Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『十三人の刺客』

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監督:三池崇史  キャスト:役所広司山田孝之/2010年
 
 
職業監督職業監督って、三池崇史ナメるな、コラァ!!
 
 
ハイ、ということで、殺人の追憶(2003)のモデルになった事件の容疑者が、33年の時を経て特定されたらしいですね。『殺人の追憶』ってすごく面白いよね・・・でもほとんど覚えていないので、今日は自然な流れで『十三人の刺客』ということになりました。
 
公開時に、友人リエコと映画館にて鑑賞。そういえば同じ三池監督の無限の住人も一緒に行ったんだけど、初日初回だったもんで、ぴあの出口アンケートがあったんです。質問はオーソドックスに「お気に入りのキャラクターは?」「好きなシーンは?」というもので、ぴあの人も期待するじゃないですか、「キムタクよかった~」とか「福士蒼汰がマジ天津影久でしたわ」という回答を。リエコの回答、こうですよ。
 
田中泯ですね。お気に入りのシーンは、田中泯がキムタクたちの戦いを高見の見物しながら、おにぎりを食べるシーン。ご存知ですか、田中泯の職業って『農民』なんですよ?さすがに米の食べ方キレイだなって感心しました」。
 
ぴあのお姉さん、困惑。
ちなみに私は福士蒼汰が苦手です。
 
雑談はこれくらいにして、本題に行きましょうか。
いくぞ、てめェらァァァ!斬って斬って斬りまくれェーー!
 

◇あらすじィィ!
江戸時代末期。御目付役島田新左衛門(役所広司)は、民衆に不条理な殺戮を繰り返す明石藩主、松平斉韶(稲垣吾郎)暗殺の密命を受ける。新左衛門は、仲間となる侍を集め、斉韶を討ち取る計画を進めるが、彼の前に斉韶の腹心、鬼頭半兵衛(市村正親)が立ちはだかる。
 
 
◇後で文句は言うが、エンタメ時代劇として間違いなく良作
いきなり抽象的な言い方で申し訳ないけれど、三池崇史は戦う男の顔をカッコよく撮ることに、とても優れていると思う。分かりやすい例が、『クローズZERO』(2007)の小栗旬。この俳優を器用だな上手いなとは思っても、貌がいいと思ったことが観た限りの映画ではなく、例外が『クローズZERO』となる。小栗旬山田孝之が、まあカッコよい。
 
本作でも、鬱屈したヤサグレ武士島田新六郎として、山田孝之がダークな魅力を放つが、誰より観客の目を惹きつけるのは、凄腕の浪人平山九十郎を演じた伊原剛志だろうと思う。この人もまた軽い役者だな~との印象しかなかったのだが、『十三人の刺客』を観て三池監督の腕の良さを再確認、伊原剛志の存在感はズバ抜けていた。平山の振るう剣は「重い」(これはもちろん音の効果が大きい)。誰かが窮地に立たされたとき、薄闇の中から、あるいは炎の向こうから現れる立ち姿に、ふおー!と単純に滾る。
 
困難なミッションを前に討ち手を選りすぐる点で、七人の侍(1954)から影響を受けるのは当然の話だが、経験豊富で冷静なリーダー志村喬役所広司なら、伊原剛志の役は不言実行の権化、宮口精二に該当するのだろう(もちろん伊勢谷友介三船敏郎)。
 
忘れてはならないのが、息子夫婦を斉韶に惨殺された牧野靭負(松本幸四郎)が、参勤交代の明石藩一行に対し、尾張藩通行御断りを突きつける覚悟の顔。役目を成し遂げたその場で腹を切るために着物の衿を寛げ、周囲の家臣が頭を垂れるシーンは胸アツだった。侍とは、なんと馬鹿馬鹿しい生き物なのか、だが何故我々はその馬鹿馬鹿しさに胸を揺さぶられるのか。この作品のテーマを、市村正親と共に教えてくれる人物だ。
 
また演出面では、序盤は意図的なのか夜の場面が多く、時代劇にお馴染みの道具である蝋燭の火が効果的だったと思う。例えば山田孝之が、叔父の役所広司と議論するシーン。座敷を照らす灯りが、叔父の落ち着きを湛えた顔と甥の空虚な顔に陰影を生み、際どい「博打」の雰囲気を盛り上げる。
 
牧野の嫁(谷村美月)が斉韶に引きずられていくとき廊下を照らしていた火が、彼女を探しに来た夫(斎藤工)の頬に揺らめいて反射し、観客の不安を煽るのもよかったし、例の四肢のない女の場面でも、蝋燭の灯りが不気味さと事の異常さを強調している。
 
明石藩一行奇襲の戦略や駆け引きが文句なしに面白いが、素晴らしいと思ったのが、メインの「落合宿の決闘」(←勝手に命名で、現代日本時代劇に足りない死闘の表現、すなわちズタボロ感をきちんと演出してくれたことだ。雨に打たれながら長距離を駆けてきた後の着物のくたびれ方、面々の憔悴具合。
さらに「斬って斬って斬りまくれー!」から始まる長い長い戦闘の中で、役者たちが、確実に、ちゃんと、疲労していく。結果、戦場となった宿場町は鬼気迫る様相を呈し、だから、明石側に気が触れて味方に斬りかかる侍が現れる状況に説得力が生まれる。これはなかなか難しいことなんだ。
 
さて、怒涛の斬り合いへと雪崩込む際の合図が、役所広司の掲げる、皆大好き「み・な・ご・ろ・し」。
 
「説得力」を一発で持たせるなら、衝撃的な画ひとつ、これに勝るものはない。斉韶に四肢と舌を切られた女の姿はショッキングだった。恐らく、この画の効果を最大限に活かすために、他の場面でグロ描写を控えたことに好感を持つ。斬られた腕が宙を飛び、臓物が地面に落ちるなんて画でもあれば、もちろん凄惨な戦場を表現するのに最適だが、役所広司に死命を引き受けることを決断させた娘の姿が霞んでしまうものね。
 
ここで、わたしがリエコにインプットされた蘊蓄話をひとつ。
 
シェイクスピアの戯曲の中に、残虐性で異色とされる『タイタス・アンドロニカス』という作品がある。将軍タイタスは、憎み合う女王タモーラの息子たちに娘ラヴィニアを強姦され、ラヴィニアは舌と両手を失う。
アンソニー・ホプキンス主演で映画化されており(『タイタス』)、その中でラヴィニアが自分を犯した犯人の名を、不自由な腕で地に書いてみせるシーンがある。リエコによれば、三池監督はここから「みなごろし」の娘のインスピレーションを得たとのことだ(いつも通り裏取ってないんでね、責任取りませんからね)。
 
一応『タイタス』を観てみた。クソ退屈イマイチだったが、最後に自作の人肉パイを女王に食べさせ、ステップを踏んではしゃぐアンソニー・ホプキンスはキュートでした。
 

◇ささ、文句言うよ
四点、文句を言わせて頂きます。
 
1)松方弘樹に好き勝手やらせすぎ
松方弘樹と言えば東映任侠映画と時代劇の申し子、そして遠山の金さんとして私の爺ちゃんのヒーローだった男、そりゃあ殺陣は見事だ。年季が違う。彼を主役に置いたときはいい。だが前述したように、長丁場の戦いの中で、侍たちは疲弊しボロボロになっていく。彼らは剣に優れた者たちだが、終盤には技術などはどこへやら、地べたを這いずり、むちゃくちゃに剣を振り回す狂犬と化す。松方も、一応、ヨロヨロした足つきを演じてはいるのだが、敵と刀を交えれば条件反射で流麗且つスピーディな殺陣を発動してしまい、「疲弊した戦場」の空気を思いっきりブチ壊してやがる。
 
あとね、明石藩ご一行様に宣戦布告する口調が、完全にお白州の金さん。
あとね、これね、松方的キメ顔。↓
 

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きょえ~!
 
二回もやるなよ、笑っちゃうから。
 
さらに、皆さん気づいただろうか、松方、ノリかクセかわからんけど、言葉遣いが各所で江戸言葉つまり金さん町人バージョンになっている。「~なりやせえ」とか「~しやしょう」とか。いやいやいや。アンタ今は武士なんでな。
(江戸勤めだからそんな不思議じゃないのかな?)
勝手な予想だけど、三池監督、「これはこれで面白いじゃん、このままいっちゃおー」にしたんじゃないかな。いや、「いつも通りに好きにやってください」かな。
 
2)伊勢谷いらねえ
伊勢谷好きな人、いる?ごめんね、でも、伊勢谷ビタイチいらねえ。
侍のカッコよさを描く一方、「侍の面子が如何に愚かなものか」を知らしめるため配置されたキャラクターなわけだが、「侍だけが人間かよ」色がしつこいし、忠義の馬鹿馬鹿しさを伝える役目は、市村正親が立派に果たしている。そうでなくても、伊勢谷のシーンがシンプルに面白くない。物語にどっぷり浸ってんのに、無理やり違う方向を向かされるような不快感がある。「山の者」ってなに?ウパシってだれよ?
 
蝋燭の灯りが効果的だったと書いたのだが、この恩恵に吹石一恵だけが与れなかったのは何故なんだ。新六郎の情人役としてちょこっとだけ登場。滅多に帰ってこない与太者新六郎が在宅していると知り顔を輝かせて部屋に入ってくるが、何故か灯りの届かない隅っこにいるために周囲が苔生したように昏く、まるで怪談に出てくる女の幽霊。さらに、出ていく新六郎を見送るときの顔がコウメ太夫
 
個人的に吹石一恵は、演技はよく知らないが顔は好きで、果実みたいな女優さんだと思ってるんだ(どこかのさくら坂男に刈り取られて、どうやら実ることはなさそうだが)。それを怪談の幽霊にした上、コウメ大夫にするなんて許せん。
 
4)牛。
牛。あの、四頭ぽっちの謎の種の牛。観た人は分かってもらえますよね。
 

◇お笑い担当としての稲垣吾郎
稲垣吾郎の暗君っぷりが凄まじかったという感想は世間の皆様と同じ、逆に笑えたなど軽率な逆張りをするつもりはない。稲垣はヤバかった、ワルかった。
 
ただ、もう、終盤、観ている側もヘトヘトになってから繰り出される斉韶様のすっとぼけ発言攻撃には、「お前だけ疲れてないのな・・・」と呆れ笑いせずにはいられない。
 
繰り返すが、敵も味方もズタボロのクタクタだ。どうにか落合宿から抜ける道を探し当て、警戒しながら斉韶様を守り進む半兵衛に、「半兵衛、戦の世とは、このようなものじゃったのかのう」とのったりと話しかける。半兵衛もいい加減、「だまらっしゃーい!」と後頭部をぶっ叩くべきところ、「は。そうであったかと思います」と律儀に返答。
 
アホ。いやもう、この主従、アホだと思ってたけどホントにアホ。
 
そしたら斉韶様が「わしが老中になった暁には、もう一度戦の世を甦らそうぞ!」って大魔王みたいなこと言い出した。
 
役所さん、早くコイツを黙らせて。でないと笑い死ぬ。
 
二人の前に新左衛門が立ち塞がり、因縁の関係にある新左衛門と半兵衛が、ついに一対一で刀を交える。そこへ斉韶様が一言。

「一騎打ちとは風流じゃのう」
 
 
役所さん・・・早く。
 
 

◇締めに入ります
エンタメ時代劇として非常に楽しませてくれたこの作品が、ただエンタメだけで終わらないのは、徳川の長い治世が生んだ暗部をテーマに内包しているためだ。いいじゃんそんなこと、って思いましたでしょ。いやいや、重要ですよ。死に場所を求めている新左衛門や新六郎のみならず、斉韶様だって太平の世の被害者なわけだからね。
 
だけど、ちょっと、また疲れてきました。ホントは役所広司の優れたリーダーシップについても書きたかったんだけど、最近疲れやすくって。
言いたいことは分かって頂けましたね。
 
では本日は、伊原剛志が弟子の窪田正孝に言う超カッコいい台詞でお別れしましょう。
 
「わしの背後に抜けた者を斬れ。一人残らずだ」
 
いやーん、いつか使いたい!
 
引用:(C)2010「十三人の刺客」製作委員会