Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

悪ノリをやめたい

本日はお日柄もよく、映画から脱線した話をしたいと思う。

題名の通りなのだが、私は悪ノリがひどい。悪ノリというのか、真剣にならなければいけないときほど、場を混ぜっ返したりしてしまう。「そんなに深刻になっても解決しないよ?」と周囲の緊張を解きほぐそうとか、先陣切って余裕を見せなければとか、そんな意識から来るものなのだが、多分、生真面目な人からは嫌がられると思う。

以前、娘が私設の保育園に通っていたときのこと。園長が「ほっしゃん。」(旧)に激似だった。その園長が、年度が変わるか何かで保護者の前で挨拶することがあり、第一声、「保護者の皆さま、いつもきちんと保育料を支払って下さり、ありがとうございます」と言った。

当然ジョークだと思った私は、「あーはっはッは!」と声を出して笑ったのだが、笑ったのは私一人だった・・・。

 

少し前には、娘が通うサッカークラブで試合があったときのこと。若いコーチ陣のリーダーが何というのか、外見はサッカー少年がそのまま成長した感じなのだが、中身がゆるキャラのような好青年で。時に指導に熱中するあまり周囲が見えなくなるが、人柄の良さがカバーして熱さが鬱陶しく映らない。話し方がちょっと舌ったらずなのも可愛らしい。私は、このコーチの喋り方をマスターし、日々、娘に「コーチがいつも言ってることがみっつあります」と真似をしてはイヤがられているのだが、さて、試合の後に、コーチから子供たちにお話があった。

「コーチがいつも言ってることがあります。それは、お父さんとお母さんに感謝すること。」と始めたコーチが例によって舌ったらずな熱の入った口調で、「お父さんお母さんが、汗水垂らして働いてくれるおかげで、皆ユニフォームや靴が買えるんだよ」と続けたもので、私はツボって「うーふっふッフ!」と爆笑した。が、誰一人笑っていなかった・・・。

夫からは後で「あんなに笑うやつがいるか」と言われた。

 

また、つい先日のこと。仕事が全面的に在宅体制になるに当たり、部長と部署のメンバーと社内チャットでやり取りをしていた。部長が「部署から一名は出社することになった」と書くべきところを「部署から一命」と誤字をしたが、誰もそれに触れないまま話は進んだ。ついに我慢が出来なくなった私は、「『一命』はシャレにならないでしょー!」と書いた。すると部長は「あ・・・申し訳ありません、不謹慎でした」と。

 ・・・。


そこはさ?うまくノるべきではないのか?言った私が鬼みたいじゃない。
冗談が分からない奴だなッ( ゚д゚)、ペッ

まあ、上記の件は割とどうでもいいので、本題に行きたいと思う。

 

 

◇本題

同じチームの二十代の女の子が、滅多にお目にかからないほど賢くて美しいコだ。すらりと背が高く、構わない服装やノーメイクの時も多いが、それすらいいなと思わせてしまう。コミュニケーション能力が高くて、英語が堪能。人懐っこいが媚びは一切なく、若干男勝りでパワフルで、意外にずぼらな感じがまた愛らしい。

ふんだんな愛情と教養を与えられて育った人間というのは、ここまでコンプレックスと無縁になれるものなのかと感心する。

彼女は二年前にうちの部署に異動してきて、私とすぐに仲良くなり、ランチに行ったり、誕生日にはプレゼントあげたりと楽しい関係を築いている。そんな中で、先日起こった話です。 

彼女から、営業(29歳男)と私にメールが来た。↓こんな感じ。

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>●●ぱいせん
押してた甲斐があって、○○社から依頼来ました!

>やなぎやさん
私はまだ対応出来ませんが、勉強したい気持ちはあります。やなぎやさん主体で進めてもらって、私も訪問に同行させて頂いていいですか?

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私は、いつも真面目な彼女が仕事を取って浮かれてるのがカワイイなと思い、私にパスしてもいいのに自分でやろうとするのも嬉しかった。「『ぱいせん』てなんだよ」とおかしくて、これは突っ込まねば、と以下のようにメールを返した。


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「ぱいせん」にイラッとしました。

さて、アポの件ですが・・・(以下略)

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で、そのまま昼休憩に行った。
・・・ここまで読んで頂いた方は、この後、何があったか分かりますよね?
いま改めて見ると、なんて恐ろしい文章なんでしょう。

私は職場で、指導はするし注意はするが、感情的にはならないよう気を付けている。社歴が長い人間として、下の人間にはとにかく声をかけているので、為人は分かってもらっているし信頼もしてもらっているという油断があった。

昼から帰ってくると、彼女が席にいて、昼を取った様子がない。すぐに神妙な顔で立ち上がり、「やなぎやさん、ちょっとお話いいですか?」と言われた。
なんだなんだ、と思いながら、言われるまま後に続いた。

彼女は会議室に入ると、しっかり私の目を見ながら、「仕事上であんな言葉使いをして申し訳ありません。受注が取れて浮かれてしまいました」と頭を下げた。

 

・・・ん?

・・・え?

 

混乱した私は、やがて、床に叩きつけられるような気がした。

 

「ぱいせん!?もしかして、ぱいせんのこと!?」

 

会議室で「ぱいせん」を連呼。
その後、慌てて、冗談だったと説明したことは言うまでもない。

彼女は「本当ですか。。。」と強張りを解き、
「私の受け取り方が悪かったんです。メールを送ったあと、あ、ちょっと砕けすぎたかな、と後ろめたい思いがあったので、覚えがあるところを指摘された気がして。やなぎやさんと仲の良いことに、甘えて過ぎたかなとも思って」

彼女の目は、ホッとしたせいで、ちょっと潤んでいる・・・。

 

うあああ、ごめんごめんごめん。
私は自分が冗談耐性が強いために、どこまでも悪ノリしてしまうところがある。親しい人間に好意を示すとき、いじり倒すような絡み方をしてしまい、相手には冗談でなく本気に捉えられてしまったということが、あったでしょ、これまでも!ばかばか、わたしのばか!

それにしても、職場で絶対泣かないタイプの子が、こういうことで目を潤ませるのかぁ。昼も食べずに。まずメールで返信して私の反応を探る、ってテだってあったろうに。怖いだろうに、メールで済ませず面と向かって解決しようとする、そういうところだよね。

とか考えたら、もう、申し訳ないやら、かわいいやらで。

私たちは手を取り合い、「ごめん~」「いえ、わたしこそ~。よかったです~」と会議室で騒いだのでした・・・。

ホントにね、調子に乗らない!親しき仲にも礼儀あり!

『ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命』

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監督:ニキ・カーロ キャスト:ジェシカ・チャステインダニエル・ブリュール、ヨハン・ヘルデンベルグ/2017年
 
皆さん、こんにゃちは。
 
こないだ、超素敵な高校生男子を見たんですよ。朝、駅に向かうために家の近くの道を自転車で渡ろうとしていた時のこと。車が多い道で、歩行者の方の信号は押しボタン式になっているんですが、このボタンがある場所が狭い上に電柱が立っていて、自転車で入るには億劫な場所で。
 
私が家を出るのは朝早いので、車が通っていなければさっと渡ってしまうのですが、その日は途切れる様子がなく、こりゃボタンを押しに行かなければならないか、と思っていたとき。反対側から歩いてきた男子高生がチラリと私を見て状況を悟ったらしく、自分は横断歩道を渡らないのに通り抜けざま押しボタンを押し、軽く会釈をして通り過ぎて行ったのです。
 
↓これ図解ね。
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自転車が描けません。
 
素敵過ぎじゃない!?さりげないのが、またいい。
そんな行動を取る高校生がいると思わなかった私は、びっくりして見送ってしまった。恥ずべき四十代です。私も年と共に図々しくなり、例えば小学校で娘の友達に会えば「●●ちゃーん」とダッシュして驚かせたり、娘の友達が遊びに来て「トイレを貸して下さい」と礼儀正しく言えば、「いいとも言えるし、ダメだとも言える」と返して相手が凍り付くのを楽しむなど(娘が「もーお、お母さん!」と飛んでくるのがまたカワイイ)、修行を積んできたのですが、その時は咄嗟に「ありがとう」も言えなかった。
あの少年に幸があって欲しい。
 
全然関係ありませんが、本日はユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命』というモタッとした題名の映画をご紹介します。
 
 
 
あらすじ
1939年の秋、ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が勃発した。ワルシャワでヨーロッパ最大規模を誇る動物園を営んでいたヤンとアントニーナ夫妻は、ユダヤ人を強制居住区域から救出し、動物園に匿う。夫婦によるこの活動がドイツ兵に見つかった場合、自分たちやわが子の命も狙われるという危険な状況にありながら、夫婦はひるむことなく困難に立ち向かっていく。(映画.com)
 
 
またしてもナチスの悪行とユダヤ人を救った人々の「実話」の映画化となる。皮肉な言い方になってしまうのは、単純にどれだけ作りゃ気が済むんだい、というくらいナチス関連の映画が量産されているからだ。もはやこの問題は、様々な形でいじくり回されるコンテンツになってしまった。その上、「事実に基づいた物語」」と聞けば、どうしても「まーた、実話を掘り出してきて有難がるのか」と醒めた気持ちが先に立つ。
かつては友達に「前世でナチスに何かされたのか?」と言われるほど、さんざっぱら、この種の映画を観てきた私も、最近は余程興味を惹かれなければ手に取らなくなった。
 
大体、近年のヒトラーを捏ね繰り回した映画が好きじゃない。ヒトラーを親しみやすくコミカルに、ましてやカッコよさげに描いたり、こういうのって、他人が迂闊に踏み込むべきでない境界線をズカズカ越えるような無遠慮な印象を受けてしまうんだよね。
 
そういうわけで、私は帰ってきたヒトラー(2015)も好きじゃないし、ジョジョ・ラビット』(2019)にも懐疑的な視線を向けているわけ(未見だけど!)。例えば『コリーニ事件』(2019)のように、ドイツが己の過去の所業に真摯に向き合おうとする映画の存在を知れば尚更だ(いや、コリーニも公開前だけど!)。
 
いきなり脱線したが、新たに作られるナチス関係の映画を観るときは、「今、何故、これを?」のフィルタがかかる。この映画に対しても「動物が可愛そう」とか「なんて崇高な行動。これが実話とは・・・」なーんてカラッポな反応はしませんことよォォオッ。
 
 
 
◇美しい映画ですね
全編を通して、「美しい」映画と言えるでしょう。それを体現するのはもちろん、戦時中であろうとも見目麗しいジェシカ・チャステイン。大好きな女優である。けぶるような眉と、眉と目の間がすっごい狭いのが好き。作品は、なんといってもゼロ・ダーク・サーティ(2012)とクリムゾン・ピーク(2015)が良い。『ゼロ・ダーク・サーティ』は、まだブログを始めるずっと前、昔のインスタかなんかに「今年観た中で最高」と書いていたわ。
本作では、空襲やドイツの施策によって愛する動物たちを失う中、迫害されるユダヤ人を一人でも国外に逃そうとした実在の夫婦の妻を演じる。
 
この映画でのチャステインは、上の出演作に加えて女神の見えざる手(2016)やモリーズ・ゲーム(2017)などからイメージする強い女ではなく、使命を抱きながらも決して強靭とは言えない女性。物語は、ファッショナブルな格好で自転車に跨り、動物園の様子を見て回る生き生きとしたチャステインの姿で始まる。現場主義型のオーナーである彼女は、飼育員たちからの信頼も厚く、動物に「あなたは美しいわ」と自らリンゴを与えるような愛情深い人物であることが描き出されていく。
 
だが、それに注力するあまり、「動物園」と「戦争」が添え物になってしまったと感じたのは私だけだろうか・・・
空になった動物園にユダヤ人を匿い、国外に逃がすサスペンスフルなストーリーである。となれば、処分される動物たちに、虐殺されるユダヤ人の姿を重ねるのが定石なのではないだろうか?
 
動物園を去るものと、代わりにやってくるものの対比とか、「選別」されることの共通点とかさ、なんかシャレた工夫ができたんじゃないの?
 
だが、カメラは心を痛めるチャステインの姿を映し、動物たちは主にそんな彼女を引き立てるものとして存在する。もっと言えば、動物を愛でるチャステインを、夫が、そしてナチスの学者であるダニエル・ブリュールが「動物をかわいがるお前が一番かわいいよ」と愛でる映画だよね、これ。
 
そうじゃないって?だったら作り方が悪い!
 
チャステインの、動物に対して慈悲深い人物像も実に曖昧。「美しい」と称賛する象の出産には命がけで臨み、可憐なヒョウの子供をブリュールに引き渡すときには、抱き上げて別れを惜しむ。だが、ワルシャワ空襲時に自宅から避難する際は、息子がペットとして飼っていた動物(スカンクだかモモンガだか、もしくは別の生物)を「置いていきなさい!」と迷うことなく置き去りにする。
 
 
うん?よく分からない。
 
 
カメラは、チャステインがヒョウの子に頬ずりしてキスするさまをじっくりと映し、さらにそんな彼女に感情ダダ洩れの熱い視線を送るブリュールを映す。
動物なんか、どうでもいいんじゃないかな、この監督。
 
 
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悲劇の中で、チャステインが常に「庇護」されるが故に美しさを保っているのも、どうにも居心地が悪い。使命を共にする夫がおり、古参飼育員イエジクの彼女への忠誠は厚い。途中、ユダヤ人を匿っていることが家政婦にバレてしまうのだが、その家政婦も全てを悟りながら「奥様には良くして頂きました」と黙して職場を去るのである。
 
何と言っても、ブリュールがチャステインにベタ惚れているため、事が露見したときには死が待っているというドキドキ感がない。色仕掛けすれば何とかなるんじゃないの?と思うくらい、ブリュールはチャステインに執着しているのだが、貞操を守らせることで主人公を汚さないこの映画は、最後まで彼女主導の色仕掛けを行わせない。
 
 
何だか妙だ。
 

動物の交配と、チャステインに対するブリュールの欲望や夫婦のセックスは露骨に重ねて見せるのに、露骨な色仕掛けは禁じ、恥じらい抵抗させることで主人公の高潔を保とうとする。うまく言えないが、そのあたりが、どうもすっきりしなかった・・・。
 
そもそも、チャステインとブリュールには共通の目的もあり、ナチスであることを除けばチャステインは決してブリュールを嫌っているわけではない。利用されていたことを知ったブリュールが激怒するシーンで、本来ならば同志である二人が戦争により立場を異にする、そんな悲しさを描くこともできるはずなのに、ただ痴話喧嘩めいて終わってしまう。しかも、ここでのチャステインは、下品な口紅ばかりが目立つ。そういうわけで、私にとっては少々残念な出来の作品だった。
 
 

◇サービスタイムです
とはいえ、あれでしょ、チャステインのおっぱいに興味深々の男子一同、父兄諸君は「別に動物とか戦争とかどうだっていいよ」と思っているんでしょ。
 
苦境に耐えるチャステインがけなげ!とか、とにかくおっぱいがデカいとか、アホな感想ばかり世には転がっているに決まっているよ。そんな父兄諸君のために、私は露骨すぎて辟易したが、チャステインを愛でるのに最適なシーンを紹介しよう。
どうせお前らも、動物を愛でるお前が一番カワイイよ系の男子なんだろ?
 
初っ端の、象の出産の場面。
夫妻は客を招いて小さなパーティを催している。そこへイエジクが急を知らせにくる。象が出産したが、赤ん坊の象が息をしていないというのだ。現場に駆け付けたチャステインは、興奮して攻撃的になっている親の象をものともせず、産まれたての象を
介抱する。何事かとパーティ会場から駆け付けた人々は、象が息を吹き返す奇跡の瞬間を目撃する・・・。

ってな感じなんだけど、「しっかり!」「息をして」という度に、たださえバックリと胸元と背中の空いたドレスがズリズリと落ち、もはや象が生きるかどうかより、「落ちる!」「見える!」ばかりに気を取られてしまう罪作りな場面。
 

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ここは気が散るでぇ。
赤ん坊の象は、気が付いたら生き返っていた。
 
また、バイソンの交尾をさせる際、ブリュールが縄を引きながら露骨にチャステインの背後から身体を押し付けてくる場面では、バイソンの発情とブリュールの欲望が露骨に重ねられる。さらに、のちに嫉妬に身を焼いた夫が彼女と交わるシーンでも、やはり動物たちの交尾を連想せずにはいられないのだ・・・(なんだそりゃ?)
 
 
ごめん、あまりサービスタイムにならなかったわ。
 
 
強かにナチスを出し抜く女性像を期待したのは私の勝手だが、虐殺される動物に、ユダヤ人の姿ではなく、あくまで主人公を重ねる自己主張の強い演出にシラけてしまったというところ。チャステインの服装と髪型は好きだったな。
 
それにしても、ダニエル・ブリュールは、一体どれだけナチの間男を演じれば気が済むのかしら?

『昼下がりの決斗』

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監督:サム・ペキンパー キャスト:ランドルフ・スコット、ジョエル・マクリー/1962年

 

皆さん、こニャンちは。お久しぶりの更新となります。

何が忙しいって、在宅勤務&期末のダブル攻撃もしんどいけど、休校中の小二の娘がずっと家にいたり仕事が終わればすぐ保育園に息子を迎えに行ったりと、なかなか自分の時間が取れない。でも、娘とずっと一緒なのも楽しい。
 
娘は、本当に姉弟か?と疑いたくなるほど息子とは真逆で、明るく優しく、ちょっと甘えん坊で、それでいて自分の意志を貫くことができるカッコいい女子です。
好きな食べ物はナスと蕎麦。趣味は温泉に入ること、好きなおやつは茎わかめ。今も隣で食べてます。

そんな娘の今日のハイライトは、「(HUNTER×HUNTERの)ハンターが現実の職業だと思っていた」です。
 
ちなみに息子の最近のハイライトは、「おかあさーん、私のパジャマ、襟が伸びてきちゃった~」と言う娘に対し、「ああそれね、おねーちゃんが寝てる間に、きんにくもりもりの人がおねーちゃんのパジャマ着て『フンッ!』って力入れて伸ばしてたよ」とゲラゲラ笑っていたことです。どっから来るんだよ、その発想。
 
本日はサム・ペキンパー監督の『昼下がりの決斗』の感想です。
 
 
 
◇あらすじ

ティーブ・ジャッドは、かつて名保安官として鳴らした男だったが、今では西部の人々からも忘れ去られていた。ところが、シエラ山中のコース・ゴールドに金が発見され再び彼が脚光を浴びることになった。コース・ゴールドの人たちが、掘り当てた金を預け入れるために銀行の出張を熱望したため、その重任にふさわしい人として正義の男ジャッドが選ばれたのだ。黄金を預かっての帰りの山道はあらゆる危険が予想されるため、彼は協力者2人を雇うことにした。(映画.com)

サム・ペキンパー監督第二作目だそうです。 

ふかづめさんが「フォード、ワイルダー、ホークスは見といて損ないよ、あんたはペキンパーとかアルドリッチがいいんじゃない?」と言ったので、まずはジョン・フォードを全部観ようとしてたら、「もういいでしょ、次に行きなさいよ」と言われたので、ペキンパーに移りました。真面目なオーバーフォーティ、滝川クリステルと同い年です。

フォードはわが谷は緑なりき(1941)が素晴らしかったですね。

 

いやでも、ホントに観始めてみて良かった。俳優の知識がないので、その辺の話はまったくできませんが、楽しいです。
ちなみに、これまで観たことがあるペキンパー作品は戦争のはらわた(1977)のみだった。思い出しただけで鳥肌が立つ文句なしの名作である。むっさいけど。
 
ペキンパー=バイオレンスのイメージであると聞くが、この頃は(と言っていいのか)バイオレンス色はなく、かつては優れた保安官であった老人が残り火を燃やすさまが、哀愁深く情感豊かに描かれる。
鉱山から銀行へ金を運ぶ仕事のために、ある町にやってきたスティー(ジョエル・マクリー)。彼の名声は過去のものであることが、冒頭から説明される。スティーブが町に入ると人々から歓声が上がり、彼はそれが自分に向けられていると思い応えるが、実は馬のレースへ送られたもの。「どけ、爺さん」などと言われてしまう。また、銀行で渡された契約書を裸眼で読むことができず、トイレに行き老眼鏡を取り出して読んだりする。
 
危険な仕事ゆえに協力者として雇うのが、偶然再会したかつての助手ギルランドルフ・スコットだ。ギルもまた老いており、詐欺まがいの商売で小銭を稼ぐ日々だった。ギルは自分の子飼いで血の気の多い青年ヘック(ロナルド・スター)を同行させ、道中で金を奪おうと目論む。
 
結束のない三人の旅の物語は、山に向かう途中で立ち寄った牧場の娘エルサ(マリエット・ハートレイ)の登場から、方向性を変える。ヘックがエルサに一目惚れしてしまうのだ。そこからは、ヘックがエルサにちょっかいを出したり、エルサがまんざらでもなさそうだったり、敬虔すぎるクリスチャンでエルサに近寄る男を異様に警戒する封建主義の父親と揉めたり殴られたりといった展開が続く。
 
 
あの・・・。まだ目的地に着いてもいないよ。早く出発しませんか。
 
 
ついでに私も脱線するが、いい加減にしてくれないかな、『決闘』という言葉のつく題名たち。書き始めるまで、この映画のことを荒野の決闘(1946)だと思ってたけど、それはジョン・フォードだったでしょ。でも『真昼の決闘』(1952)って映画もあるでしょ。
 
大体さあ、『荒野の決闘』の原題って『My Darling Clementine』だよ? 最初に流れる「オーマイ ダーリン、オーマイ ダーリン、オーマイ ダーリン クレメタイン♪」の曲が素敵なのに、それが何故『決闘』になってしまうの。
それにしてもさあ、この歌って、日本では勝手にどっかの山岳部の連中が「雪よ岩よ われ等が宿り 俺たちゃ 街には 住めないからに♪」って歌詞にしちゃって、それが罷り通るんだから意味がわからないよね。
 
 
 
◇悪夢の結婚式
さて、大輪の薔薇ならぬ野に咲く花といった風情のエルサは、見た目通り雑草魂を持ったジャジャ馬だった。鉱山で金を掘る男たちの中に求婚者がいるらしく、「あたし、山に行ってビリーと結婚する!」と家出してスティーブ一行に加わる。カメラはエルサの雑草パワーと、彼女のことが気になって仕方ないヘックへと向けられ、ジジイ二人は恋に浮き立つ若者の諫め役に回る事態に。
 
私が「ああ、そういう話なのね」と気づくのが遅かっただけで、本作は金を無事に運べるか?に纏わるサスペンスや、敵役となる悪たれ五人兄弟とのガンアクションがメインではなく、かつては活躍した老人たちが、新しい世代のために道を拓いてやる話なのだよね。途中までは若者たち中心の物語が続くが、だからこそ最終的に、老いたるものの魅力が光る。
 
エルサが求婚者のビリーの元へ辿り着いた辺りからは、実に不穏な空気が漂い出す。掘っ建て小屋のバー兼売春宿で二人の結婚式が執り行われるのだが、付き添い人となる女主人と美しく着飾ってはいるが空虚な女たちは、何かを含んだ視線をエルサに送る。ビリーの四人の兄弟たちは、花嫁を得る兄をからかう、というには行き過ぎた野卑な言動を繰り返す。それもそのはず、ビリーらは、花嫁として一族に加わる女を「共有」することを慣習としてきたのだ。
 
 
うえ~、最悪や~。おまけに全員クサそう。
 
 
げらげら笑いながら踊る招待客、毒々しい化粧の女主人、ベロベロに酔っ払いながら結婚宣言を行うアル中の判事、襲いかかってくる夫の兄弟たち。悪夢のような乱痴気騒ぎの中、エルサを救いに現れたのはスティーブだった(ヘックも来たが、すぐ殴り倒された)。
この事件をきっかけに、エルサを親の元へ帰そうとするスティーブ、怒りながら花嫁を奪還しようと追ってくるビリーら兄弟との闘いが始まる。
 
 
 
◇毒には毒を
草臥れながらも自尊心を失わない正義漢スティーブと、そのスティーブに半分は尊敬の念、半分は嫉妬心やコンプレックスという複雑な思いを抱え、どこかケチな男として描かれるギル。そして、この物語をより面白く盛り立てるのはギルの方だ。なぜならギルは、誠実なまま老いたスティーブと異なり、悪党の側へ片足を突っ込んでいるからだ。だからこそ、スティーブには思いもつかない方法で、コトを片付ける。
 
例えば、悪たれどもからエルサを取り返す手段。一番の障害は、この結婚が正式な資格を持つ判事が認めたリーガルなものであることだ。スティーブは、あくまで正論で立ち向かおうするが、そんなものが通用しないと知るギルは、酔っ払っている判事にさらに酒を浴びせて脅し、彼の資格を無いものとすることで無理やり結婚を無効にしてしまう。
 
まさに毒を以て毒を制す。こういうときに、毒の役を担うキャラクターが魅力的に見えるのは当然のことではないかー。
 
その後、スティーブと衝突して一行から離脱したギルは、エルサの父の牧場で待ち伏せていた五人兄弟とスティーブらの銃撃戦を高見から見物する。だが、スティーブが撃たれたのを見ると、条件反射のように馬を走らせて参戦。
 
うわ~、ここ、じわっとなる~。
 
何だかんだ言いつつ友のピンチに本能で身体が動く。そして、悪党になりかけていても、かつて名保安官の隣にあった日々のことは身に刻まれているのだ。
 
若者を中心に映していたカメラは、本来の主役の老人たちへと向けられ、その老骨魂をしっかと観客に届けてくれる。確執を乗り越え、「もちろん昔のように正面突破だ」と敵に向かって同じ歩幅、同じリズムで歩き出す二人の姿にグッと来る。お勧めの激シブ西部劇です。
 
さて、そんな感じで、やなぎやは、また在宅勤務へ戻ります。
 
ところでさ~、ランボー ラスト・ブラッドの公開、6月12日から26日に延びた~。
同じ12日に、『犯罪「幸運」』と同じくフェルディナント・フォン・シーラッハ原作の『コリーニ事件』が公開になるから、ハシゴしようと思ってたのにッ。

『ランボー 最後の戦場』

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監督:シルベスター・スタローン キャスト:シルベスター・スタローン、マシュー・マースデン/2008年
 
皆さん、こんばんにゃ。
 
何だか、段々、社会全体が疲れてきていますね。こういうときこそ、人とのコミュニケーションを怠ってはなりません。ただでさえ、スマホやネットのせいで他人と話せない社会になっとるでね。
 
例えば、私のように、スーパーで買ったものを詰めているときに、カゴを戻す場所が遠くて手を伸ばそうとしているおばちゃんのカゴを受け取って代わりに戻してあげるとかね(ニコッ)、くるくる巻いてあるビニール袋を取れずに苦労しているおじいちゃんの代わりに取ってあげるとか、そして私も大概、指に脂がなくなってきているので代役を買って出たくせに取れずに照れるとかね、そんなんでいいですよ。
 
マスクはハンカチと髪ゴムでも作れるからネ! 
 
そんな平和主義の私がお送りする、本日の映画はランボー 最後の戦場だよ!
 
 
あらすじ
シリーズで初めてスタローン自らメガホンを取り、ミャンマーの社会情勢を盛り込みつつランボーの壮絶な戦いを描き出す。タイとミャンマーの国境付近でミャンマー軍事政権によるカレン族の迫害が激化。タイ辺境のジャングル地帯で暮らすランボーは状況を知りつつも静観の構えを見せていたが、彼がミャンマーの村へ案内したNGO団体が行方不明になり、救出のために再び戦いの中に身を投じていく。(映画.com)
 
ランボー(1982)について詳しく語ることは、もはや不要だろうが、さらっとおさらいする。誰のために。私のために。
ベトナムの戦場では特殊部隊に所属しその働きを讃えられたランボーは、帰国すると一転、大量殺人者だ赤ん坊殺しだと周囲から謗られる。訪れたある町で、一人の保安官との諍いをきっかけに、州警察や州兵を相手取った大規模な戦いへと発展、町を戦場へと変えていく。面白いのが、戦ううち、ここがアメリカなのかベトナムなのか、現実との境界線が曖昧になり、それにより殺人のスキルが研ぎ澄まされていくことの皮肉さ。また、彼にとってベトナムが、忌まわしくも懐かしい地であるという複雑な感情が、哀愁漂う無法者を作り上げているのが魅力的だ。
 
暴れ狂うランボーには、ベトナム戦争で疲弊し、挙句、敗戦したアメリカの姿が投影されている。1960年代後半から1970年代半ばにかけてアメリカでは、ベトナムの地で泥沼の戦いを続ける政府へ反発から、反体制的および反戦をテーマにした作品が数多く製作され、それらは「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる。説明の必要もないだろうが、俺たちに明日はない(1967)、イージー・ライダー(1969)などが、その代表作と言われている。
 
この年表に従えば、1982年製作の『ランボー』はニューシネマの潮流から外れているわけだ。
 
ベトナム戦争終結とともにニューシネマの時代が終わると、今度は鬱々とした空気を払うような映画、ジョーズ(1975)、『ロッキー』(1976)、スター・ウォーズ(1977)などに代表される痛快で明るく、夢と希望を描いた映画が人気を博す。ここで注目すべきは、ニューシネマに取って代わった作品群の中に、スタローンの出世作となった『ロッキー』があることだよね。あのような映画を作っておきながら(もちろん『ロッキー』も死ぬほど好きだ)、1982年に「おい、忘れてくれるな」と言うように、ベトナム戦争の傷を再びアメリカに思い起こさせたスタローン。
 
以下に「シネマ一刀両断」で、ふかづめさんと対談したときに自分が言った言葉を引用。
 
ランボー』の「何も終わっちゃいません、何も」から始まる長台詞で、観客はランボーの心中を知って胸打たれると思うんだよね。アレがなかったらどれだけの人がベトナム戦争の傷を感じとれたのかな?
 
かつての上官トラウトマン大佐の「戦争は終わったんだ」という説得に対し、ランボーが激白する際の台詞なわけだが、この台詞なくして、ベトナム戦争を知らないアメリカ以外の国の人々が「ベトナム戦争の傷」を知ることは難しかっただろう。保安官たちに対しては碌に弁解もしない寡黙なランボーが、親同然のトラウトマンを目の前にして爆発するように心中を語るこのシーンに、ランボーの苦悩と反戦のメッセージが込められ、ゆえに人々の胸を打った。
 
ランボー 最後の戦場を『ランボー』に並ぶ名作だと思うのは、同じく反戦の意図を込めながらランボーの言葉が極力排除され、監督スタローンが見せたかったものがストレートに表現されているためだ。とにかくランボーが喋らない。私の記憶する限り、「家に帰れ」と「お前が決めろ」しか言っていない。
 
衝撃的なショットとシーンにより、ただ「見ろ」とするスタローンからの力強いメッセージ。
 
ランボー 怒りの脱出』(1985)、ランボー3 怒りのアフガン』(1988)は、アクションを中心に娯楽色を強く打ち出したために一作目より低く評価されがちだが、どの作品も好きな私にとっては、『最後の戦場』にそれら全てからの継承があることも嬉しい。
 
例えば、捕虜の奪取とジャングルでの戦いというシチュエーションは『ランボー 怒りの脱出』と同じだが、あのときは死なせてしまった信念を持つ女性(ランボーに取っては神聖なもの)を本作では救うことで、長く抱いていた悔恨の念が昇華される。『ランボー3 怒りのアフガン』とは、それまでがランボー自身の戦争であったのに対して他者の戦争への介入であることが共通しており、ヒーロー性がより色濃い。
 
過去三作の血筋を受け継ぎつつ、観る者に映像で訴えかける強烈な反戦映画。さらにランボーのヒロイックな魅力と緊迫感のあるアクションといったエンタメ性も存分に織り込んだ、文句なしに100点満点の戦争映画なのだ!
 
 
ハァ、ハァ、ハァ・・・。
言いたいことは全部言ってしまったが、今日はここでお時間というわけにもいかない。ここからはストーリーや個性豊かなキャラクターを追いつつ、ゆるりと語って参りましょう。あ、ネタバレです!
 
 
 
◇ミャンマーの海賊コワイ
あらすじの通り、平和主義のキリスト教NGO団体のメンバーたちが、危険を冒してミャンマーの村に薬を届けたいというので、渋々ボートを出してやるランボー。メンバーの一人サラジュリー・ベンツニコール・キッドマンナオミ・ワッツを足したような顔をしている。女性に弱いランボーです。
 
川旅の途中で、海賊に襲われます(川だけど海賊って言ってるんで)。海賊=ジョニー・デップと思っている人には是非観て頂きたい。こえェよ。ただただ、女を寄越せ!って言ってくるミャンマーの海賊こえェ。
 
ランボーは素晴らしいテクニックで海賊たちを射殺、ここで「ノー!」と叫ぶNGOのリーダーが鬱陶しい(殺らなきゃお前の女がヤラれるんだよ!)。村に辿り着いた一行は村人たちに薬を与え聖書を読むなどして交流をするが、平和な時間も束の間、政府軍が押し寄せて村人たちを虐殺し、サラらを連れ去る。ランボーは米国政府が雇った傭兵たちと共に、彼らの救出へと向かう。
 

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散々な目に遭うジュリー・ベンツ
 
 
ここまでで語るべきは二か所。ひとつは虐殺のシーケンス。
実際に銃器で撃たれた人間の体がどうなるのか、一方的に行われる蹂躙とはどういうものなのかをじっくり観客に理解させるパートとなっている。人体が破壊されて吹き飛び、子供が刃物でゆっくりと胸を貫かれ、赤ん坊が火に放り込まれる、目を覆いたくなるような映像が続く。スタローンのメッセージが一番強く出ており、また、平和主義のサラたちの理想が粉々に打ち砕かれる場面だ。
 
二つ目は、その後、傭兵たちが村に辿り着いたときのシーケンス。百戦錬磨の彼らが、あまりに凄惨な現場に鼻を覆ってたじろいでいると、ミャンマー軍が捕虜の村人達を連れて現れる。地雷を投げ込んだ田圃に捕虜を追い立て、誰が生き残るか賭けをしようというのだ。為す術なく身を隠す傭兵たち。そこへ現れたランボーが、お馴染みの武器であるボウガン(コンパウンドボウという武器らしい)で、あっという間にミャンマー兵を倒す。矢を構えるランボーを下から斜めに捉えたショットがめちゃめちゃカッコいい。
 
そして、予想以上の地獄のあり様に、引き返そうとするリーダーの鼻先に矢を構えて言う。
 
「こんなところにいたい奴はいない。だが俺たちのような男の仕事はここにある」
「無駄に生きるか、何かのために死ぬか、お前が決めろ」
 
 
ちびる・・・。
 
この作品の一番ホットな場面はココ。説得力が半端ない。容赦ない虐殺と、傭兵たちが躊躇するほど凄惨な跡地を見せられた後では、何の躊躇もなく「行くぞ」と言い切るランボーの胆力に鳥肌と失禁を禁じ得ない。戦争のリアルに重きを置くどころか、シリーズトップのヒーロっぷりとなっております。
 
 
 
◇キャラと兵器を楽しもう!
映画の途中ですが、傭兵たちのキャラもなかなかに立っているので、何人かご紹介しましょう。

まずはこいつ、スクール・ボーイ(マシュー・マースデン)
 

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いい奴だし、カッコいい。
初登場時、ボートの中の台詞が印象的である。他の傭兵たちが、まんまと捕まったNGOの皆さんを「アホどもが」と腐す中、一人悠々と「えらいよ。丸腰で本や薬を届けるなんて」と格の違いを見せつける。何でこの仕事してるの?そしてこんな仕事しながら、なんでそんなイイ奴でいられるの?
 
 
 

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名前は忘れたが、浦和レッズのFW興梠慎三に似ていることから何だか気になる存在になってしまった髭面の人。私の心の中でだけ「シンゾウはん」と呼ばれる。残念ながら終盤で死んでしまう。
 
 
 

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傭兵部隊のリーダーで、分かりやすくランボーの凄さを演出するために設置された生贄キャラ。通称、生贄ハゲ。「おいボート屋」「ボート屋は黙ってろ」とバカにしていた相手が実は殺しのプロだったことを知った後は、大人しくランボーの指示に従う。ケガした足を、ミャンマー軍のホモのヒゲに、グリグリされるのがかわいそう。
 
反目し合っていた彼らと、行動するうちに戦友のような意識が芽生える感じがいい。何しろランボーと言えば孤独、喋る相手は大体トラウトマン。
サラを救い出して村から脱出するとき見張りに見つかり、身を投げ出してサラを庇うランボーと、時間に遅れたランボーを、一人待ってくれていたスクール・ボーイが見張りの首を吹っ飛ばして救うシーンは、お約束なようでいて胸アツだった。
 
ところで、遅まきながら未見の人に言っておくと、本作はグロいって言えばグロいですよ。
 
ただ、様々登場する武器とそれを使いこなすキャラクターに注目すればもう、すごいもんを見せてもらったな、という感想にしか至らないわけで。
 
イケメン・スクール・ボーイが使用するライフル「バレットM82A1」は狙撃した兵士の頭部を丸ごと吹っ飛ばし、凄まじい破壊力を観客にみせつける。スマートなスクール・ボーイのキャラクターに合ったクールな武器だ。
 
また本作最大の武器となる第二次世界大戦の遺物「トールボーイ」。この大型爆弾を使った罠を仕掛けるのは、やはり戦争の遺物とも言えるランボーだ。また、終盤、ミャンマー軍に捕らえられた傭兵たちを救うためにランボーがぶっ放す「ブローニングM2」は、人間をたちまち赤い肉片へと変える。この恐ろしい武器は人間兵器であるランボーそのもの。
 
「ブローニングM2」を構える兵士の後ろに、ぬうと現れるランボーのドアップで始まるミャンマー兵殲滅のシーケンスは、前半の虐殺に対する究極のカタルシスタイム、二度目の失禁ポイントだ。
 

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これがなくっちゃいけない。
反戦メッセージ、現実を見ろと思考を促すだけでは戦争映画とは言えない。ミャンマー軍の悪辣さがあってこその壮絶な復讐劇が、本作を最高の戦争映画として輝かせる。

勘違いしている人が多いので言っておくと、実際にミャンマーを含む軍事政権による少数民族の弾圧がどのようなものであるのかは別の話だ。映画では、軍事政権は血も涙もない完全な悪、村人とNGO団体は善の存在として描かれ、ランボーが悪をぶっ潰す単純な勧善懲悪の物語が展開される。映画の中でスタローンにより作り出された「現実」に息を飲み、カタルシスに酔えばいいだけのこと。
 
近代兵器の恐ろしさを容赦なく見せつけつつ、至高のエンタテインメントを演出してくれたスタローンに、ありがとう。
そしてラストは、長い年月をかけてようやく地獄の故郷を捨て、本来の故郷に戻っていくランボーの姿に感涙。ウンウン、長かったね・・・。
 
と思ったのに、今度はメキシコに行くのかよ。
ランボー ラスト・ブラッドは6月12日公開です。有給決定。
  
 

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こちら、浦和レッズのヒーロー、シンゾウはん。
 
 
※兵器の名前はネットで調べました。
引用:(C)2007 EQUITY PICTURES MEDIENFONDS GMBH & CO. KG IV

『ランボー 最後の戦場』を書こうと思ったが脱線した

先日、親友のリエコを「ランボーの新作が始まったら観にいこ」と誘いました。当たり前だと思って。ランボーの新作が始まったら映画館に行くのは、もう空気を吸うくらい自然なことだと思って。でもリエコは「私、一作も観たことないもん」と言う。優しい私は「大丈夫!私が最初から、手取り足取り導いてあげるわ」と提案しました。


そうしたらホラ、ランボーごっこができるじゃない?仕事や家事が終わるたび、「なにも終わっちゃいません、なにも!」って叫んだり。もしリエコがラーメン屋のパートをクビになったら、「ここには駐車場係の仕事すらないんだ!」って嘆くとかさ。

わたしたち、そんな遊びを繰り返してきたじゃない。


ところが、リエコのやつ何て言ったと思います?「スタローン、今は油が抜けたからまだ観られるけど、若い頃って、病気でさっぱりしたものが食べたいときに目の前に突きつけられる脂ましましのとんこつラーメンって感じだからムリ」。

 


アホめ・・・。

 

スタローンの魅力も分からずに、「メイクを取ったペニーワイズ、マジでイケメン~」などと年甲斐もなくキャッキャッとはしゃぎやがって。オーバーフォーティにはオーバーフォーティの嗜みってもんがあるだろうが。

私はスタローンが死ぬほど好きだし、なんといっても『ランボー』に『ロッキー』とものすごい作品を二つも持ってんだぞ!


大体リエコには、年齢に対する自覚が足りない。確かに異様に若くは見えるが。

先日は地元駅前で黒人にナンパされ「23歳に見えるって言われた!」と喜んでいた。声かけた黒人もびっくりだよ。毎日100人くらいに相手かまわず「キミ、23歳くらいに見えるね!」と言っているに違いないのに、本気で信じる40歳がいるとはな。


遡れば、忘れもしないタイ旅行。私もリエコも20代半ばだった。宿泊した川沿いホテルからは、駅や観光場所との行き来のために専用の船が出ていて、その船には雑用係のボーイが乗っていた。アホチャイだかパーチャイだかいう名前のお調子者で、全ての日本人の女の客に「カワイイねー」と声をかけていた。完全無視案件、なんならシャラップ案件。日本人の女が全員「かわいい~」しか言わないと思ってんじゃねえよ。

だが、人を無視することをしないリエコはアホチャイに都度応じ、そのうち「かわいいね~、メアド教えて」と言われてメアドを教え出す始末。アホチャイもびっくりだよ、多分1000分の一くらいの成功率だっただろうから。

船を使うたび、アホチャイが調子に乗ってリエコに犬のようにつきまとい、私は無視を決め込んでいたが、挙句リエコのやつ、一人優雅に川風を浴びている私を指さし、アホチャイに何て言ったと思います?


「ねえ、あの子にもメアド聞いてあげてよ~」。


アホめ・・・。


おお何ということ、アホチャイ(プレデターみたいな顔してた)が、憐れみを含んだ薄ら笑いを浮かべて私を見ている!

あの屈辱は忘れまい。


あと、道ですれ違う全ての犬に声をかけるのをやめてくれ。京都旅行に行ったときは最悪だった。やたらと犬を散歩させている人が多い場所に行ってしまい、いちいち「触らせてもらっていいですか」と声を掛けて飼い主と談笑、やっと歩き出したと思ったら、3メートル先の別の犬にも声を掛けるのだ!進まない、目的地につかない。


あと、ホームレスに道を訊くのもやめて欲しい。

ティッシュとかチラシ配りの人に丁寧に「結構です」って言わなくていいよ。居酒屋の呼び込みにいちいち「あ、他の店を予約しているんです」って言う必要もないんだよ!


でも、『IT イット“それ”が見えたら、終わり。』のことはごめん。IT全然怖くないよって私が言ったから、子供に観せちゃってギャン泣きさせたことはごめん。お宅の子供が泣いたって聞いて、うちの子供には観せるのやめたこともごめん。


そんなわけで私には、意地でもリエコをランボー ラスト・ブラッドに連れて行く理由がある。本日は『ランボー ラスト・ブラッド』の予告映像解禁を祝してランボー 最後の戦場をご紹介しようと思いましたが、お時間となりましたので、お別れです。

多分、これから始まる期末のせいで、しばらく更新ができません。寂しいな。チャオ。

 

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『ワイルドライフ』

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監督:ポール・ダノ キャスト: キャリー・マリガンジェイク・ギレンホールエド・オクセンボールド/2018年
 
以前、世間の四、五歳児のブームが「ウ●コ」であるところ、うちの息子の場合は「ブタみたいだね。」であると報告をしました。ところが最近になって、「おんか(おかあさん)、この絵見て~。水色のウ●コ!」などと言うようになり・・・。遅れてのウ●コ期到来。世のガキのウ●コ期が、うちの息子のブタ期なのだと思っていたのに、これはどういうこと?息子にだけ余計なブタ期があったということ?
 
このウ●コ期、就学前には終わると思うでしょう?
小二の娘の報告によれば、先日給食に渦巻き状のデニッシュが出た際、男子がそれを分解して細長くし、「ウ●コ!」と言ったそうで。しかも、それをやったコに他の男子が「マジでお前、天才だな・・・」と羨望のまなざしを向け、次々とデニッシュを解体し出したというのです!男子のアホ期、いつ終わるのでしょうか。
 
最近の息子の流行りは私に「おんかは、まだつかえるよ」と優しく囁いてくること。「おんかはまだ、ここ何年かつかえるよ」「おんかは、まだ下駄としてつかえるよなど日々恐ろしいアレンジを加えてくる五歳児!ひぃぃぃ~っ、本気で将来が心配。
 
さぁ。本日はアホ男子とは縁遠く、大人にならざるを得なかった少年のお話ワイルドライフです。少年ジョーを演じたのはエド・オクセンボールド。おじいちゃんのオムツ&おばあちゃんのオケツ映画として知られる『ヴィジット』(2015)で、少年タイラーを演じていたコだよ。あのラップは最高だったよね。
 
 

◇あらすじ
1960年代、モンタナ州の田舎町で暮らす少年ジョー(エド・オクセンボールド)は、仲の良い両親ジェリー(ジェイク・ギレンホール)とジャネット(キャリー・マリガン)のもとで豊かではないが幸せな毎日を送っていた。ところがある日、ジェリーがゴルフ場の仕事を解雇され、山火事を食い止める危険な出稼ぎ仕事へと旅立ってしまう。残されたジャネットとジョーもそれぞれ仕事を見つけるが、生活が安定するはずもなく、優しかったジャネットは不安と孤独にさいなまれるようになっていく。(映画.com)
 
お待たせしました、ジェイク・ギレンホール祭り第二弾です。いつ、そんな祭りが始まったんだ。さっきだ。そして今回で終わる。

監督は、本作が初監督作品となるポールのダノちん。ジェイクが立ち上げたナイン・ストーリーズ・プロダクションズ製作作品です。
ダノちん&ジェイクと聞いて誰しもが思い浮かべるのが、コレ↓ですよね。
 

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ジェイクの取り調べに、「ノオーゥ」「ノオーゥ」と気持ちの悪い声を出すダノちん(『プリズナーズ』)

 
 
父親の失業をきっかけにバラバラになっていく家族を描いた本作。
物語は、越してきた地で得たゴルフコーチの職を、ジェイクが早々にクビになるところから始まる。この時点では、まだ優しく、しっかり者の妻キャリーは「あなたならもっといい仕事がある」とジェイクを励まし、「父さんは失業する度に仕事を見つけてきた」とエドを諭す。しかし、家庭に燻っていた「職の安定しない父親」という下火は、ついに大火事を引き起こすことになる。
 
家族の変化は、主にエドの目を通して描かれていく。ゴルフ場で父を見守るエドの不安気な表情から、観客はジェイクが解雇されたことを知り、キャリーがその事実を告げられるシーンでは、彼女に据えられたカメラが、エドが何より母の反応を心配していることを伝える。
 
このように、エドは自分のことよりも両親に気を配る大人びた少年だ。対して、本作のジェイクは、甘ったれでプライドの高さゆえに転職を繰り返しがちなドリーミング野郎。後日、ゴルフ場のオーナーからあった復職の申し入れも蹴り、ついには「俺は山火事を消しにいく」と家を出ていってしまう。
 
山火事は、その出来事自体は重要でなく、火種がやがて燃え上がる様が、また「下草を焼き払い森を再生させる」という点で、家族の有り様を象徴している。
 
エドは父の行動を、驚きつつも受け入れようとする。初雪が降る頃には父は帰る、父が帰れば家族は元に戻る、というエドなりのゴールがあるからだ。だからこそ、父よりも醜く年を取った男と関係を持ち、子供のように甘える母に理解が及ばず、困惑してしまう。
 
 

◇バービー人形としてのキャリー
ここからのキャリー・マリガンの、良き妻良き母であった女性が変貌していく様は見ものだ。行動や口調も然りだが、心理的な変化を表すファッションが楽しい。まずはピンク色のカーディガン。最初にこれを羽織っているキャリーは慎ましくも野暮ったいが、ジェイクが去った後、同じカーディガンを素肌に着て庭に立つ場面では憂いを含んだ表情も相まって色っぽい。
 
突然、私のファッション感をぶちこんですみませんが、カーディガンってのは、すごいヤツだと思いませんか。シャツの上に羽織ると清潔感があってキチンと見えるし、同じ服装でも袖を通さず肩に掛ければ、ユルッと力の抜けた感じに。「オンオフの切り替えにマストなヘビロテアイテム☆オフィスでのデキる女風からカレとの夜デートでは、さりげなくスキを演出して!」 とか定期的にファッション誌でも取り上げられている、たぶん。
前ボタンを留めて一枚で着れば、カジュアルにもセクシーにも使えるじゃないですか(あ、こういう言い方するから、息子が「つかえる」とか言うのかしら・・・)。
 
キャリーのカーディガンの着方を見て、私は、ほらね!と思った。
「おかあさん」だった人が、見知らぬ女性に見える瞬間、それを演出する小道具としての厚ぼったいピンクのカーディガンです。
頭を包んでいるスカーフは、ちょっと私には使いこなせない。あと、私はリカちゃんでなくバービー派だったの。
 
赤のセーターに深緑のワンピースといったキャリーの服装は彼女の変化を観客に印象付け、若い頃に好きだったという、やや幼稚な紫のブラウスをはしゃいで着て見せる頃には蓮っ葉ささえ感じさせるように。極めつけは、浮気相手のミラー宅を訪ねる際の背中と胸がばっくり開いたドレス。比例するように、彼女の振る舞いはヒステリック且つ幼いものへと変わり、反抗期のごとく親を放棄した母と冷静にならざるを得ない子の、母子逆転現象が起こってゆく。
 
その間、山火事を消しに行ったジェイクは、まったく出てきません。
 
 

◇家族は再生できるか
キャリーの行動を「浮気」と呼ぶのは、どうも違和感がある。ミラーに惹かれたというよりは、若くして結婚した過去を悔い、別の人生をやり直したいと望んだ結果、短絡的な思考が向かわせた先が権力のある男を得るという選択だったのだろう。ミラーは、たまたまそこにいた金持ちで包容力がある(ように見える)男に過ぎない。
 
やがてキャリー自身も、この状況が本当に自分が望んだものであるのかが分からなくなった頃、ようやく初雪が降る。母を持て余し、父のいる山に向かおうとバスを待つエドの前で雪が舞い出し、エドがバスに乗らずに駆け出すシーンは美しい。
 
さて、初雪とともに舞い戻ったものの、妻の裏切りを知って荒れるジェイク。
 
あ、やっぱり、そこは怒るんだね・・・。怖い怖い、その、いきなりバーン!って席立ったりされるのコワイ。いやまあ、怒るだろうけど、放ったらかしてったの、おまえやん?
 
キャリーの相手がミラーであると知ったジェイクはミラー宅に突撃、ガソリンを撒いて放火する。
 
 
さっきまで火ィ消しに行ってたのに、火ィつけた。
 
火消したいの?つけたいの?
さすがジェイク、考え得る中でも最悪の報復手段を採って私をびっくりさせてくれたが、この騒ぎにより現実へ引き戻されたキャリーの反抗期は終わりを告げる。

その後、家族はどうなったのか。
 
本作の印象的なジャケットは、エドがアルバイトをする写真店で家族写真を撮ろうとするシーケンスの一幕だ。
円満であった頃の食卓ではエドが中心になり、三人の支点を担っていた。事件の後、各自が異なる席についた同じ構図の食卓は、家族のちぐはぐであることを感じさせる。
 
だが、エドの発案で写真を撮るとき、それまで視線を合わせなかったキャリーとジェイクの二人は、エドのために空けた椅子を挟んでそっと視線を交わす。再生の予感を感じさせるラストシーンだった。
 
徹底的にぶっ壊すことで再生を試みる映画と言えば、同じくジェイク主演の『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』(2015)を思い出さずにはいられない。ジェイクがとてもジェイクらしい良い映画だったが、本作でも、積み上げたものを壊し、更地としたのちに再生させるところが共通している。
あと、どっちも原因は自分。←ここポイントね。
 
ジェイクには、今後もぶっ壊し俳優として、ぶっ壊し映画に積極的に出演して頂きたい。
 

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そういえば、キーボードもぶっ壊してたな❤︎

 

映画を差し置いて中島みゆき特集

 

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ひどい風邪を引きました。幸い会社が、社員たちのしつこい「在宅、在宅制度を導入せい!」の声を受けて試験期間を開始、週二回までテレワークOKだったので助かった。

私は見栄っ張りで、社内で「今、忙しいですか?」と相談事を持ちかけられたとき、よくいるでしょ、「今ムリ!後にして」とか「いつでも忙しいけど・・・なに」と忙しいアピールするヤツ、それが嫌いなんですよ。だから「うわああ。今ムリ」と内心では思っても、「大丈夫だよ」と言うようにしてるんです。
この見栄のせいで後で「さっきまで何やってたっけ」と白目になるわけだけど。

在宅勤務だとそれがない。客からもウチの営業からも電話が掛かって来ない(ウチの営業、電話かけてきすぎ)。何より、通勤がないことの素晴らしさよ!しかも時間差出勤も利用してるから、17時には自宅でフリーですからね。イヤ、モンスターが二匹いて、全然フリーじゃないけど。
 
 
さて。唐突ですが、私は中島みゆきが好きです。ビッグ・ビガー・ビゲストファン、それはそれはファン。
両親が好きだったので小さい頃から自然と口ずさんでいたし、やがて立派なみゆきフリークとなり、両親ですら私のみゆき愛に追いつけなくなりました。もちろん小中学校では変わり者扱いされたけど、脇目も振らずに、みゆきLOVEでした。
高校生になって仲良くなったコーラス部の部長が、文化祭で発表する曲として選択したのが『世情』だったときにはムチャムチャ感動した覚えがある。高校生が歌う歌じゃないよ、と。
 
私の人生の節目節目に中島みゆきがいたと言っても過言ではありません。
辛いことも中島みゆきの歌と共に乗り越えてきました。
うちの娘もすっかり中島みゆき好き・・・。ちなみに我が家では「みゆきちゃん」と呼んでます。
 
音楽活動45週年を迎え、全国ツアーは今年が最後と宣言しています。そのコンサートツアーの名称が「結果オーライ」。なんとも、らしいね。
前から、みゆき愛を語る記事を書きたいと思っていたところ、先日テレビをつけたら『ミュージックステーション』で45週年を記念して彼女の音楽史を振り返る特集と、何人かのミュージシャンによるカバーが放送されていたので、「あ、このタイミング」と思って記事を書く次第です。ありがとうございます。
 
 
 
70年代の歌姫
中島みゆき音楽史を紐解くには、活動期間があまりに長く曲数があまりに多い。世には、年代ごとの曲の特徴や音楽性の変遷などを緻密に分析・批評しているブログもあるので、それはそちらを参照させて頂くとして、私はみゆきちゃんのことになると「好き」「天才」「最高」と語彙不足に陥る。思い入れが強すぎて上手く書けないんだ。今回も「ああもう、こんな陳腐な表現じゃ表せない!」とこねくり回した挙句、ワケの分からない文章になったので、開き直って陳腐な表現をすることにした。文章の推敲もせず短時間でウワーっと書いた。よろしく。
 
1975年のデビューから1983年まで、数々のヒット曲を世に送り出してきた中島みゆき。デビュー曲『アザミ嬢のララバイ』や次のシングル『時代』はデビューアルバム「私の声が聞こえますか」(1976)に、有名な『わかれうた』なんかは4枚目のアルバム「愛していると云ってくれ」(1978)に収録されております。また、アルバムの名前もいいでしょ?

そして1980年、『うらみ・ます』を始め衝撃的な曲ばかりを収録した、ファンの間でも最も凶悪なアルバムとして語り継がれる「生きていてもいいですか」をリリース。デビューから80年代始めまで、まさに駆け抜けたという感じね。
 
中島みゆきは、言わずもがな同じ時代にディーバとして名を馳せた松任谷由実とよく比較され、「失恋ソングの女王」と言われております。確かに叶わぬ恋の曲が多く、そのイメージを本人に対しても抱く人が多い。しかし、彼女が話すのを聞いたことがあるだろうか。テレビに出ない主義の人なので、私が中島みゆきがどんな人か知ったのは、受験勉強しながら聴いていた土曜深夜のラジオだった(私は音楽がガンガン流れていても気にならない)。
 
喋り方が衝撃だった。天然か作りか?と今でも話題になるが、間違いなく生来のもの。あっけらかんとしていて可愛らしい人なのだ、元々、大したお嬢様だしね。ラジオでは視聴者からのハガキを紹介するコーナーで、バックに流れる鳥の鳴き声かなんかに対して、いつも「んもう、ちゃーちゃーちゃーちゃーうるさいわねッ!」と言うのが楽しかった。

「テレビに出ない」を貫いてきた人が、「プロジェクトX」主題歌の地上の星(2000)のヒットを受け、黒部ダムからの中継という条件で紅白に出場したわけだが、その後「もう、さっぶいのさっぶいのって!あーた、あたしの格好見た!?あの場所、気温何度か知っているぅ?」とぎゃーぎゃー言っていて爆笑よ。私はこの年と『麦の唄』のとき紅白をリアルで観ていたんだけど、「ああ緊張してる~!」と正座して見守ってしまい、歌どころではなかった。
 
脱線したが、「楽曲と本人の為人は別」。失恋ソングを書いているから、本人も失恋ばかりしている暗い人?そんなわけがない。前に作家の桐野夏生が、「子供を愛せない母親」の小説を書いたら「桐野は自分の子供を愛していないらしい」とどこかで書かれたと。「んなわけないだろ」と娘さんと一緒に笑ったと話していた。創作ってものを、みんながみんな、自分の体験を元に身を削って絞り出していると思わないで欲しいよね。もちろん、そういうスタイルの歌手や作家もいるだろうし、中島みゆきの歌にも明らかに自身の経験を歌ったものはある。でもそれで終わる人間は、終わってしまう。これだけの曲を「創作」し続けてきたことこそ、稀有の天才たる所以なわけだ。
 
さらに、中島みゆきの音楽にジメッと感があるかと言えば、ないの、案外と、これが。からしてみたら、ガサガサ声で「バスルームにルージュの伝言」とか言ってる方が陰湿だよ。
こちとら、ドアに爪で書いてゆくわ!
桜井和寿がカバーした『糸』の方がよほど、ぬめっとしてるしな。
もちろん『うらみ・ます』『異国』『エレーン』(全てアルバム「生きていてもいいですか」に収録)のように救われないまま終わる曲もあるんだけど、多くの曲が恋敵や別れた相手に対する恨みと情念を噴出させつつも、どこかあっけらかんとして人間味に溢れている。
あの人柄で、ああいう曲を書くこと、それがみゆきちゃんの凄さだと私は思っている。
 
 
 
御乱心時代!
1983年から1988年まで、この五年間をのちに本人が「御乱心時代」と評したために、ファンからもそのように呼ばれている。いわゆるスランプ期、みゆきちゃんが自身の音楽性の変換を図ろうと模索し悩んでいた期間のようだ。アルバムで見ると、様々な意見があるが、「はじめまして」「御色なおし」「miss M.」「36.5℃」「中島みゆきあたりがそれに当たると言われている。
 
なにが御乱心か?簡単に言うと、楽曲や歌い方をフォークからロックへ変えようとした。私はこの時代の曲も好きだけど。「miss M.」に収録された『あしたバーボンハウスで』『ノスタルジアはカッコいいし、「中島みゆき」の一曲『ローリング』は、後にリメイクされたバージョンよりも、こちらのオリジナルの方が味があって好き。だがしかし、「御乱心時代」幕開け直前のアルバム「予感」、これは私の超お気に入りのアルバムなのだが、この無機質とも感じる淡々としたフォークから、急に『幸福論』『生まれた時から』の音を聞いた当時のファンの衝撃は、推して知るべしといったところ。
 
年代で考えると、やっぱり70年代の曲が大好き。「予感」までのアルバムが良すぎたね。
 
 
 
みゆきちゃんの真骨頂は「応援ソング」ではない
ミュージックステーション」での、コンサートに訪れたお客さんへのインタビューでは皆「励まされる」「年代問わず寄り添ってくれる気がする」と言っていたので、「暗い曲と言わない人がこんなにたくさんいる」と嬉しくなった(中学のとき、暗い暗い言われ続けたので)。
 
ただ。AI、TOSHI、竹原ピストルが披露したカバーの三曲、これは番組側の選曲だと思うんだけど、まあ予想通りで。
 
 ・『空と君のあいだに』
 ・『糸』
 ・『ファイト!』
 
やはり、「中島みゆき的応援ソング」というテーマがぶち上げられてしまっていた。
「ファイト」の直接的な言葉、「縦の糸はあなた」「君が笑ってくれるなら」など誰の耳にも触りがよく、「励まされた!」という感想に直結するような飲み込み易い歌詞、そういうものが応援ソングとして賞賛されることに、ちょっとがっかりしてしまったのね。
 
いや、私も嫌いではない、これらの曲。でも「嫌いではない」であって、みゆきちゃんの凄さはここにはない、という思いの方が強くて。

この中でも『ファイト!』は、実はトンがってる内容なんだが(地方から東京に出してもらえない若者や、男にひどい目にあった女とかディープ)、「ファーイトッ」という軽快なシャウトと徐々に明るくなっていく曲調が災いし、あっという間に大衆向け応援歌として消費されてしまった。本当は、どうしようもない場所で藻掻く人を歌った、ダークな曲だと思うんだけどね(だから曲調は明るい)。ヘンに皆が口にするようになってから、イヤになっちゃった。
 
まあ、そこは前述した人柄にも繋がるわけだけど、中島みゆきは異様に寛容なのだ。自分のために作った曲だったのに、TOKIOにちょうだいと言われて「え・・え・・」って思いながらあげちゃったとか、ラジオでケラケラ~と話していたし。アーティストっぽい気難しさがない。それで、みゆきちゃんの曲を私はカラッと感じるのかもしれない。多分「こう解釈してほしくない!」とかムッとした顔で言わないんだろうなあ。
 
中島みゆきが再び大衆の目に触れるようになったのは、まずは『空と君とのあいだに』(1994)、その後は『地上の星』(2000)などだと思うのだけど、他にも『誕生』(1992)、『命の別名』(1998)、『宙船』(2006)、『麦の唄』(2014)、『倒木の敗者復活戦』(アルバム「常夜灯」)などの、ドスが効いた声でシャウトし人生賛歌を浪々と歌い上げる系の曲は、もちろんいい曲だが、私の中ではそれほど価値は高くなく、ましてや「応援ソング」だと思ったことはない。これらの曲は系譜としては、件の「御乱心時代」を継いでいると思っていて、そうするとやはり80年代、90年代~現代に至るまでの中島みゆきより、70年代の中島みゆきが鮮烈だったと思わずにはいられないんだ。
 
ミュージックステーション」でのカバーに関して言えば、AIの『空と君のあいだに』に、TOSHIの『糸』は凡庸さで私の顔を能面のようにさせたが、『ファイト!』を歌った竹原ピストルは、私をちょっとニコッとさせました。番組としては一般に寄るのは仕方ないが、コアなみゆきファンは「それじゃないんだよなあ」と観ていたんじゃないかな?
 
あ、ちなみに、前にSNSのファンコミュニティに入ったことあるけど、細かくてねちっこい奴が多かった(気持ち悪くてすぐ抜けた)。なので、私は誰とも語り合ったことがない孤高のファンです。
 
 
 
じゃあ何が応援ソングだ
そもそも「応援ソング」って言い方が気持ち悪いな。私が思う、グサッと刺さる曲を紹介します。
 
1)『ばいばいどくおぶざべい』
 
「次の仕事が決まったんだってね ロックシンガー」で始まる、だいぶロックテイストな曲。それもそのはず、ミュージシャンを目指し店でギターを弾いていた男が左手をダメにしてしまい、一生ギターが弾けなくなったことの絶望と決別を歌った歌だ。「どくおぶざべい」はオーティス・レディングの「ドック・オブ・ザ・ベイ(Sitting On The Dock Of The Bay)」のこと。
 
酔っ払ったような、投げ遣りな歌い方が大変いい。次の土曜の晩には、代わりの奴がいるんだろうな。俺はもう弾けないけど、最後に歌ってくれよと。
そして、サビの歌詞がこれ。
 
「幕を引かないでくれ 明かりを消さないでくれ」
「みんなわかってるから 誰も何も言わないでくれ」
「だから最後の歌は空より明るい ばいばいどくおぶざべい」
 
男の人生がここで終わってしまうくらい悲壮な内容なのだが、それを「空より明るい」と歌って幕引きしてみせる。カッコいいねえ、切ないね。
 
2)『怜子』
 
誰にも心を開かない男と一人で町も歩けないほど頼りない女、怜子が出会い、二人とも目を瞠るほどに変わっていく。それを傍で見ている「わたし」は実は、その男のことが好きだったという歌で。
ぎゅーっとなる歌詞がコレ。
 
「ひとの不幸を祈るようにだけは なりたくないと願ってきたが 今夜お前の幸せぶりが 風に追われる私の胸に痛すぎる」
 
うわああああ!!もうねえ、「人の不幸を祈るようにだけはなりたくない」ってところでハッとさせられるんだよォォォ!
 
3)『ホームにて』
 
飛び出してきた故郷に帰ろうと、何度も故郷ゆきの列車の切符を買う。ホームに停車した列車の中で、他の帰り人たちは暖かな灯りに包まれて楽しそうに笑っているが、自分の足はどうしても暗いホームから動かない。目の前でまた列車のドアが閉まる・・・という歌。
 
「走りだせば間に合うだろう かざり荷物をふり捨てて」
「ネオンライトでは燃やせない ふるさとゆきの乗車券」
 
哀しい物語に対して、なんとも美しいメロディと優しい歌声。
『ファイト!』の中にも出てくるが、地方に縛られる若者というのは、みゆきちゃんの中で一つのテーマのようだ。
 
4)蕎麦屋
 
これはね、みゆきちゃんのコアファンなら、多分ベストに入れる曲じゃないかな。
「世界じゅうがだれもかも偉い奴に思えてきて まるで自分ひとりだけがいらないような気がする時」と染み入るような歌声に、息が止まりそうになる歌い出し。
 
旧知の「おまえ」から電話が来て、蕎麦でも食おうと言う(これは実体験らしい)。風で暖簾がバタバタと鳴り、ラジオから大相撲中継が流れている蕎麦屋で、「今更お前と差し向かいで蕎麦なんか」と照れ臭く思っていたら、急に「おまえ」が言う。
 
「あのね、わかんない奴もいるさって」
「あんまり突然云うから 泣きたくなるんだ」
 
うわあああん!!!
 
そして二人は余計なことは話さず、風がのれんをばたばたなかせる音と知ったかぶりの大相撲中継を聴きながら、蕎麦を啜るのだ。
 
5)『化粧』
 
「化粧なんてどうでもいいと思ってきたけれど せめて今夜だけでもきれいになりたい」
 
年代を超えて全婦女子の目をカッと見開かせるような歌詞。けだるげな歌い方は『ばいばいどくおぶざべい』と似ているが、あちらの男視点に対して、こちらの歌い手は間違いなく女。

好きだった相手は、他の女と一緒にいて、自分を笑いものにしている。決別を告げる今夜、死んでもいいから綺麗になって、あいつを捨てなきゃよかったなと思わせたい、そんな女の意地を歌った歌なんだ。
 
「流れるな 涙 心でとまれ」
「流れるな 涙 バスが出るまで」
 
バスが出るまで、ってところが泣けるじゃないかァァ。
 
 
 
◆好きな歌詞
つかれてきた・・・。今までで一番の文字数だぞ。 気力を振り絞って、好きな歌詞を少しだけ紹介する。
 
『狼になりたい』から
 
 「買ったばかりのアロハは どしゃ降り雨で よれよれ まぁいいさ この女の化粧も同じようなもんだ」
 夜明け間際の吉野屋で、俺の分早く作れよこっちのが先だぜ、ってクダ巻いてる歌。
 どんな歌よ。
 
 「ビールはまだかァ!?」が最高。
 
 
『それ以上言わないで』から
 
 「君は強い人だからいいね1人でも だけど僕のあの娘は」
 「・・・それ以上言わないで」
 
 おい「僕」、ふざけんな!って毎回なる。
 
 
ノスタルジアから
 
 「泣いてないわ悔やまないわ もう一杯お酒頂戴」
 「嘆かないわ愚痴らないわ もう一本タバコ頂戴」
 「裁かないでね叱らないでね 思い出は物語」
 
 なんと、逞しくあろうとする歌でしょうか。こうありたいよね。

 
『異国』
 
 噂の『うらみ・ます』より、よっぽど落ち込む歌。
 「くにはどこかときかれるたびに まだありませんと うつむく」
 ぎゃー!!ってなる、聴くたびに。
 
 
『霧に走る』から
 
 「とりとめもない冗談になら あなたはいつでもうなづくのに やっと言葉を愛にかえれば あなたの心は急に霧もよう」
 
 あなたの心は、わたしにはないんですよ・・・ううう。って毎回なる。
 
キリがない! 
 
 
 
◆お気に入りのアルバムベスト3
 
第3位:
パワフルな歌に気持ちが高揚し叫び出したくなる「夜を往(ゆ)け」(1990)。名前もカッコいい!
 
第2位:
御乱心時代幕開け前夜、円熟の「予感」(1983)。
 
第1位:
言うまでもなく、凶悪アルバム「生きていてもいいですか」(1980)。聴くときは要注意だ!
 
 
 
◆好きな曲ベストテン
好きな曲、ベスト10を発表する。なんせ曲数が半端ないから少々迷うが、ここまでずっと聴き続けていると、ある程度は固まってブレないものだ。忘れてはいけないのは、中島みゆきは「北の国、北海道の女」だということ。なので雪や海、船乗りの歌が多い。体感し耳にし、生まれ育ったものにしか分かり得ない情感が歌詞とメロディに込められていて、トップ10も自然とその辺りの曲が多くなりました。
 
 
11位 ふたりは
10位 タクシードライバー
9位  裸足で走れ
8位  船を出すのなら九月
7位  化粧
6位  ばいばいどくおぶざべい
5位  冬を待つ季節
4位  根雪
3位  蕎麦屋
2位  雪
1位  誰のせいでもない雨が
 
おい、11曲あるじゃねェかよ。
 
特にベスト3は不動ですね。『誰のせいでもない雨が』は、私の人生のベストでもあります。
 
あと、『雪』はヤベえよ、『雪』は!
 
尽きないので、唐突ですが終わります。誤字脱字があったら教えてください。誰が読むのでしょうかこれみゆきファンは読むな