Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『ランボー 最後の戦場』

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監督:シルベスター・スタローン キャスト:シルベスター・スタローン、マシュー・マースデン/2008年
 
皆さん、こんばんにゃ。
 
何だか、段々、社会全体が疲れてきていますね。こういうときこそ、人とのコミュニケーションを怠ってはなりません。ただでさえ、スマホやネットのせいで他人と話せない社会になっとるでね。
 
例えば、私のように、スーパーで買ったものを詰めているときに、カゴを戻す場所が遠くて手を伸ばそうとしているおばちゃんのカゴを受け取って代わりに戻してあげるとかね(ニコッ)、くるくる巻いてあるビニール袋を取れずに苦労しているおじいちゃんの代わりに取ってあげるとか、そして私も大概、指に脂がなくなってきているので代役を買って出たくせに取れずに照れるとかね、そんなんでいいですよ。
 
マスクはハンカチと髪ゴムでも作れるからネ! 
 
そんな平和主義の私がお送りする、本日の映画はランボー 最後の戦場だよ!
 
 
あらすじ
シリーズで初めてスタローン自らメガホンを取り、ミャンマーの社会情勢を盛り込みつつランボーの壮絶な戦いを描き出す。タイとミャンマーの国境付近でミャンマー軍事政権によるカレン族の迫害が激化。タイ辺境のジャングル地帯で暮らすランボーは状況を知りつつも静観の構えを見せていたが、彼がミャンマーの村へ案内したNGO団体が行方不明になり、救出のために再び戦いの中に身を投じていく。(映画.com)
 
ランボー(1982)について詳しく語ることは、もはや不要だろうが、さらっとおさらいする。誰のために。私のために。
ベトナムの戦場では特殊部隊に所属しその働きを讃えられたランボーは、帰国すると一転、大量殺人者だ赤ん坊殺しだと周囲から謗られる。訪れたある町で、一人の保安官との諍いをきっかけに、州警察や州兵を相手取った大規模な戦いへと発展、町を戦場へと変えていく。面白いのが、戦ううち、ここがアメリカなのかベトナムなのか、現実との境界線が曖昧になり、それにより殺人のスキルが研ぎ澄まされていくことの皮肉さ。また、彼にとってベトナムが、忌まわしくも懐かしい地であるという複雑な感情が、哀愁漂う無法者を作り上げているのが魅力的だ。
 
暴れ狂うランボーには、ベトナム戦争で疲弊し、挙句、敗戦したアメリカの姿が投影されている。1960年代後半から1970年代半ばにかけてアメリカでは、ベトナムの地で泥沼の戦いを続ける政府へ反発から、反体制的および反戦をテーマにした作品が数多く製作され、それらは「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる。説明の必要もないだろうが、俺たちに明日はない(1967)、イージー・ライダー(1969)などが、その代表作と言われている。
 
この年表に従えば、1982年製作の『ランボー』はニューシネマの潮流から外れているわけだ。
 
ベトナム戦争終結とともにニューシネマの時代が終わると、今度は鬱々とした空気を払うような映画、ジョーズ(1975)、『ロッキー』(1976)、スター・ウォーズ(1977)などに代表される痛快で明るく、夢と希望を描いた映画が人気を博す。ここで注目すべきは、ニューシネマに取って代わった作品群の中に、スタローンの出世作となった『ロッキー』があることだよね。あのような映画を作っておきながら(もちろん『ロッキー』も死ぬほど好きだ)、1982年に「おい、忘れてくれるな」と言うように、ベトナム戦争の傷を再びアメリカに思い起こさせたスタローン。
 
以下に「シネマ一刀両断」で、ふかづめさんと対談したときに自分が言った言葉を引用。
 
ランボー』の「何も終わっちゃいません、何も」から始まる長台詞で、観客はランボーの心中を知って胸打たれると思うんだよね。アレがなかったらどれだけの人がベトナム戦争の傷を感じとれたのかな?
 
かつての上官トラウトマン大佐の「戦争は終わったんだ」という説得に対し、ランボーが激白する際の台詞なわけだが、この台詞なくして、ベトナム戦争を知らないアメリカ以外の国の人々が「ベトナム戦争の傷」を知ることは難しかっただろう。保安官たちに対しては碌に弁解もしない寡黙なランボーが、親同然のトラウトマンを目の前にして爆発するように心中を語るこのシーンに、ランボーの苦悩と反戦のメッセージが込められ、ゆえに人々の胸を打った。
 
ランボー 最後の戦場を『ランボー』に並ぶ名作だと思うのは、同じく反戦の意図を込めながらランボーの言葉が極力排除され、監督スタローンが見せたかったものがストレートに表現されているためだ。とにかくランボーが喋らない。私の記憶する限り、「家に帰れ」と「お前が決めろ」しか言っていない。
 
衝撃的なショットとシーンにより、ただ「見ろ」とするスタローンからの力強いメッセージ。
 
ランボー 怒りの脱出』(1985)、ランボー3 怒りのアフガン』(1988)は、アクションを中心に娯楽色を強く打ち出したために一作目より低く評価されがちだが、どの作品も好きな私にとっては、『最後の戦場』にそれら全てからの継承があることも嬉しい。
 
例えば、捕虜の奪取とジャングルでの戦いというシチュエーションは『ランボー 怒りの脱出』と同じだが、あのときは死なせてしまった信念を持つ女性(ランボーに取っては神聖なもの)を本作では救うことで、長く抱いていた悔恨の念が昇華される。『ランボー3 怒りのアフガン』とは、それまでがランボー自身の戦争であったのに対して他者の戦争への介入であることが共通しており、ヒーロー性がより色濃い。
 
過去三作の血筋を受け継ぎつつ、観る者に映像で訴えかける強烈な反戦映画。さらにランボーのヒロイックな魅力と緊迫感のあるアクションといったエンタメ性も存分に織り込んだ、文句なしに100点満点の戦争映画なのだ!
 
 
ハァ、ハァ、ハァ・・・。
言いたいことは全部言ってしまったが、今日はここでお時間というわけにもいかない。ここからはストーリーや個性豊かなキャラクターを追いつつ、ゆるりと語って参りましょう。あ、ネタバレです!
 
 
 
◇ミャンマーの海賊コワイ
あらすじの通り、平和主義のキリスト教NGO団体のメンバーたちが、危険を冒してミャンマーの村に薬を届けたいというので、渋々ボートを出してやるランボー。メンバーの一人サラジュリー・ベンツニコール・キッドマンナオミ・ワッツを足したような顔をしている。女性に弱いランボーです。
 
川旅の途中で、海賊に襲われます(川だけど海賊って言ってるんで)。海賊=ジョニー・デップと思っている人には是非観て頂きたい。こえェよ。ただただ、女を寄越せ!って言ってくるミャンマーの海賊こえェ。
 
ランボーは素晴らしいテクニックで海賊たちを射殺、ここで「ノー!」と叫ぶNGOのリーダーが鬱陶しい(殺らなきゃお前の女がヤラれるんだよ!)。村に辿り着いた一行は村人たちに薬を与え聖書を読むなどして交流をするが、平和な時間も束の間、政府軍が押し寄せて村人たちを虐殺し、サラらを連れ去る。ランボーは米国政府が雇った傭兵たちと共に、彼らの救出へと向かう。
 

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散々な目に遭うジュリー・ベンツ
 
 
ここまでで語るべきは二か所。ひとつは虐殺のシーケンス。
実際に銃器で撃たれた人間の体がどうなるのか、一方的に行われる蹂躙とはどういうものなのかをじっくり観客に理解させるパートとなっている。人体が破壊されて吹き飛び、子供が刃物でゆっくりと胸を貫かれ、赤ん坊が火に放り込まれる、目を覆いたくなるような映像が続く。スタローンのメッセージが一番強く出ており、また、平和主義のサラたちの理想が粉々に打ち砕かれる場面だ。
 
二つ目は、その後、傭兵たちが村に辿り着いたときのシーケンス。百戦錬磨の彼らが、あまりに凄惨な現場に鼻を覆ってたじろいでいると、ミャンマー軍が捕虜の村人達を連れて現れる。地雷を投げ込んだ田圃に捕虜を追い立て、誰が生き残るか賭けをしようというのだ。為す術なく身を隠す傭兵たち。そこへ現れたランボーが、お馴染みの武器であるボウガン(コンパウンドボウという武器らしい)で、あっという間にミャンマー兵を倒す。矢を構えるランボーを下から斜めに捉えたショットがめちゃめちゃカッコいい。
 
そして、予想以上の地獄のあり様に、引き返そうとするリーダーの鼻先に矢を構えて言う。
 
「こんなところにいたい奴はいない。だが俺たちのような男の仕事はここにある」
「無駄に生きるか、何かのために死ぬか、お前が決めろ」
 
 
ちびる・・・。
 
この作品の一番ホットな場面はココ。説得力が半端ない。容赦ない虐殺と、傭兵たちが躊躇するほど凄惨な跡地を見せられた後では、何の躊躇もなく「行くぞ」と言い切るランボーの胆力に鳥肌と失禁を禁じ得ない。戦争のリアルに重きを置くどころか、シリーズトップのヒーロっぷりとなっております。
 
 
 
◇キャラと兵器を楽しもう!
映画の途中ですが、傭兵たちのキャラもなかなかに立っているので、何人かご紹介しましょう。

まずはこいつ、スクール・ボーイ(マシュー・マースデン)
 

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いい奴だし、カッコいい。
初登場時、ボートの中の台詞が印象的である。他の傭兵たちが、まんまと捕まったNGOの皆さんを「アホどもが」と腐す中、一人悠々と「えらいよ。丸腰で本や薬を届けるなんて」と格の違いを見せつける。何でこの仕事してるの?そしてこんな仕事しながら、なんでそんなイイ奴でいられるの?
 
 
 

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名前は忘れたが、浦和レッズのFW興梠慎三に似ていることから何だか気になる存在になってしまった髭面の人。私の心の中でだけ「シンゾウはん」と呼ばれる。残念ながら終盤で死んでしまう。
 
 
 

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傭兵部隊のリーダーで、分かりやすくランボーの凄さを演出するために設置された生贄キャラ。通称、生贄ハゲ。「おいボート屋」「ボート屋は黙ってろ」とバカにしていた相手が実は殺しのプロだったことを知った後は、大人しくランボーの指示に従う。ケガした足を、ミャンマー軍のホモのヒゲに、グリグリされるのがかわいそう。
 
反目し合っていた彼らと、行動するうちに戦友のような意識が芽生える感じがいい。何しろランボーと言えば孤独、喋る相手は大体トラウトマン。
サラを救い出して村から脱出するとき見張りに見つかり、身を投げ出してサラを庇うランボーと、時間に遅れたランボーを、一人待ってくれていたスクール・ボーイが見張りの首を吹っ飛ばして救うシーンは、お約束なようでいて胸アツだった。
 
ところで、遅まきながら未見の人に言っておくと、本作はグロいって言えばグロいですよ。
 
ただ、様々登場する武器とそれを使いこなすキャラクターに注目すればもう、すごいもんを見せてもらったな、という感想にしか至らないわけで。
 
イケメン・スクール・ボーイが使用するライフル「バレットM82A1」は狙撃した兵士の頭部を丸ごと吹っ飛ばし、凄まじい破壊力を観客にみせつける。スマートなスクール・ボーイのキャラクターに合ったクールな武器だ。
 
また本作最大の武器となる第二次世界大戦の遺物「トールボーイ」。この大型爆弾を使った罠を仕掛けるのは、やはり戦争の遺物とも言えるランボーだ。また、終盤、ミャンマー軍に捕らえられた傭兵たちを救うためにランボーがぶっ放す「ブローニングM2」は、人間をたちまち赤い肉片へと変える。この恐ろしい武器は人間兵器であるランボーそのもの。
 
「ブローニングM2」を構える兵士の後ろに、ぬうと現れるランボーのドアップで始まるミャンマー兵殲滅のシーケンスは、前半の虐殺に対する究極のカタルシスタイム、二度目の失禁ポイントだ。
 

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これがなくっちゃいけない。
反戦メッセージ、現実を見ろと思考を促すだけでは戦争映画とは言えない。ミャンマー軍の悪辣さがあってこその壮絶な復讐劇が、本作を最高の戦争映画として輝かせる。

勘違いしている人が多いので言っておくと、実際にミャンマーを含む軍事政権による少数民族の弾圧がどのようなものであるのかは別の話だ。映画では、軍事政権は血も涙もない完全な悪、村人とNGO団体は善の存在として描かれ、ランボーが悪をぶっ潰す単純な勧善懲悪の物語が展開される。映画の中でスタローンにより作り出された「現実」に息を飲み、カタルシスに酔えばいいだけのこと。
 
近代兵器の恐ろしさを容赦なく見せつけつつ、至高のエンタテインメントを演出してくれたスタローンに、ありがとう。
そしてラストは、長い年月をかけてようやく地獄の故郷を捨て、本来の故郷に戻っていくランボーの姿に感涙。ウンウン、長かったね・・・。
 
と思ったのに、今度はメキシコに行くのかよ。
ランボー ラスト・ブラッドは6月12日公開です。有給決定。
  
 

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こちら、浦和レッズのヒーロー、シンゾウはん。
 
 
※兵器の名前はネットで調べました。
引用:(C)2007 EQUITY PICTURES MEDIENFONDS GMBH & CO. KG IV