Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『エール!』

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監督:エリック・ラルティゴ キャスト:ルアンヌ・エメラ、エリック・エルモスニーノ/2014年
 
席で仕事してると、なんやかんやと邪魔が入るので、リフレッシュスペースで仕事してたのに、今度は仲のいい同僚が「ねえ、この紅茶の匂い嗅いで~。大好き、この香り~」などとティーパックを鼻先に突き付けてくる。いい気なものね。
 
今日は間に超無駄話が入っているので、さっさと映画のご紹介に入ります。
 
 
◇あらすじ
フランスの田舎町で酪農を営むベリエ家は、高校生のポーラ(ルアンヌ・エメラ)以外の全員が聴覚に障害を持つ。家族の手伝いに追われ、好きな男子に声も掛けられない高校生活を送っていたポーラだが、音楽教師のファビアン・トマソン(エリック・エルモスニーノ)に歌の才能を見出される。だが、耳の聞こえない家族から理解は得られず・・・。
 
イケてない高校生活、男子生徒へ憧れと失望。身につまされるわ。
 
意志の伝達手段が手話のみのポーラの両親には、会話をオブラートに包む習慣がなく、感情表現はオーバーかつストレート。個の強い人間に囲まれている上、日常生活の多くが家族のサポートで占められるポーラは、友人に比べて未成熟であり、これは高校生になってもまだ生理が来ていない状況に明らかだ。
 
そんな中、音楽教師ファビアンに歌の才能を見出されたポーラは、やがてパリの音楽学校に進学するための試験を受ける決意をする。歌を介した、憧れのガブリエルとの接近も、新たな世界への扉を開くこととなる。
 
自分の可能性の発見、閉鎖された場所からの脱出、自立といったテーマは、大好きなリトル・ヴォイス(1999年)やリトル・ダンサー(2000年)と共通するものがあるなあ。ただこの映画が面白いのは、ポーラの才能が、家族には理解したくとも理解できないものである点だ。
 
リトル・ダンサー』におけるダンスは、父親にとって受け入れがたいという点で乗り越えるべきハードルは高かったのだが、最終的に父は息子の意志を尊重し、それにより息子の才能を知ることができた。だが、ベリエ家がポーラの歌声の素晴らしさを実感することは、どう頑張ってもできない。なんとも皮肉な話である。
 
パパとママはセックスにやたら貪欲で開けっぴろげだが、これは「人の目」や世間の常識からフリーであるため、性的なものに対して羞恥する習慣がないだけのことだ。ポーラには、二人の獣のような声が壁越しにも聞こえるし、他人の、家族を揶揄するヒソヒソ声も聞こえてしまう。聞こえない人間の無頓着な気楽さと、聞こえるがゆえの苦痛。ベリエ家の中では不幸なのは障害を持つ三人ではなく、聞こえてしまうポーラということになる。

社会では「普通」の自分が、家族という重要なコミュニティでは異質、これはなかなかに辛いことではないだろうか。だからポーラは、家から学校に向かうとき、大きな音で音楽を聴き、「音」に対する自由を味わう。
 
愛しいと同時に鬱陶しい、それが家族。
 
 

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束の間の自由を満喫するポーラちゃん。

(C)2014 - Jerico - Mars Films - France 2 Cinema - Quarante 12 Films - Vendome Production - Nexus Factory - Umedia
 
 
 
さらに語るべきは、この年頃の男子特有のデリカシーのなさ。デュエットの練習のためポーラ宅を訪れたガブリエルは、そこで起こったある出来事と家族の変人っぷりに尻込みしてしまう。ガブリエルに「恥」を見せてしまったポーラは、彼の良識に期待するのだが、彼は見事にそれを裏切る。パリで育ち、貴公子的な容姿を持つガブリエルも、所詮中身はガキということだ。
デリカシーを持って相手を思いやる、そんな気の利いたガキなど高校生にまずいない。
 
ちょっと鼻息が荒いね。ここは私の中のリトル・ヤナギヤ(※)と話して落ち着こうかしら。
 
※リトル・ヤナギヤとは:
サッカー選手の本田圭佑ACミランへの入団会見時にミラン移籍を決断した理由を質問され、「私の中のリトル・ホンダに『どこのクラブでプレーしたいんだ?』と訊くとリトル・ホンダは『ACミランだ』と答えた。それで移籍を決めた」と発言したことから。以来サッカーファンの間では、決断に迷って自問自答する際に使用される。
使用例:「迷ったけど、私の中のリトル○○がGOと言ったから決心したの」
 
リトル・ヤナギヤ「随分ムキになるじゃない?何か苦い思い出でもあるのかしら」
やなぎや「高校時代を思い出しちゃたわ。近くの男子校のコーラス部のコを好き
になって、友達伝手で連絡してデートすることになったの」
リトル・ヤナギヤ「あらすてき!それで?」
やなぎや「デートの日、彼は友達を連れてきた上、『緊張しすぎたから帰る』って
マックでメシ食って帰ったわ」
リトル・ヤナギヤ「オウ。。」
 
やなぎや「後日、そのコがうちの文化祭にくるって友達から聞いたの」
リトル・ヤナギヤ「仕切り直しってわけね!」
やなぎや「ところで私と同じ部活に、他校の男子と遊び回っているビッチがいたわ。
そのビッチとトラブッた男子生徒が、文化祭当日うちの部に押しかけてきたの。ビッチは『やなぎや、ごまかして!』と隠れてしまい、『ねえ、○○(ビッチ)どこ』とキレて詰め寄る男子生徒に、私は口を半開きにしてひたすら相手の目を見つめるという戦法に出、ついに追っ払った。後輩たちに、やなぎやさんカッコいい!って騒がれたものよ」
リトル・ヤナギヤ「で、あなたの目当ての彼は・・・」
やなぎや「来なかったわ」
リトル・ヤナギヤ「それから連絡は・・・」
やなぎや「ないわ。3年間女子だけで楽しく過ごしたわ」
リトル・ヤナギヤ「オーケー、そろそろ映画に戻りましょう?」
 
 
 
この映画は、ラストが感動的と高評価される一方で、「下ネタが多い」「子供のことより自分を優先する両親が信じられない」との理由で批判もされている。後者は、どうでもいいので割愛。
下ネタ問題について、ポーラの両親の赤裸々な会話と行為は、夫婦間の性を隠す傾向の強い日本人には受け入れがたいのだろう。特に子供ができると、パパとママの顔が優先され、子供の前で男女の関係を見せるのは気恥ずかしく、やがてタブーとなっていってしまう。
 
そんな日本人の、さらに真面目な人々からしてみれば、娘に夫婦のセックス問題を通訳させたり、隣の部屋で大音量で喘ぐなど言語同断。つまりは下ネタがキツイというより、蓋をしておくベき夫婦の性的な関係を堂々曝け出していることに対する拒否反応、嫌悪感なのだよ、わかったか。しかしもっと柔軟になった方が人生楽しいよ。
 
また子供たちにもそれぞれ、性を意識させる場面が訪れるが、子供期を脱出して青春期に向かうにあたり、これも避けては通れない扉。ガブリエルとの間に官能を覚えたことでポーラが初めての生理を経験するのは「性の目覚め」を意味し、歌の才能の開花とともに、ポーラが違う世界に飛び立つことを示す重要な題材だ。

これらを「下ネタ」と呼んで眉を顰めるのは、特に羞恥心の強い日本人特有の感覚なのではないかしら。他国で、不快感を伴う表現として捉えられているのか是非知りたいものだ。
 
 
◇何といっても、歌!!
劇中で取り上げられる歌はすべて、1970年代に多くのヒット曲を生んだフランスの歌手、ミシェル・サルドゥの楽曲だ。古き良きフランス歌謡曲という位置付けなのだろうか、ファビアンが、クラスの課題曲としてサルドゥの名を挙げると、生徒から「ダサい」という声が飛ぶ。現代の高校生から見れば古くてダサい、日本でいうなら昭和の歌謡曲のような扱いなのだろう。

ファビアンは「希望がないときは、ミシェル・サルドゥしかない」と反対の声を一蹴。
昔は華やかな仕事に就きながら現在は落ちぶれている男の、妙に説得力のある台詞だ。
 
生徒たちが発表会で合唱した「La Maladie d’amour(恋のやまい)」は非常に美しい曲で、エンディングでも流れるから是非余韻に浸って頂きたい。またこの曲は、私たちのジュリーこと沢田研二が「愛の出帆」という題名でカバーしたことでも有名。これも是非、聴いて頂きたい。ジュリー、最高。
 
サルドゥの歌は抒情的で郷愁を帯び素晴らしいが、どの楽曲も、ポーラの状況とマッチする形で使われているのがまた良い。ガブリエルとのデュエット曲「Je vais t’aimer(愛の叫び)」は、ポーラの性の目覚めとリンクしていたし、パリの試験会場で歌った「Je Vole(青春の翼)」は彼女の心境を完璧に代弁している。
 
 ねえ パパとママ 僕は行くよ 旅立つんだ 今夜
 逃げるんじゃない 飛び立つんだ
 
発表会で「愛の叫び」を披露するシーンでは、敢えて観客の耳を両親の耳にする演出が為された(つまりなにも聞こえない)。ポーラが「青春の翼」を歌い出しても、家族の反応は発表会のときと同様、音のない歌を見つめるのみだ。
 
同時に無音を経験した観客の心情は、ポーラを応援する気持ちからいつの間にか、娘の声を聴くことができない両親の方へと傾いている。
それゆえ、試験の場でポーラが咄嗟に行ったパフォーマンスは、両親を驚かせると同時に観客も驚かせることになる。無音はうまい演出だった。
 
場面が転じるとポーラが荷物を詰めており、試験に受かって家を出ていくことがわかる。これも『リトル・ダンサー』を思い出してしまうよね。

何度繰り返し同じような映画が作られようと、私は少年少女が田舎町から羽ばたく映画が好きなんだよ。
 
リトル・ヤナギヤ「あ、ジュリーの愛の出帆を聴いてくださいね。」
 
 

『血と砂』

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監督:岡本喜八 キャスト:三船敏郎、団令子、仲代達矢/1965年

 
期末終わったと思ったら、期初も忙しいんです。
私の仕事は専門職なので、よく客先を訪問したり、お仕事受けたら途中経過を説明しに行ったりします。先日ある仕事の途中で、こちらが作った叩き台を、顧客が上層部に見せて承認を得るということになりました。担当の人に「もしここで上から修正が入ったら、納期が遅れますか?」と訊かれ、「『なんじゃこりゃあ!』とちゃぶ台返しが入らなければ問題はありません」と答えました。

お客さん達は「はっはっはッ、ちゃぶ台返し」「卓袱台返しって不思議な言葉だよね」とか言ってるんですが、違うだろ、そこは。
「『なんじゃこりゃあ!』って松田優作ですか」だろ。ったくもー。
 
さて本日は、岡本喜八っつぁんの血と砂となります。『トワイライト』との差がすごいって?トップの三船敏郎が怖いって?知らんがね。
 
近しい人間から「そろそろ、ガッツリしたの読みたいんですけど」と言われた。なにそれ。メニューをリクエストするならともかく「なんかサッパリしたもの」とか抽象的なこと言われるのが一番困るのよねッ。それにしても、「ガッツリしたの」って、この映画じゃない気がするのよねッ。
 
 
◇あらすじッ
太平洋戦争末期。百戦錬磨の戦歴を誇る曹長の小杉三船敏郎は、軍楽隊の少年たちを最前線に送ろうとする師団司令部に歯向かったため、北支戦線への転属を命じられる。転属先の隊長佐久間大尉仲代達矢は小杉と少年たちに、要所となる砦「火葬場(ヤキバ)」の奪取を命じる。
 
昭和二十年夏、北支戦線。「支」は「支那」、中国のことですネ。うちのじいちゃんは中国のことをずっと「支那」と呼んでいました。1937年に始まった日中戦争は、途中から太平洋戦争の流れに組み込まれ、第二次世界大戦の一枠となる。アジアの片隅のそのまた北方の一戦場が本作の舞台。
あと、劇中で三船敏郎が言う「パーロ」は、敵軍である中国共産党八路軍のことですネ。
 
昭和二十年の夏と聞けば、ラストまでなんとなく展開が予測できるわけだが、映画は敗戦色とは真逆の賑やかな演奏で始まる。その後も二時間を通して映画を彩るのは、軍楽隊によるジャズや童謡の演奏だ。モノクロの画面がとっつきにくいという人でも、少年たちが荒野を軽快に行進しながら奏でる『聖者の行進』と、そこに合流する三船敏郎の笑顔に、抵抗感をなくすことだろう。最初に強調しておくけれど、めちゃめちゃ面白い映画なんです。
 
 
◇リズミカルな戦争映画
冒頭の演奏シーンに象徴される通り、全編、ユーモアとリズムに彩られている。
難関のヤキバ攻略には、軍楽隊の十三人と小杉の他、葬儀屋の持田一等兵、板前の犬山一等兵、通信兵の志賀一等兵らが加わるが、それぞれにクセが強く個性豊かな顔ぶれだ。銃弾の降り注ぐ緊迫した局面においてもブレない彼らのマイペースさが笑いを誘う。また、同じくどのような状況下でも、寄せ集め集団の能天気を笑顔ひとつでフッと流す、小杉曹長の豪胆ぶりにはうっとり。
 
理不尽な暴力や飢えなど、戦争映画につきものの描写はない。カメラは、小さな砦を奪おうとする者、奪い返そうとする者を映すのみで、この戦いの意義を誰かに語らせることもない。敵の八路軍についても、「奴らは死体を丁重に扱う」と礼節を知る民族として描いている。
 
ジャズを始めとする音楽は、BGMではなく、兵士たちの心情や状況を伝える表現手段として常に中心にある。敵前逃亡の罪で射殺された若い見習士官に送る葬送曲、ヤキバ奪取出発前の『夕焼け小焼け』、売春婦のお春さんを思った『お春さん』の歌。どれも言葉を必要としない、感情豊かな演奏だ。
小杉が軍楽隊のメンバーを担当する楽器の名で呼ぶのは、彼らを兵士ではなく「楽団員」として扱うためで、なんとか生き残らせてやりたいという意思が伝わってくる。
 
諸所の動作で刻まれるリズムが、ユーモアと悲哀を調和する重要な要素となっている。例えば、突撃訓練の「イチニサンシ、ニニサンシ、ダダダダ、ダダダダ!」といった独特のリズム。ヤキバで、小杉が元甲子園児原田に手榴弾を投げさせる時の、「いち、に、さん!」「レフト、センター、ライト!」のリズム。
 
また、葬儀屋持田が、小杉らが敵を一掃した後のヤキバに突撃する際のスローモーション。持田は、誰もいない宙に向かって無我夢中で銃剣を突き出し、ステップを踏む。本作でスローモーションが使用されたのは、多分ここだけではないだろうか、直前に楽隊のリーダーであった原田とトロンボーンが戦死したことを知る観客の目には、このスローテンポなステップが滑稽かつ切なく映る。
戦争映画でありながらリズミカルな映画となっていて、1965年の作品なのに今観ても古臭さを感じさせない。
 
 
◇萌えキャラおります。
小杉と、登場時は融通の利かないエリートである佐久間大尉の対立が、どこかすっとぼけたテイストで描かれるのもユーモラスだ。
転属早々、ある理由から小杉は佐久間を殴り拘束されるが、殴られた方と殴った方ともに少年たちの演奏を眺めつつ、「なんだあの曲は」「見習士官への追悼でありましょう」「それなら『海行かば』が決まりだ」「明るい曲でないと寂しすぎます。そうは思いませんか」「思わんね」とやり取りするのがなんとも微笑ましく。
今、君らは殴り殴られ、営倉に向かう途中なのだが・・・。先程の殴り合いは、二人にとって予想内の出来事であったのか、はたまた佐久間が天然ボケなのか。
 
この印象を裏切らず、佐久間大尉は始めこそ鼻持ちならない職業軍人だが、実は思慮深く、情を解する人物であることが徐々に明かされる。後日、小杉の暴力を不問に付すこととし、「軍法会議にかけなくていいのですか」と進言する部下に、
 
「なんだ?雨の音で聞こえん」
「全く、聞こえん」
 
と無表情に言うところがすごく好き。
戦争映画に付随しがちな「理不尽な上官」を排除した点が気持ちよい。
 
ってか、佐久間大尉、なんていい男だと思ったら、仲代達矢なのかあぁぁ。
 
めっちゃカッコいいいいのお!めっちゃ好み。
厳めし顔のくせに、つつき甲斐があるってところがもう最高。
 
(謎の童貞設定は一体なに!?)
 

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まあ素敵。
「指揮官は、進むときは先頭、退くときは最後尾!」のリズミカルな台詞も痺れる。
 
 
◇女性賛歌
もう一つ、この映画に華を添えるのが、お春さんを代表とする売春婦だ。
小杉を慕って、この戦線にやってきたお春さんは、恐らく中国人で現地徴用の売春婦なのだろう。薄い肢体やぺろりと出す舌が艶めかしい一方、小杉への一途な思いは純な少女のよう。慰安所の売春婦たちもみなあっけらかんと明るく、抱かれるか否か選択の主導権は彼女たちにある。ここには騙されて個室に閉じ込められ、一日何十人もの男に足を開くような娼婦の姿はない。
 
現実に、そういう場もあったし案外とこういう女たちもいたということなんだろう。少なくともこの映画は、悲惨な境遇の売春婦の姿を必要としない。「キスしてあげよっかー?」とじゃれたり、無防備に濡れた着物姿を晒す女たちは気ままに磊落だ。
小杉の「謹んで敬礼してから抱け」 の言葉といい、女たちへの感謝とリスペクトが捧げられている。
 
お春さんが相手する男たちが全員ヒゲ面の兵士なら、そこは抵抗感もあるのだろうが、何しろ全員未経験の少年音楽隊。お春さんに抱いてもらい、夢見心地になったり飛び跳ねたりするシーンは、呆れ笑いと同時に、彼らが生涯にこの一度しか女を抱けないことの悲しさに満ちている。
 
ここで監督は、少年らを見守る葬儀屋の持田(なぜかこいつも童貞設定)に、八路軍の旗は赤旗だが、こいつらが仰ぐ旗は軍旗ではなく、お春さんの赤い腰巻だ」と言わせる。
娼婦の下着を軍旗と見なすとは、当時は反発もあったのではないだろうか。だけどまあ、そんなもんだろう。老い若い関係なく、ちっぽけな一拠点のために死のうとするときに国を思う人間などいない。初めて抱いた女のために死ぬ。建前をとっぱらったら、人間の行動原理なんてそんなもの。誰が旗や知らない相手のために死ねるんだとの皮肉気なメッセージを、下ネタとユーモアの中に込めるセンスに脱帽。
 
モノクロ映画だけど、イロ(情婦)鮮やかなんだよね。
なんつって。 
 

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「小杉曹長大好き」お春さん。愛らしい。

 
終盤、次々と死んでいく少年たちの姿に、過剰な演出はなく愁嘆場も少ない。小杉曹長の死の場面はそれなりに丁寧ではあったが、今際の際の言葉がお春さんへの「ホントにありがとう!」であるのがまた、軍人の死に様らしくなくて良いよなあ。
 
巷で評価されているような、戦争アクションエンタテインメントというと、ちょっと違和感があるなと思っている。冒頭と同じ『聖者の行進』を演奏しながら、少年たちが死を待つラストシーン、音楽から徐々に「楽器」が欠け落ちていくさまは悲劇以外の何ものでもない。

ユーモア色が濃ければ濃いほど、その分悲哀が際立つのは当然のこと、お涙頂戴の演出を徹底して避けカラリと描きつつも、その明るさが逆に影を色濃くする、そんなコントラストを喜八っつぁんは狙ったのではないかと考える。
 
板前士官こと犬山(佐藤允)の最期の台詞「お前らはメシ抜きだ!」が笑いのダメ押しで。
皆死んだのに、まだ笑わせるのか!と。
 
ブログ初回の『軍旗はためく下に』は、迂闊にはお勧めしにくいけれど、この映画は全力でお勧めする。
 

『トワイライト 初恋』

 
『トワイライト』(Twilight):
ステファニー・メイヤー著のティーン向け小説シリーズ。雨と霧の町、アメリワシントン州フォークスへ引っ越してきた少女ベラと、そこで彼女が出会った完璧な容姿を持つヴァンパイア・エドワードとの許されない恋を描く。(Wikipedia
 
私たちの世代では小中学校時代、本好きの女の子は「ティーンズ小説」の道を通ったものです。多くは数年で卒業しますが、抜け出せない子はそのまま男子に大いなる幻想を抱くか、オタクの道へ進んだりします。
 
高校生のとき、同じクラスに松井さんというティーンズ小説大好き&漫画オタクがいて、クラスのヒエラルキーなどどこ吹く風、授業中にせっせと自作の漫画を描いていました。
ある日何気なく見せてもらったノートには、男のキャラ同士のどえりゃあシーンが描かれていて言葉を失ったなあ。漫画の内容より、「松井さん、こんなこと考えているんだ」とやたら大人に見えて衝撃だった。
 
その後、松井さんを意識したのはスキー合宿のとき。結構な斜面を蛇行して滑るコースを、クラスでただ一人、真っ直ぐ降りてくるんですよ、ものすごいスピードで。下で見ていたクラスメイトたちがざわざわして、誰ともなく「直滑降」「直滑降」と囁き出し、以後「直滑降の松井」と呼ばれるようになりました。高校生活を思い出すと、あのどえらい漫画と松井さんの直滑降する姿が脳裏に浮かぶのです。
 
そんな彼女に思いを馳せつつ、本日はアメリカのティーンズ小説を映画化した『トワイライト 初恋』をご紹介。原作の小説は以前、親しい友人のリエコに借りたのだが、あまりにしんどかったため、パラパラとしか読んでません。今明かす真実、すまぬリエコ。映画化されるので観に行こう!と言われて、慄きつつ映画館に行ったら、意外に面白かったんだ。
 
1. 『トワイライト 初恋』(2008年)
2. 『ニュームーン/トワイライト・サーガ』(2009年)
3. 『エクリプス/トワイライト・サーガ』(2010年)
4. 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part1』(2011年)
5. 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2』(2012年)
 
全部で5作もあります。
 
 
ティーンの夢は全世界共通
主人公のベラは人付き合いが苦手で自分の容姿にすら無頓着だが、生来の美しさで転校初日に注目の的となる。校内で異彩を放つ「カレン家」の一人エドワードも、ベラに興味を示す・・・。
こういったベタな恋愛小説は日本でのみ量産されているのかを思ったら、国境は関係ないのだなと痛感。それにしても、クリステン・スチュワートが可愛すぎる。青春の只中にわざわざどんよりしたド田舎に引っ越してきて、ボロい中古トラックをプレゼントされて喜ぶこんな美しい高校生がいるか。 
 

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(C)2008 SUMMIT ENTERTAINMENT, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 
ところで実は、エドワードは吸血鬼で、カレン家もみんな吸血鬼だ。ネタバレが唐突でしたか。あ、あらすじに書いてありますね。学校では謎めいた美しい集団という扱いだが、全員ともかくメイクが白すぎるので、人外のものであることは一目瞭然。ベラの目が彼らに釘付けになる初登場シーンでは、美しいより何より「白っ」と思ったし、監督も「うーん、衣装は白にしなくて良かったかも」と思ったかも。
 
カレン家で一際ゴージャスなエドワード役を務めたのはロバート・パティンソン。日本の婦女子から見ると少々濃いめで、イメージと違うとかイケメンじゃないなどの意見はあろうが、クリステン・スチュワートロバート・パティンソンのカメラ映りというのか、禁断の恋に悩む2人が収まっている画面には文句のつけようがない。
 
個人的にエドワードはキモいが、好みのフィルターをかけなければ、霧に烟る森や山の背景も相まって、人間離れした凄みが表現されているように思う。ただし1作目まで。シリーズを重ねるごとにパティンソンの綺麗な画は減り、特に3作目の映りはいまいち。
 

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なんだろう、イマイチじゃない?髪型のせい?
 
主役の二人は、現実でも恋人同士となったらしい。ここからはリエコに聞いた話だが、ロバート・パティンソンは極度の風呂嫌いで、一週間だか二週間に一度しかシャワーを浴びないので、臭くて辟易したクリステン・スチュワートが別れを告げたんだそうだ。ホント裏取ってないから。自己責任でよろしく。
 
 
◇玉ねぎキャッチボール
初対面でエドワードに避けられたと感じて傷つくベラ。しかし数日間の欠席後、学校にやってきたエドワードは一転してベラに近づく(欠席している間、エドワードは心を整えていた)
理科の授業かなんかで、玉ねぎの根っこかなんかを代わる代わる顕微鏡で覗きながら、
 
初期よ(たまねぎ)。なぜ休んでいたの」
ああ、初期だね。ちょっと野暮用でね」
 
中期だ。ところで雨は好きかい」
本当に中期か確かめていい?雨は嫌いよ」
 
などと、一つの顕微鏡を押しやりつつ、根っこが何期かというどうでもいい話に、私的な会話を折り混ぜていく。顕微鏡をボールに見立てた、好意と興味のキャッチボール。この、授業中にぎこちなく近づいていく感じがいいよね。それに、ベラの顕微鏡の覗き方がおしゃれだよ。こんなセクシーに玉ねぎの根っこを覗く高校生はいない。トワイライト全五作を通して、一番官能的なのは、この玉ねぎキャッチボールシーンに決定しました。ベスト決まるの、はや。
 
さらに、ティーンのみならず婦女子全般をきゃあきゃあ言わせるのは、エドワードが正体のバレることも顧みず、危険に晒されたベラを救うシーンであろう。学校の駐車場で離れた場所からチラチラと視線を交わす二人。運転を誤った車がベラに向かって暴走する。いつの間にかベラの側にいたエドワードはあろうことか、素手で暴走車を止める。ここはいい。
ベラからは、吸血鬼のエドワードには耐えがたい甘美な香りが漂っており、また、人の心を読む能力を持つエドワードが、唯一ベラの心だけは読むことができない。女性というものは、とかく特別感を重視するので(多分)、ここも全世界婦女子共通のきゃあきゃあポイントだ。
 
 
エドワードがtoo much
しかし、恋愛的ワクワクのピークは暴走車を手で止めるシーンまでである。始まってから25分。ピーク迎えるの、はや。恋愛ドラマで一番楽しいのは男女がくっつくまでであるのは言わずもがな、エドワードが理性と本能の間で苦悩したり、ベラが「ゴージャスな彼が私なんかを気にしてるみたい?でも、好かれていると思えば嫌われているようにも感じる・・・どっちが本心なの?それに彼、なんかヘン。瞬間移動するしワゴン車を素手で止めた。彼って・・・何者?」と悩んでいるあたりが華。少女漫画風に書いてみましたが、私が読んだ少女漫画は、もはや古典なので、その点お許し下さい。
 
開き直って感情全開になってからのエドワードの、ベラに対する愛情と庇護はtoo muchだ。寝ているときくらい一人にして。ベラのパパに対して「ベラは僕が守ります」って、何からやの。ベラはその時点ではまだ何も危険に晒されてはおらず、リスクと言えばボロのトラックで学校に通っていることくらいだ。吸血鬼に守ってもらわなくても、自分で回避できる日常のリスク。しかし、君を守ると言っておけば、全世界のティーンは喜ぶといわんばかりの作者の意図を汲んでか、その後も守る守るといった台詞はやたらと多い。
 
はしゃいだエドワードは、ベラを家族に紹介するため自宅に招く。そこで、自分の部屋の窓からベラを背負って飛び出し、枝から枝へと飛び移り、「クモザルだぞー」と言いながら、言葉通り蜘蛛スタイルでサササーっと木の上へ登っていく。笑っていいのか、エドワードのはしゃぎっぷりを暖かく見守るべきか迷う。
 
余談だが、ちょうどここらへんを観ていたときに、夫が帰ってきた。おかえりぃ。
 
夫「暖房つけてるの?暑くない?」
私「ちょっとエドワードのクモザルがサムすぎて、私の手足も冷えてきちゃっ」
「消すぞ」
 
暖房を、消されてしまいました。
 
サカサカと木を登るエドワードさえ視界に入れなければ、針葉樹の頂点から見下ろすフォークスの自然は絶景だ。それまでの、雨と霧で湿った森の光景には、2人の戸惑いや複雑な状況が反映されていたが、針葉樹の天辺からの「上からショット」(※)では、解放感、恋愛絶頂期の悦びが代弁されている。
 
※「上からショット」…もっとちゃんとした言い方があるはず。
 
 
◇野球がダイナミック
さて、玉ねぎに次ぐ見所は、どうにかカレン家に受け入れられたベラも参加し、皆で野球をするシーンだ。野球は、雷が鳴る日にしかできない一家の娯楽(なぜ雷の日限定かは観て下さい)。通常の何倍ものフィールドを使って球をかっ飛ばし、それをキャッチしに森に突っ込むダイナミックな映像は単純に楽しい。というか、顕微鏡のキャッチボールといい、やたら野球を盛り込むじゃない?監督は野球好きなのかな。
 
そして、この映画の醍醐味は、多数登場する吸血鬼あるいは人狼たちの中から、お気に入りのキャラクターを見つけることにもあると思うが、私の推しは何といっても、カレン家のアリス。
 

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アリスかわいい~。ピッチャーを務めるアリスもかわいい。
 
と、遊びに興じていたら、霧の中から余所者の吸血鬼三人が現れ、場は一気に緊張する。カレン一家は、ベラを背後に隠して人間の存在を誤魔化すが、事なきを得たとほっとした瞬間、風がベラの髪を舞い上げて、その匂いが彼らの鼻に届いてしまう・・・。
 
ベラとエドワードの幸福な時間を象徴した森での「上からショット」に対し、ここでは三人の吸血鬼の恐ろしさや力を示す、「下からショット」が採用される(※これもきっと他の言い方が)。緊迫した状況への切り替えや、ベラの香りを敵に届けてしまう風の場面など、随所に動きがあって観ていて飽きない。
 
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下からショット。
 
2作目以降は話が複雑化するためか(いや大して複雑ではないのだけど)、1のように贅沢に遊びに時間を割くことも減り、忙しなくストーリーを追うこととなる。そのストーリーは予想を裏切らず至極王道、ベラが吸血鬼になるならないで揉めたり、ベラのためにエドワードが姿を消したり、吸血鬼の天敵、人狼の少年が横恋慕してきたり、そんなんの繰り返しだったと思う。もっとカレン家の他のメンバーに焦点当てたら良かったけどな。ベラとエドワードより、アリスとジャスパーの馴れ初めが見たい。
 
ベラが最後吸血鬼になるのかは・・・忘れた。
 

『寄生獣』『寄生獣 完結編』

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監督:山崎貴 キャスト:染谷将太深津絵里/2014年、2015年

 
先日、夫が「はい、おみやげ!」となんかくれたのですが、またわらび餅でした。しょっちゅう、わらび餅を買ってくるのです。本人は自覚がないらしく、思わずまたかと呟いたら、「久々だろ!?」と憤慨していました。こちらも慌てて、「わらび餅、大好き」と、「ハズキルーペ、大好き」っぽく取り繕ったのですが、「うるせえ」と抓られた(ハズキルーペのコマーシャルって関東だけじゃないよね??)。
 
でもねー、なんなら二週間に一度くらい買ってくるんじゃない?他にも、葛切りとかあんみつとか、透明でつるつるしたもんばっか買ってくる。そんなに頻繁に買ってきてない!と言い張るけど、ほらそろそろ記憶力も脳もさ、退化とか。。。
 
ほ、本日は脳つながりで『寄生獣』の感想を書きます!
 
かれこれ20年の付き合いになる友達から、昔お勧めと貸してもらった漫画が『寄生獣』でした。興味が湧かず積んどいたら怒られ、読んでみたら夢中になりました(そのことを今でも言われる)。ただ、記憶がないです。なので、原作未読と同じ状態になります。
 
◇あらすじ
ある日、人間の脳を乗っ取って肉体を操り、人間を捕食する「パラサイト」と呼ばれる寄生生物が出現。平凡な高校生活を送っていた泉新一も、一匹のパラサイトに襲われる。しかし、新一の脳を奪うことに失敗したパラサイトは、そのまま右腕に寄生し、自らを「ミギー」と名乗って新一と共生することに。パラサイトと人間とが殺し合う事態が発生。新一とミギーもその争いに巻き込まれていく。(映画.com)
 
新一がミギーとの共同生活に四苦八苦する一方で、市長の広川北村一輝ら一部寄生生物たちは、市役所を根城にコロニーを形成し、餌となる人間の供給システムの構築に動いていた。化学教師として新一の学校に入り込んだ田宮良子深津絵里は、コロニーのリーダーながら異質な考えの持ち主で、人間との「共存」つまり人間を捕食せずに生き延びる方法を模索していた。彼女は新一に興味を示し、度々接触を試みる。
 
ここに刑事國村隼や記者倉森大森南朋、新一の母余貴美子、同級生の里美橋本愛らが絡み、お母さんが死んだり同級生に慰められたりと、ドラマティックな展開が絡む仕様となっております。
なお、寄生獣』『寄生獣 完結編』に分かれていて、約4時間の長丁場です。知ってたら観始めなかったのに。
 
◇ちょっと褒めます
私はCGなどの映像技術に詳しくないが、新一の右手がミギーになったり、この二人が戦う何体かの寄生生物の頭がカパッと割れる映像は楽しかった。特に東出昌大演じる転入生の島田が、正体がばれて美術室で生徒たちを殺傷するシーンは、(そこまでが退屈だったこともあり)結構な迫力だ。酸性の薬品を浴びせられて制御不能になり、ぐにゃぐにゃと形を変えながら暴れる場面は見応えがある。
 

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どう頑張っても高校生役はキツかった東出氏

しかし、この寄生生物が割と脆い。負傷すれば再生できないし、頭がカパッと割れた後に繰り出される触手のような凶器は、そのスピードと殺傷力は脅威だが、それ以外は何ら超常的な力を持たない。また、個体差はあるものの、どうやら凶器が伸びる距離にも限界はある。

 
なので、校内を暴れ回る東出を、新一が離れたビルから弓で射たのは理に敵った攻撃方法だったし、あのシーン、カッコよかったよね。「なんで弓やねん」と突っ込んでいる人もいるようだけど、いつブンと伸びてくるかわからん凶器を回避するには、きっと遠隔攻撃がベストだ。よく覚えておいて、奴らの攻撃の間合いに入ってはいけない、逆に言えば距離さえ保てば倒せるからね。
 
◇でもさ
「アイディア次第で倒せない敵ではない」という点は、人間との戦いを面白く描ける良い材料だと思うのだが、残念ながら、それを活かした展開はほぼない。
 
人間側が反撃に転じる『完結編』では、いかにも物々しい特殊部隊が登場するが、彼らの採った方法は、市民を集めて一人ずつスキャナの前を通過させ、寄生生物と判明したら「こちらへどうぞ」とバスで囲い込んだ空間に誘導、一匹ずつ駆除するというもの。
 
日が暮れる。
 
また「固定されたスキャナの前を通らせないとわからない」非効率的な検知システムなので、パニックになった人々が逃げ出した途端に機能しなくなってしまう。そして危険を察知した寄生生物が暴れ出し、隊員の一人が身体を分断される。 
言ったよね、さっき、「間合いに入っちゃだめ」って言ったよねえええ。
 
固定式スキャナの無力化を知った特殊部隊隊長豊原功補「移動式スキャナを用意しろ」と命令。あ、移動式スキャナなんてあるんだ・・・
 
 
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お前かよ。
 
なぜか寄生された人間を見破ることができる、新井浩文容疑者×たった一人が、特殊部隊の秘密兵器、名付けて「移動式スキャナ」である。
こいつ自体信用できない変態野郎なのに(いや、劇中の話よ)、その「この人間は寄生生物だ」との言だけを頼りに街中で銃をぶっ放しまくる、強硬手段と呼んでは褒めすぎな行き当たりばったり作戦。特殊部隊の使い方間違えてるでえ。
 
なんかもっと、ないの?彼ら、人間を食べたいわけじゃない?それに、できれば周囲に正体バレたくないわけじゃない?ここなら餌に困らないと誘い込むような罠かけて、どっか村でも一箇所に集めて、爆撃するとかさ。実行部隊の前に、ブレーンが必要だよ・・・。
 
それと、染谷将太が、たまになぜか髪を耳にかけるんだが、女の子にしか見えないのでやめて欲しかったです。
 
◇さらにけなします
序盤の中華屋や東出IN美術室のシーンなどは好きなのだが、それは他が退屈なせいで、「あ、やっと画面が動くぅ」といった息抜きの意味でもあるよね。
 
何が退屈って、深津絵里演じる田宮良子の見た目、スローな喋りと動きが。やたら出番が多く(長いからか)、映る度にゆっくりと喋ってゆっくりと動く。緩慢な上、終わってみれば大したことを言っていないので辛い。私の周囲では深津絵里の評価は高いが、個人的にはそれほど好きな女優ではない。化学教師として登場するシーンでは、生徒たちが「マジかよ」「すげえキレイ」とざわめくのだが、そうけ?高校生が色めき立つほど綺麗け?あそこはむしろ、びっくりするほど酷い映りだったと思うが。
 
またもっと退屈なのが、市役所コロニーの面々の、結論が出ない会話シーンだ。誰かが「ミギーと泉新一は危険だ」と言い、田宮が「実験のため生かしておく」という。この会話が、何回も繰り返される。後半中盤になっても、まだやってる!どっちか結論出して、この会話をやめてくれ。
 
そもそも田宮先生の実験好きは異常だ。新一らはサンプル、出産と子育ても実験だというが、要は単なる個人的な興味に過ぎない。コロニーへの貢献に結びついていないしね。だれかそろそろ進言しないかな、新一とミギーとっつかまえて解剖した方がよっぽど実験だぜって。脅威は排除できるし特殊事例のデータは手に入るしwin-winだぜって。
 
また田宮はコロニーのリーダーでありながら、「実験」に感けるあまり、メンバーを掌握できていない。田宮が目指すのは、人間以外のものを摂取して生きること→人間との共存だ。だが、ラスボスとなる後藤浅野忠信は、「この種を食い殺せ」言いながら、ナイフとフォークで人間の肉を食べとる。忠信め、『ハンニバル』のマッツ・ミケルセンを意識しとるな。
市長の広川は、後に判明するある理由から、人間は滅びるべきと思っている。
十人十色すぎじゃん。個性は尊重するが、事情が事情なんで、ある程度は同じ絵が描けていないと内部崩壊が起こると思う。
 
◇みんな語り部
監督は「人間とはなにか」を描き出したかったらしいが、4時間をかけた割には、
 
・人間は罪深い存在である=豚、鳥、魚など他の種を犠牲にして生きている&ゴミを垂れ流し森林を焼き、環境を破壊している
・しかし偉大な存在でもある=母性、他者への愛情を持つ
 
と、古今東西語りつくされてきた「人間」をなぞっただけであった。もうよくない?人間の罪深さを「他の動植物を食べる」行為で、人間の素晴らしさを「感情を持つ」ことで示す、その表現方法に飽きた。なんか別の方法を考えてくれ。
 
さらにキーパーソンたる実験大好き田宮先生が出した結論はこれだ。
 
「人間に比べれば、私たちはか弱い存在だ。いじめるな」
「私達と人間は家族だ、私達は人間の子供だ・・・」
 
ごめんなさい、ちょっと意味がもう。
あと、全体的に音楽がうるさいですよね。
 
途中から田宮は「人間を甘く見るな。追い詰められたり、集合体になった人間は恐ろしい」と人間を過大評価しだす。彼女の言葉を裏付けるものとして用意されたのが、特殊部隊による殲滅作戦と、田宮に利用された記者倉森が彼女の赤ん坊を誘拐するシーンだ。殲滅作戦は先ほども書いた通り日が暮れそうで、とても集団の恐ろしさを見せつけるようなものではなかったし、記者が田宮の赤ん坊を人質に取り、公園に呼び出すシーンの、わざとらしさと間延び具合がすごい。
 
公園に行ってみたら、記者はめちゃめちゃ姿を晒している上に丸腰だった。田宮にとってはこの段階で、人目を避けつつ赤ん坊を取り戻すことなど屁でもない。しかし相変わらずスローな喋りと歩きで記者に向き合う。そのうち警察や新一が駆けつけ、衆目に晒された状況となってしまう。このわざとらしい舞台作りが鬱陶しいのである。
 
赤ん坊を抱えて喚く記者に、冷静に対応する田宮。なるほどなるほど、田宮にしても、騙した記者に対し罪悪の気持ちがあるのかもしれないし、彼の「父性」を尊重して、殺さずに済む方法を探っているのかもしれない・・・。
 
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ブッスー。
 
殺すんだ。
だったら、最初に殺しておかんかい。
 
田宮の正体を見た警察は一斉に発砲。赤ん坊、赤ん坊いるよー!?状況判断して!お前らは韓国警察か。
そんな状況なのに、田宮がまた語り始める。音楽うるさい。言葉が耳に入ってこない。
 
場面転換し、今度は特殊部隊に囲まれた市長広川が語り演説を始める。
「殺人よりもゴミの垂れ流しの方が重罪だ!」。
あ、そっち派なの?
つまり環境破壊を憂いて寄生生物側についた、覚悟を持った人間、それが広川だった。
しかしここまで広川は、意思を示す言動一つ見せたわけではなく、「田宮さんが反対している」「田宮さんのおかげです」と田宮に阿る、
まさに田宮のオンブズマン
 
突然「ゴミの垂れ流しが」などと言われても、「あ、それはいかほど前から・・・?」と戸惑うしか反応のしようがない。演説ぶったものの、特殊部隊に速攻殺される。なお、殺してみたら彼は寄生されていない人間だった(じゃあ、なんでミギーがそれを見破れなかったんでしょうかー)。
 
死んだ広川を見て、彼が寄生生物だと嘘をついたスキャナ新井浩文は「そいつ、どう見ても人間じゃん」と大爆笑。
 
???お前は何がしたいわけ?
 
広川が死ぬと、特殊部隊の前にラスボス後藤こと浅野忠信が現れ、「この種を食い殺せ」。あ、あーたはそっち派だったっけ。共存だの、環境破壊が罪深いだの、全滅しろだのもう色々言われて、かなわんわ・・・。
 
一旦、公園の深津ちゃんに戻ろう。死にかけてるし。
まだ語ってる!さっさと死ね。音楽うるせえ。
 
田宮は実験結果も発表せず、赤ん坊を新一に託して死んでしまう。
あとはもうどうでもいい。ラスボス忠信との戦いは、なぜかゴミ集積場に場を移し、バイオハザードのような雰囲気。今度は忠信がなんか語ってる。どいつもこいつもよく語るな。音楽うるせぇ。忠信が何言ってるか全然頭に入ってこない。
 
忠信をあっさり倒し、平和な日常を謳歌する新一と里美。しかしみんな忘れてただろうが、厄介な奴が残っていた。
そう、移動式スキャナ新井だ。
彼は里美を羽交い絞めにして攫っていってしまう。めちゃめちゃ人通りの多い繁華街で。もう監督も長丁場すぎて、どうでもよくなったらしい。
 
追いついた新一に、スキャナもまた、なんやかんやと自分の種としての正当性を語りだす。
みんな、新一への承認欲求が強すぎ。
新一の承認キャパ超えてる。
 
スキャナが最後どうなったか、本当に忘れた。
 
この映画観て、「やっぱりピエール瀧の顔って悪辣だよね」「東出の高校生役はつらい」「染谷、髪を耳にかけるな」「阿部サダヲってどこに出てるのかと思ったらミギーの声だったん!?」など語るのはいいけど、「人間て罪深い・・・」「忠信(あるいはスキャナ新井)の言うことにも一理あるよ」とか言い出したらアホだと思うよ。
 
あと、音楽うるさい。

『最初に父が殺された』

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監督:ジョンジョリーナ・ジョリー キャスト:スレイ・モック・サリウム、ポーン・コンペーク/2017年
 
◇あらすじ
1970年代、内戦下のプノンペン。少女ルオンは政府の役人である父や家族に囲まれて裕福な暮らしを送っていたが、反米を掲げるクメール・ルージュの侵攻により、わずかな荷物だけを持ってプノンペンを追われることに。(映画.com)
 
忙しくて泣きそうです。しかし以前、実弟に「すぐ忙しいっていう奴ってアレよね」と鼻で笑われたので、耐えております。そんな中でも更新する私をほめて。でも、前にインスタに書いた映画なのは許して。
 
私の友達は愉快な人が多いですが、中でもピカイチ面白いつっちーが以前『最初に父が殺された』の感想を読んで、「まず題名がカッコいいな。『風呂場でイチャイチャしてるやつらが最初に殺された』じゃ締まらないもんな」と言っていました。それは13日の金曜日だね。好きだな、いつも、君の発想。
 
◇ジョンジョリーナ
ご存知の通り、私はジョンジョリーナが好きではない。ご存知じゃない。すみません。
特に
「ウッハー!」系の映画だと顔がうるさいのであまり観ないのだが、低評価の主な原因は彼女が監督した駄作『不屈の男 アンブロークン』のせいだ。内容を簡単に言うと、ジョンジョリーナとコーエン兄弟が作った、第二次大戦中に日本軍にとっ掴まってイビられながらも頑張ったアメリカ軍パイロットの話。
 
ジョンジョリーナは自分のライフワークの延長で映画を撮っていると理解している。初監督作品の『最愛の大地』は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を舞台に、戦争の前では愛すら無力であるというテーマを淡々と描いてみせた、なかなかの良作だった。ジョンジョリーナの経験が生きた映画だったし、これは割と好きだった。彼女が監督として評価されるとしたら、自分の興味や熱意でテーマを掘り下げる、努力型、研究型としてではないでしょうか。 
 

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セルビア人の男とムスリム系の女の悲劇的な恋愛を描いた『最愛の大地』。レイプシーンが結構キツイ。
 
しかし、『不屈の男』はスシ・ゲイシャ・フジヤマレベルの浅い日本観でお撮りになったため、内容がぺらぺらだ。戦争映画は敵側もきちんと描いてもらわないと!鼻息を荒くしている、とある日本婦女子の怒りを買った。また、ねちねち虐待を繰り返す日本軍伍長を演じたのは何故かミュージシャンのMIYAVIで、彼に遺恨はないが、あまりになまっちろい上、何故そんな絶大な権限を持っているのかがわからない点も消化不良。さらに申し訳程度にその伍長もまた人間なんだよ的な演出を入れるなど、映画を観て反感を覚えるだろう日本人側にやっすい配慮見せやがって、気分が悪いわ!やるなら徹底的にやれ。平等な戦争映画なんてあるはずないんだから。
 
念を押しておくけれど、日本人だからつまらないと感じるわけではなく、たぶん全世界の映画好きが「退屈だわあ」と感じると思う、そういうこと。
この映画でジョンジョリーナとコーエン兄弟は日本に全く興味がありませんと公言してみせた。別に興味もってほしい訳ではないのだが、ならあんな映画も撮らないでほしい。しかし彼女がもし日本人の養子を迎えたならば、風向きが変わったと判断してオーケーです。
ほら、ライフワークの延長だから。
 
カンボジア人の養子は迎えているので、『不屈の男』の何十倍もの誠意をもって、『最初に父が殺された』を撮ったことは明白なのです。
 
◇本題だよ
カンボジアでのポル・ポト政権による大虐殺について、私が浅い知識を披露します。
アメリカがベトナム戦争に敗北して撤退すると、カンボジアではアメリカの後見を受けていたロン・ノル政権が崩壊。首都プノンペンに、反ロン・ノル政権の共産主義組織クメール・ルージュが乗り込んでくる。このクメール・ルージュ(KR)の最高指導者が悪名高いポル・ポトですね。
 
KRは中国に支援を受けていたため、ソ連との関係が深い隣国ベトナムと対立する立場を取り、また極端な原始共産主義を掲げた。これは一切の私財と身分を捨てて得たものは平等に分け合う、生計の道は労働のみとし、宗教や学問、技術など文化的なものは全て否定するというもの。僧侶や知識人、技術者、政府の職員などは排除の対象であり、彼らが多く居住している都市部から人々を農村に移動させ、過酷な労働を強いた上、虐殺した。
本作では、父親が政府高官である裕福な家族が都市部から追われ、7歳の娘が生き残るまでの過程を描いている。
 
この映画のポイントは、言うまでもないのだが、少女の目線を徹底しているということ。子供は、理解のできない状況になると押し黙る。理不尽を感じても、その原因もわからないし抵抗する術を思いつかないためだ。主人公のルオンは勇敢で賢い子だが、ほとんど言葉を発さないのは子供の本能のためだろう。そのため、劇中ではセリフや音楽が極力排除されており、カメラは周囲の状況とルオンの表情のみを追う。
過酷な状況が無表情と色の少ない画像で表現されるのに対し、ルオンが時々見る夢は色彩豊かで、過去と現在の境遇の落差を表す。
 
ジョンジョリーナが撮りたかったのは、子供がどれだけ柔軟に周囲の環境に順応していくかと、それゆえの恐ろしさ。
最後の望みの綱である姉の行方が分からなくなってからは、無表情のルオンに初めて表情が生まれる。それはルオンから自発的に生まれたものではない、KRに刷り込まれたベトナムを倒せ!の精神によるもので、明らかに意志を持った顔つきで軍事訓練に励むようになる。
 
彼女が一介の少女から兵士になりかけていたことは、カンボジアに侵攻し結果的にルオンたちを解放したベトナム軍の兵士を激しく睨む視線に表れる。だが、その後に森の中で、ルオンたちが以前埋めた地雷に民衆が次々吹き飛ばされる凄惨な光景を目の当たりにし、こちら側に引き戻される。
 
『ジョニー・マッド・ドッグ』の子供達は「完成」してしまっていて、彼らが戻れないことの悲劇を描いていた。それに対してルオンは未完成の状態で引き返すことができた、そういう意味で『ジョニー・マッド・ドッグ』や『最愛の大地』とは異なるハッピーエンドだった。子供の思考、反応をよく知るジョンジョリーナが扱う作品として良いチョイスだったなと思う。
 
アレ?なんだよ、ジョンジョリーナ。反日の映画も撮り直せ!
 
気が付けば半分は『不屈の男』への文句になりました。
誰か、ジョンジョリーナの女優としての魅力を教えてください。
よい週末を!

『フロム・ヘル』

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監督:アルバート・ヒューズ、アレン・ヒューズ キャスト:ジョニー・デップヘザー・グラハム/2001年

先日娘の小学校の授業参観がありました。毎回その後に保護者会、さらに学童の集まりがありますが、私は参観が終わったら帰る派です(派といっても一人)。娘に「お母さんは何で保護者会出ないの?」と訊かれ、「どうせ無益な話しかしないっしょ?」と言ったら夫にはたかれました。

保護者会をサボるのには崇高なポリシーがありますが、しかしついでに、役員を決める学童の集まりもサボるのは良くありません。バチが当たりました。

学童の父母会長のなんとかヒラさんから電話があり、「不在の方々から役員のくじ引きをさせて頂き、あなたが当たりました、パンパカパーン!おめでとう!」と言われました。

「マジですか、女王蜂のチェキ撮影会には外れたのに?私が当てた役はなんでしょうか」
「『れんきょう』です」
『れんきょう』?蓮舫じゃなくて?
「はい、『れんきょう』です」
「それはどんな役でしょう?」
「実は私も『れんきょう』についてはよく分かっていません」

いや、困る。秘密組織なの?何の略かだけでも教えて。

「全部で七人で、代表を決める必要があります」
「マジですか、れんきょうが何ものかも分かってないのに、代表ですか」
「最初にやなぎやさんにお電話していますので、この場で引き受けてくださればOKですし、ダメとなると次の方に回ります」
不幸の手紙みたいですね」
「どうしましょうか、代表はいかがですか?」

なんとかヒラさん、やり手?私の性格を見抜いている?そんなわけで、やなぎやは謎の組織「れんきょう」の代表となりました。連絡なんとか協議会とかの略らしい。仕事は未だ不明です。

謎の組織繋がりで、本日は『フロム・ヘル』です。
世の女性から支持を得た『シザーハンズ』にはそれほど感銘を受けず、それでも一時期はジョニー・デップの映画を沢山観ていました。中でも『ブレイブ』(1997年)、『スリーピー・ホロウ』(1999年)、『ナインスゲート』(1999年)は良いですが、『フロム・ヘル』(2001年)がピカイチ好き。ネタバレだよ。

 

◇あらすじ

1888年、ロンドンのイースト・エンド。娼婦の連続殺人事件が発生し、スコットランドヤードのアバーライン警部(ジョニー・デップ)は死体に残された手がかりや、王室の侍医ウィリアム卿(イアン・ホルム)の助言を頼りに犯人に迫る。また、捜査に協力する娼婦のメアリー・ケリー(ヘザー・グラハム)と互いに惹かれ合う。

未解決の『切り裂きジャック事件』には様々な犯人説が唱えられているが、中でもマニアックな英国王族犯人説をベースとして独自解釈を加えたストーリーになっている。

事の始まりは、娼婦の一人アンが、富豪のアルバートに見初められて結婚し、赤ん坊を産んだことだった。ある日メアリー・ケリーらの目の前で、アンとアルバートは見知らぬ男達に連れ去られ、赤ん坊だけが残される。直後から娼婦を狙った連続殺人事件が起こり、捜査を担当するアバーライン警部は、メアリー・ケリーの話から、二人を連れ去った男達とアルバートの素性が鍵であると睨む。

 

アブサン中毒ジョニデ最高

ジョニデ演じるアバーライン警部は、妻子を失った失意から、私生活ではアヘン窟で沈んでいる。捜査のためにアヘン窟に入り浸れないときは、代わりに自宅でアブサンを摂取する中毒者である。

ゴミ溜めと称されるイーストエンドの薄暗い映像を基礎に、時に背景の空を真っ赤に染めたりとおどろおどろしい雰囲気が協調されるが、ぼんやりした緑色がまた特徴的だ。地獄よりやってくる馬車のランプが不吉な緑なら、アブサンの色も酩酊状態のアバーラインが見る予知夢も緑色である。

説明不要だろうが、アブサンは幻覚症状を引き起こす上、強い中毒性があるとして製造・販売が中止された酒。伝統的な飲み方の一つが、劇中でもアバーラインが行っているスタイルだ。グラスに渡したアブサンスプーンの上に角砂糖を乗せ、アブサンを沁み込ませて火をつける。最後は角砂糖を落として飲むのだが、液体の緑といいアブサンが燃えるときの青い炎といい、なんとも幻想的。

二十代の頃、私はオーセンティックなバーでバイトをしており、たまに「アブサンある?」なんて客もいた。代わりにアブサンの後継者『ペルノー』を勧めるのが定石であったけど(これは透明だけど水を入れると白濁するの)。
強烈な酒なのに、アバーラインはそこに「追いアヘン」し、むちゃくちゃな飲み方をする。彼は死にたいのですな。

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風呂につかりつつ、追いアヘンするアバーライン警部

 

この映画でのジョニデの何が好きって、人間味のない世捨て人である点だ。スリーピー・ホロウでのイカボットは同じく淡々とした捜査官でありつつ人間らしい人であったが、本作のアバーラインは、世間にも他人にも興味がなく乾いている。

例えば警視総監と対話するシーンでは、総監の「犯人は商人か屠畜人だろう」との暴言に対して眉一つ動かさず「色々な可能性を探っています」と答え、「証拠もなく決めつけてはいかんぞ」というブーメラン発言(お前がまず証拠なく決めつけている)には微苦笑で対応。

私の、職場の上の人間に対する態度とそっくり同じなので、親近感を覚える。

もちろんこれは、アバーラインが総監に1%の期待もしていないからだ。

部下のゴッドリー巡査部長はアバーラインを慕い、アヘン窟まで頬をひっぱたきに来たり、果ては恋路まで心配するが、アバーラインは彼の世話焼きに反応を示さない。

貧富や身分の差にも鈍感であり、ゆえに娼婦のメアリー・ケリーと先入観なく距離を縮めていく。感情の乏しい人間として描かれているアバーラインが場末の娼婦に惹かれる展開が、観客の、特に女性の心を鷲掴む。店の外の暗がりで、二人がキスするシーンはサイコーだ。アバーラインが直前まで「だめだ」とキスを拒んでいたのが、またサイコーだ。

やっぱりこの頃のジョニデはよい。何で海賊になっちゃったんだろう。

 

◇ミステリー部分はさらりと

真犯人探しのストーリーは一見複雑だが、実際は観客を混乱させるための何回かのミスリードが用意されているだけだ。殺された娼婦たちの内臓が的確に切り取られていることから人体に精通した外科医では? ⇒ アンの情人アルバートが実はヴィクトリア女王の孫クラレンス公であったことを突き止め、梅毒を移された公の復讐では? ⇒ 公が売春婦と子を儲けたことを隠すための、英国王室公安部による口封じか? ⇒ フリーメーソンの儀式による処刑ではないか、と様々な方向に観客を引っ張り回す。

アバーラインは「天才」とされる捜査官で、また度々事件に関する予知夢を見るが、特に才気走った閃きを見せるわけでもなく、予知夢から捜査が進行するような手掛かりを得るでもないので、何のための設定やら。

最終的に動機は、ミスリードの一つに挙がった王室による娼婦たちの口封じであるし、真犯人もアバーラインに助言を与えてくれていた侍医ウィリアム卿と予想通りだ。

なにより、この口封じはヴィクトリア女王の「王室への脅威を排除せよ」との命令に端を発しているものと当然の如く描かれるが、イーストエンド界隈でアンとアルバートクラレンス公)の関係を知るのが数人の娼婦たちだけであるはずもない。「二人の結婚式に出席したメンバー」との線引きで口封じする不確かさに、手落ち感が否めない。

「脅威を取り除く」のに一番的確で手っ取り早いのは、当然、アンとアルバートの間に生まれた赤ん坊の排除だろう。だって、娼婦が母親の王位継承者よ?まさに英国王室がひっくり返るほどのスキャンダル。逆に言うと、この「証拠」さえ隠滅してしまえば、場末の娼婦共が何をのたまったところで無視をすればいいだけの話、手間かけて殺す必要もない。

また、何回目かのミスリードである「犯人=公安部」だが、メアリー・ケリーらはアンたちを連れ去る身なりのいい男たちを目撃したのみで、何故彼らを「公安部」と特定できたのかを説明する場面はない。にも関わらず、「公安部のベン・キドニー」の名前が突然挙がるのは、編集にミスがあったのではと思う程、いい加減な展開だ。なので、「真犯人は誰!?」的なミステリーラインは、割とどうでもよい。

楽しいのは上流階級の人間の薄汚さとウィリアム卿の悪魔化である。

 

◇ウィリアム卿、暴走

スコットランドヤードの警視総監からして、現場の状況や検視の結果も碌に聞かず「犯人は先住民だろう」「屠畜人だろう」「違う?んじゃ、ユダヤ人の屠畜人だ」と決めつける(まあ彼は真犯人を知っているのだろうが)。

アバーラインが訪ねた高名な外科医は「僕らを疑うより、外には社会主義者ユダヤ人、東洋人が屯してますが?」と冷笑する。この時代の外科医は上流階級の人々であるので、彼らにとって貧しい地区の住民や精神異常の患者など最下層の人種に過ぎない。

それにしても、最下層=肉屋か毛皮職人、ユダヤ人か東洋人と平気で繰り返すあたりに時代を感じる。今なら職業差別、人種差別と言われてしまうんだろう、少し前にはそれが殺人犯たる理由として堂々と挙げられていたのに。全くいい時代でしたよね。

全体を通して、王室周辺の殿上人と最下層の人間の対比が強調される。絵的なもので言えば、犯人の乗る馬車がターゲットの娼婦を誘い込む際、馬車から「ガシャン!」と折りたたみ式の階段が降りる画が繰り返し映される。殿上人の意志によって下界に降ろされる階段の行先は地獄、王室を含む特権階級の世界こそHELLだと連想させる。

ウィリアム卿は、膿んだ組織が排出した化け物の位置づけだ。彼の行動は女王やフリーメーソンの意向から徐々にズレていき、やがて組織での地位も立場も飛び越えて暴走する。殺人の方法がエスカレートするのは、彼の悪魔化に比例しているためだ。

メアリー・ケリー(実際は別人)の殺され方ったら、ぐっちゃぐちゃよ。

最終的に、王室が生んだ獣は王室により牙を抜かれ、黒幕たちは何もなかったように口を噤む皮肉な結末となる。だが、彼らへの報いとして、娼婦を母に持つ王位継承者がアイルランドの地で育っているという皮肉返しが用意されている。

アバーラインがメアリー・ケリーを訪ねたくとも訪ねられず、恋に進展する前の淡い感情のまま終わるのがロマンチックだ。また、ゴッドリーが訪ねてくることを予測して手にコインを握ったまま死ぬのは、最後に示したゴッドリーへの感謝と別れであり、しみじみとするラストだった。

少々陰惨なシーンもあるが、ウィリアム卿の芸術作品たる(ぐちゃぐちゃの)死体は直接は映されないので安心してください。掃き溜めに灯るラブを楽しむ目的で鑑賞するのもよいと思います。

『ブリッジ・オブ・スパイ』

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監督:スティーブン・スピルバーグ キャスト:トム・ハンクスマーク・ライランス/2015年

先日娘から「お母さん、のぶせりってなあに?」と訊かれました。

野伏り:日本中世において、山野で落ち武者狩りなどを行う武装した民衆の呼び名(ウィキより)

娘は今『どろろ』のアニメに夢中です。戦をしている連中が民衆を虐げる話が多いので、娘は加害者側を憎んでいますが、「それもまた一方からの見方なんだよ」と『どろろ』を教材とした教育が、我が家では行われております。

というわけで、本日は東西冷戦を舞台にしたブリッジ・オブ・スパイです。

S氏から「ユーロスペース東ドイツ映画特集をやるらしいよ。東ドイツもの、大好き」と、まるで「ハズキルーペ、大好き」みたいなメールが来ました。「東ドイツものって例えばなに」と訊いたら「『ブリッジ・オブ・スパイ』!」。結局、スピルバーグなのね。

実は以前途中まで観たのですが、「またトム・ハンクスが突拍子もない依頼をされて孤軍奮闘する話かあ」とやめてしまったのですね。トム・ハンクスの顔ってずっと見てるの辛いじゃないですか。しかしこれも機会と思って再鑑賞。やっぱり映画を途中で辞めては駄目ですね。非常に面白かったです。

 

◇あらすじ

保険専門の弁護士ジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)は、ソ連のスパイ容疑でに逮捕されたルドルフ・アベルマーク・ライランス)の国選弁護人を命じられる。ドノヴァンの弁護によりアベルは死刑を逃れ、二人は互いの人間性を認めて友情を深めていく。そんな中、アメリカの偵察機U-2のパイロット、パワーズソ連にスパイ容疑で拘束される。政府はアベルパワーズの交換を計画し、その交渉役をドノヴァンに命じる。

ではここで、自称スピルバーグの唯一の理解者にしてスピルバーグ親善大使のS氏から、2年前に送られていたらしいレビューを紹介します。
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我々が映画を理解する術は「見る」以外にない。映画は「見られる」以外には存在し得ない。スピルバーグの映画は常にその事を私たちに意識させる。

画家に扮したソ連のスパイは10セント硬貨に隠された極小の暗号文を拡大鏡で覗き、U-2偵察機は高感度カメラでソ連領土を撮影する。スパイの弁護を引き受けたことでドノヴァンは電車の中で好奇の目に晒され、スパイ交換の舞台となるグリーニッケ橋の両端からは、スナイパーが常にその照準で睨みをきかせている。「見る」「見られる」の構図は本作でも至る所に配置(中略)

そもそも、そのデビュー作『激突!』の運転席からの視線に始まり、我々は常にスピルバーグによって「見る」ことを強要されてきた。我々は彼に何を見せられてきたのか。「暴力」である。描かれた「暴力」とは暴走するトラックであり(中略)

湯川秀樹核兵器を人類最大の暴力と呼んだが、その人類最大の暴力をフィルムによって見せられた少女が涙を流すという今作のショットを目にし、スピルバーグのもう一つのテーマ「子供」が浮かび上がる。「暴力」と「子供」は常にセットで描かれてきた。

太陽の帝国』のジムは母親が日本兵に暴行された痕跡を我が家で発見した。『シンドラーのリスト』の赤いコートの少女は(中略)私たちと同じように映画に登場する子供たちもまた「暴力」を「見る」ことを強要されて(中略)同時に、そこにはまた信念の元に子供たちを守ろうとする大人も(中略)

2年待たされたスピルバーグの新作は相変わらず映画の喜びに満ちていた。撮らない映画はあっても撮れない映画はないと言わんばかりの自信が全編にみなぎっている。しかし、『リンカーン』『戦火の馬』『プライベート・ライアン』『ブリッジ・オブ・スパイ』ときて、いよいよベトナムの手前まできてしまっ(以下略)

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ハァイ。おつしたー。

まあまあまあ、そうなんでしょうね。まあ、それも重要なんですが、やっぱり当時の冷戦という状況ですよ。

東西冷戦真っ直中の1960年。さらりと冷戦の流れをおさらいしましょう、誰のために。私のために。第二次世界大戦は枢軸国の敗戦で終結し、ドイツが占領していたヨーロッパ諸国の領土は連合国により分割され、ドイツは西側をアメリカ、東側をソ連支配下に置かれた。その後、ヨーロッパが共産主義化(というより社会主義化か)することを恐れたアメリカは、イギリスやフランスなど西ヨーロッパ諸国を支援してソ連に対抗、両国の関係は悪化していく。最終的に米ソが直接戦争をすることはなかったが、資本主義対社会主義の代理戦争は朝鮮やベトナムの地で起こり、朝鮮では未だ解決を見ていない。

しかし冷戦のきっかけが、ドイツ領土の分割を話し合ったヤルタ会談で、終結「マルタ会談」だって(諸説あり)。受験生泣かせだよね。

二国の争いは、言うまでもなくそのまま核開発合戦であり、諜報活動合戦も苛烈だった。映画の前半では、ソ連のスパイ、アベルの弁護人になったドノヴァンへのアメリカ国民の攻撃の様子を通して当時の社会情勢を映し、一方でドノヴァンがアベルの知性的な魅力に惹かれて行き、二人が「不安じゃないのか?」「それが役に立つか?」と無意味なようでいて心温まるキャッチボールを繰り返しつつ友情を育むさまを描く。

状況として、同じスパイでもミッションインポッシブル的イーサンが敵対組織に捕まるのとはレベルが違うぜ、ということをインプットできればと思う。

そのように冷え切った仲の米ソであるので、極秘情報を擁する人質同士を交換することに暗黙の合意はあっても、政府が表立って「交渉」を行うことはできない。そのため、民間人のドノヴァンに白羽の矢が立つわけだが、何の保障も後ろ盾もなく、もし交渉に失敗すれば彼個人の責任となる悪条件。それどころか本来の目的を達する前に、治安の悪い東ドイツで殺されたとしても当局は一切関知いたしませんというわけだ。

奇しくも同じタイミングで、東ドイツアメリカ人学生プライヤーがスパイ容疑で逮捕され、ドノヴァンは彼も計算に入れた「1対2」の人質交換交渉を試みることを決意する。ドノヴァンがこの役目を引き受けるのは、乗りかかった船への責任や使命感のためであり、またアベルやプライヤーを思ったシンプルな人情のためである。

ペンタゴン・ペーパーズ』の遣り手ビジネスマンとは異なる、どちらかという人情家の面を押し出したハンクスなのだ。それが髪型にも表れていて(あちらの映画では大分ピシリとしている)、髪型からキャラクターを比較するのも面白い。

交渉の舞台である東ドイツに場面を移す後半からは、グッと緊迫感が増す。東西を隔てる壁が構築される様子が陰気なグレーの画面で描かれる。これだよこれ~。

スピちゃんはジュラシック・パークインディ・ジョーンズといった楽しい映画を撮る一方で、戦争や重い社会情勢を取り上げた作品を作るが、すごいなと思うのは、この後者のカテゴリにおいても「見せる」のを忘れないことだ。S氏が言う「見る」「見られる」の構図の話ではなく、エンタメを忘れていないと言う意味ね。

シンドラーのリストでの一番の見せ場は結局のところ、シンドラーユダヤ人たちを救うストーリーでも最後にユダヤ人たちに向き合い泣き崩れるシーンでもなく、アーモン・ゲート率いるSS部隊がゲットーでユダヤ人を虐殺しまくるシーンであることは間違いない。バッハの旋律に合わせて理不尽な暴力を長々と映した、娯楽色に満ちた最悪のショーだった。

スピちゃんが撮る東ドイツというだけで、どんな悲惨なことが起こるのだろうと不謹慎ながらワクワクしてしまう。この映画では、色んな意味での「ブリッヂ」がテーマであるので、もちろん悲惨なことは起こらないのだが。

 

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スピちゃん×鉄条網にわくわく。

 

◇人情味の連鎖

ドノヴァンの強固な意志と人情味は、アベルだけでなく東ドイツに同行するCIAにも連鎖する。CIAエージェントのホフマンを、最後まで任務に徹する諜報員として描くこともできたはずだ。だが登場時こそ不気味だったものの、後半、ドノヴァンの勝手な行動に狼狽して髪の毛を振り乱すホフマンにCIAらしき冷徹さはない。

CIAが取り戻したいのは、機密情報を有する意味で有害なパワーズだけであり、プライヤーに興味はない。そのためホフマンは、プライヤーも取り戻すことを条件に掲げるドノヴァンと対立し、彼の余計な動きを阻止しようとするのだが、阻止するにも例えば家族をネタに脅すなど方法がありそうなものを、ドノヴァンの周りを跳ね回ってわあわあ騒ぐのみなので、何とも無害だ。

「風邪をひいたから早く帰りたい」と終始愚痴るドノヴァンの風邪は、途中いつの間にかホフマンに移っている。これは、ドノヴァンがソ連側に仕掛けた「1対2」の交渉の返答を待つ緊迫したシーンに繋がり、相手から提案に同意する旨の電話を受けたとき、「1対1」派であったホフマンが満面の笑みで、交渉の成功をドノヴァンに伝える。移した風邪と同様、ドノヴァンの熱意がホフマンに伝播したことを示したよい演出だった。

交渉の描き方も、実直なドノヴァンらしくシンプルで分かり易い。主張のポイントをブレさせないこと。そしてこちらの要求を飲めば「メリットがあると知らしめること」80%、かつ要求を飲まなければ「デメリットが生じると知らしめること」20%、この比率である。交渉ごとの基本ですね。

※すみません、比率は適当なこと言いました。

ドノヴァンはこれをアベルの裁判では判事に対して、国外においては両政府に対して実行してみせた。加えて、最後は本来の専門である保険とは真逆の「賭けだ」と言い切るのにスカッとする。

個人的に不満だったのは、物語を丁寧に回収してみせた点、具体的には詳細な後日談を付け加えた点だ。

グリーニッケ橋の捕虜交換シーンは、白と黒のコントラストも美しければ、両国の温度差の対比もよかった。パワーズが同僚マーフィに抱きしめられて迎えられるのに対し、アベルには、その顔を判別できる人間すらいない。橋での別れの直前、米国に拘束されていたスパイがソ連に帰ればどうなるのかを懸念するドノヴァンに、アベルは「私の待遇は、抱擁で迎えられるか、あるいはただ車の後部座席に乗せられるかで分かる」という。そして、最後まで見守るドノヴァンの前で、彼は同胞に抱擁されることなく、後部座席へと促される。

ドノヴァンは、1対2の交換を成し遂げたが、それによりアベルを死に追いやった。帰国後、穏やかな光景が広がる電車の中から、柵を飛び越える少年たちを目にして顔を曇らせる。ドノヴァンの偉業を国中が讃える中で、本人だけが苦い葛藤を抱いていることを示す、余韻の残るラストだった。

な、の、に!

最後に、アベルは妻子と再会し存命であるとのテロップが流れる。

生きてんの?

あの余韻はなに?「実話に基づく」話であったとしても、最後に現実へとリンクさせる必要があるのだろうか。それとも、現実と映画の境目をなくすことを、この偉大な爺さんは試みているのでしょうか?