事務所に引っ張る。でも、本来の主義を曲げて働くうち徐々に歪みが生まれて・・・みたいな感じかしら」
やなぎや「いや~、もう、痛々しくて終始ドキドキしていた映画だった。経験や知識は確かなのに、人に対する術や物言いを知らないから、どんどん裏目に出ていってしまうんだよねぇ」
リトル「あと、割と珍しい発想なんじゃないの?アメリカの映画に出てくる弁護士って、いろんな困難に襲われはするけど、基本的に『弁は立つ』ことは前提で。この映画では、優秀だけど能力を活かすことができない男の葛藤が描かれているの。あれね、すっごいいい野菜作っても、販売戦略がないと売れないよってことね」
やなぎや「私、例えを出された途端、よく分かんなくなるからやめてくれる?多分、かなり太って撮影に臨んだであろうデンゼルの野暮ったさも見ものだけど、コリン・ファレルいやあ、カッコよかった。また役柄がよくて、依頼人よりも事務所の運営を優先する拝金主義の弁護士だったんだけど、ローマンの不器用さや人柄にあてられちゃって、考えを変えていく」
リトル「でもウィリアムが、鞘に納めた刀のごとくローマンの使い方を知っていたのに比べて、ピアスでは使いきれなかった・・・っていうラストね」
やなぎや「例えをやめてってば。G子はこれ観たのかな?絶対観た方がいいよ

 

ボヘミアン・ラプソディ

2018年製作/135分/アメリ
監督:ブライアン・シンガー

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やなぎや「MAMAーーー!」
リトル「あ、うん」
やなぎや「Ohhhーー!」
リトル「はいはい」
やなぎや「たったいま人を殺してしまったー」
リトル「そこは日本語なんだ」
やなぎや「遅ればせながら観まして、良かった、ホントに良かった!超胸が熱くなった。最後のライブ・エイドのところは涙が溢れた」
リトル「私はクイーンには全く触れていないけど、これ、世代ド真ん中でクイーンが好きな人には、たまらなかっただろうねぇ」
やなぎや「S氏によると、史実と違うって理由で非難している人もいるらしいよ」
リトル「死ねよな」
やなぎや「でも、私は物語的にはちょっと不満あるんだ。簡単に言うと、王道過ぎて。お父さんからの無理解、バンドメンバーとの軋轢、最愛のパートナーであるメアリーとの離別。これらのドラマ自体はいいんだ、ただ細部に、一世を風靡した人物に相応しい気難しさが感じられなかったというか」
リトル「もっと、ムッチャクチャでもよかったのではと」
やなぎや「そうそう。バンドのリーダーでありスターだよ。困難はあったけど、本人が少し視点を変えて心を入れ替えたら、お父さんも彼女もメンバーも周りに戻って来る。終生の恋人となるジムとのエピソードも手早かったし。。。もっとコイツどうにもならんな!みたいな気難しさが映画自体に欲しかったかなって」
リトル「でもそれを置いといても、ライブ・エイドのパワーにはひっくり返されるよね」

 

◇翔んで埼玉
2019年製作/107分/日本
監督:武内英樹

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リトル「これはアウトだったな」
やなぎや「なんだろう、ギャグ中心の映画なのに、面白くないという・・・」
リトル「めっちゃ笑うつもりで観たのに、笑いきれなかった消化不良感ね」
やなぎや「これは、漫画→映画化に問題があったと思うのよ。あの漫画ってすごく古いじゃない?当然、笑いの感覚も古い。アレンジしないで、そのまんま映像化しようと努力した結果、うまく落とし込み切れなかったのではないかな」
リトル「それが中途半端さを生んだと」
やなぎや「だって、笑いの感覚だけじゃなくて、人の反応にしても価値観にしても、今とは全然違うわけじゃない。同じテイストで映像に持ってこようとしても無理。ただ、この作品自体が、あの世界観でなければ意味がないわけで、だから、これに関しては特に映画化という試み自体が失敗だったってこと」
リトル「そういえば、ローランドってド天然で面白いなって思ってるんだけど」
やなぎや「(?)うん。何で天然?」
リトル「前にTVで、ホストたちを香港に連れてって、すごい夜景の見える高級ホテルに泊まって、ガラス張りのフロから夜景を見下ろしてワイン片手に『お前らもこういうものを手に入れられるようになれ』って語ってるのに爆笑したのよ。やっぱ成功の象徴が、高層マンションと夜景とワインなんだなって。部屋とYシャツと私くらいベタ」
やなぎや「ああ、確かにね(スルー)。他人が作った価値観だし。普段も何も目新しいことは言ってないよね。時間は守るとか、ビジネスの相手は敬う、自分が雇った人間には責任を持つ。ある意味、それを徹底的に貫ける人間が少ないわけで、エライんじゃない?」
リトル「で、最近本屋で見かけたローランドの本の帯に『俺は特別じゃない、凡人代表なんだ』ってあったから、あ、ちゃんと自分のことわかってるんだなって感心したわ」
やなぎや「それより、なんでローランドの話するの?」
リトル「だって、この映画に出てたでしょ?」
やなぎや「・・・出てたのは、ローランドじゃなくてGACKTだよ」
リトル「あら、そうだった!?まあ、いいや、似たようなもんじゃない。だって、GACKTって周囲のスタッフに自分のこと『若』って呼ばせてるのよ。私だったら恥ずかしくてベッドから出て来られないわ」
やなぎや「だから、私たちは凡人ってことなんでしょ」

 

◇ベスト3

やなぎや「今年観た映画のベスト3は挙げてみることにしました!」

■3位『グラントリノ
2008年製作/117分/アメリ
監督:クリント・イーストウッド

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リトル「イエー。超良かった、これ」
やなぎや「最近のイーストウッドの中で一番好き。偏屈&頑固なクソジジイっぷりがホントに楽しすぎた」
リトル「人種で区別することと偏見を以て人に接するジジイを描くことの遠慮のなさ。田舎のジジイなんてこんなもんだぜっていう当たり前な言い分ね。全部が全部目くじら立てるものでもないし、言われた人間だって冷や汗一つで流すこともあるのに、当事者を置いてけぼりに関係ない世間が、何でもかんでも人種差別と騒ぎ立てる現状を皮肉ってる感じがあるわよね」
やなぎや「『運び屋』でも、物議を醸しそうなシーンっていうか、ギクッてなる場面があってさ」
リトル「あれでしょ、車の故障で立ち往生している黒人のカップルに、『白人がニグロを人助け』ってニカニカ笑うとこでしょ。
やなぎや「うん、で、当のカップルは『おじいさん、今はニグロって言わないのよ』って呆れてる。現場はそんなもんですよ、って感じだったよね」
リトル「スパイク・リーとあんなやり合ったのに、またやった!って爆笑したわ」
やなぎや「『グラントリノ』では、隣のモン族の家族に対して最初、偏見100%の態度で臨むんだけど、その家の少女と交流を持つにつれ情が上回り、『人と人との繋がりが何より大事』ってとこに帰結する爺さんに、めちゃめちゃ可愛げがあった」
リトル「ラストがイカしていたわー」
やなぎや「懲りない爺さん、って感じだよね、本人も演じるキャラクターも。まだまだ長生きして欲しい」

 

2位『東京物語
1953年製作/135分/日本
監督:小津安二郎

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リトル「名作来たね」
やなぎや「構図の素晴らしさにまず目を奪われ、独特な台詞回しに耳を奪われる。なんだろう、すっごい繰り返すの。例えば最初に、東京の子供たちに会いに行くため旅支度をしてるときに、『空気枕、持ちました?』『お前に渡したろう』『こっちにはありゃしませんよ』、これを繰り返すの」
リトル「あれも。『ほうか、あかんのか』の繰り返し」
やなぎや「泣いた!!」
リトル「それを言うなら、笠智衆東山千栄子の、もはや似た者夫婦の域を超えたそっくりな座り方と、収まりの良さがすごかった。旅支度のシーンや熱海の堤防で座ってるシーンとか、おんなじ格好だものね」
やなぎや「だからこそ、のちに一人が抜けた空間が目に痛い」
リトル「そしてせっちゃんよね。ラストで、そこまで全部『いいえぇ』『とんでもない』と受け流してきたせっちゃん、そして『大人になると(皆自分の生活第一になるのは)仕方ないものなのよ』と少女を諭してきたせっちゃんがさ、笠智衆に、『私だって○○さん(死んだ旦那で笠智衆達の次男)のことばかり考えてるわけじゃない、皆さんがおっしゃるように貞淑なばかりではない』と告白して涙を流すとこが本当によかったわあ。いいんだよう、生きてる方を大事にしていいんだようって泣いたね」
やなぎや「本当の親子より、笠智衆とせっちゃんの間に親子の絆を感じた」

 

■1位『ショート・ターム』
2013年製作/97分/アメリ
監督:デスティン・ダニエル・クレットン

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リトル「なるほど、これなんだ」
やなぎや「今年の気分に合ったって感じかな。ブリー・ラーソンめっちゃ良かった。ブンむくれ顔女優ナンバーワン」
リトル「『ルーム』(2015)より前の映画なのね。ブリー・ラーソンが演じたのは、ティーンエイジャーを預かる短期保護施設『ショート・ターム』で職員をしているグレイス。同僚でボーイフレンドのメイソンは優しくて、幸せな日々を送っているんだけど、実は子供たちと同様、心に深い傷を負っていて」
やなぎや「グレイスやメイソンを始めとする職員たちには何の権限もなくて、ただ子供たちに寄り添い、生活の面倒を見るだけ。だから、子供たちが敷地の外に出たら何もできない」
リトル「パニックを起こして走り出してしまったり、脱走しようとする子供を敷地の外に出してしまったら彼女たちにはどうすることもできないから、まずは敷地から出さないこと。追いついたら両腕を掴んで座って子供が落ち着くのを待ち、いいタイミングで『落ち着いた?』『話したい?』と声をかける。いうなれば、できることはそれだけなのよね」
やなぎや「問題を抱える子供たちに対する『構えなさ』が心地よい映画だった」
リトル「でも実は、グレイス本人が敷地の外に出ることに怯えていた、とも言えるわね。虐待を受けているある少女に過去の自分を重ねて、敷地を飛び出し権限を逸脱した行動を取ってしまったときに抑えていた壁が崩壊してしまうの。でも、それをきっかけに、また新しいものを構築していく、子供たちと同じように」
やなぎや「最初と最後、おんなじシチュエーションのシーンがあるのね。勤務に就く前と仕事を終えた後に職員たちが外で寛ぎながらおしゃべりしている。最初の、映画冒頭での世間話から伝わるのは、自分たちの無力さやこの仕事の無意味さ。でも最後に話しているのが、数少ないながら芽生えた希望の話なのがすごく良かったね。映画自体がさ、ほとんどが困難で不幸なことばかりだけど、成就するものもある、と示して終わるの」
リトル「最後の話は観ながらこちらも笑顔になったわね!」


やなぎや「ってことで、もうすぐ一万字です」
リトル「終わろう。疲れた。どっかで毒舌発動しようと思ったけど、疲れてできなかった」
やなぎや「いや、十分ですよ。それでは、皆さん、よいお年を~!」
リトル「来年もよろしくお願いします!」

『恋の罪』

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監督:園子温 キャスト:水野美紀冨樫真神楽坂恵/2011年

 

園子温監督作品と相性が良くない。愛のむきだし(2008)、冷たい熱帯魚(2010)、リアル鬼ごっこ(2015)、新宿スワン(2015)を観て、苦手を通り越して不快になったので、これは相性がよくないんだなと結論づけた。不快の理由は、いわゆるエログロと表現される作風について、不謹慎だとか過激だとかそんなことではなく、ここまでやっちゃうオレ&お上品で保守的な日本映画界に泥団子を投げつけちゃうオレって剛腕でしょと過剰なドヤ顔で目前に迫られているような感じが、どうにも受け入れがたいんだ。

特に『愛のむきだし』がマジの苦手で。当時はインスタに感想を書いていたのだが、読み返したら、”一人で部屋で遊んでてくれ””パンチラに異様に執着する童貞””『冷たい熱帯魚』は”破壊と死をこねくりまわして、ぐちゃぐちゃに盛ったに過ぎない”と、ぷんすかしていた。まあ、数年前のことだが若かったんだろう。ちょっと言い過ぎたと自分でも思う。今も『愛のむきだし』は思い出すとイライラするが、言い過ぎた。でもやっぱり苦手なんだよ。

ただ、今回の恋の罪がやたらと胸に刺さる映画だったので、クリスマス気分を盛り上げるために紹介します。

 

 

◇あらすじ

21世紀直前に起こった、東京・渋谷区円山町のラブホテル街で1人の女性が死亡した事件を軸に、過酷な仕事と日常の間でバランスを保つため愛人を作り葛藤(かっとう)する刑事、昼は大学で教え子に、夜は街で体を売る大学助教授、ささいなことから道を踏み外す平凡な主婦の3人の女の生きざまを描く。(映画.com)

言うまでもなく東電OL事件に着想を得て独自の解釈を加えたものだ。同様の作品に、私の知る中では桐野夏生『グロテスク』があり、こう次々に掘り返されては被害者遺族にとって堪ったものではないだろうが、残念ながら、あの事件はそれほどに作家の好奇心と創作意欲を掻き立てるらしい。

舞台は90年代の渋谷円山町のホテル街。いわゆる立ちんぼが暗がりで客の袖を引いていた時代だ。露骨なラブホテルの造形や安っぽいネオン、売春婦たちの崩れた化粧が画面をねっとりと塗りつくし、観る者の視覚に強烈な印象を残す。なんだろう、私が90年代円山町を語るのもヘンなんだけど、映し出される低俗で胸が悪くなるような人間の悪意や欲望がやたらとリアルで淫靡だ。上述の桐野夏生が長年「悪意」を描いてきたこと(そして最近の作品では薄れてしまったこと)は、過去にどっかの記事で書いたが、まさにその絶頂期の悪意の表現を映像で見せてもらったような気分だった。

余談だけど、数年前までうちの会社のオフィスは円山町のすぐ裏にあった。総合して真面目な固い会社なんで、完全に場違いだったんだけど、当時は色々な事情があってね。周囲の会社はベンチャーばかり、道玄坂には夕刻ともなれば黒塗りの車がズラーッと並び、朝は朝キャバのキャッチがうるさいし、酔っ払いがそこらに倒れていて・・・。近くの他の会社の男のコは、横断歩道で信号待ちしてたら後ろからナイフを突きつけられたことがあると言っていたし、オフィスビルのエレベーターの壁に血がついていたこともあったらしい。あ、あと同僚のブチが、ランチに出たら道で男に「ここらへんでヌケる店ってどこっすか」って聞かれたって言ってた。引っ越してよかった。

 


◇三人の女

映画はいくつかのチャプターで構成され、廃墟で見つかった首のない死体の事件を捜査する刑事、吉田和子水野美紀のパートから始まる。次のチャプターでは少し過去に戻り、著名な小説家の夫を持ち何不自由なく暮らす主婦菊池いずみ神楽坂恵が、AVディレクターのエリ(内田慈)に声を掛けられて、徐々に裏の世界に足を踏み入れていくさまが描かれる。そのうち、繁華街で男を物色するようになったいずみは、娼婦の尾沢美津子冨樫真に出会う、といった具合にストーリーは進んでいく。

平凡な主婦(というにはおっぱいデカすぎだが)という点で、観客のほとんどが神楽坂恵に着目して映画を観ることになるだろう。『冷たい熱帯魚』で吹越満の妻役を演じた女優であり、公私ともに園監督のパートナーである。神経症でナルシストの夫を演じた津田寛治は、私にとっては闇金ドッグス』の「オーケー、グー。オーケー、グーですよ」が口癖の悪徳芸能プロダクション社長のイメージが強いのだが、こういうクセのある役をやらせると最強な人。冨樫真については良く知らないが、知らない分衝撃的ではあった。

神楽坂恵冨樫真の関係が濃厚に絡み合っていくのに対し、水野美紀は直接二人と関わることはない。だが、チャプターを横断して三人には「性」という共通点がある。水野美紀の存在意義が薄いというコメントをどこかで見た。確かに他二人の感情のぶつかり合いと全身全霊の演技は強烈だが、ギリギリのラインで何とか理性を保っている水野の褪めた佇まいがあってこそ、あの狂乱芝居が活きたことを忘れてはならない。

水野美紀が演じたキャラクターは複雑だ。彼女は夫の友人と泥沼の不倫関係にある。また、過去に目撃したある女の自殺が忘れられず、「自分はいつ境界線を越えるのか」に怯えているのだが、水野の夫は妻のことなど何も知らず、その事件を笑いながら酒のつまみにする。女にとって「肉」の支配は男にとってのそれより深刻で、「業」にすらなるということが水野を通して映される。

水野のパートでは必ず陰惨な雨が降る。単純に神楽坂恵冨樫真のパートとの視覚的な対比でもあるのだが、さらに重要なのは、男と情事を行っているとき雨なりシャワーなりが彼女に注ぎ、雨が情欲、もっと言えば愛液のメタファーとなっていることだ。男が愚かであること、だがその支配がなければ生きて行けない女の業が同時に描かれるのである。

水野美紀が、変態的なまでにストイックな役者であることはここで語るまでもない。誰が『踊る大捜査線』の雪乃さんがこんなふうになると想像したでしょう。でも、あのシリーズで多くの役者が「いかに変わらずに続けるか」と努力する中、水野美紀だけが変化によって存在感を強めていったと思うんだ。

ちなみに水野美紀は冒頭で全裸を見せ、まるで続くように神楽坂恵冨樫真も同様にフルヌードになるが、エロティックさはなく、画面から感じられるのは、武装することも飾ることも諦めた、女たちの痛々しい剥き出しの精神のようなものだった。まぁ、あるいは考え過ぎで、女子高生にパンチラさせまくる園子温のことだから、「大人の女にゃフルヌードやあ」ってなっただけかもね。

 


◇城に入れない二人

さて、いよいよアクの強い二人の話である。

父親への成就しない想いを、決して入り口に辿り着けないカフカの「城」に準えた冨樫真は、昼は名門大学で教鞭を取りながら夜は男に身体を売り、「城」の周りを彷徨っている。神楽坂恵は、夫への愛情の代替物として他人に肉の繋がりを求めるのだが、面白いのは彼女が「全く自分がない女」ということだ。何故なら、AVへの出演から廃屋で身体を売り、ついにデリヘルに勤め始めるに至るまで、そこに彼女の意志は一ミリも介在していないからだ。

ホテル街で冨樫に出会った神楽坂恵は一目で彼女に惹きつけられる。夫との関係において同様に「城」の周りを彷徨う神楽坂は、冨樫に直感的に共鳴し、冨樫の方は「ここまで堕ちてこられるか?」という狂暴な動機から、彼女と関わりを持つようになる。

文学の助教授である冨樫は、神楽坂に自分の講義を見せ次のように諭してみせる。

本当の言葉はみんな肉体をもっているの。肉体を伴わなければ言葉はただのカケラにすぎない。
貴女は言葉に身体がついてきていないの。そのうち経験が伴って、言葉が体になってくるわ。だから一緒に経験していきましょう?

 

全く以て意味が分からない。

それもそのはず、一応の本心ではあるのだろうが、ここは神楽坂を誑かすため、得意な言葉を弄しているにすぎないのだ。見知らぬ女のさも意味のありそうでその実何の意味もない言葉に「はい!」と元気よく返事をする、そして、始めは内田慈に次に冨樫に食い物にされながら、身体を売って得た五千円を前に「これは私の記念碑」「私は解放された」などと一人ごちる神楽坂恵の素直なこと、そして疎ましいこと。

彼女は男と寝るのに金を取るようになり、愛のあるセックスとそうでないセックスの境界線は金であると学びを得ていくが、なんてことはない、それも冨樫に刷り込まれた概念に過ぎない。そしてもちろん、冨樫は彼女が自分の元に戻ってくることを確信して罠をかけたのである。

冨樫は、救いを求める神楽坂に慈悲の笑みを見せたかと思うと、次には怒りを爆発させ、自分のいる場所に引きずり込もうとする。
「夫はピュアすぎるのだ」と語るが、人に教えられたことをそのまま受け入れ実践する神楽坂こそがピュア中のピュア、そして闇に棲むものがピュアなものに目をつけるのは当然のこと。冨樫が見せる目まぐるしい感情の爆発と、慈悲と憎悪のループは、どれもが嘘でなく、彼女が賢く絶望した女だからこそ、何もを知らずに彷徨う神楽坂を救ってやりたいと思いながら同時に憎まずにいられない。冨樫と神楽坂の関係は、慈悲と憎悪の関係に他ならず、これを表現した二人は凄かった。

冨樫は、愛する男との間に肉体、つまり「意味」を交わすことのない苦しみを共有する神楽坂を助けたかったのか、あるいは、まだ「苦しんでいられる」状態の神楽坂を穢したかったのか。はたまた、その両方だったのか。最終的に神楽坂は、化粧を塗りたくっては「城」という言葉や詩を呪文のように口にする場末の娼婦となり、客前で平気で弁当を食べる悪癖までを真似て、冨樫そのものへと変貌してしまう。

 


◇珍場面集

園子温特有の(というほど観てないが)、悪ふざけシーンも今回はツボだった。

 

1.段々大きくなっていくソーセージ
当初、閉塞的な生活に耐え兼ねた神楽坂は、夫に許可を得てパートに出る(そこでAVに勧誘されるわけ)。スーパーでのソーセージの実演販売の仕事に就き(なんかもっと他にあったろう)、パート初日はオドオドとポークヴィッツを売っているのだが、やがて自信が芽生えるのに比例して、手にした商品がウィンナー、最後はフランクフルトになるのには、ただ笑ってしまった。何を表しているかは言うまでもない。なんつーか、低レベルというか中学生男子的発想というか(笑)。

 

2.お茶に誘われてついていってみたら。
神楽坂は、如何にも才女といった雰囲気の昼の冨樫に「うちでお茶でもしましょう?」と自宅に招かれ、そこで彼女の母親を紹介される。広い食卓を囲み、気まずい雰囲気でお茶を飲んでいると、母親が上品な仕草で第一声、「あなた、売春の方はどんな感じですの?」。

 

お茶吹くわ。

 

その後も母親は、「うちの娘はそりゃあもう淫乱で」「生まれながらにしてどうしようもない淫売ですのよ」とキラーワードを吐きまくり、やがて親子は包丁を持ち出して「死ねぇぇ、淫売ィィ」「お前が死ねよ、ババアァァァ!」と盛大な親子喧嘩を始める。
いや、ここは冨樫が身体を売る理由が明かされる重要な場面なんだけど、それにしても、お茶の席で「売春、どんな感じ?」からの「キェ~、しねぇええ」っておかしすぎるだろ。

 

3.アスリート水野美紀
途中、水野の同僚の刑事が披露する「ゴミ収集車を追いかけて見知らぬ街まで行ってしまった主婦」という都市伝説を伏線とし、監督はラストで水野美紀を主婦と同じ状況に置いて、めちゃめちゃ走らせる。水野美紀だから、鍛えてるから、そんなに走らせるんでしょ!?

 


◇しかし、苦手の理由は変わらない

だがしかし、やっぱり、私が園子温が苦手な理由なんだけど、しつっこいんだよね・・・天こ盛るの。もう、「バターはもう十分です」って感じなのに、もっともっと、おかわりバター!とばかりに塗りたくってくるんだわ。。。

例えば、AV出演を経験した神楽坂が、鏡の前で全裸になり様々なポーズを取っては、「いらっしゃいませ、おいしいソーセージですよ」と販売の練習をしながら開眼していく場面なんだが、端的になげぇ。どんだけ、素っ裸でソーセージネタ続くんだよ。よほど監督の好みなんでしょうネ・・・いろんな方向から、ポーズ撮りたかったんでしょうネ。

また終盤近く、デリヘルの仕事でホテルに出向いてみたら客が夫(津田)だったの場面では、まあ、ヤッた後に夫に金を払わせるところ(すなわち既に愛はないと示すところ)などは見応えがあるんだが、その後、なぜか冨樫が部屋に戻り、津田寛治に跨ってもう一回ヤリ出すとこでは、はい、また悪い癖出たわ、、、って感想だった(大体あの状況で勃つ男いないだろ)。その後の廃屋でのシーンも長いし、女二人の髪を振り乱しての芝居も、ここまでくるとお腹いっぱい、食傷気味。
あ、バター、ホントにもう結構なんで。。。え??ジャムもあるの??

冷たい熱帯魚』でも感じたが、きっと、監督自身がここまでやんないと達せないんでしょうね。そりゃ私が好きで選んでこの映画を観てるわけだけど、でも、何で私はこの人のオーガズムがどこでピークに達するかを映画通じて見せられてんだろうなって、ちょっとゲンナリするよね。

その点を除けば、総合的にすごい映画だったと思う。
クリスマス気分を盛り上げるって書いたけど、あれは嘘で、クリスマスにはお勧めしないよ。じゃあ、またねっ。

『大鹿村騒動記』

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監督:阪本順治 キャスト:原田芳雄大楠道代岸部一徳/2011年

 

みなさん、こニャちは。

あ~、漫画買いたい。『キングダム』重版出来!軍靴のバルツァーが欲しい。あと、最近読んだ自転車屋さんの高橋くん』がめっちゃ良かったよ。

私と夫の漫画の趣味が異なるので、うちには、たくさん漫画がある。家を建てるとき、壁一面を本棚にするなんて夢もあったけれど叶わず、今は半分くらいパントリーにしまっている状態。そこも溢れそうなのに、夫がちょこちょこ買っては詰め込んでいたことが判明し、もう一旦止めとこうって言ったのに!と責めた。ってか、パントリーの奥にある、みうらじゅんとか根本敬とかの漫画どーすんだ。息子は絶対そのうち探し出すぞ。

とかなんとか、漫画のスペースについて言い合っていた。

うちは私の両親が一階に住んでいる二世帯住宅で、そのときたまたま、母が用があって二階に来ていたのね。それで、私がふと、小声で「・・・10年後には一階にスペースができるかもしれないだからさ」と言うと、夫が「こら!なんてことを言うんだ!」と怒ってみせた後、声を潜めて「・・・10年後に空くかは分からないだろう」。それで二人でゲラゲラ笑ってる向こうで母が、「全部聞こえてるんですけど・・・」と呆れていたわ。

いや、家庭がブラックだから、つい外でも出てしまってやり過ぎることがあるから気を付けましょうって話です。
そんな感じで、今日は『大鹿村騒動記』でっす。

 

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◇あらすじ

南アルプスの麓に位置する大鹿村は、大鹿歌舞伎の伝統を300年以上守り続けている。鹿肉料理専門の食堂『ディア・イーター』を営む風祭善原田芳雄は、歌舞伎の主人公平景清を演じる花形役者でもある。東京からやってきた青年、大地雷音(らいおん)冨浦智嗣をアルバイトに雇い入れ、今年の舞台を数日後に控えて稽古に励んでいたある日、18年前に駆け落ちした妻貴子大楠道代と幼馴染の治岸部一徳が突然、村に帰ってくる。慌てふためき、激怒する善だったが、貴子は記憶障害を患っており・・・。

主演の原田芳雄が他のテレビドラマの収録のために大鹿村を訪れた際に、村歌舞伎の存在を知り、映画化を提案したとのことだ。出演者はメイン三人の他、松たか子佐藤浩市、でんでん、石橋蓮司三國連太郎錚々たる面々が顔を揃え、そこに瑛太冨浦智嗣が村の次世代を担う若者たちとしてフレッシュさを加える。阪本監督と荒井晴彦の小気味よい脚本に、映画の印象そのままのリズミカルな演出が作用し、観終わった後は、ただただ「ああ、いい映画を観たなあ」という気分になる。ラストで流れる忌野清志郎『太陽の当たる場所』がまた良いんだ~。なお、原田は映画の公開を待たずに亡くなり、本作は彼の遺作となった。

まず言及したいのが、役者陣のお芝居の老獪さ秀逸さ。特筆すべきは、やっぱり原田芳雄で、気短かでデリカシーもないが「怒ってもどこか道化臭が漂う」キャラクターは、そのため、どんなことでも受け入れてしまうのでは?と錯覚しそうなほど包容力に満ちている。実際にドタバタの中で、結局は妻と友を許してしまうのだし、ワケありの雷音を何も問わずに自宅に住まわせる。

また、岸部一徳のダメっぷりは見ものだ。もう、岸部一徳のダメっぷり芝居など山ほど観てきているのに、「また更新する!?」と叫んでしまいそうなほどのダメっぷりよ・・・。村に帰ってきて、その妻を奪った友人に発する言葉が「面倒見切れないから、返す!」だからねぇ。原田と取っ組み合いのケンカをした末に大楠道代に水をぶっかけられた次のショットで、風呂から上がってくるときの能天気な顔ときたら。

家に居候(?)することになった大楠道代は、問題なく日常生活を送っていたかと思うと、突然醤油や時計が理解できなくなったり、豹変して辺りのものを手当たり次第口に入れ出すなど目が離せないのだが、以前に自分が演じていた道柴の台詞だけははっきり覚えていて、舞台に立たせれば18年前と変わらぬ芝居を見せる。折しも大楠出奔後に道柴を引き継いでいた佐藤浩市が豪雨による土砂崩れに巻き込まれて怪我を負い、かくして原田と大楠は、18年ぶりに共に歌舞伎の舞台に立つことになる。

ところで脱線するけれど、忌野清志郎ってさあ・・・20代はもう知らないのかな?私がこの間、会社の新卒二年目の新潟男子に清志郎の話をしたら、知らなかったのよぅ・・・。スマホで調べて(何でもすぐスマホで調べんな!)、「ああ・・・こういう感じですか」って。そりゃ、外見だけ見りゃ「ああ・・・」だろうけど。でも私と同年代の同僚のブチに言ったら、「いや、それは音楽好きか否かによるでしょ」と。「ある一定の音楽好きだったら清志郎さん(←さんづけだった)は知ってるよ、そりゃ、T-BOLAN知ってるかって言ったら知らないだろうけど」。

離したくはない~♪

 

 

私は「演出」というものをぼんやりとしか理解していないのだけど、湿っぽくもドラマティックにもできそうな内容を、全編カラリとユーモラス且つリズミカルに仕立てたのには、これぞ演出の力だろうと思った。

例えば、「俺では貴ちゃんを支えられなかった」という岸部一徳の言葉の理由は、寝言一つで説明される。原田が洗濯機から取り出す洗濯物を見た瞬間に、観客は雷音くんが村にやってきたワケと彼が抱える悩みを知る。また、村の人たちが何度か口にする「雷音くんに聞いたんだけどさ」という台詞、この一言で、内輪で交わされていた会話や事情が周知の情報となり、同時に、余所者ゆえに正体不明な雷音の、世話焼きでおしゃべりな人物像が浮かび上がってくる。

あるシーンでは、『ディア・イーター』の入り口付近を映した固定カメラの前に、役者を入れ替わり立ち替わり登場させ、数分で多くの状況をパパッと説明してしまう。原田の食堂がバイカーや観光客などでそれなりに繁盛していること、大楠がどさくさに紛れて原田宅に溶け込んでいること、村を出ようとしていた一徳が結局村に留まらざるを得なくなり温泉旅館で働き出す理由。超省エネ、と言っては味気ないけれど、各人物の事情や感情をコテコテと語るような場面を排除し、たった一つの台詞やショットで完結させてしまう、贅肉を削ぎ落としたかのようなスリムな演出によって物語は実にスムーズに流れていく。

それでいて、全体が淡々とした印象にならずにドラマティックに展開していくのは、代替わりしていく歌舞伎の舞台と、歌舞伎を担う各世代の人々のドラマが重ねられるためだ。

手酷い裏切りを、取っ組み合いとバケツの水で水に流してしまう三人の幼馴染の歴史、また、恐らく次に村の伝統を背負っていくであろう佐藤浩市松たか子の恋模様。さらに、次に舞台を引き継ぐであろう瑛太と雷音には、同性同士のカップル(になるかもしれない)といった、いかにも現代風な多様性に満ちた世相が投影されている。

 

 

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 しかし、コミカルなやりとりを楽しんでいると、突然三國連太郎に泣かされるので油断しないでね。
全編、伝統芸能が育まれるにふさわしい雄大南アルプスの山々の風景が美しく映されるのだが、同時に、この村が、定期的に訪れる暴風雨への警戒を必要とする地域でもあることが度々示唆される。大楠が原田を捨て、一徳との駆け落ちを決行した日も、そのような嵐の日だった。駆け落ち当日に大楠と行き合い、また現在は暴風雨への警戒を放送して回る松たか子は、そのために、大楠にとって不実や裏切りといった『恐ろしいもの』の象徴だったのである。

晴れた空を突然覆う暗雲のように、三國連太郎が、かつて共に舞台に立ち、シベリア抑留で亡くなった友の無念の死を語りだす。「あいつは四度目の冬を超えられなかった」と目に涙を湛える場面と、最後に彼が亡くなった人たちの墓を訪ね、「また、歌舞伎やろうなあ」と語りかける場面は、落涙必至だ。ただ、芝居が極まりすぎているのか年のせいか、大体何を言っているのか分からないため、三國連太郎が出てきたら、ボリュームを上げて下さいね。

ここで村の人々が情熱を掛けて守り続ける大鹿歌舞伎で演じられる物語はどんなものなのかを紹介しましょう。誰のために。私のために。劇中で瑛太がチャッチャッチャーと説明してくれるが、あまりにチャッチャとしていて全く分からなかった。
あ、ちなみに歌舞伎の内容が理解できなくても、映画を楽しむのに全く問題はない。

 

原田らが演じる「六千両後日之文章 重忠館の段」は大鹿村だけに伝わり残る演目とのことだ。平家滅亡後、源頼朝(でんでん)の重臣・畠山二郎重忠(石橋蓮司)は、平清盛の曾孫である六代御前こと平高清を捕らえる。重忠は平家筋の道柴(大楠道代)を妻にしており、平家への未練を捨てるよう妻を諭す。道柴は、夫の命に応えるために、主君の血筋に当たる六代を折檻してみせる。
平家の武士、平景清原田芳雄)は六代御前を救い出し、源氏に再び戦いを挑もうと試みるが、やがて敗北を認め、頼朝らの目前で自らの両眼をくり抜く。 

 

そういう話だったのね。

私は歌舞伎は全くわからないのだけど、そこまで各人物の悲喜交交を観てきたがゆえに、その集大成ともなる舞台には見入ってしまう。また、芝居の締めとなる「仇も恨みも、是まで、是まで」という、平景清の恨みを終わらせる台詞は、現実の状況にも向けられているもので。三國にとっては友を奪った戦争。松たか子にとっては不実な恋人。雷音くんにとっては自分を受け入れなかった人々。そしてもちろん、景清を演じた原田自身が、一徳と大楠に向ける言葉ともなる。

鑑賞後には、しばらくの間なんとも暖かい気持ちに包まれるような、素晴らしい映画だった。これこそが幸福な映画体験だよねと思った。ここで「日本映画だって・・・」などとお決まりのつまらない台詞を吐くのは避けて(本当は言いたいけど)、阪本監督のこれからの作品にも大いに期待したいと思う。

じゃあ、最後に聞いて下さい、忌野清志郎 で『太陽の当たる場所』。

 

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『ランボー ラスト・ブラッド』

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監督:エイドリアン・グランバーグ キャスト:シルベスター・スタローンパス・ベガ/2019年

皆さん、こんにゃちは。

先日、友人のリエコから電話がかかってきて「長野に移住することになった」と言われて一瞬頭が真っ白になった。人付き合いはそれなりにあっても、気の置けない人間関係はごくわずか。リエコに長野なんぞに行かれたら、誰が私に10万円する靴をお揃いで買おうと囁いたり、BL漫画を勧めてくれたり、「旦那が使えなくて震える」とぼやいて笑わせてくれたりするのでしょうか。

と思ったら、「2週間だけだけど」「『移住村』ってところに滞在するのだから移住でしょう」とか言いやがって、ばーかーやーろー。驚かせるな!

さて、私のランボー愛は以前の記事で語った通り。5作目に当たる『ラスト・ブラッド』はコロナのせいで公開延期となったと思っていたら、いつの間にやらレンタル開始していた。

映画館にリエコを誘って断られたため、今回もう少し詳しく、何故ランボーを評価しないのかを聞いてみた。

リエコ「う~ん、君はランボーのバックグラウンドを含めて好きなわけでしょ? まあ『可哀想な過去だね』『お気の毒さま』とは思うよ。でも、こっちは日々疲れてるからさ~、行動理念とかトラウマのないシュワちゃんこそ大衆の味方であって、スタローンについては『頼んでもないのにピザ来た』『ここじゃない場所でやってくれる?』って感じなんだよね」

・・・。

疲れた主婦の味方はスタローンでなくシュワちゃんだというのか。

 


◇あらすじ

ランボーは祖国アメリカへと戻り、故郷のアリゾナの牧場で古い友人のマリア、その孫娘ガブリエラとともに平穏な日々を送っていた。しかし、ガブリエラがメキシコの人身売買カルテルに拉致されたことで、ランボーの穏やかだった日常が急転する。(映画.com)

監督はエイドリアン・グランバーグ。誰だ知らんごめん。でもこれって、原案と脚本にスタローン入っているんだよね?いまの「でもこれって」で分かるように、ちょっとアレな映画でしたねえー、悲しいよ。

まず知りたいのは、主軸をこれまでの国際的な紛争から至極パーソナルで身近な問題に切り替えたのは意図的であったのかってところ。そうなら百歩譲って良しとする。一足先に海外版DVDを観たGとかいう人が『ミセスGのブログ』とかいうブログで書いていたように、「この世界に蔓延る闇に対し、ランボーが救出しにいくガブリエラは『光』の象徴」「私たちが闇をまだ見ぬ赤ちゃんを本能的に守ろうとするように、純真無垢だからこそ守らなければならない」ことを伝えたかったのだとの意見にはウンウンと頷くし。だが、単にホットな社会問題を取り上げたいのなら続編は作らないでくれ。んー、やっぱり、どっちの場合でも、もう作らないでくれー。

 

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◇「器用な復讐者」となったランボー

ランボーがどうあるべきか、にもちろん正解はなく、こちらの理想を押し付けているに過ぎないのだが、それでも私がランボーに期待するのは、国に見捨てられながら国を捨てられないことへの葛藤、本能から繰り出される暴力で人を救い、だがそれによって人から忌避されるという矛盾を抱えた、孤独で不器用な男の姿だ。

映画を観るうち、感じたのはランボー、器用になっちまったな・・・」だった。ウーとかアーとか、「お前が決めろ」くらいが精一杯だった無口なランボーも、いまや疑似家族を形成して穏やかな食卓を囲むようになり、ガブリエラを実の孫娘の如く慈しんでいる。なぜか住居の地下にトンネルを掘って生活しているのだが、いかにも塹壕を彷彿とさせる地下道をガブリエラのお友達の見学ツアーのために提供するなど柔軟さも身に着け・・・。まず、なんなのこのトンネル?と観客は疑問に思うことだろうが、後半の見せ場で、人身売買組織のチンピラどもを誘い入れ、ランボープレデターが混ざったような罠をあっちゃこっちゃに仕掛けては殲滅するための場所なのである。

トレードマークのバンダナも取ってしまったランボーは馬の調教を介してガブリエラとの絆を深め、「ほう、大学に行くのか。寂しくなるが君の道をゆけ」などと一端の父親のようなことも言う(いや、いいんやで、別にいいんだけど!)。そのガブリエラが、自分を捨てた実の父親に会うためにメキシコへ行き行方不明になると、メキシコに飛んで彼女を騙した友人を脅しつけ、誘拐現場であるクラブに潜入する。

 

これ・・・、『96時間』じゃダメなの?

 

超人のような強さを「元CIAだから」(FBIだったか)の一言で片づけて悪人どもを千切っては投げ千切っては投げて義憤を晴らすことで有名な怒れるお父さんの味方映画『96時間』リーアム・ニーソンに主人公を演じてもらい、『96時間 ラスト・ブラッド』としたらアラ不思議。。。スタローンよりも余程しっくりくるじゃない?

人身売買はもちろん深刻な問題だが、その描き方が端的につまらなくて。せめて人身売買の凄惨さや仕組みの巧妙さなどが表現できていれば、また違ったと思う。何もこってりと状況を説明せずとも、その恐ろしさを数カット、ワンシーンで伝えられることは、ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ボーダーライン』(2015)で証明してみせたのだし・・・。

売っ払われたガブリエラちゃんがヘロインを打たれて男たちの慰みものになる下りも、これならば『アイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ2』(2013)の方がよくできていたのでは、、、と思ってしまうレベルの出来。敵組織は規模感からしても単なるチンピラの集まりで、また敵のボス役が、あまりにしょぼいィィ・・・(あれなら拓ちゃんをキャスティグして欲しかったナー)。

「彼女を返せ」と真正面から話しに行ってボコられるランボーもアホなら、フルネームを知っているのに仲間を殺されるまでランボーを消しにかかってこない相手も間抜けすぎる。動機を「私怨」に落とし、さらにランボーを単なる復讐者としてしまう、あまりにこれまでの作品に対するリスペクトを欠いてはいないかい。

 

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今回の敵、コレよ。

 

 


◇「という名の戦争」じゃ満足できない

まあ、要は、やっぱり戦争がないとランボーじゃないよねって話。

本作も愛する者を守るための、そして復讐という名の「戦争」であるとの見方もできるのかもしれないが、「という名の」と置き換えた時点で、それは似て非なるものでしかない。大義を捨てきれず、弱者を見捨てられないがゆえに図らずも戦場に引きずり戻されるランボーの哀愁を排除し、図らずもどころか、ランボーを暴力に目覚めさせることだけを目的とした流れが設定されている。
目には目を歯には歯を、そんな器用さがランボーに必要か。

前作ランボー 最後の戦場』もある意味、ランボーシリーズにおいては禁じ手というか、魔球のようなものだったとは思う。その理由はもちろん、ランボー個人の戦争であった三作と異なり、スタローンが現実の国際紛争に触発されて製作したという背景のためだ。私と同じように『最後の戦場』を評価する人たちは、そのイレギュラー性こそ良しとし、またランボーがボランティアの人々の理想を甘っちょろい絵空事としながらも命を賭して救うヒロイックなストーリーが奏功して、他国の戦争に勝手に首を突っ込んでカタルシスを得る経験をエンタメと割り切って楽しんだのではないかと思う。

本作をダメにした要因の一つは、間違いなく不要なグロ描写で、これも恐らく『最後の戦場』に影響を受けたのだろうが、敢えて極端な方法を取った前作の意図を理解せず、コレを見て溜飲を下げろとばかりに散りばめられた陳腐な人体破壊描写は、軽率と言わざるを得ない。

仇の胸を割き心臓を掴み出す、首を切り落として見せしめとする。カルテルそのもののやり口で人を殺すランボーなど誰が見たいだろうか?

戦争の地続きでギリギリ許されていた「報復」と「殺戮」を、私怨を晴らす手段にした時点で、本作のランボーは引き継ぐべきだったヒーロー性を失った。

色々書いたが、一番よろしくないのは、単純に話も映像もつまんない、ってことだ。襲撃シーンとか寝そうになって、「早く終わんねーかな」と思ってしまった、あるまじきこと!やっぱり、百歩譲れない、良しとできない!

可愛さ余って今年ワーストだなあ。

 

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バンダナは失くしたが、コンパウンドボウは健在だった。

 

引用:(C)2019 RAMBO V PRODUCTIONS, INC.

『ファウンド』

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監督:スコット・シャーマー キャスト:ギャビン・ブラウン、イーサン・フィルベック/2012年

 

最近面白かったことを二つ話します。

一つ目。会社のチャラ系営業が、それはもう本当に会話の中で「マジすか」を連発するので、三十も過ぎて「マジすか」と言う人は中丸くんくらいだよ、いい加減にやめたらどう?と注意したところ。彼は『育ちの良さは作れる』とかの本を読んだそうで、「今、育ちの良さを作ろうとしてるんスよね」とかで、ここ最近「本当でございますか?」と連発するようになった。その思考回路にツボってます。

二つ目。先日、ロックのロの字も知らない親友のリエコ(好きな曲はレミオロメンの『3月9日』)が「私、あのロックミュージシャンは好きよ」と言い出し、誰よ?という話になった。そのうちリエコが「あのねえ、映画に出てた。確かUボートっていう映画」と言い、私の頭の中は疑問符で一杯になり、「え?『Uボート』って、ウォルフガング・ペーターゼンの?」「80年代の、しかもドイツ製作だよ。あーたがそんな映画知ってるわけないじゃん」と問い詰めた結果。

正解:ジョン・ボン・ジョヴィ
出てた映画:『U-571』(2000年)

みんな、感覚で話すのはやめた方がいいと思う。

さて本日は、前にinoチャンが推していた『ファウンド』が想像以上に面白かったので紹介します。inoチャンは「モツデロン」や「魔改造」などの名言を生み出した人体人心破壊映画ブログの運営者であり、今やTwitterの一コマ漫画が大人気だが某料理サイトとは微妙な関係にある新潟の小娘です。

★今回は劇中で登場するレンタルビデオ『Headless』を観るまでの私と、以降の私で感想が別れております★

 

 

◇あらすじ

ホラー映画が大好きな11歳の少年マーティ。学校でいじめられている彼にとって一番の楽しみは、家族の秘密を覗き見すること。母親がベッドの下にラブレターを隠していることや、父親がガレージの奥にヌード雑誌を置いていることを、マーティだけが知っていた。そんなある日、マーティは兄スティーヴのクローゼットに人間の生首が入っているのを発見する。(映画.com)

 

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◇とりあえず、「お兄ちゃんはクローゼットに生首を隠している」って台詞から始まって、お茶を吹きました。

途中までは、生首inクローゼットのパワフルワードに相当するような衝撃的な画や展開は特にない。お兄ちゃんはスレていて両親には攻撃的だが、カッコいいし、ちゃんと仕事に行っているようだし、何よりマーティには優しい。

マーティは学校でいじめられてはいるが、放課後には親友と大好きな漫画を描いたり秘密基地で遊んで過ごす楽しみがある。

この辺りの映像は幻想的ですらあり、何といっても、しつこいほどに兄弟を美しく撮った画が印象的。マーティの日に焼けた艶やかな頬とそばかす、陽光に透ける金色のくせ毛が度々アップショットで強調され、全てが順調なわけではないが、それなりに幸福な、多感な少年の日常が淡々と描かれていく。

父も母もそれぞれに抱えている「秘密」。まだ秘密を持たないマーティにとって、兄が隠している生首は魅惑的で、自分を特別な存在にしてくれる宝物のようなものだ。学校の同級生などには想像もつかない秘密を知っていることに対する自負、お兄ちゃんは恐ろしいことをしていて、そのお兄ちゃんは僕にだけ優しいんだぞという優越感。

なるほどなるほど。見栄や自我が芽生えだす年頃にありがちな、やや残酷な願望をテーマにした青春物語といったところね。

少し考察すればわかるけれど、殺人鬼のお兄ちゃんはメタファー、生首はマクガフィンなのよね、コレ。深層心理に潜む黒人への侮蔑の感情、いじめっ子の同級生へ殺意、自分では叶えられない残酷な願望を実行してくれる絶対的存在、それがスティーヴで、マーティは兄への思慕と畏怖との間で揺れているわけ。

さらに考察するならば、スティーヴは実在しない妄想の人物、あるいはマーティ自身の将来の姿という読み方もできるわね。・・・もし鼻についたらごめんなさい。考察には少々うるさいタチなもので、つい深読みしてしまうのね。

レンタルビデオ店で借りることができなかったホラー映画『Headless』を兄の部屋で見つけ、親友(ぽっちゃりめ)と二人で観るシーンも、怖いもの見たさと相手への見栄や強がり、子供らしい自意識をうまく溶かしているっていうか、昇華させたシーンっていうのかな?ジュブナイル的。うん。スタンド・バイ・ミー』を代表とする思春期の自我を描いた作品群に捧げたオマージュも感じられるような、メタファーに満ちたシャレた作品よね。単館系って、たまにこういう隠れた名作があるから、メジャー以外の映画探求もやめられないのよね・・・。あ、失礼、『Headless』が始まるわ。

 ↑↑↑↑(ここまで)劇中の映画『Headless』を観るまでの私。(ここまで)↑↑↑↑

 

↓↓↓↓(ここから)劇中の映画『Headless』を観たあとの私。(ここから)↓↓↓↓

 

え、マジすか?

 

ホントすみませんでした。

自分、ちょっと甘かったっす。正直、『Headless』ナメてました。
自分、ひどいグロでも大体友達なんスけど、なんかこれはドストライクというか、あの目玉をくり抜くとこと、首からボタボタ垂れる血を必死こいて浴びるとこはポカーンと口が開いてた。

つまり、マーティと友達のオタクのデブ(←もはや言葉も飾れない)が怖いもの見たさで観たビデオ『Headless』がヤバイ。チープなんだが、それゆえにスナッフビデオ感があり、殺人鬼が行う一連の残虐行為と液体多めの死体損壊描写は妙に凄惨、やたらとリアル。
何よりアレっす、生首の切り口にチ●チ●突っ込んでハァハァするやつ・・・。うわうわ、マジっすかー。そして更にヤバイのが、このヤバイ映画を十歳そこそこの子供たちが観ているという事実。映画の外から、映画の中で映画を観ている子供たちを心配するという妙な感覚。

マジすかとヤバイしか言葉が出てこなくなった。
ちょっと落ち着こうか。


~30分後~


ただいま。うん。

映画の中の殺人鬼の行為と兄の行為を重ねたマーティは、ようやく兄に恐怖を覚える。「ワルだけどカッコいいお兄ちゃん」の偶像は瓦解、唯一の理解者だと思っていた友人もこの出来事をきっかけに悪意を噴出させ、マーティはそれまでの幻想的な世界から現実に引きずり戻されるのだ。

その後のマーティが、もう非常にかわいそうでだな。
兄への恐怖心から逃れるため、自分も兄の側に堕ちることで心の均衡を保とうとするのである。黒人もいじめっ子も害悪だ、排除して何が悪いの、お兄ちゃんは正しい!ってとこだな。

これでマーティが兄の意志を継ぎました・・・なんてオチだったら如何にも過ぎて不満が残るところなのだが、この映画は、ある意味きちんと、幼く健康な心が異常なものを飲み込み切れずに壊れていくさまを描いていく。

兄に依存することで精神の崩壊を本能的に防いでいたマーティが我に返るのが、ついに兄が両親に手をかけようとするとき。

いやもうさー、このオヤジがフラグでしかないからね。兄ちゃんの異常性は両親により育まれたのだろうと予測できるダメ夫婦ではあるのだが、それでもマーティにとって親は親。懇願するマーティを拘束し、スティーヴが隣室で繰り広げる両親への残虐行為は、音だけであることも含めて、なんともサディスティック。

簡単に言うと、非現実→現実→非現実→現実を目まぐるしく経験した少年が、ついにリミットを超えて、ラストの台詞通り「こんな経験をしたら正気でいられるはずがない」と正気を手放す、ホラー映画兼青春映画みたいな感じかな。なんつー映画作るんスか、アホか。でも面白かった。

ちなみに問題の『Headless』は、数年後にスピンオフ作品として映画化されている。アホか。見るか。

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2020年『子供に観せたくない映画ナンバーワン』に決定です。おめでとうございます。