Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『孤狼の血』

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監督:白石和彌 キャスト:役所広司松坂桃李真木よう子/2018年

本日は、お日柄もよくー、年も押し迫ったこの時期にふさわしい映画を取り上げたいと思います。ヤクザは社会悪、しかしヤクザをモチーフにした本や映画は滅法面白い、これは事実だよね。 

 

◇まず東映さんのヤクザ映画史を確認

1960年代、一大ブームを巻き起こした時代劇の衰退により、東映任侠映画の製作へ舵を切り成功を収めた。これらは主に高倉健さん(←母が大好きなので呼び捨てに抵抗がある)や鶴田浩二を主演にした、時代劇の流れを汲む単純な勧善懲悪モノだった。1973年に公開された『仁義なき戦い』を皮切りに、実際の事件や人物を基にした所謂「実録もの」へと主戦場を移す。この実録ヤクザ映画の黄金期も70年代終わり頃に終焉を迎えた。

その後、北野武監督が(別の配給会社にて)『その男、凶暴につき』(1989年)を作り、『アウトレイジ』(2010年)でヤクザ映画を再び盛り上げた。この流れを見ると、何だか感慨深いですよねえ。てなことを夫に話していたら「一般常識みたいに言われてもね」と言われました。ああそう。
孤狼の血』は、『アウトレイジ』のヒットに触発され、なにくそと東映が放った勝負のヤクザ映画だと言えるでしょう。実は私、北野監督の『アウトレイジ』を観ていなくて。何度か観かけたんだけど、何故か入れなくて・・・。その上で語ることをお許し下さい。あと、ネタバレですからね。あと言葉悪いから、読んだ人は私の職場にはバラさないでね。

・・・にしてもポスター、カッコワリィのう!もうちっとどうにかならんかったんかい!カチコミじゃあああ!

 

◇あらすじ

1974年広島県呉原市(呉市をモデルにした架空の都市)。広島からの新興組織、五十子会系の「加古村組」と地場の暴力団「尾谷組」との抗争は、尾谷組組長の逮捕をもって痛み分けで収束した。
14年後の1988年、尾谷組長の出所を目前に、今度こそ呉原への進出を遂げたい五十子会は、再度加古村組を尾谷組にぶつけて潰そうと画策する。そんな中、加古村組のフロント企業「呉原金融」の社員上早稲が失踪する。呉原の極道を誰よりも知る呉原東署の大上は、この失踪にキナ臭いものを感じ、捜査を始める。呉原東署に新たに配属された日岡は、教育係である大上と行動するうち、彼の犯罪紛いの捜査、尾谷組幹部との癒着に等しい関係を目の当たりにし、己の正義との矛盾に葛藤する。

キャストの顔ぶれは御馴染で、ヤクザ側五十子会の会長に石橋蓮司。その下部組織、加古村組の若頭野崎竹野内豊。対立する尾谷組の若頭一之瀬江口洋介。警察側、マル暴のトップを張る大上役所広司。広島大卒ルーキー日岡に、『娼年』にてすっかり尻俳優として有名になった松坂桃尻、じゃなかった桃李。尾谷組御用達のクラブ「梨子」のママに真木よう子。また、本作監督の白石さんの『凶悪』は個人的に好きな作品です。

 

◇『県警対組織暴力』とのあれこれ

言うまでもなく『仁義なき戦い』に影響を受け、『実録 私設銀座警察』やフカキンの『県警対組織暴力』(以降大胆にも『県対暴』と略す)をベースとしている。『県対暴』で菅原文太が演じた刑事久能は本作の大上に、松方弘樹演じたヤクザの広谷は一之瀬に一応置き換えられるし、大上の持論「極道は飼い殺しにしてなんぼ」は久能の行動理念を継ぐものだろう。

久能と大上の、極道への対し方には決定的な違いがあり、それがそのまま作品のテーマとなって表れている。『県対暴』における久能が、警察と極道との境界線で立ち回るのは、広谷に男として惚れ込んでいるためだ。そのため、あと一歩背を押されれば極道側に行ってしまいそうな危うさがあり、実際に、法を守る側の人間として守るべき倫理を踏み越えている。ダーティと言えば、『孤狼の血』の大上より余程ダーティ。だからこそ、ドラマ性といいキャラといい魅力的で、特に松方弘樹の広谷がバカでかわいい。最後は互いの属する組織の違いが悲劇を生むが、それを含めて男と男の話と言えよう。

本作『孤狼の血』の大上は、表面上は極道たちと親しく、行動も粗暴なアウトローだが、根底にあるものはカタギの生活を守るという使命感で、つまりとても真っ当な人物である。従って、彼が警察と極道との線を越えることはなく、こちらの映画のテーマは、あくまで警察官の立場から極道と対峙した男の話ということになる。

劇中、大上が孤軍奮闘するのと同じく、役者としても役所さんが孤軍奮闘しておる。それくらい、日岡を演じた松坂桃李、ヤクザ側の江口洋介竹野内豊などはマジ薄味。特に竹野内演じる野崎がどういう展開で画面から消えたのか、本気で記憶にない。ただし、ダークな世界に戸惑うペーペーである日岡は、つまり観客に一番近い人物であるので、彼を通して観客がこの裏世界に入り込みやすくなっているのはよいと思う。あ、あと、加古村組にカチこむ、尾谷の鉄砲玉役をやった中村倫也さんはいいよねえ。かーわーいーいー。それを夫に言ったら、「ホント地味なのばっか好きだよね」と言われた。なんなん。アンタ、なんなん?

せっかくなので着物の話をしておこう。真木さんの役どころはクラブのママで、お仕事中は大体着物を着ている。衿足を大きく抜くのは玄人女性だけに許された文化だろうから良しとして、胸元を開けすぎるのは品が良くない。ましてや真木さんは巨乳なので、胸元が浮いてモタッとしてしまっており、個人的にはこれが着物における色気とは思えないなあ。またあるシーンでは、着物から覗く半襟の幅が左右で異なるのが目についてしまった。どっちが広くて狭かったのかは忘れてしまったが、帯を締めるときに着物と襦袢が締めた方向に引っ張られて、半襟の幅が左右均等でなくなるのは初心者がよくする失敗なので、ここはピシッと着付けて欲しかった。 

f:id:yanagiyashujin:20181217153043j:plain       ((C)2018「孤狼の血」製作委員会)

伝わりますか、この胸元とおはしょりのモタッと感。なんだか、だらしないでしょ。

 
◇最高の上司としての大上

 桃尻、じゃなかった桃李(いい加減やめないと桃李LOVEの友リエコに怒られる)が、何度も制止する通り、大上の捜査方法はアウトローにしても度を越しているが、「刑事じゃけえ何をやってもええんじゃ」との傲慢に映る言葉は、彼が刑事人生から得た哲学に裏打ちされている。回想で映される大上の若い頃の写真は、誠実そうな一警察官の顔だ。現在の猛々しい面相との落差に、彼が壮絶な経験を経て現在の「ヤクザは生かさず殺さず」の境地に辿りついたことが想像できる。

火種は火種のまま、表面上は熾火に保つ対策は、社会のどんな方面においても必要だ。日岡の主張する「撲滅」など、ともすれば大爆発に繋がりかねない悪手。仮に強行すれば、どのような結果を招くかは『県対暴』にて描かれた。それを念頭に置きながら、大上と日岡のやり取りを聞くとより楽しめる。

大上哲学を実行するためには、経験に基づく判断力と勘、知識、話術、度胸、フレッシュな情報を得る手段、ざっと考えただけでそんなものが必要で、常にリスクを考え、時にリスクを冒して行動しなければならない。トントンと頭を指しながら「この中には極道のネタがようけ詰まっとるんじゃ」という大上の脳には、実は極道以外のネタも詰まっていて、それが彼の立場をより複雑にしている。まさに綱渡り人生。しかも、日岡を都合よく利用しているように見えて、後に判明するように、暖かな目で彼を見守りその成長を喜んでいる。まさに理想の上司。一見本能のまま行動しているように見える大上は、誰よりも理性の人である。

実は県警本部監察官室のスパイである日岡の任務は、14年前の加古村組組員(金村)殺害疑惑を始めとする、大上の汚職の証拠を掴むことだ。しかし、日岡自身も知らされていなかった本当の目的は、警察上層部の不正を記した大上ノートの入手と隠蔽だった。それを知った日岡は、大体ペーペーが蚊帳の外を自覚した時に吐く「みんな保身ばっかりやないですか」とのセリフを吐き、うっさい小僧、青臭いから利用されるんじゃ。尻を出せ」私をイラつかせたが、落ち着こう、これは日岡の成長譚でもあるんだから。前述の通り、日岡は観客に一番近いキャラクター。共に大上のやり方に憤り、やがて彼の真意を知って受け入れるようになっている。だがラストでは、日岡は大上の後継者となる道を選び、観客から離れていく。そういう意味でも、大上の若い頃の写真は重要で、ああ、あれは今の日岡なんだな、日岡も大上と同じくこれから茨の道を行き変貌していくのだなと想像すると何とも切ない。

 

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((C)2018「孤狼の血」製作委員会) 

私の上司になって。

 
◇日本映画のために苦言を呈す

だが、やっぱり締まりのないのが今の日本映画の欠点。正直、一人この映画を締めていた大上の死後は、さっさと幕を下ろすべきだ。ある信念を持った刑事がいて、彼が死に、その信念が若い刑事に受け継がれた、テーマはそれでよいはず。

例えば、宴会場のトイレで、日岡に手引きされた一之瀬(江口洋介)が五十子(石橋蓮司)を殺すシーンは、蛇足としか思えない。憎しみに燃えた日岡が、大上の仇に当たる五十子への復讐を遂げるなどマジでどうでもよろしい。むしろ、それを続編にでも取っておけばよかったのに。。。

更にケチをつけるなら、一之瀬が五十子を日本刀で殺して斬首し、首を便器に放り込む画は、もちろん絵的にはおいしいのだろうが、設定上は無意味だ。銃という最速の殺傷道具があるにも関わらず、わざわざ日本刀を凶器に選ぶとしたらその目的はなにか?言うまでもなく見せしめや警告だ。なので、切った首を五十子会本部にでも投げ込むといった脚本があって初めて意味を成す。すぐ外に警察が待っている状況でわざわざ日本刀などを使えば、只でさえスカしているだけで印象の良くない一之瀬を「やっぱりこいつ馬鹿だな」と観客に思わせるのみ。

またここでは、日岡が五十子への復讐を果たし、さらに一之瀬の裏を掻いて尾谷組に新たな主従関係を突きつけることで、無力だった日岡の成長を示す狙いもあるのだろう。だが、その点も、日岡が監察官室の上司に大上ノートを渡し、「最後のページは自分が書き加えました」と冷たく言い放つシーンだけで十分だ。ラストで、日岡はジッポでタバコに火をつける。観客は、これまで吸わなかったタバコを吸う日岡に変化を見、大上の遺品のジッポに、彼の遺志を継ぐ日岡の決意を見る。それで十分だしクールだと思う、脚本家やなぎやとしては。

問題は現代の日本の観客の思考が停止しすぎていて、謎には謎解明シーンを、憎しみにはすっきりシーンを用意してやらなければならないことだ。そうでないと、「え、結局誰が金村ころしたの?」「大上を殺した五十子はお咎めなしなわけ?」となり、結果「すっきりしない」「共感できない」となる。別にそんなの重要じゃないのにね。なので、制作側もわざわざ、観客の溜飲を下げるためのご丁寧なカタルシスタイムを用意しなければならない。 

さらに悪い点として、「大上はなぜ死んだのか」という重要な部分の説明は為されない。もちろん、彼の死体に刺し傷が十カ所以上あったにも関わらず事故死として処理された事で、彼に弱みを握られていた県警上層部と五十子との共謀により大上が消されたのは明白。だが、そのリスクを承知で長年綱の上を渡ってきた大上が、何故今回に限って下手を打ったのか、そのエピソードが一本あればぐっと良かったとは思いませんか。どんなエピソードかは思いつかないよ。脚本家やなぎやの限界。

折角ヤクザ映画なんか作るなら、観客に阿らず鉄拳喰らわせるような、挑戦的なものを作ってほしい。男くさい映画は昨今女性の扱いが非人道的だなんだと言われるんだろうし、下手したら男くさいという表現自体に、やれその言葉の定義はなんだとかケチつけられるんだろうが、いいよ、男だけの狭い定義の映画作ってくれていいよ、面白ければ。

最後に、途中で真木姐さんが「私らカタギが」と言いますが、前の男も前の前の男もヤクザで、ケツ持ちついてるクラブのママはカタギではありませんよ、という突っ込みをもって終わらせて頂きます。