Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『ディア・ハンター』

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監督:マイケル・チミノ キャスト:ロバート・デ・ニーロジョン・カザールクリストファー・ウォーケン/1978年

皆さん、お元気ですか。

私は映画に関して分からないことがあると、映画好きの異常な友人S氏にメールします。人生や恋愛に関する助言は全く期待できませんが、映画については必ず何らか返答はするS氏、名付けて「HEY S氏」。しかし問題は、その精度の低さ。

ゴダールって何が観やすい?」と訊けば、ストリートビューに映ったゴダールを見てくれ」と不鮮明な画像が送られてくる。黒沢清の映画について「ここはどういう意味?」と訊けば、ゴダール観てないと分からないだろうね」と言われる地獄のループ。

「西部劇が観たい気分だからオススメを教えて」と言えば「『カウボーイVSエイリアン』」(ちがう、そうじゃない)。

お勉強モードになった私が「この映画のこのシーンは何かへのオマージュなのかしら?」と高尚な質問をすれば「知らん」。一方で、映画論や技術論をさんざ宣った後、「結局、その映画を好きかどうかだからな」と突如、感情論に振れる。

前提のない話を急に投げてくるなどバグもひどい。

「僕はアメリカを信じるよ」
「真剣に語れば語るほど小っ恥ずかしくなる、それがノーラン」

知らないよ。

先日、「『ディア・ハンター』はS氏的にはどういう評価ですか?」と言ったら、「8連勝!」(←Jリーグ川崎フロンターレについて)と返ってきたのには最高にイラッとした。で、数日後に急に「『ディア・ハンター』を観たのが昔過ぎて覚えてません」と言ってきた。何とかならないか、このポンコツAI。

そういうわけで、本日は『ディア・ハンター』です。

 


◇あらすじ

60年代末、ペンシルバニアの製鋼所で働くマイケル、ニック、スティーブンたちは休日になると鹿狩りを楽しんでいた。やがてマイケルたちは徴兵されベトナムへ。彼らは戦場で捕虜となり、残酷なゲームを強要される。(映画.com)

恥ずかしながら初見でした。
って言葉をよく見るけれど、恥ずかしいのかしら?といつも思う。一見謙虚に思えるけど「映画について一家言を持つ私ですが、そのわたくしがですよ、これを観ていないなんて皆さん意外に思うでしょうが」みたいな自意識が見え隠れしているよね。

私は戦争映画が好きだが、いわゆる名作の史上最大の作戦(1962)鷲は舞いおりた(1976)などは苦手。また、『ディア・ハンター』は父がやたらと好きだったもので何となく避けており・・・あるでしょ、そういうこと。思春期につまらない理由でそっぽ向いて、そのまま機会を失ってしまうこと。最近、たまたま目にして鑑賞したのですが。

 

超いい映画だった~!

 

当時の社会情勢が反映された、べトナム戦争の爪痕濃い内容を想像していたが、蓋を開けてみれば、ペンシルヴァニアの寂れた田舎町を背景に、強い絆で結ばれた若者たちが、やがて戦争によって幸福な生活に終止符を打つことを余儀無くされる切ない物語。そして予想外に観念的。

切れ者で冷静なリーダー、マイクにロバート・デ・ニーロ、彼の親友の心優しい青年ニックにクリストファー・ウォーケン。彼らと共にベトナム行きが決まっている新郎スティーヴンをジョン・サベージ、イキっているが小心者でトラブルメーカーのスタンをジョン・カザール、マイクとニックの想い人リンダをデビューしたばかりのメリル・ストリープが演じた。

監督のマイケル・チミノは、ここで取り上げるまでもなく不運の人として知られる。ダーティハリー2(1973)でイーストウッドに見出されて『サンダーボルト』(1974)の脚本と監督を務め、本作『ディア・ハンター』ではアカデミー作品賞、監督賞など各賞を受賞。しかし次作天国の門(1981)の興行的大失敗で製作元のユナテッド・アーティスツをぶっ潰し、キャリアに事実上の終止符を打った。

今回チミノの名を目にしたとき、私の頭に突然、ヘンなダジャレが浮かんだ。思い出して調べたら、やっぱり「シネマ一刀両断」の『サンダーボルト』が原因だった。

~シネトゥ『サンダーボルト』評より抜粋~

自らメガホンを取るつもりだったイーストウッドは、当時無名のマイケル・チミノの脚本に惚れ込み、眩しそうな顔をしながらチミノに向かってこう言った。

「チミの名は?」

これがイーストウッドなりのギャグとも知らず、馬鹿真面目に「マイケル・チミノです」と答えるチミノ。するとイーストウッドは「あんさん、撮ってみるかい…?」と提案。
「エッ、いいんですかい!?」とハナを垂らして喜んだチミノに「チミの才能を信じてる」と尚もしつこくチミノギャグで返すイーストウッド
「僕なんかに務まるでしょうか?」と言われた際も「マーイケルだろう」とひとつも面白くないギャグで返したイーストウッド

 

・・・。

このせいで、マイケル・チミノと聞くと「まーイケルだろう」と「チミの名は?」が頭の中に木霊する。これは公害です。

 


◇青春映画でした

ロシア移民の青年たちが製鉄所での仕事を終えて行きつけのバーへ雪崩込みジャレ合う中で、その晩は仲間の一人の結婚式であり、直後には三人がベトナムへ出征することが説明されていく。

映画が始まって20分ほどで、観た人が大体「長い」と呆れるウワサの結婚式のシーケンスに突入。荘厳に式が執り行われ、披露宴のパーティになると町中の人が集い、酒を煽ってはロシア民謡に合わせて踊りまくる。

主役の新郎新婦、ウォーケンとメリル・ストリープカップルと、踊りの輪に加わることなく離れた場所からそれを見守るデ・ニーロ。他の男に媚を見せたガールフレンドをジョン・カザールが殴り、場は一時騒然となるものの、立ち上がったガールフレンドは殴られた頬を指してカザールを睨み、シュンとなったカザールは「ごめんよ」と彼女の頬にキスをする・・・。同じ形では二度と訪れることのない彼らの青春が、ぎゅっと凝縮された時間だ。

まあ確かに長いね。踊り終わったと思ったら、まだ踊り出す。

私はガチャガチャしているだけで一向に話の進まない映画は苦手なのだが(ガイ・リッチーシャーロック・ホームズとかキツイ)、長い映画は基本的に嫌いじゃない。そのためか、結婚パーティのシーケンスは苦にならなかった。六人のやり取りをずっと見ていたいなと思わせた時点で、3時間を超えようとチミの勝ち。

朝方にパーティがようやく終わると、新婚のジョン・サベージを除いた五人はそのまま鹿狩りに出かける。

・・・まだ、鹿狩り残ってたのん?
ちょっと前言撤回してもいいかな。「今夜は鹿狩りだ」ってずっと言ってたけど、踊ってたら夜が明けちゃったから、もう行かないのかと思ってたよ。

なげェだろ、さすがに。これから鹿狩りは。あと、『天国の門』って完全版だと216分もあるの!?無理だろそれは。

デ・ニーロは見事な鹿を仕留める。彼らの行く末に、この狩りの獲物は吉と出るのか凶と出るのか・・・。
一転、画面は激しい戦闘シーンへと切り替わり、やがて捕虜になった三人は、デ・ニーロの機転と行動により逃亡に成功するも身体と心に受けた傷は深く、ウォーケンは遂にベトナムから抜け出すことができなかった。

 

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◇ウォーケンの圧倒的ヒロイン感

本作の真のヒロインはクリストファー・ウォーケン。これに尽きる。

ウォーケンはストリープに求婚し、またデ・ニーロも懐にストリープの写真を忍ばせて戦場に向かうのだが、デ・ニーロにとって彼女が、ウォーケンへの愛を仲介する存在であるのは明らかだ。

結婚パーティで、ストリープは、デ・ニーロの目が自分に向けられているものと信じ、はにかんだ視線を彼に返す。だがカメラは、彼女を映すフレーム内に必ずウォーケンを捉えており、その無邪気な所作と全開の笑顔は、ストリープを見ていたはずの観客の目を奪う。言うまでもなく、このカメラはデ・ニーロの視線そのもの。

常は避けるように二人の姿から目を逸らすデ・ニーロが、パーティでは踊る二人を堂々と見つめる。ストリープのことを見ているのだと、他人も自分自身もごまかすことができるからだ。

ウォーケンの華やかさは、表のヒロインであるストリープを凌駕する。
例えば、冒頭、皆でバーに集って『Can't Take My Eyes Off You』を歌い、サビの「I love you, baby」を叫ぶ様子。鹿狩りの場面では、カザールが靴下がないとかあったとか、今度はブーツがないなど騒ぎ、デ・ニーロが彼のいい加減さに耐えかねて口論する間で、礼服からとっくりセーター(※敢えての「とっくりセーター」)へと着替え、モフモフのロシアン帽を被ったり、やっぱり脱いでわしゃわしゃと髪をかき回す。その破壊的な愛らしさ。

『サンダーボルト』でも男同士の執着と情を描いたチミノだったが、同じ空気が『ディア・ハンター』にも流れている。ただ、ウォーケンへの視線は、同性愛という露骨な言葉に押し込めるのを躊躇ってしまうほど控えめであり曖昧で。

曖昧と言えば、キャラクターがはっきりとしている五人に比べ、デ・ニーロの人物は最後まで靄がかっている。直接的でない愛情の表現も然ることながら、カザールが指摘するように一人違うことを考えているようなところがあり、また、戦場で如何に友を故郷に帰すかに注力するさまは、まるで彼自身の望みは二の次であるかのよう。全編を通してデ・ニーロの自我は描かれず、一体彼がどのような人間なのかが浮かび上がってこないのだ。

 


◇目線による会話

言葉ではなく、特定の人物に向ける視線、目線の上下で、デ・ニーロは意志を伝えていく。ストリープを介在したウォーケンへの視線は既に触れた通り、印象的なのはベトナムにウォーケンを連れ戻しに行ったときだ。サイゴンで探し当てたウォーケンは、まるで別人のようになっていた。

「俺が分からないのか」と襟首を掴むも、ゾンビのように無表情なウォーケン。
「俺の名前を言ってみろ」と必死で訴えるデ・ニーロに、ようやく少し反応したウォーケンは呟く。

 

「チミの名は?」

 

だぁぁぁぁーー!
チミの名うるせぇな、ホントに!気が散るわ!

 

何の話だっけ。そうそうそう、見つめ合う視線のレイザー・ビームは億千万って話だったよね。命を賭けてウォーケンを故郷に連れ戻そうとするデ・ニーロは、悪夢の象徴であるロシアン・ルーレットのテーブルで友と向かい合う。
いくら帰ろうと訴えてもウォーケンの表情は動かない。デ・ニーロは祈るように長い時間、目を伏せる。再びウォーケンを見ると、彼の顔に微かに感情らしきものが宿っている。。。

そして、ラストの葬式後の食卓。コーヒーカップはどこだ、スクランブルエッグにトーストでいいか?などの友人たちの会話を背景にして映されるのは、結婚パーティのときとは一転して、まったく合わなくなってしまったデ・ニーロとストリープの目線だ。デ・ニーロが見つめればストリープは目を逸らす。逆にストリープがじっと見つめるときには、彼は異なる方向を向いている。見つめ合う視線のレイザー・ビームは、すれ違う視線になってしまった。

 

結局のところ、デ・ニーロがストリープを介してウォーケンを愛したように、ストリープにとっても、ウォーケンあってのデ・ニーロだったわけだ。

ウォーケンの喪失により、二人の関係も失われてしまうのだろう。皆が『God Bless America』を歌い出すところで画面は暗転し、メインテーマ曲『Cavatina』が流れ出す。なんとも美しい幕引きである。

ようやく観たので父に報告をしようと思うが、まあアイツはこれを「重厚な反戦映画」と捉えているだろうし、壮大な山の風景が出てくれば満足するタイプだから、話は噛み合わないだろうな。

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