Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『グランドフィナーレ』

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監督:パオロ・ソレンティーノ キャスト:マイケル・ケインハーヴェイ・カイテルレイチェル・ワイズ/2015年
 
 
◇あらすじ
かつてマエストロと呼ばれた指揮者であり作曲家のフレッドは80歳の老境を迎え、娘の手配したスイスの高級リゾートホテルで友人の映画監督ミックとともに過ごしていた。ある日、エリザベス女王の使者がフレッドを訪ね、彼の名を世界に知らしめた曲「シンプル・ソング」を記念式典で指揮してほしいと依頼する。それを断り続けるフレッドだったが・・・。
 
 
今日は、とっつきにくい感じの内容かもしれない。できれば帰らないで下さい。
 
この映画を観終わって、こんがらがりましたが、幸い私には映画でこんがらがったときに駆け込む先があります。そこで、シネフィルの異常な友人S氏にメールしました。
「思わせぶりなショットが多いなとは思うのですが、構成やストーリーは面白いなとも感じ、貴方の意見が聞きたいのです。今すぐ観てもらえますか」。
 
S氏は馬鹿なので、すぐに観てくれました。そして冒頭数分あたりで「到底、僕に合うとは思えません。訊いておきたいのですが、グランド・ブダペスト・ホテルは観ましたか?」とメールが来ました。
「いいえ観てません。泣き言は最後まで観てから言って頂けますか?」と返しました。
 
で、以下が鑑賞を終えたS氏からの感想だお。
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曲のタイミングに合わせた動きや編集を観せられるのが苦手だ。
 
その理由は、つまり「決め」を「ドヤ顔」で見せられているようで「あぁ、はい・・・そうですね。」と恥ずかしくなってしまう。もちろんどの演出家も、「こう見せたい」を実現するために現場で四苦八苦するのだろうが、あまりに過ぎると、あざとさしか感じなくなる。
 
『グランドフィナーレ』の冒頭で既にそれは感じたのだが、入浴ショットでもうダメだった。現場をうろちょろする監督の姿がフィルムに写り込んでいるようで、「君、もっと静かにできない?」と言いたくなる。俳優の配置からカメラの動きから、山ほど指示したのだろう痕跡しかない画面に、食傷してしまった。
 
しかしそれらは映画の正しさとはまた別で、要は好きか嫌いかでしかないのだ。小津と黒澤が、ビスコンティフェリーニがいるように。私は小津も黒澤もビスコンティフェリーニも好きだ。だがこの監督は好かん。それだけのことだ。
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あー、ごめんごめん。「最初がダメだったらその印象が覆ることはない」っていつも言ってるのに無理やり全部観させて。でも私がスッキリしたから良かったよね。
 
要約すると「演出もショットも格段に優れた名作が過去に存在するのに、それを模倣しようとして失敗した作品をどう評価しろというのか?」ということだと思う。度々ありますね、過去の作品や監督を知る人と知らない人、技術的な知識がある人とない人で、如実に違いが出る映画。
 
私はもちろん「ない」方だけど、最近は、きっと死ぬまで映画を観続けていくだろうから、今の状態に知識が加わって決して損はないと思っていて。なので時代だったり監督だったりの体系的な観方もしてみようかと、つまり古典作品を少しずつ観ようと思ってます。
 
S氏に一つ感心するのは、メンドクサイこと言っても最後は必ず「結局のところ個人の好き嫌いでしかないけどな」と付け加えることで。イエス。今後も私は多分、キャラクターとストーリーを無視して観ることはできない。なにより自分の視点を大切にしようと心に誓った2019年初秋です。
 
というわけで、勝手気ままに『グランドフィナーレ』の感想だぜ?
 
 

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多分これがS氏が嫌ったショットのひとつ。

 

 

◇テーマは「老い」
邦題が「グランドフィナーレ」、あらすじを読み、テーマは「老い」と聞けば、観客は「一度は指揮者を引退した老人が、名誉ある舞台を与えられて返り咲く話なのだな」と予測すると思う。
 
これがまったく違う。この邦題、罪深いな。
 
観終わってみれば「グランドフィナーレ」という言葉の作為的であることに呆れるし、多くの人が本作を単純な「老いへの賛歌」「再生の物語」と評していることにもちょっと驚く。少なくとも「老いてなお生を謳歌せよ!」的な、『フレッド、80歳、今を生きる』的な(?)、ストレートで前向きに老いを捉えたものとは異なる。老若男女にとっての「人生」の物語だが、「賛歌」と呼ぶには少々乾いた内容だ。
 
フレッドは老先に意義を見出せず、日々を無機質に過ごす老人。この生き方が結局最後まで変わることがないのは、ラストの演奏シーンを見れば明らかだ。
詳しくは後述するけれど、本来の居場所だったはずの舞台に立ってなお、死に向かって歩いていくことこそ人生、老いたあとは苦しみと悲しみを乗り越える作業の連続であると、酷な現実を噛み締めているようにしか見えない。
 
作品の方向性を読み違えてしまうと、ラストは壮麗な音楽と共にフレッドが生きる気力を取り戻す最大の見せ場であることを期待し、結果、「あれ・・・なんか盛り上がらない」と消化不良に陥ること間違いなし。
 
そもそも、フレッドたちが滞在するホテルは「高級リゾート」との設定ながら、リゾートの雰囲気とはかけ離れた場所だ。表情のない逗留客たちが無気力にルーティンをこなすさまが描かれ、舞台となったホテルは元々サナトリムだったらしいが、まさにと言ったところ。休暇を過ごす場というより、世間から身を遠ざけたい者たちが集う場という方がしっくりくる。
 
出演俳優はとっても豪華。
 
かつて名を成した音楽家フレッドにマイケル・ケイン、60年来の親友である映画監督ミックにハーヴェイ・カイテル。夫に裏切られて逃げ込んでくるフレッドの娘レナにレイチェル・ワイズ。役者としての在り方に悩むハリウッドスターにポール・ダノ、ミックのミューズである大女優にジェーン・フォンダアーーンド、マラドーナ(笑)。
 
彼らは人生の終盤を迎えた老人であるか、若くても精神面に何かしらの問題を抱えてサナトリウムに避難してきた人々だ。主要登場人物同士の関わりが主軸のドラマとなってくるのだが、面白いと感じた理由は、概念や人物、物事を「対比」させ、それによって人間模様を描き出していること。また、その対比の描写が意地悪く凝っていたのが楽しかった。
 
まず根底にあるのは、サナトリウムの陰鬱とした空気を生み出している光と闇の対比。
 
滞在客は、基本的に裕福な人々だ。気取った映像のせいもあって、こいつら鼻につくわーと感じる人もいるだろうが、主要人物を社会的地位の高い人物や、特に芸術分野に貢献した著名人としたのには、多分意図があって。
 
彼らは、定年を迎えて庭いじりしながら余生を過ごす老人ではない。そうするには、刺激的すぎる日々を送ってきた人々だ。若かりし栄光時代を光とするなら現在は闇、その分の落差が作る影は色濃い。人生を芸術に捧げ、世界に名を轟かせた者たちがそれを失ったらどうなるか。そういうことだ。
 
 
少し気にすれば、ひたすら対比の物語
老いと若さ、死と生はもちろんのこと、例えば、夫に捨てられたレイチェル・ワイズと浮気相手の女に見る貞淑と奔放。また、浮気相手パロマには、実際のUKポップシンガーのパロマ・フェイスが起用されており、さらにポップに相対するクラシックの担い手として、ソプラノ歌手スミ・ジョーがこれまた彼女自身を演じている。
 
「老い」の概念を担うのがフレッドとミックだが、ここでも、娘が手配した健康診断やマッサージを淡々とこなすフレッドと、自身最後の監督作品の脚本執筆に燃えるミックは対照的だ。
 
そして、ミックが様々な局面で見せる「ズレ」が痛々しい。作品に対する自身の評価と世間の評価のズレ。美的感覚のズレ。また彼は、自分が現代の観客のニーズからも時流からも遠ざかっていることに気が付かない。
そして、「俺のミューズ」と絶賛してきた女優ブレンダジェーン・フォンダから、「あなたは終わっている」ことを突きつけられたミックは、悲劇的な選択をする。そのことを知ったブレンダはショックと自責の念に駆られて暴れ、かつらのズレた醜い姿を晒す。彼ら老人のパートは総じて物哀しい。
 
 
驚くことに、逗留客にはマラドーナもいる。
 
またサッカーの話かよと思いましたか。安心して下さい。今日は無駄話はしないし、リトル・ヤナギヤも出てきません。出演しているのはもちろん、ホンモノのディエゴじゃないしね。 
 
テニスコートで楽しそうにテニスボールを蹴り上げ、だがすぐに息切れして膝に手をついてしまうシーンは印象的だ。実際のディエゴと同じく、健康に害をなすほど肥満した体を見ていると、人生賛歌ではないだろ」と思うんだよ。
 
プールで、少年に向かって「ボーイ、俺も左利きなんだぜ」と言うディエゴに、「世界中が知ってます」と返すダノやんが好き!
これはアメリカ人の監督にはない発想だろうな。
 

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◇己を知るものと知らないもの
さて、対比の話をしつこくする。
 
注目すべきは、ダノやんとミス・ユニバースの絡みだ。ダノやんは鬱々と悩みながら役作りをしている。鬱々の原因は「自分はいつまで経っても、(大ヒットしたロボット映画の)『ミスターQ』としてしか人々に認知されない」というものだ。
 
うん、低レベルながら日常に置き換えさせてもらうと、すっごくよくある話だよね。
「俺のしている仕事って何の意味があるのかな・・・」と言い始める輩。ある程度の収入や社会的な立場が保証されるようになり、衣食住の面で安寧を得た現代人が陥る贅沢な悩みだ。恐らく、監督はダノやんの葛藤自体を映したいのではない。つまり、ダノやんの憂鬱を、馬鹿にしているとまでは言わないが、少々皮肉った目線から撮ったものと想像する。
 
そう思うのは、途中から滞在客となる話題のミス・ユニバースが、ダノやんに握手を求めにくるシーンだ。美しいミス・ユニバースに、「『ミスターQ』の大ファンなんです」と言われた途端、ダノやんの表情が厭世的なものになり、「それ以外の作品を知っていますか?」と苛立ちをぶつける。
 
注目すべきは、ダノやんの反応を見たミス・ユニバースが一瞬で、彼の葛藤の理由を理解し、切り返すことだ。なぜ彼女は、彼の思考を理解したのか。それは彼女も「ミス・ユニバース」という被り物の名で常に呼ばれてきたからに他ならない。
 
「ミスターQ」と「ミス・ユニバース」。名を持たない二人は鏡に映る自分のような存在なのに、ダノやんは自身が嫌う言葉で彼女を呼んだことに気付かない。片や握手を求める相手に八つ当たりし、片や被り物を自分の一部と受け入れて堂々と立っている。ここでダノやんの憂鬱は、器の違う相手にひっくり返されてしまうのだ。この場面は、ピリついていながらスマートで、とてもよかった。
 

もちろん、ただ皮肉な画面ばかりが続くわけではない。

「若さ」の概念を担う者、つまりダノやんとレイチェル・ワイズには、救いの手が差し伸べられ、再生のチャンスが与えられる。ダノやんは、ある少女から「あなたのこと知っている」と声をかけられ、またしても厭世顔をするのだが(ミス・ユニバースとのやり取りからは何も学ばなかったらしい)、少女に「ロボット役じゃなくて父親役よ」と言われて、ぱあっとした顔になる。

 

そうそう、本作には、パワーワードがあった。

それは、レイチェルの夫が離婚の理由として言い放った言葉、パロマ(浮気相手)はベッドで最高なんだ」

 
 
浮気相手がベッドで最高。
 
 
しかもこれを父親伝手に聞くという、レイチェル、地獄のごとき試練。
 
あんまりベッドで最高タイプに見えない本作のレイチェルは、「私だってベッドで最高なんだから!」とがんばって言い張る。
 
とりあえず、自分の父親に言うのは止めようぜ?
フレッドも「当然だ、俺の娘だからな」と突然のユーモア炸裂。そんなジジイだったかしら?
 
ベッドで最高。ベッドで最高…ベッドで最高ってなんだ?言い過ぎて分からんくなってきた。
とにかく、最後はレイチェルも、サナトリウムで出会った登山家により、呪いの言葉から解放される。
 
 
◇卒業できないマイケル・ケイン
ミック、ダノやん、レイチェルの人生には、一旦の決着がついていく。良い結末にせよ悪い結末にせよ、彼らはサナトリウムを卒業していき、ただ一人、残されたのがフレッドだ。
 
ラストシーン、フレッドが、女王を始めとする大勢の観客の前で、歌い手にスミ・ジョーを迎えBBC交響楽団の演奏を指揮する。
だが、過去に置いてきた情熱は取り戻せない。スミ・ジョーから送られる敬愛の視線に対し、フレッドの表情は動かぬまま。ここにきてなお、老いた自分に答えを出せずに戸惑っているようだ。
 
親友は、死を選択した。愛した妻は、老いの病に侵されている。
そして、根拠もなく、自分の体もきっと何らかの不具合を抱え彼らの後に続くのだろうと考えていたフレッドが医者に、「あなたは完全な健康体ですね」と告げられる場面の皮肉さ。大切な人間たちは去ったのに、フレッドの人生は続いていくのである。
 
栄光時代を謳歌するのも人生なら、過ぎ去った時代を振り返り死に向かって歩いていくのもこれまた人生。という意味では、ダークな人生賛歌・・・と言えるのかな?
 

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この二人のイチャイチャよかったよ。

 
引用:(C)2015 INDIGO FILM, BARBARY FILMS, PATHE PRODUCTION, FRANCE 2 CINEMA, NUMBER 9 FILMS, C - FILMS, FILM4