Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『魂萌え!』

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監督:阪本順治 キャスト:風吹ジュン三田佳子/2006年
 
主婦の皆さん、こんにちは。
 
友人のリエコは、子供達の休校が延びるたびに「しぬ・・・」となっています。
私のように在宅勤務という大義名分があれば、ちょっと
息抜きもできますが、専業主婦はそうもいかないようで。終始、子供らの相手をして日が暮れる、本当にお疲れさまです。そんなリエコから、一昨日と昨日に以下のようなLINEが来ました。
 
「いまテレビで、中村俊輔(※サッカー選手)が女装してると思ったら、あいみょんだった」
「いまテレビで、りんごちゃん美人になったなと思ったら、JUJUだった」
 
うん。とりあえずテレビつけっ放しなんだなと思った。たまには消そうね。
 
私はと言えば、最近「グリルの呪い」にかかっています。
先日、何か一品足りないなと思って、ナスとトマトにオリーブオイルとパルメザンチーズを振りかけ「おしゃれなもんができそう、アハン」とグリルにイン。数日後、変な臭いがするな~と思ってグリルを見ると、焼いたまま放置したナスが黴びていた。
さらに昨日のこと、またしても妙な臭いを鼻に感じた私は、おそるおそるグリルを開けた。そこには焼く直前で忘れ去られ、暖かい気候の中で二日間熟成されたサザエが・・・。腐ったサザエの臭いって初めて嗅いだわ。
 
本日は良き主婦のための映画魂萌え!をご紹介します。
旦那が死んだ後、別の女がいたと知ったらどうする!?
 
 

◇あらすじ

突然夫が他界し、途方に暮れている団塊世代の専業主婦・敏子は夫の携帯電話から、夫の愛人の存在を知る。そこに子供たちの身勝手な行動も重なり、自らを取り巻く環境にうんざりした敏子は家出を決行する。(映画.com)

原作は2004年刊行の桐野夏生の同名小説。以前から何度か触れているが、私は大の桐野夏生ファン。ファンだったといった方が正しいかも。作品を追わなくなって久しく、改めて確認したら、2010年代以降は数冊しか読んでいなかった。『顔に降りかかる雨』に代表される女探偵村野ミロシリーズのハードボイルド路線から、徐々に女たちの情念を描くようになった1990年代~2000年代始めが、私にとっての桐野夏生の円熟期。『柔らかな頬』『玉蘭』『グロテスク』が特に好きです。
特に『柔らかな頬』はさ、池袋の古本屋で買ったとき、いい感じに汚い店主に無表情で「これ面白いよ」って言われたんだよねー。あの本屋、もうないだろうな。
 
ある作品を機に桐野夏生は、がらりと作風を変える。村野ミロシリーズの久々の新作『ダーク』で、主人公ミロ自身を、そして彼女が信頼する数少ない人間たちとの関係を徹底的にぶっ壊して見せたのだ。何よりも衝撃だったのは、繊細で誇り高くミロの心の支えであった親友のトモさんが、『ダーク』では突然、薄汚く低俗な人物として描かれたこと。
 
その後の、やはり女たちを中心に世間の闇を描いた作品群は、猜疑心や虚栄、騙し合いや裏切りなどのこってりとした『悪意』に塗りたくられ、それゆえにどこか現実感のなさを漂わせる。「人間そうも簡単に『悪意』を噴出させるものではない」ということだ。
 
魂萌え!も、その作品群の一つで、主婦である主人公と二人の子供、学生時代からの三人の友人、そして夫の死後に存在が判明する愛人との関係を主軸に物語が展開していく。本筋は、世間と遮断された家庭で過ごしてきた団塊世代の妻が、否応なく社会での無力さを突きつけられ、やがて乗り越えていく過程を描いた主婦のための応援歌といったところだが、登場人物たちは腹を探り合い見栄を張り、笑ったと思ったら突然卑屈になったりと、素直なまでに己が内の「負の部分」を露呈する。つまり、『魂萌え!』も私にとっては、上述の「簡単に曝け出されるがゆえに全く恐ろしくない悪意」の印象を受ける作品のひとつだ。
 
だが、これを映画化した本作は、原作に漂うモヤモヤした空気を切り捨て、本筋の要素だけを抜き取った爽やかな女性の成長譚となっていた。
 
監督は阪本順治。この監督、好きです。できれば近々感想を書きたいと思っているのだけど、大鹿村騒動記』(2011)が素晴らしかった。ちょっと前にポンちゃんことポン・ジュノが日本のTV番組に出演してお勧め作品を三本上げており、一本が阪本順治『顔』(2000)だったのだが、これも面白い。ポンちゃんのチョイスは他も予想を裏切らずというか如才なくというか、黒沢清是枝裕和だった。ちなみに、是枝裕和はあまり好きじゃない。
 
 

◇主婦のロードムービー
夫の葬式を済ませた敏子風吹ジュンは、クローゼットのスーツの中で夫の携帯が鳴っていることに気がつく。「伊藤」と名乗った相手の女が夫と只ならぬ関係にあったこと、さらに蕎麦打ちを習いに行っていた毎週木曜日、夫はその女に会いに行っており二人の関係が十年と長いものであったことを知り、衝撃を受ける。
 
その他にも夫の死による問題は彼女に伸し掛かるのだが、永遠の少女という雰囲気の風吹ジュンの、ほわんほわん色が全体を占め、おかげで「女性の成長譚」と表現するのはちょっと大げさなくらい、ロードムービー感が漂う。
 
印象的なのは、ここぞという場面でじっくりと映される顔のショット。
例えば、夫の定年の夜、突然夫に握手を求められ、ワケが分からずポカンとした風吹ジュンの顔は、次に喪服を着て空を見上げる顔に切り替わる。この間には三年が経過しており、あの晩、何と言われたのかが思い出せないまま煙になった夫を見送っているという状況だ。
 
また、夫の愛人伊藤三田佳子が線香を上げるために家を訪ねてくるシーン。風吹ジュンは、チャイムが鳴ってから口紅を引き忘れていることに気づいて唇に触れる。次のショットは訪問者の三田の顔ではなく、唇に赤い紅がしっかりと引かれた風吹ジュンの顔だ。無言の彼女の顔に、状況や感情が強調されるようになっている。
 
互いの矜持がぶつかり合う女同士の対決が見どころなのだが、二人が対面で会話するのは二回きり、そして、この二回の対比が面白い。
家を訪ねてきた三田佳子は、予想に反して白髪交じりの年嵩の女だった。だが、全体的に品があり、所作は玄人じみている。家に上がる瞬間、黒いストッキングの下の爪に綺麗にペディキュアが塗られているのを見た風吹ジュンは、相手が「現役の女」であると感じる。さらに『阿武隈』という蕎麦屋を経営することを知り、夫が蕎麦打ちを習いに行っていた事実と結びついて、どうしようもない敗北感に襲われるのだ。ストッキングの下の赤いペディキュアと慌ててつけた口紅に、優劣が表現される一度目の対峙。
 
彼女は「ぬくぬくと家庭で守られてきた世間知らずの主婦」という自分の姿と対峙する。そして子供たちの身勝手にうんざりしてカプセルホテルにプチ家出をするのだが、このカプセルホテルっていうのが、桐野夏生なんだよねぇ、そうは思いませんか。
だって、カプセルホテルに行かないじゃない!?
しかも15年ほども前のことだから、いかにもなカプセルホテルなわけだ。桐野夏生という人は、お嬢さんぽい人を、いきなり別世界、様々な事情を抱えた人間が集まり悪意が渦巻いているような場所に放り込みたがるような、そんなクセがある。
 
映画でも、このカプセルホテルのくだりが面白い。ここで登場するのが第三の女、加藤治子ホテルに住み着いている老婆である加藤治子は壮絶な転落人生を送っており、その苦労話を「売って」いる。風呂場で偶然、時には必然的に一緒になった相手に、するすると世間話のごとく自分の身の上話をし、後で「奥さん、ただで人の不幸話を聞こうと思っちゃいけませんよぉ」と金銭を要求するのだ。
原作では渋々の体で金を払う敏子が、映画では心から感謝して当然のものとして支払うのも面白い。
加藤治子の小狡く逞しい生き方が、一人の男を挟んで揉めている風吹ジュン三田佳子を「まだまだヒヨッコ」と笑い飛ばしているかのよう。
 
二回目の対決は、愛人側の三田佳子に主眼を置いて観ると面白いだろう。線香を上げに来たときとは打って変わり、男の死と、男が残したものは何一つ自分に受け継がれないという事実に打ち拉がれている。それを示すのがペディキュアが拭い去られた裸足の足。
「勝ち負け」に拘る彼女は、前回は、思いもよらない事態にオドオドする妻に対して明らかに優位に立っていた。だからこそ、線香を上げさせてもらった礼は言っても、詫びることはしなかったのだ。だが、自分を取り戻した風吹ジュンの佇まいが、逆に三田佳子を追い詰める。
 
この映画は、風吹ジュンのささやかな挑戦を、ゆるゆるとした空気とユーモアを交えて追うことで、どちらの女も手放さなかった夫や悪びれもしない三田佳子の罪を断ずる方向に導かないよう工夫がなされているように思う。
夫の不実は、もはや意味はなく、女たちが自分の存在意義を己に問うための装置でしかない。
観客は、「あなたはいつでも取り換えの利く家具と言われていたのよ」と精一杯の攻撃をする三田佳子に憤激する間もなく、「だったら取り換えればよかったのに、何故そうしなかったの?」と切り返す風吹ジュンの変化と強さにハッとなる。そんな感じだ。
 
それにしても、阪本順治は音楽のチョイスと使い方が良いと思う。
あと、書き切れなかったけど、いつも役者がよいよ。
ではまた。チャーオ。