Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『暁に祈れ』

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監督:ジャン=ステファーヌ・ソベール キャスト:ジョー・コール、ポンチャノック・マブラン、ビタヤ・パンスリンガム/2017年

 
先日、雨上がりの道を歩いていたら、水溜まりがあったので子供たちに避けるよう注意しました。言わないと弟の方がわざと突っ込むからです。しかし慌てすぎて「水溜まりあるよ」というところ、「みずっ、ぶっ、たりま」と言ってしまいました。そこから二日経った今も、子供たちが「みずぶったりま~♪」「あ、みずぶったりまだっ」とまとわりつきながら囃してきます。
 
突然ですが私、昔からコウメ太夫が好きで。
あまりに子らが水溜まりの件をからかってくるんで、顔にパックをした状態で「チャカチャンチャ~、チャカチャンチャ♪」と踊り出て、「みずぶったりま かと思ったら~ 水溜まりーでーした~♪ ア チクショーー!!」と追いかけ回してやりました。そうしたら、大ウケしてしまい・・・毎日やらされてます・・・。
 
本日ご紹介するのは、ジャンキーボクサーがタイに沈む『暁に祈れ』です。
 
チャカチャンチャ~、チャカチャンチャ♪
「A Prayer Before Dawn」かと思ったら~ 「A Player Before Down」でもありました~♪
ダブルミーニングかよ、ア チクショーーー!!
 
 
◇あらすじ
タイで自堕落な生活から麻薬中毒者となってしまったイギリス人ボクサーのビリー・ムーアは、家宅捜索により逮捕され、タイでも悪名の高い刑務所に収監される。殺人、レイプ、汚職がはびこる地獄のよう刑務所で、ビリーは死を覚悟する日々を余儀なくされた。しかし、所内に新たに設立されたムエタイ・クラブとの出会いによって、ビリーの中にある何かが大きく変わっていく。(映画.com)
 
数えるほどしか経験のない海外旅行の行先の、ほとんどがタイです。なので、あの国の空気が少しはわかる。『暁に祈れ』は、以前このブログでも取り上げた『ジョニー・マッド・ドッグ』(2007年)の監督ジャン=ステファーヌ・ソベールがタイで撮影した作品とあって、楽しみにしていた。
 
ヘロインとヤーバー中毒のボクサー、ビリー・ムーアを演じたのは、イギリスの若手俳優ジョー・コールグリーンルーム』(2015年)が代表作らしいが、キリアニストの私にとってはピーキー・ブラインダーズ』での、ケンカっ早くて愛らしい末弟の印象が強い。そしてフェルナンド・トーレスに似てると思うんだよなあ。
 
トーレスは、ここで語っても仕方ないので色々省くが、『神の子』と言われた元スペイン代表のサッカー選手。古巣アトレティコ・マドリードでキャリアを終えるのかと思ったら、昨年、極東Jリーグサガン鳥栖に移籍した。この文章だけ見たら未だに信じられない事実。「トーレス鳥栖に来るんだってよ」とニュースになったとき、多くのフットボールファンが目を白黒させながら「ホ、ホントーレスか!?」と言った。まあでも、すぐ国に帰らはるんでしょと思っていたら、チーム低迷に責任を感じて残留を決意、さらにこのほどJリーグにて引退されることを発表。キャリアと人気に胡坐をかかない、めっちゃ真面目ないい人&めっちゃキュートなんだっ!世界中の美女とやりたい放題だったろうに、付き合った女は、8歳の頃に出会い17歳で付き合い始めた現在の嫁オンリーワン、しかもブス。なんて誠実なスーパースターだ。
 
ごめんなさい、脱線しました。
こういったロジカルな理由により、私はジョー・コールが好きです。
 

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『神の子』トーレスジョー・コールくん

 

◇本題
さて、この監督の特徴は異常なまでのリアリズムの追求。『ジョニー・マッド・ドッグ』では元少年兵を起用したが、その手法は本作でも継続され、舞台はタイの刑務所、役者はほとんどが元囚人だ。
本物の元兵士や囚人を起用したからと言って、観客に“リアル”を感じさせるのは簡単なことではない。下手すればドキュメンタリーになってしまうだろう。だが最初に「異常」と評したように、この監督のリアリズムにかける執念は並大抵ではない。

インタビューによれば、キャスティングには一年もの時間をかけ、またワークショップを行って交流を図ったとのことだ。演技指導はしなかったという。
同じ試みは『ジョニー・マッド・ドッグ』でも為され、キャスティングした少年たちと一年間の間、寝食を共にした。目的はもちろん、言葉は悪いが、猛獣の檻に入り時間をかけて手懐けることで、カメラの存在を忘れさせ、より自然な生態を撮影するためだ。
 
さらに本作では、全てのシーンを長回しで撮影し、のちに編集する方法が取られた。想像するだけでうんざりするような、地道な職人作業。映画監督としてどうなのかはわからないが、少なくとも前作の感想で「どこまでリアルにこだわるのかしら」なんて偉そうなことを言ったことは謝る。こいつが俺のやり方なんだよね。
 
そして、細かくカットされた画が多いからこそ、最も記憶に残るのが、終盤のムエタイ全国大会で、リングに入るまでのビリーを追った長回しボクサーにとっての花道が、ビリーにとっては刑務所内の通路であり、囚人たちがたむろする中を歩む姿がとてもカッコよい。
 
また、私だけかもしれないが、白人監督が白人を主役にアジアを撮った映画には、その国の人々の貌や言葉、音楽が添え物であるように感じることが多い。「スパイス」として他人種が使われているような違和感だ。だが、前述の徹底した舞台作りの効果により、ビリーはアジアに埋もれた白人にしか見えず、その種の違和感を感じない。
 
刑務所内の描写は囚人たちの汗の匂いまで漂ってきそうなほどに生々しい。
ムエタイチームの監房に移るまでの、ビリーを恐怖に陥れる監房内の描写が圧巻だ。顔から足まで身体中入れ墨に覆われた半裸の男たち、汚らしい壁や床、訳の分からない言葉の渦。突然、触れられ小突かれる。ビリーが周囲の言葉を理解できない(または理解する気がない)うちはタイ語に字幕がつかず、ビリーの感じる恐怖と混乱をダイレクトに観客に伝える。
 

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また、ビリーを絶望させるのが、件のレイプシーン。それなりの本数、しかも戦争映画を観ていれば嫌なレイプシーンには必ず出くわす。そんな私から見ても、怖気を震うシーンだ。レイプされる側もする側も発するのはうめき声だけで、行為は当然のごとく淡々と行われる。薄暗い明かりの下、太った身体に剥き出しの尻、汗ばんだ入れ墨だらけの肌が、ただただ陰惨。場所が監房の便所であるのが、これがただの「排泄行為」であることを突きつけ、なんとも表現しがたい気分になる。
 
人間の醜い行為を如何に生生しく撮るか、それがリアリティに通ずると監督には信念があるのだろう。残虐なものを見慣れた人間にとってこそ、このシーンの無機質な残酷さは衝撃だと思う。
 
 
アップショット
長回しによる撮影、細かなカットの他に特徴的なのは、ビリーのアップショットの多さだ。ビリーが「閉じている状態」、内の世界に沈んでいるとき、ハンディカムのカメラはビリーにぴったりと寄り、無表情をアップで映す。逆に、何も考えなくていい弛緩の時間、例えば刑務所内での整列や点呼のとき、監房で横たわっているときはカメラは引いた状態となり、このときは観ている側の緊張も自然と緩む。
 
アップショットは、恐らく他のレビューも挙げているだろうが、サウルの息子』(2015年)を思い出させる。だが、構図に似ている部分はあっても、意図するものは全く違う。『サウルの息子』ではゾンダーコマンドの男サウルの顔を始めから最後までカメラの中心に置き、背景をぼかしてアウシュビッツ内で行われる処理を見せた。つまり、映したかったものは周囲、サウルが見たものだった。本作で映すのは、ビリーの内面だ。基本的にビリーの世界は閉じていて視野も狭い。カメラがビリーの視点の先を映さないのがじれったく窮屈だが、ビリーの追い詰められた精神状態を体験させる狙いなのだろうと思う。
 

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◇ドラマの排除
ストーリーらしいストーリーもなければ、ボクシングを通してコーチと友情を育んだり、ソリの合わない囚人を叩きのめしたり、試合に勝利して仲間たちと涙するなどの大仰なドラマティック展開は何一つない。
 
そもそも、逮捕される以前から、イギリス人のボクサーがタイの地でヘロインに溺れているには相応の理由があるはずだが、その事情も不明だ。ボクシングの試合のシーンでは、思い切り寄ったカメラはビリーの顔か、その目前を映すのみ。リングを囲む観客目線の画も、観客の表情もばっさり切り捨てる。ボクシングはビリーが劣悪な環境を生き抜くための拠り所ではあるが、それを経て別人に生まれ変わるわけでもない。人生に劇的な変化などない、とする点もリアリズムの目線と言えるよね。
 
だが、だからこそ、ひっそりと挿し込まれるドラマとビリーの僅かな変化が感動的だ。レディボーイ、フェイムの女性らしい同情、廃人のようなビリーに向けられる、小柄な囚人の気遣い。点呼で代わりに返答をし、ケンカを止め、レイプを目撃した夜、横たわって震えるビリーの肩をとんとんと叩いてくれるのである。
また、ビリーはムエタイチーム加入後も再び薬に手を出して仲間を殴ってしまうが、報復しようとする相手を制止する囚人は、当初はビリーとぶつかっていた男だ。そして、再びチームに受け入れてもらうため、初めて人に詫びるビリーに「お」となるし、最終的に謝罪を受け入れた男は、その後、ビリーが大会に出るまで傍でサポートしてくれることになるのだ。また、彼らとの交流の中で初めてビリーの笑顔を見ることもできる。思わず「お、笑った、ビリーが笑った~」となること請け合い。悪党どもの中に存在する情や人間関係に、
思いの他、心を揺さぶられる。
 
「徹底したリアリズム」は本物の犯罪者を起用し、場所や出来事を再現したら生まれるかもしれないが、映画である限りは如何に映画とするかが重要。「やりたいことは分かるがつまらん」となってしまっては意味がない(『アクト・オブ・キリング』のように)。この監督の映画は、観客の気持ちを確かに高ぶらせる。そこにストーリーがなくても、ただ「画面に引き付けられる」という感覚が気持ちよく、私はこの監督はいいなあと思う、次回作も非常に楽しみ。
 
引用:(C)2017 - Meridian Entertainment - Senorita Films SAS