Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『薔薇の名前』

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みなさん、こにゃにゃちは。
 
小学二年生の娘の担任(社会人一年目/ジャニーズ系/おっとり系)が、ダンス好き&音楽好きで、毎週音楽の時間に自分のお勧めの曲を生徒たちに紹介してくれます。子供たちはこれをとても楽しみにしていて、親にも評判がよいです。うちの娘などは、私達両親も音楽好きなので、一所懸命、歌詞を覚えて歌っています。先日の個人面談の際に先生にそう伝えました。照れて喜んでました。
 
最初の曲は、GReeeeN『キセキ』とベタでしたが、その後は、スピッツ空も飛べるはずいきものがかり茜色の約束など、無難でありながらいい曲を選んでくれていると思います。だって、ヒルクライムとかだと困るでしょ。
 
私が今、聴きたい曲は、曽我部恵一BAND『チワワちゃん』とEGO-WRAPPIN'の『サイコアナルシス』です。
聴くと鳥肌が立つ曲は、尾崎豊『卒業』です。
 
今日ご紹介する映画は薔薇の名前です。きまったね。
 
 
◇あらすじ
14世紀前半の中世イタリア。フランチェスコ会の修道士ウィリアム(ショーン・コネリー)と見習修道士のアドソ(クリスチャン・スレーター)は、北イタリア山中に建つベネディクト会の修道院を訪れる。到着早々、ウィリアムは修道院長から、若い修道士が不審な死を遂げたことを打ち明けられる。その後、修道院では次々と殺人事件が起こる。
 
原作は、イタリアの哲学者であり言語学者であり文献学者でもあるウンベルト・エーコの同名長編小説。エーコの肩書がすげえ。
私はこの本を持っております。昔、読んだはずなのだが、ビタイチ記憶になく、今読もうとしても・・・。
 

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うおっふぅ。勘弁してくれ。1ページ読むのに一晩かかるよ。
 

さて、劇中の中世イタリアは、教皇派と皇帝派が富と権力を巡って対立していた時代だ。小説では、複雑な時代背景の描写やカトリックにおける「異端」の考え方、「笑い」に対する教義上の見解の説明に重きが置かれ、それが何層にも関わって、荘厳な修道院で起こる連続殺人事件をミステリアスに彩っていくのだが、当然ながら映画ではこういった部分は省かれる。
 
不審死を遂げた写本絵師アデルモに続き、ギリシャ語翻訳者ヴェナンツィオが死に、連続殺人に修道院中が震撼する・・・といったミステリー主体になっております。それにしてもヴェナンツィオの死にざまときたら、豚の血を溜めたデカい壺に逆さに突っ込まれ、二本足がニョッキリ突き出ているというもので。観た瞬間、「スケキヨ!」(~『犬神家の一族』より~)と叫んだよ。正確には、あれはスケキヨじゃないわけだけど。
 
本日はめんどくさい内容の感想になりますが、16、7歳のクリスチャン・スレーターが出てるよってことだけ覚えておいてください。
 

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右ですよ。このコがヘロインやって女を殴るようになるとはねえ・・・。
 
 
◇おねえさん(私)とお勉強しましょう
小説の存在を知らずに観ても何も問題ない。とはいえ、特殊な世界の話であるので、ちょっと知識があると楽しめるだろう。大体、初めて観た人は、なんでウィリアムとアドソがこの修道院を訪れたのかすら正確には分からないんじゃない?そうじゃない?
簡単に説明すると、↓こう。
 
✔ ローマ=カトリック教会(教皇派)と神聖ローマ帝国(皇帝派)が激しい権力抗争を繰り広げている時代
✔ ウィリアムが属するフランチェスコ修道会はカトリック教会内の組織で、教義として清貧の精神を掲げており、この点で教皇派と考えを異にする
✔ そのために教皇派とフランチェスコ会は対立しており、関係改善のための話し合いの場が、ベネディクト修道会の修道院で設けられることとなった
✔ ウィリアムは両者の調整役として修道院に招かれ、両使節団の到着を待っている間に不審死の相談をされた・・・
 
といった流れだ。ほら~。こんなの絶対わからないでしょ?私は分からなかった。
さらに「異端」についてもインプットしておこう。
 
✔ 畏怖すべき存在として語られ、後半、教皇側の使節団の代表として登場する異端審問官は、カトリックの正統信仰から外れた者を糾弾することを任務とし、その権力は絶対だった
✔ ウィリアムらが出会うドルチーノ派の修道士は所謂「異端」で、この修道院に隠れ住んでいる
 
さらにさらに、小説『薔薇の名前』は、中世の普遍論争に深く関係していると、一般的に解釈されている。誰も読まないだろうから、ちっちゃく書くよ!
 
普遍論争とは、「普遍」の実在性に関する議論で、『実在論』と『唯名論』という異なる考えに分かれる。
実在論は普遍は個に先立って実在し、個は普遍のあとに成り立つとする主張。例えば、Aさん、Bさんという個人がいたとして、彼らは「人間」という普遍の概念で括られる。この「人間」という普遍が、個によりも先に実在するとする。実在論』とは逆に、人間とは名前だけの概念にすぎず、実在するのはあくまで「個」であるとするのが唯名論(ゆいめいろん)。
ローマ=カトリック教会において『実在論』が正統であるとされていたが、14世紀にウィリアム=オッカムなどによって『唯名論』が立場を強めていく。
 
薔薇の名前』のバスカヴィルのウィリアムのモデルは、『唯名論』の代表的な提唱者であるウィリアム・オッカムであろうと推測ができる。従って劇中のウィリアムは、保守的な世界において、ただ一人、真理を尊重する合理的先進的な人物なのだ。
 
それだけ。
 
どの修道士もコソコソモゾモゾしていて見るべきものから目を逸らしまくる中、きらきらと目を輝かせて真実を求めるショーン・コネリーが気持ちがいいよ、って言いたかっただけ。
 
 
◇修道士全員、顔が怖い
映画化されて良かったことは、どんよりと澱んだ土地や修道院の荘厳さ、不可侵感が表現され、「絶対わけのわからんことが起きるぞ」と説得力を以って観る者の視覚に訴えることだ。

ウィリアムとアドソを追うカメラの中に修道院の様子を見るうち、観客はここが世俗と断絶された世界であることを知る。この場所に、金や人情のもつれによる殺人など相応しくない。物語が進むにつれ、一般社会では考えられない動機が浮かびあがってくるのにワクワクする。
 
それにしても、修道士たちが外見からして不気味である。
 
修道院長アッボーネ、通称カールおじさん・・・ホモ疑惑
ホルヘ長老、通称ジジイ・・・怪しい
文書館長マラキーア、通称ワシ鼻・・・怪しい
副司書ベレンガーリオ、通称百貫デブ・・・ホモ
厨房係レミージョ、通称デブ・・・好色
レミージョの助手サルヴァトーレ、通称乱杭歯・・・怖い
施療院の薬草係セヴェリーノ、通称おしゃれ髪・・・怪しい
 
画像がないのが残念だが、とにかく映る奴映る奴、みんな気色が悪い。
全員、何か知っていながら隠している。百貫デブは度々アドソに秋波を送ってくるし、乱杭歯は突然飛び跳ねたり、人の鼻に噛みつきそうなほど間近に顔を寄せてくるのが嫌だ。不審死の件で異端審問所に目を付けられることを恐れるカールおじさんは、謎の究明をウィリアムに依頼する人物だが、ウィリアムへのキスの挨拶が妙にねっとりしていて嫌だ。ジジイは白目が気持ち悪い。
 
もちろん、犯人はこの中にいる。
 
ウィリアムを演じたショーン・コネリーは、すっとぼけて茶目っ気があるいつもションコネ。知識と経験を頼まれ招かれたものの、異端に近い先進的な考え方と度を過ぎた好奇心が、閉鎖された空間に嵐を巻き起こす。「笑い」についてジジイと議論する場面では、それを悪とするジジイに対し、アリストテレスは失われた著書の中で笑いを肯定していたという持論を展開、主張の中身と同時に空気の読まなさで、文書室内をザワつかせる。
 
怪しい修道士連の中にあって、現代的なウィリアムと美しいアドソは別世界の住人のように見えるが、この修道院が、二人の「罪」を炙り出すところがまた面白くて。
ウィリアムは異端審問官時代の苦い過去と向き合うことになる。また、彼の度し難いほどの書物に対する執着は、罪深いものとして描かれる。
無垢だったアドソは、あることをきっかけに肉欲に屈してしまう。
 
 
◇禁断の欲望の妖しさ
「笑い」に対するものにせよ「肉欲」にせよ、禁じられるがゆえに求めることの甘美さと破滅の空気が、一貫して映画の中には流れている。
 
直接的には描かれないものの、そこかしこに漂う男色の妖しさ。
また、アドソはある人物を追ううち、修道院の厨房に迷い込む。この薄汚い厨房は、一人の貧しい少女が修道士から食物の施しを受け、代償として身体を提供している場所だった。二人は偶然に出会い、清廉なアドソに魅せられた少女は彼の身体を奪う。
 
野性的で官能的なシーンだ。以前、敬愛する『シネマ一刀両断』のふかづめさんが、同じジャン=ジャック・アノー監督『愛人/ラマン』(1992)の、エロスを描きながらエロスが表現されていないことに憤っておられたが(そして、それには同意見だが)、本作のこのシーンはエロティックだ。少女主導の行為は妙に猟奇的で、アドソが未知の快楽に堕ちていく様は背徳の空気に満ちている。

さて、多くのレビューに書いてあるので今更だが、題名の『薔薇の名前』は、本作で唯一名前を持たなかった少女のことを指すと思われる。
 
特徴的であるのは、少女が、物語の最後まで言葉を発さないことだ。
ここに、(ほとんどの人が読み飛ばしただろうが)前述の普遍論争における『実在論』と『唯名論』を絡めて考えると面白いじゃないですか。
 
果たして、この少女は、普遍という概念であったのか個であったのか?
 
彼女は修道院からしてみれば村の貧民、修道士から見れば欲望を満たす道具、異端審問官からは魔女と呼ばれ、しかし、アドソにとっては生涯に唯一の恋人となった。
アドソから見たときだけ少女は「個」、つまり、師ウィリアムの『唯名論』は弟子アドソに受け継がれたのである・・・。
 
絶対そう、いや多分そう。
 
それはともかく、ラスト、アドソが遠い日の師ウィリアムに思いを馳せ、少女を薔薇に例えて懐かしむシーンが美しい。
 
気が付けば、修道士の顔が怖いって話と、私のインテリジェンスを見せつけただけで、メインである連続殺人の犯人や動機、二人の謎解きアドベンチャーにまったく触れませんでした。まあ、いいよね。犯人は、一番怪しいあいつだよ。
 
以下のサイトを参考にさせていただきました!
・作雨作晴 『薔薇の名前』と普遍論争(https://blog.goo.ne.jp/askys/e/fc23827f5a274b67bdd1fa17ae8df641
・ホンシェルジュ(https://honcierge.jp/articles/shelf_story/6631