Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『コリーニ事件』

f:id:yanagiyashujin:20200615231651j:plain

監督:マルコ・クロイツパイントナー キャスト:エリアス・ムバレク、フランコ・ネロ/2019年
 
いきなり家庭内の話をします。
結婚当初は「俺も映画好きだよ」みたいな顔をしていた夫が少しずつ、「ドンでん返しを期待して映画を観る人間の気が知れない」「ホラー映画を観る意味がわからん」などと言い出し、戦争映画も全然好きじゃないと知って騙されたと感じている。
私が初デートでノー・マンズ・ランド(※)に誘ったらイソイソついてきて、「面白かったね」と微笑んでたのに、完全にウソだったんだな。
 
ボスニア紛争下、ボスニアセルビアの中間地帯“ノー・マンズ・ランド”に取り残された兵士二人を通して戦争の愚かさをユーモラスかつシニカルに描いた地味な戦争映画だ、まだよく知らない相手とのデートで選んではいけない。
 
日常生活で、映画のネタを振っても全然キャッチしないのにもイラつく。
例えば、嬉しいことがあったとき、私がフィラデルフィア美術館の前で両手を突き上げるロッキー」の真似をしても「???」という顔をしているし、息子がぷぅとおならをしたので「少し肺に入った・・・」と胸を押さえてみせても、「え、なに?」。腐海でマスクを外したときのナウシカですよ!?
 
しかし先日、「いまミッドナイト・エクスプレスを観てるのー」「ああ、水野晴郎監督の?」「それはシベリア超特急だ、バッキャロウ」という会話がありましたので、まだやれそうです。
ひどい前書きを書いてしまいましたが、公開を待っていた『コリーニ事件』を観てきたので、真面目に語って参ります!ネタバレです。
 
 

f:id:yanagiyashujin:20200615233613j:plain

 


◇あらすじ

舞台は2001年のベルリン。長年ドイツ市民として暮らしてきたイタリア人ファブリツィオ・コリーニが、経済界の大物実業家を殺害する。殺害方法は頭に三発もの銃弾を撃ち込み更に靴で顔を踏みつけるという残忍なものだった。
新米弁護士カスパー・ライネンは、コリーニの国選弁護人となるが、殺害された実業家が自身の恩人ハンス・マイヤーであることを知り驚愕する。

ドイツの小説『Der Fall Collini』が原作であり、作者は私が勝手に2019年ベストに挙げた『犯罪「幸運」』の原作者でもあるフェルディナント・フォン・シーラッハ。1964年西ドイツ生まれ、小説家であると同時に刑事事件専門の弁護士としての経歴も持つ。また、祖父のバルドゥール・フォン・シーラッハはナチスの全国青少年最高指導者で、ニュルンベルク裁判で戦争犯罪者として裁かれているなど、なかなかハードな背景を持った人物だ。

 
主人公の新米弁護士ライネンを演じるのは『ピエロがお前を嘲笑う』(2014)のエリアス・ムバレク。『ピエロがお前を嘲笑う』はちょっと前に観たはずなんだが、全く記憶にないので、多分つまらなかったんでしょう・・・。すげェな、全く覚えてないぞ。
コリーニを演じたのはフランコ・ネロ、改めて紹介するまでもなく『続・荒野の用心棒』に代表されるマカロニ・ウェスタン作品で活躍した俳優で・・・と書いてはみたもののよく知らないのであった。ダイ・ハード2エスペランザ将軍だよな!
 
私としては、途中ライネンがイタリア語訳のためにスカウトする、やたらとロックなピザ屋の店員ニーナ(ピア・シュトゥッツェンシュタイン)と、敵側の辣腕弁護士マッティンガー(ハイナー・ラウターバッハ)がとても良かった。
 
鑑賞して一発目の感想は、「やっぱりドイツ好きだなあ」と「やっぱり生真面目なとこが日本に似ているなあ」。
 
ストーリーや展開は特に目新しいものではない。
熱意溢れる新人弁護士、謎の動機、沈黙し続ける被告。被害者は主人公が父と慕った人物で、その娘とはかつて愛し合った仲であるという設定も、まあ、ありがちだろう。
コリーニが隠す真相も大方、予想通りのものだ(せめて予告編は観ずに観賞することをお勧めする)。
 
他に、ニーナや疎遠だった父親が協力者になる流れはやや性急。父親に関しては本作のテーマの一つは「父と子」にあり、コリーニとその父、ライネンとマイヤー、そして実の父とそれぞれの関係性が重要な役割を持つ。沈黙を貫いていたコリーニが初めて口を開くシーンでも、きっかけとなるのは「父親」のワードだ。そのため、ライネンと父の和解が唐突に感じられるのは勿体ないが、ここはばっさりと片付けるしかなかったのだろう。
 
また、「お前は情熱以外に何持ってるん?」と突っ込みたくなるほどにライネンが当然するべき調査をしない。検事側から提示される事実に驚き、コリーニを「初耳ですよ」と責めたりもするのだが、依頼人の過去を調べるのは初手の初手ではないでしょうか。
机の上に散らばった書類を前に頭を抱えるライネンと事件に関係のありそうな語句のアップショットで、いかにも「何か調べてます」風を演出するが、実際には何を調べているのか全く定かでないシーンには思わず笑ってしまった。
 
このような理由で、多少、中弛みはする。しかし、凶器の銃をきっかけに、ようやく糸の端を見つけたライネンがイタリアのコリーニの故郷へと飛び、ある事実を掴んで臨む法廷シーケンスの緊迫感は、それらの欠点を補って余りある。
 
 
◇言葉にしないことの上品さ
度々挟まれるマイヤーとの思い出深い日々がアナログで撮影され、現代や1944年の戦時中のパートと区別されているのが印象的だ。本来なら、1944年の映像が鮮明すぎるのに違和感を覚えるところだが、敢えて回想シーンのみアナログとしたのに意図があるのだろうと思う。
 
恩人を殺したコリーニを弁護するライネンは、私情よりも職務を優先する信念の人として描かれるのだが、感心するのは、私人としてのライネンに「マイヤーの過去を知ってどう感じたのか」を一度も語らせない点だ。一方で、少年時代のノスタルジックな映像は、今なお変わらないマイヤーへの思慕を表し、言葉にされなかったライネンの答えを観客に伝えてくれる。
 
 
◇裁かれるのはコリーニではない
注目すべきは法廷で裁かれる対象が、コリーニ、次にマイヤー、最終的に「別の物」へと変遷していくことだ。
 
まず、法廷で扱われるのが「事件」であることに好感を持つ。
当たり前だと思われるかもしれませんが、私が最近アメリカの刑事ドラマにハマっているせいなんだ。当然のように司法取引が為され、証人の私生活を丸裸にし人物を貶めることで証言を無効とする。陪審員を買収する。そんな政治的な駆け引きが面白くて観ているのだけど、となると、被害者加害者の人物や動機が純粋には追及されないことへのストレスもあったりして。。。
 
その目で観ると尚更に、コリーニ事件の法廷は「法」へのリスペクトに満ちていた。
 
ライネンは最後に、被害者側の代理人であるマッティンガーを証人に召喚する。
著名な法律家でありライネンの師でもあるマッティンガーは、ゆえに敵に回せば厄介で憎らしい人物なのだが、ライネンの追求を受けるうち、法の代理人として己自身の正義に問う立場に立たされる。そして、かつて自分が制定に関わり多くの戦犯を無罪とした法を誤ったものだと認めてみせるのだ。
 
つまり、最終的に法廷で裁かれるのは「法」であり、誤った法を施行した者たちということになる。
本作は、ある
老人の起こした事件と過去の事件を骨子としながら、ドイツが過去の罪に相対し、「法とは何か」を訴える映画だ。
 
この国はどれだけ時が経とうと、国民が、そして文化人たちが、過去の罪に真摯に向き合うことを止めないらしい。
 
久々の映画館という感慨も相まって、私は映画の最中、度々涙ぐんでしまったが、その大きな理由はコリーニの人生を支配した悲劇にでも長い戦いを終えた後の安寧にでもなく、ドイツ人の勤勉さと強靭さに胸を打たれたためかなと思う。いま、日本映画で同じことはできないだろう。
 
ちなみに隣のおじさんもハンカチで一所懸命、涙を拭いていた。
 
それでは、本日はベタに水野晴郎氏の言葉を借りて終わります。
「いやぁ~、映画って本当にいいものですねー」。
 
(C)2019 Constantin Film Produktion GmbH