Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『ブリッジ・オブ・スパイ』

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監督:スティーブン・スピルバーグ キャスト:トム・ハンクスマーク・ライランス/2015年

先日娘から「お母さん、のぶせりってなあに?」と訊かれました。

野伏り:日本中世において、山野で落ち武者狩りなどを行う武装した民衆の呼び名(ウィキより)

娘は今『どろろ』のアニメに夢中です。戦をしている連中が民衆を虐げる話が多いので、娘は加害者側を憎んでいますが、「それもまた一方からの見方なんだよ」と『どろろ』を教材とした教育が、我が家では行われております。

というわけで、本日は東西冷戦を舞台にしたブリッジ・オブ・スパイです。

S氏から「ユーロスペース東ドイツ映画特集をやるらしいよ。東ドイツもの、大好き」と、まるで「ハズキルーペ、大好き」みたいなメールが来ました。「東ドイツものって例えばなに」と訊いたら「『ブリッジ・オブ・スパイ』!」。結局、スピルバーグなのね。

実は以前途中まで観たのですが、「またトム・ハンクスが突拍子もない依頼をされて孤軍奮闘する話かあ」とやめてしまったのですね。トム・ハンクスの顔ってずっと見てるの辛いじゃないですか。しかしこれも機会と思って再鑑賞。やっぱり映画を途中で辞めては駄目ですね。非常に面白かったです。

 

◇あらすじ

保険専門の弁護士ジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)は、ソ連のスパイ容疑でに逮捕されたルドルフ・アベルマーク・ライランス)の国選弁護人を命じられる。ドノヴァンの弁護によりアベルは死刑を逃れ、二人は互いの人間性を認めて友情を深めていく。そんな中、アメリカの偵察機U-2のパイロット、パワーズソ連にスパイ容疑で拘束される。政府はアベルパワーズの交換を計画し、その交渉役をドノヴァンに命じる。

ではここで、自称スピルバーグの唯一の理解者にしてスピルバーグ親善大使のS氏から、2年前に送られていたらしいレビューを紹介します。
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我々が映画を理解する術は「見る」以外にない。映画は「見られる」以外には存在し得ない。スピルバーグの映画は常にその事を私たちに意識させる。

画家に扮したソ連のスパイは10セント硬貨に隠された極小の暗号文を拡大鏡で覗き、U-2偵察機は高感度カメラでソ連領土を撮影する。スパイの弁護を引き受けたことでドノヴァンは電車の中で好奇の目に晒され、スパイ交換の舞台となるグリーニッケ橋の両端からは、スナイパーが常にその照準で睨みをきかせている。「見る」「見られる」の構図は本作でも至る所に配置(中略)

そもそも、そのデビュー作『激突!』の運転席からの視線に始まり、我々は常にスピルバーグによって「見る」ことを強要されてきた。我々は彼に何を見せられてきたのか。「暴力」である。描かれた「暴力」とは暴走するトラックであり(中略)

湯川秀樹核兵器を人類最大の暴力と呼んだが、その人類最大の暴力をフィルムによって見せられた少女が涙を流すという今作のショットを目にし、スピルバーグのもう一つのテーマ「子供」が浮かび上がる。「暴力」と「子供」は常にセットで描かれてきた。

太陽の帝国』のジムは母親が日本兵に暴行された痕跡を我が家で発見した。『シンドラーのリスト』の赤いコートの少女は(中略)私たちと同じように映画に登場する子供たちもまた「暴力」を「見る」ことを強要されて(中略)同時に、そこにはまた信念の元に子供たちを守ろうとする大人も(中略)

2年待たされたスピルバーグの新作は相変わらず映画の喜びに満ちていた。撮らない映画はあっても撮れない映画はないと言わんばかりの自信が全編にみなぎっている。しかし、『リンカーン』『戦火の馬』『プライベート・ライアン』『ブリッジ・オブ・スパイ』ときて、いよいよベトナムの手前まできてしまっ(以下略)

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ハァイ。おつしたー。

まあまあまあ、そうなんでしょうね。まあ、それも重要なんですが、やっぱり当時の冷戦という状況ですよ。

東西冷戦真っ直中の1960年。さらりと冷戦の流れをおさらいしましょう、誰のために。私のために。第二次世界大戦は枢軸国の敗戦で終結し、ドイツが占領していたヨーロッパ諸国の領土は連合国により分割され、ドイツは西側をアメリカ、東側をソ連支配下に置かれた。その後、ヨーロッパが共産主義化(というより社会主義化か)することを恐れたアメリカは、イギリスやフランスなど西ヨーロッパ諸国を支援してソ連に対抗、両国の関係は悪化していく。最終的に米ソが直接戦争をすることはなかったが、資本主義対社会主義の代理戦争は朝鮮やベトナムの地で起こり、朝鮮では未だ解決を見ていない。

しかし冷戦のきっかけが、ドイツ領土の分割を話し合ったヤルタ会談で、終結「マルタ会談」だって(諸説あり)。受験生泣かせだよね。

二国の争いは、言うまでもなくそのまま核開発合戦であり、諜報活動合戦も苛烈だった。映画の前半では、ソ連のスパイ、アベルの弁護人になったドノヴァンへのアメリカ国民の攻撃の様子を通して当時の社会情勢を映し、一方でドノヴァンがアベルの知性的な魅力に惹かれて行き、二人が「不安じゃないのか?」「それが役に立つか?」と無意味なようでいて心温まるキャッチボールを繰り返しつつ友情を育むさまを描く。

状況として、同じスパイでもミッションインポッシブル的イーサンが敵対組織に捕まるのとはレベルが違うぜ、ということをインプットできればと思う。

そのように冷え切った仲の米ソであるので、極秘情報を擁する人質同士を交換することに暗黙の合意はあっても、政府が表立って「交渉」を行うことはできない。そのため、民間人のドノヴァンに白羽の矢が立つわけだが、何の保障も後ろ盾もなく、もし交渉に失敗すれば彼個人の責任となる悪条件。それどころか本来の目的を達する前に、治安の悪い東ドイツで殺されたとしても当局は一切関知いたしませんというわけだ。

奇しくも同じタイミングで、東ドイツアメリカ人学生プライヤーがスパイ容疑で逮捕され、ドノヴァンは彼も計算に入れた「1対2」の人質交換交渉を試みることを決意する。ドノヴァンがこの役目を引き受けるのは、乗りかかった船への責任や使命感のためであり、またアベルやプライヤーを思ったシンプルな人情のためである。

ペンタゴン・ペーパーズ』の遣り手ビジネスマンとは異なる、どちらかという人情家の面を押し出したハンクスなのだ。それが髪型にも表れていて(あちらの映画では大分ピシリとしている)、髪型からキャラクターを比較するのも面白い。

交渉の舞台である東ドイツに場面を移す後半からは、グッと緊迫感が増す。東西を隔てる壁が構築される様子が陰気なグレーの画面で描かれる。これだよこれ~。

スピちゃんはジュラシック・パークインディ・ジョーンズといった楽しい映画を撮る一方で、戦争や重い社会情勢を取り上げた作品を作るが、すごいなと思うのは、この後者のカテゴリにおいても「見せる」のを忘れないことだ。S氏が言う「見る」「見られる」の構図の話ではなく、エンタメを忘れていないと言う意味ね。

シンドラーのリストでの一番の見せ場は結局のところ、シンドラーユダヤ人たちを救うストーリーでも最後にユダヤ人たちに向き合い泣き崩れるシーンでもなく、アーモン・ゲート率いるSS部隊がゲットーでユダヤ人を虐殺しまくるシーンであることは間違いない。バッハの旋律に合わせて理不尽な暴力を長々と映した、娯楽色に満ちた最悪のショーだった。

スピちゃんが撮る東ドイツというだけで、どんな悲惨なことが起こるのだろうと不謹慎ながらワクワクしてしまう。この映画では、色んな意味での「ブリッヂ」がテーマであるので、もちろん悲惨なことは起こらないのだが。

 

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スピちゃん×鉄条網にわくわく。

 

◇人情味の連鎖

ドノヴァンの強固な意志と人情味は、アベルだけでなく東ドイツに同行するCIAにも連鎖する。CIAエージェントのホフマンを、最後まで任務に徹する諜報員として描くこともできたはずだ。だが登場時こそ不気味だったものの、後半、ドノヴァンの勝手な行動に狼狽して髪の毛を振り乱すホフマンにCIAらしき冷徹さはない。

CIAが取り戻したいのは、機密情報を有する意味で有害なパワーズだけであり、プライヤーに興味はない。そのためホフマンは、プライヤーも取り戻すことを条件に掲げるドノヴァンと対立し、彼の余計な動きを阻止しようとするのだが、阻止するにも例えば家族をネタに脅すなど方法がありそうなものを、ドノヴァンの周りを跳ね回ってわあわあ騒ぐのみなので、何とも無害だ。

「風邪をひいたから早く帰りたい」と終始愚痴るドノヴァンの風邪は、途中いつの間にかホフマンに移っている。これは、ドノヴァンがソ連側に仕掛けた「1対2」の交渉の返答を待つ緊迫したシーンに繋がり、相手から提案に同意する旨の電話を受けたとき、「1対1」派であったホフマンが満面の笑みで、交渉の成功をドノヴァンに伝える。移した風邪と同様、ドノヴァンの熱意がホフマンに伝播したことを示したよい演出だった。

交渉の描き方も、実直なドノヴァンらしくシンプルで分かり易い。主張のポイントをブレさせないこと。そしてこちらの要求を飲めば「メリットがあると知らしめること」80%、かつ要求を飲まなければ「デメリットが生じると知らしめること」20%、この比率である。交渉ごとの基本ですね。

※すみません、比率は適当なこと言いました。

ドノヴァンはこれをアベルの裁判では判事に対して、国外においては両政府に対して実行してみせた。加えて、最後は本来の専門である保険とは真逆の「賭けだ」と言い切るのにスカッとする。

個人的に不満だったのは、物語を丁寧に回収してみせた点、具体的には詳細な後日談を付け加えた点だ。

グリーニッケ橋の捕虜交換シーンは、白と黒のコントラストも美しければ、両国の温度差の対比もよかった。パワーズが同僚マーフィに抱きしめられて迎えられるのに対し、アベルには、その顔を判別できる人間すらいない。橋での別れの直前、米国に拘束されていたスパイがソ連に帰ればどうなるのかを懸念するドノヴァンに、アベルは「私の待遇は、抱擁で迎えられるか、あるいはただ車の後部座席に乗せられるかで分かる」という。そして、最後まで見守るドノヴァンの前で、彼は同胞に抱擁されることなく、後部座席へと促される。

ドノヴァンは、1対2の交換を成し遂げたが、それによりアベルを死に追いやった。帰国後、穏やかな光景が広がる電車の中から、柵を飛び越える少年たちを目にして顔を曇らせる。ドノヴァンの偉業を国中が讃える中で、本人だけが苦い葛藤を抱いていることを示す、余韻の残るラストだった。

な、の、に!

最後に、アベルは妻子と再会し存命であるとのテロップが流れる。

生きてんの?

あの余韻はなに?「実話に基づく」話であったとしても、最後に現実へとリンクさせる必要があるのだろうか。それとも、現実と映画の境目をなくすことを、この偉大な爺さんは試みているのでしょうか?