Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『ダークナイト』

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 監督:クリストファー・ノーラン キャスト:クリスチャン・ベールヒース・レジャーマイケル・ケイン/2008年

本日は映画レビューではなくダラダラした駄文です。アメコミ映画を観たのが初めてなんで、笑って許して下さい。
先日、映画好きの異常な友人S氏から「AMUG(反マーベルシネマティックユニバース組織)に入らないか?」とメールがありました。

氏曰く「誰が何をどのように撮ったかの部分があまりに稚拙で、近い将来AIがフルCGで自動生成しても観客は有難がって観に行き続けるんじゃねーの?と末恐ろしくなる。シリーズが続くこと、世界を共有するキャラクターが増え続けること、マーベルの戦略は大成功なんだけど、誰が監督しようが脚本を書こうが、見たいものと見せたいものが予め決まってるんだから作家性なんて皆無。よく言えば全編サービスショット。製作者とファンが目配せし合った、『見たかったのこれだろ?』な映像が延々と続く。そんなお遊戯をオレは観ていられなかった」。
 
相変わらず前提説明が不足しているのですが、彼は恐らくアベンジャーズ/エンドゲーム』を観たのでしょう。そして、何かしら憤懣遣る方無い思いを抱いたのでしょう。
どうでもえー。ああ、いい天気だわあ、毛布干したい。
 
毛布を干してたら、またメールが来た。
「ノーランのことをディスったりもするけれど、ダークナイトを観直したら、とても感動したよ」。なぜシネフィルどもはノーランをディスるのでしょう。真面目な監督だと思いますが。私にはよくわからない何かがあるのでしょう。
 
早く毛布を干したい私は「わかりました、AMUGに入ります」と折れ、S氏「じゃ、まず『ダークナイト』を観てくれ。バットマン ビギンズは観ないだろ?前にDVDをやったが観る気配すらないもんな。あとで『ダークナイト』を観る前に知っておくべきことのレジュメを送る」。
 
後ほど送られてきたものはA4用紙4枚に渡る情報でした。絶対仕事中に作ったな。
 
 
◇『ダークナイト』を観る前におさえておきたい二、三の事柄(By S)

【ブルース・ウェイン】クリスチャン・ベール

バットマンことブルース・ウェインはコウモリのコスプレでゴッサムの悪と戦うパラノイアである。(中略)父母を殺した犯人を射殺しようと試みて、幼馴染レイチェルに思いきりビンタされ(2回)、そのショックで世界を放浪する。ケン・ワタナベ・ ニンジャスクール(講師リーアム・ニースン)にて鍛錬をつむも、彼らの野望を知り、ニンジャスクールを壊滅させる。コウモリの姿となり、犯罪都市ゴッサムの浄化に乗り出す。

 
【ジェームズ・ゴードン】ゲイリー・オールドマン
ゴッサム市警の警部補。 バットマンによる超法規的活動を陰ながら支援(黙認)する。コカイン常用者の、麻薬取締局捜査官とは別人。好きな映画に『ショーシャンクの空に』と『レオン』を挙げる人間は要観察。ここに『ダークナイト』を足してもいいなと思う今日この頃。
 
【レイチェル・ドーズ】ケイティ・ホームズマギー・ギレンホール
 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のジェニファー、『ツインピークス』のローラ・パーマーに次ぐ、「お前、誰だよ」と言いたい配役変更。ブルースの幼馴染で検事、バットマンの正体を知る一人。ブルース(パラノイア)に重度のストーカー気質を見出し、相当な距離を置いている。
 
【アルフレッド・ペニーワース】マイケル・ケイン
ウェイン家の執事でありブルースの良き理解者。ブルースの夜警活動に時折嫌味を交えつつも全面的に支える最大の功労者。バットマンの正体を知る一人。すぐにいじける。
 
【ルーシャス・フォックス】モーガン・フリーマン
ウェイン産業の社員。ブルース復帰後は共同で数々のひみつ道具を開発、ウェイン産業の社長に就任する。バットマンの正体を知る一人。暴走する御曹司をたまに諫める。
 
【ジョーカー】ヒース・レジャー
 『バットマン ビギンズ』はラスト、ジョーカーの存在を匂わせて終了する。『ダークナイト』の評判から遡って『ビギンズ』を観た人、あるいはコミック『バットマン:イヤーワン』を読んでいる人にとっては味のあるラストとなっている。
 
かくして、アメリカにおけるヒーロー映画、アメコミ映画の流れを一作で変えてしまった本作は多数の意識高い系のファンを同時に獲得し、『ダークナイト』を語る奴はメンドクサイという評価まで得てしまうが(以下略)
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ごめん、よくわからなかったんだけど、これ大丈夫ですか。『ダークナイト』を観る前に知っておくべきこと。ホントにこれで大丈夫ですか?
 
 
◇序章
冒頭、なかなかピエロな野郎たちが銀行強盗を行い、親玉ピエロがスクールバスにて逃走。どうやらこいつが今回の悪玉菌のようだ。ところ変われば、悪そな男たちが麻薬取引を行う現場を、バットマンが襲撃。ほほう、これが噂のバットマンね。バットマンが主犯らしきズダ袋を被った男をとっ捕まえた。なんでズダ袋かぶっとるねん、アホか。バットマンがその顔から袋を取ると・・・。
 
 
ん??
中からキリアン・マーフィが出てきた。
 
 
キリアン・マーフィ出てんの??雰囲気的に前作から出てたっぽいんだけど、私がキリアンLOVEだって知っているの?
 
それを言えよ。
A4四枚も送ってきて、肝心要の情報書いてねぇじゃねーか、バッキャロー!人を変な組織に誘う前に「キリアン・マーフィ出てますよ」だろ、必要な情報はよォ。そろそろ自分の言いたいこと言うだけじゃくて、こっちの趣味に合わす技も覚えろ、いい歳こいてよォォ。
 
 
失礼しました。
というわけで、ここで『ダークナイト』を中断して『バットマン ビギンズ』から観直しました。
時間をムダにしたぜ、バッキャロウ。
 
 
◇改めまして、鑑賞後
二作とも面白かったし、ノーランの印象を裏切らない出来だった。つまり、とても真面目に撮られているなあ、って。

まず、設定のシンプルさが好きだな!市民たちが昼夜、マフィアに怯えながら暮らす犯罪都市ゴッサムシティ。具体的な脅威はよく分からんのに、マフィアの面々のギャング顔で、とにかく悪が蔓延っているのだ!と押し切る。それを自らの恐怖の象徴であるコウモリの姿に扮したダークヒーローが切る、爽快な単純さ。
 
バットマンは暗躍型ヒーローなので、当然ながら夜のシーンが多いが、夜の街の雰囲気が素敵である。聳え立つビルの威圧感、ビルとビルに挟まれた路地の昏さと暖色の灯り、それを反射して、てらてら光る地面。「う~ん、ゴッサムといった雰囲気。
 
特に『ビギンズ』では、高層ビルとその隙間を利用した高低差による、奥行きある映像が気持ちよい。ひみつ道具の一つである昇降ワイヤーを駆使し、バットマンが一気に上空へと消えるときの疾走感。マフィアのボス、ファルコーニをとっ捕まえたあと、ホームレスのおじさんに「ナイスコートと一言放って飛び立つシーンはめちゃめちゃカッコいい。そのコートが、バットマンになる以前に自身が渡したものである細かな工夫も楽しい。
 
 
◇脚本と演出

意外だったのは、キーワードの反復や言葉の掛け合いが凝っていて面白かったこと。

例えば、アルフレッドの「ネバー」(=「決してブルースを見放さない」)や「人はなぜ落ちるのか?這い上がるためです」のワードの反復。フォックスがメモ一つで自分をクビにした社長に返す「メモを見ていないのか?」のブーメランであったり、バットマンの車を追う警官たちの「どんな車種なんだ!?」→(バットモービル、爆走で通りすぎる)「…ああ、いま分かった」とかね。 
要所で繰り返して登場するパワーワードが、前回の状況を踏まえた上でこそ光る、丁寧に上塗りされたみたいな脚本だなあと。
 
関係ない人々を巻き込んで、ちょっとした笑いを誘う演出なんかもいい。精神病院の個室のドアをサクサクと爆破し、「失礼」と通り過ぎるバットマン、反応できず見送る患者。自爆寸前のバットモービルを、パン片手にポカンと見つめるおじさん。
インディ・ジョーンズ』なんかも、よく関係ない人民を巻き込んでは迷惑をかけるが、バットマンは迷惑をかけない点で、悲壮ぶっててもやっぱり御曹司なヒーローよねー。
 
みません、上記ほぼ『ビギンズ』のシーンだったわ。
 
ダークナイト

ダークナイト』では、さらに脚本や演出に気合を入れたのだろうことが分かる。二本映画を作れてしまうのではと思うほど、よく言えば盛りだくさん、悪く言えばてんこ盛りな内容。

 

正義と悪との境界線について、人を傷つけずに自分の信条を貫くのが正義、罪に手を染めれば悪へ堕ちる図式は、様々な映画や小説で描かれてきたものと同様なのだが、バットマンが面白いのは、彼はそもそも高潔な人間でないので、堕とす対象でないところ。反面、『ダークナイト』で登場する正統型ヒーローのハービーは、あまりに清廉潔白な好人物ゆえ、悪のアンテナにビンビンに引っかかるのも至極当然。

 
そこで宿敵ジョーカーの登場となるわけだが、なるほど、バットマンは己の内の恐怖と精神的な戦いを繰り返しているが、ジョーカーはその具現化した姿というわけだ。互いに互いを殺すことができない二人の関係性は、正義と悪は表裏一体であることを示す。
 
ジョーカーがあまりにベラベラと喋るので食傷気味になるのが否めない。寡黙なバットマンと、背中合わせの存在であると理解はしつつも、人は得体の知れないものに恐怖を抱くのであって、言葉を聞けば聞くほど純粋な意味での恐怖心は薄れていくもの。
 
銀行強盗して爆薬しかけて、要人暗殺のためにバズーカぶっ放してマフィアの金焼いて、病院を吹っ飛ばしてまた船に爆弾しかけるとは、なんてまあ忙しい勤勉な悪党だろうと、むしろ健やかさを感じてしまった。ただ、ジョーカーの役作りのためにヒース・レジャーが心身を追い込んだというエピソード、また映画公開を待たずに亡くなったことを考えたとき、「ヒースにとってのジョーカー」には空恐ろしさを覚える。
 
 
◇サスペンスてんこ盛り
後半は、恐らく本来シリーズのテーマである恐怖との対峙、正義と悪の定義の話に加えて、サスペンス色ミステリー色がより濃くなっていく。
同時に別の場所に監禁されたレイチェルとハービーの、どちらを助けるのか。だが、ジョーカーが告げた彼らの居所は本当に合っているのか。
更に、攫われたゴードンの家族の運命は?爆薬を仕掛けられた船二隻の乗客はどのように行動するのか?警察内のスパイは一体誰だ?といったサスペンス&ミステリーが次々と畳みかけられる。
 
この盛り上げ具合が、若干うるさいなと感じるが、ただ、ハービーの高潔な信念が確かに人々に受け継がれたとするラストには素直に感動した。これまでのハービーのキャラクターのおかげで僅かな希望が見える結末となったし、一方で彼が耐えきれず悪に堕ちてしまった事実が、このシリーズらしくダークな雰囲気を盛り上げる。
 
ホワイトナイトの堕天により『ダークナイト』が誕生するキレイな展開に、なるほどね、なるほどね〜と(ダークナイト=「暗い夜」だと思っていた)ヒーロー映画で、こんなに忙しく気持ちを上下させられたり、練られた脚本に感心したりするとは思わなかった。
 
 
◇ツボ
笑いの要素も多かったので、以下に個人的にツボだった箇所を挙げます(全部『ビギンズ』からです)。
 
1)バットモービルが思ったより無用の長物
 
いやカッコいいよ、バットモービル。でも、精神病院からレイチェルを助けだした後、パトカーとカーチェイスするシーンで、全然パトカーを振り切れないのには笑った。バットモービルの走りだけ見るとものすごいスピード感なのに、次のショットでは「フォンフォーン♪」ってパトカーにピッタリ張り付かれてるんだもん。挙句ヘリコプターに追跡されているのに、屋根の上を爆走する。丸見えだよ。
 
 
2)おかしくなっちゃったクレイン博士(キリアン)
 
己が恐怖するものの幻影を見る毒ガス(自分が作った)を浴び、プッツンしちゃうキリアン。こういう役が似合うのよね、結局・・・。正気を保てなくなった博士が、現実逃避に走った結果がこれだ。
 

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留守番電話になっちゃった!
  
その後は「かかし、かかし」とブツブツ呟く。

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あーん、かわいい。
 
 
3)マフィアのボス、ファルコーニの顔
 
おじいちゃんにしたいナンバーワン、マイケル・ケインの少し歯を剥き出しながらの「ネバー」もいいんだけど、ファルコーニはんが思いの他、ステキなお貌で。スケアクロウを脅したことで、やっぱり毒ガスを浴びせられちゃったファルコー二はん。
恐ろしい幻影を見て「ファーーー!」と叫ぶ顔が非常にいい。
 

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ファーーー! この愛玩動物感。

 

本当は『ダークナイト』の感想だったのですが、ほとんど『バットマン ビギンズ』の話になってしまいました。
結局私はAMUGに入っていません。まあ、入ってないことをS氏には伝えてないけどね。誰
か入りたい人がいたら、連絡くださいな。
 
ファーーー!

『レスラー』

 
Twitterでよく見かける「飲み会行くのやめました」「子育てをナメてました(やってみたらとても大変でした)」などのイクメン系ツイートが死ぬほど苦手です。
「ぼくは要領が悪くて融通も利きません」って公言しているようなものなのに・・・。コメント欄でさぞかし「飲みくらい行け、ヘタレが」「おむつ替えを一大事業にすんな」と怒られているのだろうなと思いきや、「素敵です!」って持ち上げられていました。ワオ。
 
奥さんからは案外と「ちょろちょろすんな」と思われていると思う。思われているにチュッパチャップス一本を賭ける。
 
本日は、イクメンとは正反対の男の映画『レスラー』です。
 
 
◇あらすじ
人気レスラーだったランディも、今ではスーパーでアルバイトをしながらかろうじてプロレスを続けている。そんなある日、長年に渡るステロイド使用がたたりランディは心臓発作を起こしてしまう。妻と離婚し娘とも疎遠なランディは、「命が惜しければリングには立つな」と医者に忠告されるが…。(映画.com)
 
レクイエム・フォー・ドリーム(2000年)は言わずもがな、ブラック・スワン(2010年)もかなり好きな作品なので、私はたぶんアロノフスキー監督が好きです。
ランディ・“ザ・ラム”を演じたミッキー・ローク『ナインハーフ』(1985年)エンゼル・ハート(1987年)などで主演を努め、1980年代セックスシンボルとして人気を博した俳優。また、プロボクサーの資格を取ったことでも話題になったらしいですね。私はあまり知らないのですが、夫がボクシング好きだったこともあり、当時のミッキーには割と思い入れがあるらしい。では
語ってもらいましょう。
 
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ミッキー・ローク

 

ミッキーのことなら良く知ってるよ。とにかく色気があってカッコよかったね。代表作の『ナインハーフ』は、エロビデオを簡単に見られる環境になかった俺達にとっては、適度にエロくてドキドキする映画だった。金曜ロードショーとかで普通に流れていたんだ。いい時代だったね。氷プレイには本気で憧れたもんさ。昔の女に試そうとしようとしたら、すごい勢いで怒られ・・・あ、いや、ゴホ、ゲホゲホゲーッボッ!
 
・・・ああ、大丈夫。気にしないでくれ。
格闘技が大好きだった俺は、そのミッキーがプロボクサーの資格を取り、1992年両国国技館で試合すると知って心躍った。しかも、ユーリ海老原の世界タイトルマッチというメインの前座だ。俺はテレビの前でわくわくしながら試合に備えた。だがミッキーは、本人は後に「手首のスナップを効かせた」と語るも傍目には「ニャア」としか見えない猫パンチを繰り出し、しかも勝利するという八百長丸出しの試合で、ファンを心底がっかりさせたんだ・・・。
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はい。ということがあったんですね。
その後は離婚や整形を経て、当時の色っぽく美しい顔つきから、今や見る影もない皮膚の垂れた太ったおっさんになってしまいました。
 
 
◇本題
兎にも角にも、ミッキー・ローク自身の今昔に思いを馳せずにはいられないロークのためのロッキン・プロレス映画である。彼の半生を抑えておき、また80年代と90年代のロックシーンを知る人であればより楽しめると思う。当初、製作会社側は主役にニコラス・ケイジを考えていたが、アロノフスキー監督がミッキー主演に拘ったのだとか。
 
・・・ニコラス・ケイジの“ザ・ラム”、それはそれで観てみたい気もする。だって華やかな過去と落ちぶれた現在がそのまま反映されたって意味では、ニコラスだって外れていないじゃない?余談だけど、ニコラス・ケイジニコラス刑事(デカ)という呼び方を浸透させたいと思っています。
 
冒頭、二十年前には栄光の只中にいた花形プロレスラー、ラムが老いた肉体で変わらずリングに向かう姿が描かれる。そこから数十分黙々と映されるのは、栄光時と同じ作業を丹念に続けるラムの姿だ。いつもの店に通って肌を焼き髪を金髪に染め、身体作りを怠らない。
 
とりわけ面白いのが、試合の前に敵役のレスラーと善玉役悪玉役を確認し、試合の流れを打ち合わせる様子だ。リング上でパイプ椅子を相手の頭に振り下ろすのは、レスラー同士が憎み合っているからではない。ヒール(悪役)が観客にブーイングされるためにどんな卑劣な手段が必要か、武器はどのようなものを使用するのかなど、進行にシナリオがあることを説明するシーンとなっている。
 
これは、プロレスを知らない観客への配慮なのだろうか、それともアメリカでは「プロレスにシナリオがある」ことは公然の事実なのだろうか。少なくとも、日本のプロレスにシナリオは存在しない(※)。リング上で繰り広げられる戦いは本気の戦いだし、レスラーは男の中の男でありプロのショーマンだ。
 
※正確には「存在しないことになっている」。日本のプロレスファンに「あれ台本があるんでしょ」などと気軽に言えば、ブチギレられるので気を付けられたい。彼らはプロレスラーの強さとプロレスがキング・オブ・スポーツであることを信じているので、「ヤラセだろう」の揶揄いはタブー、ガチで怒られるよ。実際は、大筋のストーリーは決まっているのではと思うが、しかし台本通りに演じただけでは起こりえないドラマがあるのも事実。
 
ちなみに私はラップ好きでもプロレス好きでもありません。一般教養です。
 
ミッキーの現在のハコは、全盛期とは比べ物にならない場末のリングだ。特に彼が「ハードコア」と呼ぶ、鉄条網やガラス、ホチキスなどの小道具を使用するショーは、日本では鉄条網プレイに活路を見出した大仁田厚がその道を突き進んで一定の地位を築いたが(※これも一般教養だぞ、メモれ!)、トップレスラーならば、まずやらないパフォーマンス。
舞台裏に引っ込めば、血だらけの背中からガラスの破片を抜いてもらう地味な後処理と老いた背中が痛々しく、だが一方でカメラは、試合後に敵役のみならずスタッフが彼を労う様子、またラムが若手のレスラーたちと交流する様子を映す。いまだこの世界で彼はレジェンドだし、とにかく彼がプロレスを愛していることを感じさせる映画前半。
 
リング上のプロの仕事ぶりと、裏側での地道なメンテナンスや暖かな先輩としてのふるまい、とにかくミッキー・ロークがカッコいい。もちろん美しさや若さはないのだけど、笑顔の唇や目元に、そこはかとない色気と愛嬌が漂う。うん、ニコラスデカじゃなくてよかった。
 
後半、バイトでスーパーの総菜売り場を担当することになったラムが、売り場に入る前に、観客の声援を聞く演出が面白い。始めは不慣れだった場で、彼は徐々に得意の『パフォーマンス』を見せ始める。ラムが長年続けてきたのは何よりサービス精神が必要とされるショー、サービス業に向いていないわけがない。結局、骨の髄までショーマン。なんだ、『グレイテストマン・ショー』はこの映画だったのかー。
 
また、ラムが贔屓にするストリッパー、キャシディを演じたマリサ・トメイがとても魅力的。撮影当時、44才だって!そりゃ胸に張りはないけれど、逆にセクシーなんだ。それでいて超身持ちの堅い女。それでいて、情を捨てきれない女。全40代婦女子の地上の星、じゃなかった、希望の星となるヒロインだった。
キャシディが肉体と年齢のピークを過ぎた現在も若いころと同じ作業を続け、客に袖にされる姿の痛々しさにはラムと通じるものがあり、ラムがキャシディを好ましく思うのは、その点も大きいのだろう。
 
ある日試合後に倒れたラムは医者からプロレスを諦めるよう宣告される。それをきっかけに初めてプロレス以外の世界に目を向け、キャシディと客以上の関係を築こうとしたり、絶縁状態であった娘と復縁するための努力を始める。しかし、不器用なラムは他の職にも家庭人にも徹底的に向いていない。本来あるべき自分と乖離した平凡で忌々しい日常は、徐々に彼の歯車を狂わせる。歯車が一つ狂えば崩壊するのは必然、修正する術をラムはこれまでの人生で学んでいない。
 
前半はいわば時計が止まったままの空間で生きていたラムが、急に動き出した世界に戸惑い、人間そうそう変われるものではないとの厳しい現実を突きつけられる後半となる。
 
 
80年代VS90年代
洋楽に詳しくないので迂闊なことは言えないが、監督は、分かりやすくラムの境遇と音楽をリンクさせてくれている。最初に、「(90年代オルタナティブロック代表の)ニルヴァーナになってダメになった」とぼやく通り、ラムは80年代から抜け出せない男。
 
栄光の時代に留まり時流についていけなかった80年代レスラーは、ラムだけではない。閑散としたサイン会場で、サインを求められるラムはまだマシで全く客が訪れずに寝てしまう仲間のレスラーの画は侘しい。別の職業へ転身を遂げて、90年代を謳歌する仲間もいるというのに。
 
同じ思いを共有するキャシディと、「80年代の音楽が最高。デフ・レパード、ガンズ・アンド・ローゼス」「90年代は最低、大嫌い」と歌って叫び合うバーのシーンがとても良い。居残ったものと前に進んだものの間にラインが引かれ、もちろんここにミッキー自身の姿が重なる。監督にとって、映画そのものを体現する役者として絶対に譲れない条件だったのだろうと確信が深まる、納得のミッキー起用だ。
デカは完全に消えた。
 
全てを壊してしまったラムが最後のリングに向かうときに、再び流れるガンズ・アンド・ローゼズの曲が、改めて彼が80年代にしか生きられない男であることを強調する。
限界を迎えた心臓で、必殺技「ラム・ジャム」を決めようとポールに上ってポーズを決めるラム。スポットライトを背負った、老いた肉体がめちゃくちゃカッコいい。「俺に辞めろという資格があるのはファンだけだ」のマイクパフォーマンスもまた、ミッキー自身の独白のようだ。飛ぶ直前、ラムは一瞬、先程までキャシディがいた方を見る。
 
この数年前にロッキー・ザ・ファイナル公開され、個人的には、爺さんファイター映画を続けて鑑賞することになった。ロッキーには、天に召されたといえ最愛の伴侶エイドリアンがいる。しかしラムには誰もいない。無人のカーテンの隙間が彼に「飛ぶ」ことを決意させた。ロッキーを観たあとだと余計に物悲しいのだが、同時にラムの無骨な生き様がとても好ましい。
 
ミッキー、お疲れ。 
 

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(C)2008 Wild Bunch

『ヘイト・ユー・ギブ』

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監督:ジョージ・ティルマン・Jr. キャスト:アマンドラ・ステンバーグ、レジーナ・ホール、K・J・アパ/2018年
 
おはようございます。私のidは「やなぎやしゅじん」です。「やなぎや」の後に何が続くかなんて誰も気にしないでしょうが、一応つげ義春の漫画から取った「やなぎや主人」なんです。今後とも、やなぎや主人をお願いいたします。
 
本日は『ヘイト・ユー・ギブ』の感想となります。半分はラップ映画です、多分。
 
◇T.H.U.G. LIFE
YOYO, ラップ全然わかんないYO。ライムってなんだYO。カボスの仲間のライムじゃないYO。

わからないから、代わりに日本ラップのリリックを紹介するYO!
 
 チェケラッチョ おしゃれ手帳♪( byユーザロック)
 
 韻がどうこう 因果応報(by晋平太)
 
 やなぎや主人 高飛車な囚人(byやなぎや)
 
ふゥ~!
すげえパンチラインだな。ヤバすぎるスキルだぜ。
 
囚人てなんだ。韻は踏んでも踏まれるな! 
 
『グリーン・ブック』『ブラック・クランズマン』、黒人差別を扱った映画が多いYO・NE。どっちも未見だけど、スパイク・リーは鬱陶しいYO~。あいつが監督してるってだけで多分観ないYO~。
 
あらすじ、チェケラッチョ!↓↓
 
白人社会と共存していく方法を幼い頃から教え込まれてきた黒人の女子高生スター。治安の悪い地域「ガーデン・ハイツ」に生まれ暮らしながら、両親の方針で、白人の私立校に通い白人のボーイフレンドと付き合う彼女は、自分が黒人であることを忘れたかのような毎日を送っていた。そんなある日、久しぶりに再会した幼馴染のカリルが、彼女の目の前で白人警官に射殺されてしまう。(映画.com)
 

◇2つの顔
真面目だが2つの顔を持つ少女の目を通して、差別にアプローチする内容になっている。物理的な「顔」の話では、スターを演じたアマンドラ・ステンバーグは素晴らしいお貌をしてらっしゃる。整ったキツめのパーツに対し、アンバランスな眉やヘチャッとした全開の笑い顔が愛らしい。今後も使い出がありそう。
 
スターは名前の「starr」に"r"がダブっていることに引っかけて、高校での自分を「スター2」とし、地元とは異なった顔を使い分けていた。
彼女にはクリスという彼氏がいる。しかし、地元のパーティで再会した幼馴染カリルも、魅力的な青年に成長していた。それぞれの魅力は、履いているスニーカーと、彼らが好む音楽に表れる。クリスはいかにも流行りのリズムをスターのために作り、カリルは20年前に絶大な人気を誇ったラッパー2Pacの影響力を熱く語る。
 
ハイソサエティなクリスと、少々ダサいがキュートなカリル。彼らはそのままスターにとって、白人側に置くアイデンティティと黒人側に置くアイデンティティの象徴だ。その片方、黒人側が突然失われたことで、スターの均衡が崩れることになる。
 

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ここから「スター2」の顔になる。
 
 
◇人種差別の描き方
カリルを射殺したのが、例えば鬱憤を晴らすため黒人の車を止める、ガムをクチャクチャ噛んでいるような警官であったり、証拠を捏造する卑劣な警官であったならば、その後の展開は単純だ。目撃者の少女が脅しを乗り越え、悪に打ち勝つ王道のストーリーになるだろう。

だが、本作の加害者は警官になって5年目の新米で、彼もまた騒動の被害者となる。つまりこの映画は、スターが目撃者として証言することで警官個人を糾弾したり、分りやすい差別と対決するものではない。
スターは、カリルの事件の証人となるか否かの選択を迫られる中、「スター2」の顔を保てなくなってしまう。黒人側のアイデンティティが欠けてしまったことで直面する「現実」、これこそがテーマだろう。
 
映画での人種差別の描かれ方は、当然ながら実社会を映して移り変わる。以前は分りやすい言葉や暴力に対して、同じく正面から戦うものが多かったが、現在の流行りは「無意識の差別」。「私は差別しない」と胸を張る人々の中に、「差別しないという差別」があるというものだ。本作では、同じくそれを根底に置きながら、「無知」を強く糾弾しているようだ。
 
スターと警察官である叔父の会話で、叔父は「夜、黒人の車を止めて、その黒人が車の中に手を入れたら迷わずに撃つ」という。そのマニュアルの通りにカリルを殺されたことを知るスターは、彼の言葉に反発する。どうにもならない現実と、まだ現実を知らない少女がそれに対峙するシーンだ。
 
スターの学校の生徒たちの行動は、無神経で偽善的だが、彼らにとってこの行動は決して人種差別ではない。また、事件により決裂した友人ヘイリーも同様だ。ヘイリーは始めから説明されている通り、相当なパープー。ラップ映画を観れば「ダチをバカにされたらマジでボコす」などと恥ずかし気もなく言う、思ったことが口に直結するおバカの子である。
 
だが、決裂の原因となったヘイリーの言動に黒人であるスターへの配慮はないが、これもまた差別ではない。欠けていたのは、異なる人種を「友人」と呼ぶのならば不可欠な、バックボーンを知ろうとする思考や意志だろう。彼氏のクリスも「君は君だ」と誠実だが、「でも私は黒人なの」と訴えるスターのアイデンティティを無視している。恋人、あるいは親友であるスターのコミュニティは自分たちのコミュニティとどう違うのか。警告なく銃を撃つことを当然とするこの社会は本当に正しいのか。それを知らずに行動する学校の生徒たちやヘイリーの「無知」、またスター自身の「無知」が炙り出される。
 
「無知」「無神経」「偽善」、これらはこれらで責められるべきだが、ひっくるめて「人種差別」と断言すれば、これもまた互いの無理解の連鎖が止められない。スパイク・リーみたいな奴が何でもかんでも差別だとギャアギャア言うもんで、逆効果を産んでいるのも事実。
 
黒人が車の中に手を入れれば、90%の確率で撃たれる現実。
黒人たち自身が、この確率を上げているという現実。
何も知らないまま「Black Lives Matter」のプラカードを掲げている人々がいる現実。
 
まずは知るべきである、と意図はシンプルだ。
 
 
◇しかし好みではない
ところで、こういう映画が好みかというと、全く好みじゃない。
 
内容を現実で議論せざるを得ないような映画。「教訓」を避けられない映画。
映画で描かれる世界はあくまで「設定」であるべきだし、その設定について語るのは楽しいが、こういったあからさまな問題提起をされれば、何かしら議論せざるを得ない。映画っぽくないじゃない。映画を観てそんなことをしたくない。いいたいことわかってもらえるかしら。
 
というわけで、設定についてはあんまり言えることがないのだけど、二つ言わせてほしい。
 
ギャングのボス、キングアンソニー・マッキーが全く怖くない。
 
キリリとした端正なお顔。「ガーデン・ハイツ」の人々は多くが顔見知りでキングも例外でなく、スターのパパは彼の元右腕だ。またキングは、スターの異母兄セブンの母の現在の情夫。コレ、すごくわかりにくいよね。えーっと、スターのパパは、以前ママと一時期別れていた間に、別の女との間にセブンを製作、その後スターのママとヨリを戻し、スターと弟セカニを製作した。そして別の女=セブンの実母が、現在キングと付き合っており、オマケに二人の間の娘はスターの友人だ。
 
つまり、スターにとってキングは、血縁的にも完全に無関係とは言えない、親戚のおじさんのような存在。そのキングに「証言はするな」と脅されるわけだが、上記の理由から、「コイツどこまでやる気?せいぜい頭をひっぱたく程度じゃないの?」とナメくってしまい、あまり同族内にも敵がいる危機感がないのだ。そして、最後にはギャングらしからぬ放火の罪によりしょっ引かれるショボいご退場。ギャング感がまったくなかった。
 
もう一点、2Pacの曲に思い入れ過ぎたなと思う。『THE HATE U GIVE(THUG)』の歌詞、「子供たちに与える憎しみが全てをむしばむ」が繰り返し劇中でピックアップされる。この布石は、途中スターたちの父が警官に暴行されるシーンを介して、ラストシーンへと繋がる。
 
再び父に対する暴力を予感したセカニが、父の銃を抜き取って構える。家族、キング、警察官が三つ巴となって動きを止める画は、まさに「子供たちに与えた憎しみ」の歌詞そのものだ。だが、ストリートで育ったならばともかく、セカニは現実の厳しさをまだ肌に感じているはずのない子供。
その子供が、恐怖でなく憎しみを優先させて父の腰から銃を抜く、これに非常に違和感がある。銃を構えたのがセブンだったらわかるが、それでは「子供」に合致しない。だからセカニに銃を抜かせた脚本が、安易に見えてしまう。まあ、物語として、あのように終わらせるのが妥当なんだろうとは思う。
 
最後に、スターは「rr」を分けることを止め、学校で顔を作ることを止め、本来の自分で生きることを決意する。髪型の変化がそれを示しているのだけど、コーンロウが似合っていただけに残念。またこのような結末なら、ヘイリーを「身勝手な友達」と切り捨てず、黒人の自分を知ってくれと向き合うラストでもよかったのではないだろうか。
 
見るからにヘタレそうなクリスに、根性があったのには裏切られた。あと、クリスが作った曲が妙に耳に残る。
 
引用:(C)2019 Twentieth Century Fox Home Entertainment LLC. All Rights Reserved.

『グレイテスト・ショーマン』

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四歳の息子は赤ちゃんの頃から「面白い」のツボを押さえており、様々な場で愛想を振りまき笑いを取ってきました。しかし現在、その面白さが毒気を含んだものに変わりつつあるのです・・・。世間の四歳児のブームは「ウ○コ」だと思いますが、息子のブームは「ブタみたいだね。」です。
 
普段使いは当然のこと、先日は私の顔を両手で挟み、「お母さんカワイイね・・・お花のお顔だよ」と言うので「ありがとう~」と喜んだら、「でも耳はブタみたいだけどね」(ゲラゲラゲラゲラ)。
 
ちょっと・・・。保育園ではどういう教育をしているの?
 
またいかにも下の子らしく自由で。例えばグミやらマーブルチョコなどのお菓子を与え、「半分食べていいよ」と言ったとします。娘は守るんですね、褒められたいから。しかし息子は瞬時にガガガーッ!と口にぶち込み、もぐもぐしながらモジモジと寄ってきて「お母さん?はんぶんねって言ったけど、ちょっと忘れちゃってね?」。
 
ほう、食べた後に思い出したんか。
 
将来が不安ですな。きっとろくでもない男になる。
本日は、子供と観たい映画『グレイテスト・ショーマン』です。
 
夢が躍り出すぜ。
 
 
◇あらすじ
貧しい家に生まれ育ち、幼なじみの名家の令嬢チャリティと結婚したフィニアスヒュー・ジャックマン。妻子を幸せにするため努力と挑戦を重ねるフィニアスはやがて、さまざまな個性をもちながらも日陰に生きてきた人々を集めた誰も見たことがないショーを作り上げ、大きな成功をつかむ。しかし、そんな彼の進む先には大きな波乱が待ち受けていた。(映画.com)
 
 
グレイテスト・しょーもないマン
私はこれをずっと「グレイテストマン・ショー」だと思っていました。グレイテストなマンがショーをするのだと。実際には「ユニーク」な人々を集めてサーカスを興行し、成功を収めたショーマンの話をミュージカル仕立てにしたもの。差別に敏感なこの時代に、描き方によっては反感を買う題材だが、さすがに不快感を抱かせるような下手な真似は作り手もしていない。ある男のサクセスストーリーと同時に、主題として「マイノリティの苦しみ」があるのだが、そもそも彼らの容姿をビジネスに利用するストーリーである時点で、差別に関する話は別次元にある。バーナムは商売で成功したい、マイノリティ側は人目を気にすることなく表舞台に立ちたい、両者は基本的に利害が一致した関係だ。
 
それにしてもバーナムが単細胞な俗物だ。マイノリティを見世物にしたサーカスで一発当て、その後、「本物の」歌手ジェニーと出会って鞍替えする。愚痴も言わずに彼を支えた妻を疎かにしたり、長年犬猿の仲であった妻の両親に和解を求められても応じず恨み言をぶつける。グレイテストなショーマンどころか、「グレイテスト・しょーもないマン」となっております。ちなみに、ヒュー・ジャックマンは私の中のどーもない俳優ベストテンに入っております。
 
 
とにかく都合がいい
最初に言っておくと、私はミュージカル映画、歌や音楽を扱った映画は大好きです。別にストーリーに関係ないダンスが入ろうが、突然歌い出そうが気にならない。だが、この映画では、なぜだろう、初っ端のダンスと歌、バーナムと令嬢チャリティの幼い恋物語のミュージカルに全くノれない。
 
長じてバーナムの妻となったチャリティミシェル・ウィリアムズは、お嬢様育ちでありながら、彼が仕事をクビになろうが、博物館やると妄言を吐こうが、博物館を見世物小屋にしようが、翻って歌手を招いて劇場にしようが、ポリシーのない行動を意見もせずニコニコと支える。ただしかし、愛に裏切りを感じたときだけは怒る。どんだけ頭がお花畑なんだえ。
 
バーナムがサーカスの発想を得たのは、娘のどっちか(見分けがつかん)の「死んだものじゃなく生きているものを置かなきゃ、ユニークなものを」の言葉がきっかけだ。どれだけ世の需要を把握しターゲットを絞り込んでの提案か。いまやビジネスチャンスは子供なんぞの何気ない一言から生まれるものではないというのにねぇぇぇ。

ユニークなもの=マイノリティを探し始めたバーナムは、レティという名の、髭面ゆえに人目を避ける女性を訪ねる。彼女はたまたま歌が超絶上手かった。レティも、最初は拒否反応を示す青年も、バーナムの特に捻りのない言葉でサーカス入りを決意。人前に出ることに尻込みする彼らに、ある一人の子供がニッコリと笑いかけると、場は一気に和み、幸せな空気に包まれるのだった・・・。
 
 
すごい人格者の子供だわ。息子に見習わせたい。
 
 
バーナムの幸運は更に続く。偶然目にした新進気鋭の劇作家フィリップザック・エフロンに目をつけ、よくわかんない歌を歌ってるうちに口説き落とす。待って待って、今どんな魅力的な申し出があった?ちょっとつまらなくてボーッとしちゃったから戻そう。真面目な私はもう一度観直したが、それでも良く分からなかった。
 
また、偶然バッキンガムで見かけた有名な女性歌手ジェニーに目をつけて劇場で歌ってくれと持ちかけ、これもよくわからんうちに口説き落とす。彼女に「私の歌を聞いたことあるの?」と問われ、咄嗟に「ええ」と嘘をついたザックの気遣いを、バーナムは「いいえ」と台無しに。ドヤ顔で「私は自分の耳より世間の評判を信じる」。
 
手練手管を放棄したクソ度胸に思えるが、これはジャンプの少年漫画的アプローチと変わらない。HUNTER×HUNTERでのキルアとゴンなどに見る、したたかさより馬鹿正直が勝利するパターン。ジャンプ的アプローチにより、ジェニーは「ハハハ、お前、馬鹿な奴だナ(飾らない人ね)」と陥落。バーナムのビジネスパートナーとなる。
 
現実で、馬鹿正直が奏功することはほぼないですからね。
嘘をついている自分に罪悪感を覚えるな、エイエイオー!
 
ハイ。期初の数字の圧迫と、連日のワンオペ育児が私の精神を追い詰めております。
 
各パートがドラマとして繋がっていない点も問題だ。例えば、素人のレティらが、喝采を浴びるほどのショーを作り上げるまでの苦労などは描かれない。また、バーナムとマイノリティ達との相互理解、心の交流などもないので、終盤にレティらが彼に手を差し伸べるシーンに繋がってこない。さらに、人を次々オトして成功するバーナムなのだから、その理由があるはずだ。例えば抜きんでた商才、動物的な勘や眼力、人たらしの天性。だがそういったことを示すエピソードはなく、ただ歌とダンスで力技をかましてきやがる。
 

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(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation

なんなんだろうなー『シカゴ』とかは大好きなんだけど。
 
 
素麺展開
物語はスルスルとした素麺のように喉元を通過する。初っ端感じた通り、ダンスも歌もあまり響かない。ザック・エフロンのパフォーマンスもヒューの歌もジェニー嬢が歌うシーンも、うんまあ、ちょっと値の張る素麺だね、みたいな。ミュージックステーションに出てたらすごいけど。

レティらが心の叫びをぶつける「This Is Me」はよかった。憤りを叩きつけるように踊るシーンは、「フリークスは消えろ」という罵声、雪の中のかがり火、彼らを拒絶する看板といった周囲の装置が効いていて良かったと思います。
 
最後は、ご丁寧にもサーカスが焼け落ち、豪邸は銀行に差し押さえられる不運なソーメン展開。消沈するバーナムに、レティらマイノリティ達が手を差し伸べる。ここの不自然さは前述した通りだ、そもそも両者にそんな絆があったっけ。

さて、サーカスを立て直す金がない。しかし、パートナーのザックは、新進気鋭の劇作家という設定でありながらその価値がわからずここまで来たが、なんと浪費家バーナムを心配してコツコツと金を貯めていた。作家としてではなく、へそくり主婦としてこそ真価を見せた。
 
 
雇っててよかった・・・!
そしてサーカスは復活を遂げる。象も飼う。
 
 
多くの人が夢みるサクセスストーリーを気持ちよく描いてくれているので、これは子供が観るにはベストですよ。美術は素晴らしいようだしミュージカルシーンは華やか、ラブストーリーでもあるがベッドシーンなし、なにより外見で人を差別してはだめだよと、まず人間として学ぶべき点を学ばせてくれる(ここだけは息子に教えたい)。
 
冒頭で「子供と観たい映画」と紹介をしたのですが、正直に言いましょう、「童心に帰らないとキツイ映画」です。まああれだ、こういう映画に難癖つけるのはつまらないのだろうけど、「楽しんだもの勝ち」という勝ち方があるのだから、「せいいっぱい努力したが楽しめなかった」権利もあるべきだよね。
 
あ、ミシェル・ウィリアムズが終始、健康そうなピンクのつやつやしたほっぺをしていたのは見所でした!落ち込んだりもしたけれどブロークバック・マウンテン』『ブルー・バレンタイン』に比べたら、こんなことなんでもないよ。

『エール!』

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監督:エリック・ラルティゴ キャスト:ルアンヌ・エメラ、エリック・エルモスニーノ/2014年
 
席で仕事してると、なんやかんやと邪魔が入るので、リフレッシュスペースで仕事してたのに、今度は仲のいい同僚が「ねえ、この紅茶の匂い嗅いで~。大好き、この香り~」などとティーパックを鼻先に突き付けてくる。いい気なものね。
 
今日は間に超無駄話が入っているので、さっさと映画のご紹介に入ります。
 
 
◇あらすじ
フランスの田舎町で酪農を営むベリエ家は、高校生のポーラ(ルアンヌ・エメラ)以外の全員が聴覚に障害を持つ。家族の手伝いに追われ、好きな男子に声も掛けられない高校生活を送っていたポーラだが、音楽教師のファビアン・トマソン(エリック・エルモスニーノ)に歌の才能を見出される。だが、耳の聞こえない家族から理解は得られず・・・。
 
イケてない高校生活、男子生徒へ憧れと失望。身につまされるわ。
 
意志の伝達手段が手話のみのポーラの両親には、会話をオブラートに包む習慣がなく、感情表現はオーバーかつストレート。個の強い人間に囲まれている上、日常生活の多くが家族のサポートで占められるポーラは、友人に比べて未成熟であり、これは高校生になってもまだ生理が来ていない状況に明らかだ。
 
そんな中、音楽教師ファビアンに歌の才能を見出されたポーラは、やがてパリの音楽学校に進学するための試験を受ける決意をする。歌を介した、憧れのガブリエルとの接近も、新たな世界への扉を開くこととなる。
 
自分の可能性の発見、閉鎖された場所からの脱出、自立といったテーマは、大好きなリトル・ヴォイス(1999年)やリトル・ダンサー(2000年)と共通するものがあるなあ。ただこの映画が面白いのは、ポーラの才能が、家族には理解したくとも理解できないものである点だ。
 
リトル・ダンサー』におけるダンスは、父親にとって受け入れがたいという点で乗り越えるべきハードルは高かったのだが、最終的に父は息子の意志を尊重し、それにより息子の才能を知ることができた。だが、ベリエ家がポーラの歌声の素晴らしさを実感することは、どう頑張ってもできない。なんとも皮肉な話である。
 
パパとママはセックスにやたら貪欲で開けっぴろげだが、これは「人の目」や世間の常識からフリーであるため、性的なものに対して羞恥する習慣がないだけのことだ。ポーラには、二人の獣のような声が壁越しにも聞こえるし、他人の、家族を揶揄するヒソヒソ声も聞こえてしまう。聞こえない人間の無頓着な気楽さと、聞こえるがゆえの苦痛。ベリエ家の中では不幸なのは障害を持つ三人ではなく、聞こえてしまうポーラということになる。

社会では「普通」の自分が、家族という重要なコミュニティでは異質、これはなかなかに辛いことではないだろうか。だからポーラは、家から学校に向かうとき、大きな音で音楽を聴き、「音」に対する自由を味わう。
 
愛しいと同時に鬱陶しい、それが家族。
 
 

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束の間の自由を満喫するポーラちゃん。

(C)2014 - Jerico - Mars Films - France 2 Cinema - Quarante 12 Films - Vendome Production - Nexus Factory - Umedia
 
 
 
さらに語るべきは、この年頃の男子特有のデリカシーのなさ。デュエットの練習のためポーラ宅を訪れたガブリエルは、そこで起こったある出来事と家族の変人っぷりに尻込みしてしまう。ガブリエルに「恥」を見せてしまったポーラは、彼の良識に期待するのだが、彼は見事にそれを裏切る。パリで育ち、貴公子的な容姿を持つガブリエルも、所詮中身はガキということだ。
デリカシーを持って相手を思いやる、そんな気の利いたガキなど高校生にまずいない。
 
ちょっと鼻息が荒いね。ここは私の中のリトル・ヤナギヤ(※)と話して落ち着こうかしら。
 
※リトル・ヤナギヤとは:
サッカー選手の本田圭佑ACミランへの入団会見時にミラン移籍を決断した理由を質問され、「私の中のリトル・ホンダに『どこのクラブでプレーしたいんだ?』と訊くとリトル・ホンダは『ACミランだ』と答えた。それで移籍を決めた」と発言したことから。以来サッカーファンの間では、決断に迷って自問自答する際に使用される。
使用例:「迷ったけど、私の中のリトル○○がGOと言ったから決心したの」
 
リトル・ヤナギヤ「随分ムキになるじゃない?何か苦い思い出でもあるのかしら」
やなぎや「高校時代を思い出しちゃたわ。近くの男子校のコーラス部のコを好き
になって、友達伝手で連絡してデートすることになったの」
リトル・ヤナギヤ「あらすてき!それで?」
やなぎや「デートの日、彼は友達を連れてきた上、『緊張しすぎたから帰る』って
マックでメシ食って帰ったわ」
リトル・ヤナギヤ「オウ。。」
 
やなぎや「後日、そのコがうちの文化祭にくるって友達から聞いたの」
リトル・ヤナギヤ「仕切り直しってわけね!」
やなぎや「ところで私と同じ部活に、他校の男子と遊び回っているビッチがいたわ。
そのビッチとトラブッた男子生徒が、文化祭当日うちの部に押しかけてきたの。ビッチは『やなぎや、ごまかして!』と隠れてしまい、『ねえ、○○(ビッチ)どこ』とキレて詰め寄る男子生徒に、私は口を半開きにしてひたすら相手の目を見つめるという戦法に出、ついに追っ払った。後輩たちに、やなぎやさんカッコいい!って騒がれたものよ」
リトル・ヤナギヤ「で、あなたの目当ての彼は・・・」
やなぎや「来なかったわ」
リトル・ヤナギヤ「それから連絡は・・・」
やなぎや「ないわ。3年間女子だけで楽しく過ごしたわ」
リトル・ヤナギヤ「オーケー、そろそろ映画に戻りましょう?」
 
 
 
この映画は、ラストが感動的と高評価される一方で、「下ネタが多い」「子供のことより自分を優先する両親が信じられない」との理由で批判もされている。後者は、どうでもいいので割愛。
下ネタ問題について、ポーラの両親の赤裸々な会話と行為は、夫婦間の性を隠す傾向の強い日本人には受け入れがたいのだろう。特に子供ができると、パパとママの顔が優先され、子供の前で男女の関係を見せるのは気恥ずかしく、やがてタブーとなっていってしまう。
 
そんな日本人の、さらに真面目な人々からしてみれば、娘に夫婦のセックス問題を通訳させたり、隣の部屋で大音量で喘ぐなど言語同断。つまりは下ネタがキツイというより、蓋をしておくベき夫婦の性的な関係を堂々曝け出していることに対する拒否反応、嫌悪感なのだよ、わかったか。しかしもっと柔軟になった方が人生楽しいよ。
 
また子供たちにもそれぞれ、性を意識させる場面が訪れるが、子供期を脱出して青春期に向かうにあたり、これも避けては通れない扉。ガブリエルとの間に官能を覚えたことでポーラが初めての生理を経験するのは「性の目覚め」を意味し、歌の才能の開花とともに、ポーラが違う世界に飛び立つことを示す重要な題材だ。

これらを「下ネタ」と呼んで眉を顰めるのは、特に羞恥心の強い日本人特有の感覚なのではないかしら。他国で、不快感を伴う表現として捉えられているのか是非知りたいものだ。
 
 
◇何といっても、歌!!
劇中で取り上げられる歌はすべて、1970年代に多くのヒット曲を生んだフランスの歌手、ミシェル・サルドゥの楽曲だ。古き良きフランス歌謡曲という位置付けなのだろうか、ファビアンが、クラスの課題曲としてサルドゥの名を挙げると、生徒から「ダサい」という声が飛ぶ。現代の高校生から見れば古くてダサい、日本でいうなら昭和の歌謡曲のような扱いなのだろう。

ファビアンは「希望がないときは、ミシェル・サルドゥしかない」と反対の声を一蹴。
昔は華やかな仕事に就きながら現在は落ちぶれている男の、妙に説得力のある台詞だ。
 
生徒たちが発表会で合唱した「La Maladie d’amour(恋のやまい)」は非常に美しい曲で、エンディングでも流れるから是非余韻に浸って頂きたい。またこの曲は、私たちのジュリーこと沢田研二が「愛の出帆」という題名でカバーしたことでも有名。これも是非、聴いて頂きたい。ジュリー、最高。
 
サルドゥの歌は抒情的で郷愁を帯び素晴らしいが、どの楽曲も、ポーラの状況とマッチする形で使われているのがまた良い。ガブリエルとのデュエット曲「Je vais t’aimer(愛の叫び)」は、ポーラの性の目覚めとリンクしていたし、パリの試験会場で歌った「Je Vole(青春の翼)」は彼女の心境を完璧に代弁している。
 
 ねえ パパとママ 僕は行くよ 旅立つんだ 今夜
 逃げるんじゃない 飛び立つんだ
 
発表会で「愛の叫び」を披露するシーンでは、敢えて観客の耳を両親の耳にする演出が為された(つまりなにも聞こえない)。ポーラが「青春の翼」を歌い出しても、家族の反応は発表会のときと同様、音のない歌を見つめるのみだ。
 
同時に無音を経験した観客の心情は、ポーラを応援する気持ちからいつの間にか、娘の声を聴くことができない両親の方へと傾いている。
それゆえ、試験の場でポーラが咄嗟に行ったパフォーマンスは、両親を驚かせると同時に観客も驚かせることになる。無音はうまい演出だった。
 
場面が転じるとポーラが荷物を詰めており、試験に受かって家を出ていくことがわかる。これも『リトル・ダンサー』を思い出してしまうよね。

何度繰り返し同じような映画が作られようと、私は少年少女が田舎町から羽ばたく映画が好きなんだよ。
 
リトル・ヤナギヤ「あ、ジュリーの愛の出帆を聴いてくださいね。」
 
 

『血と砂』

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監督:岡本喜八 キャスト:三船敏郎、団令子、仲代達矢/1965年

 
期末終わったと思ったら、期初も忙しいんです。
私の仕事は専門職なので、よく客先を訪問したり、お仕事受けたら途中経過を説明しに行ったりします。先日ある仕事の途中で、こちらが作った叩き台を、顧客が上層部に見せて承認を得るということになりました。担当の人に「もしここで上から修正が入ったら、納期が遅れますか?」と訊かれ、「『なんじゃこりゃあ!』とちゃぶ台返しが入らなければ問題はありません」と答えました。

お客さん達は「はっはっはッ、ちゃぶ台返し」「卓袱台返しって不思議な言葉だよね」とか言ってるんですが、違うだろ、そこは。
「『なんじゃこりゃあ!』って松田優作ですか」だろ。ったくもー。
 
さて本日は、岡本喜八っつぁんの血と砂となります。『トワイライト』との差がすごいって?トップの三船敏郎が怖いって?知らんがね。
 
近しい人間から「そろそろ、ガッツリしたの読みたいんですけど」と言われた。なにそれ。メニューをリクエストするならともかく「なんかサッパリしたもの」とか抽象的なこと言われるのが一番困るのよねッ。それにしても、「ガッツリしたの」って、この映画じゃない気がするのよねッ。
 
 
◇あらすじッ
太平洋戦争末期。百戦錬磨の戦歴を誇る曹長の小杉三船敏郎は、軍楽隊の少年たちを最前線に送ろうとする師団司令部に歯向かったため、北支戦線への転属を命じられる。転属先の隊長佐久間大尉仲代達矢は小杉と少年たちに、要所となる砦「火葬場(ヤキバ)」の奪取を命じる。
 
昭和二十年夏、北支戦線。「支」は「支那」、中国のことですネ。うちのじいちゃんは中国のことをずっと「支那」と呼んでいました。1937年に始まった日中戦争は、途中から太平洋戦争の流れに組み込まれ、第二次世界大戦の一枠となる。アジアの片隅のそのまた北方の一戦場が本作の舞台。
あと、劇中で三船敏郎が言う「パーロ」は、敵軍である中国共産党八路軍のことですネ。
 
昭和二十年の夏と聞けば、ラストまでなんとなく展開が予測できるわけだが、映画は敗戦色とは真逆の賑やかな演奏で始まる。その後も二時間を通して映画を彩るのは、軍楽隊によるジャズや童謡の演奏だ。モノクロの画面がとっつきにくいという人でも、少年たちが荒野を軽快に行進しながら奏でる『聖者の行進』と、そこに合流する三船敏郎の笑顔に、抵抗感をなくすことだろう。最初に強調しておくけれど、めちゃめちゃ面白い映画なんです。
 
 
◇リズミカルな戦争映画
冒頭の演奏シーンに象徴される通り、全編、ユーモアとリズムに彩られている。
難関のヤキバ攻略には、軍楽隊の十三人と小杉の他、葬儀屋の持田一等兵、板前の犬山一等兵、通信兵の志賀一等兵らが加わるが、それぞれにクセが強く個性豊かな顔ぶれだ。銃弾の降り注ぐ緊迫した局面においてもブレない彼らのマイペースさが笑いを誘う。また、同じくどのような状況下でも、寄せ集め集団の能天気を笑顔ひとつでフッと流す、小杉曹長の豪胆ぶりにはうっとり。
 
理不尽な暴力や飢えなど、戦争映画につきものの描写はない。カメラは、小さな砦を奪おうとする者、奪い返そうとする者を映すのみで、この戦いの意義を誰かに語らせることもない。敵の八路軍についても、「奴らは死体を丁重に扱う」と礼節を知る民族として描いている。
 
ジャズを始めとする音楽は、BGMではなく、兵士たちの心情や状況を伝える表現手段として常に中心にある。敵前逃亡の罪で射殺された若い見習士官に送る葬送曲、ヤキバ奪取出発前の『夕焼け小焼け』、売春婦のお春さんを思った『お春さん』の歌。どれも言葉を必要としない、感情豊かな演奏だ。
小杉が軍楽隊のメンバーを担当する楽器の名で呼ぶのは、彼らを兵士ではなく「楽団員」として扱うためで、なんとか生き残らせてやりたいという意思が伝わってくる。
 
諸所の動作で刻まれるリズムが、ユーモアと悲哀を調和する重要な要素となっている。例えば、突撃訓練の「イチニサンシ、ニニサンシ、ダダダダ、ダダダダ!」といった独特のリズム。ヤキバで、小杉が元甲子園児原田に手榴弾を投げさせる時の、「いち、に、さん!」「レフト、センター、ライト!」のリズム。
 
また、葬儀屋持田が、小杉らが敵を一掃した後のヤキバに突撃する際のスローモーション。持田は、誰もいない宙に向かって無我夢中で銃剣を突き出し、ステップを踏む。本作でスローモーションが使用されたのは、多分ここだけではないだろうか、直前に楽隊のリーダーであった原田とトロンボーンが戦死したことを知る観客の目には、このスローテンポなステップが滑稽かつ切なく映る。
戦争映画でありながらリズミカルな映画となっていて、1965年の作品なのに今観ても古臭さを感じさせない。
 
 
◇萌えキャラおります。
小杉と、登場時は融通の利かないエリートである佐久間大尉の対立が、どこかすっとぼけたテイストで描かれるのもユーモラスだ。
転属早々、ある理由から小杉は佐久間を殴り拘束されるが、殴られた方と殴った方ともに少年たちの演奏を眺めつつ、「なんだあの曲は」「見習士官への追悼でありましょう」「それなら『海行かば』が決まりだ」「明るい曲でないと寂しすぎます。そうは思いませんか」「思わんね」とやり取りするのがなんとも微笑ましく。
今、君らは殴り殴られ、営倉に向かう途中なのだが・・・。先程の殴り合いは、二人にとって予想内の出来事であったのか、はたまた佐久間が天然ボケなのか。
 
この印象を裏切らず、佐久間大尉は始めこそ鼻持ちならない職業軍人だが、実は思慮深く、情を解する人物であることが徐々に明かされる。後日、小杉の暴力を不問に付すこととし、「軍法会議にかけなくていいのですか」と進言する部下に、
 
「なんだ?雨の音で聞こえん」
「全く、聞こえん」
 
と無表情に言うところがすごく好き。
戦争映画に付随しがちな「理不尽な上官」を排除した点が気持ちよい。
 
ってか、佐久間大尉、なんていい男だと思ったら、仲代達矢なのかあぁぁ。
 
めっちゃカッコいいいいのお!めっちゃ好み。
厳めし顔のくせに、つつき甲斐があるってところがもう最高。
(謎の童貞設定は一体なに?)
 

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まあ素敵。
「指揮官は、進むときは先頭、退くときは最後尾!」のリズミカルな台詞も痺れる。
 
 
◇女性賛歌
もう一つ、この映画に華を添えるのが、お春さんを代表とする売春婦だ。
小杉を慕って、この戦線にやってきたお春さんは、恐らく中国人で現地徴用の売春婦なのだろう。薄い肢体やぺろりと出す舌が艶めかしい一方、小杉への一途な思いは純な少女のよう。慰安所の売春婦たちもみなあっけらかんと明るく、抱かれるか否か選択の主導権は彼女たちにある。ここには騙されて個室に閉じ込められ、一日何十人もの男に足を開くような娼婦の姿はない。
 
現実に、そういう場もあったし案外とこういう女たちもいたということなんだろう。少なくともこの映画は、悲惨な境遇の売春婦の姿を必要としない。「キスしてあげよっかー?」とじゃれたり、無防備に濡れた着物姿を晒す女たちは気ままに磊落だ。
小杉の「謹んで敬礼してから抱け」 の言葉といい、女たちへの感謝とリスペクトが捧げられている。
 
お春さんが相手する男たちが全員ヒゲ面の兵士なら、そこは抵抗感もあるのだろうが、何しろ全員未経験の少年音楽隊。お春さんに抱いてもらい、夢見心地になったり飛び跳ねたりするシーンは、呆れ笑いと同時に、彼らが生涯にこの一度しか女を抱けないことの悲しさに満ちている。
 
ここで監督は、少年らを見守る葬儀屋の持田(なぜかこいつも童貞設定)に、八路軍の旗は赤旗だが、こいつらが仰ぐ旗は軍旗ではなく、お春さんの赤い腰巻だ」と言わせる。
娼婦の下着を軍旗と見なすとは、当時は反発もあったのではないだろうか。だけどまあ、そんなもんだろう。老い若い関係なく、ちっぽけな一拠点のために死のうとするときに国を思う人間などいない。初めて抱いた女のために死ぬ。建前をとっぱらったら、人間の行動原理なんてそんなもの。誰が旗や知らない相手のために死ねるんだとの皮肉気なメッセージを、下ネタとユーモアの中に込めるセンスに脱帽。
 
モノクロ映画だけど、イロ(情婦)鮮やかなんだよね。
なんつって。 
 

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「小杉曹長大好き」お春さん。愛らしい。

 
終盤、次々と死んでいく少年たちの姿に、過剰な演出はなく愁嘆場も少ない。小杉曹長の死の場面はそれなりに丁寧ではあったが、今際の際の言葉がお春さんへの「ホントにありがとう!」であるのがまた、軍人の死に様らしくなくて良いよなあ。
 
巷で評価されているような、戦争アクションエンタテインメントというと、ちょっと違和感があるなと思っている。冒頭と同じ『聖者の行進』を演奏しながら、少年たちが死を待つラストシーン、音楽から徐々に「楽器」が欠け落ちていくさまは悲劇以外の何ものでもない。

ユーモア色が濃ければ濃いほど、その分悲哀が際立つのは当然のこと、お涙頂戴の演出を徹底して避けカラリと描きつつも、その明るさが逆に影を色濃くする、そんなコントラストを喜八っつぁんは狙ったのではないかと考える。
 
板前士官こと犬山(佐藤允)の最期の台詞「お前らはメシ抜きだ!」が笑いのダメ押しで。
皆死んだのに、まだ笑わせるのか!と。
 
ブログ初回の『軍旗はためく下に』は、迂闊にはお勧めしにくいけれど、この映画は全力でお勧めする。
 

『トワイライト 初恋』

 
『トワイライト』(Twilight):
ステファニー・メイヤー著のティーン向け小説シリーズ。雨と霧の町、アメリワシントン州フォークスへ引っ越してきた少女ベラと、そこで彼女が出会った完璧な容姿を持つヴァンパイア・エドワードとの許されない恋を描く。(Wikipedia
 
私たちの世代では小中学校時代、本好きの女の子は「ティーンズ小説」の道を通ったものです。多くは数年で卒業しますが、抜け出せない子はそのまま男子に大いなる幻想を抱くか、オタクの道へ進んだりします。
 
高校生のとき、同じクラスに松井さんというティーンズ小説大好き&漫画オタクがいて、クラスのヒエラルキーなどどこ吹く風、授業中にせっせと自作の漫画を描いていました。
ある日何気なく見せてもらったノートには、男のキャラ同士のどえりゃあシーンが描かれていて言葉を失ったなあ。漫画の内容より、「松井さん、こんなこと考えているんだ」とやたら大人に見えて衝撃だった。
 
その後、松井さんを意識したのはスキー合宿のとき。結構な斜面を蛇行して滑るコースを、クラスでただ一人、真っ直ぐ降りてくるんですよ、ものすごいスピードで。下で見ていたクラスメイトたちがざわざわして、誰ともなく「直滑降」「直滑降」と囁き出し、以後「直滑降の松井」と呼ばれるようになりました。高校生活を思い出すと、あのどえらい漫画と松井さんの直滑降する姿が脳裏に浮かぶのです。
 
そんな彼女に思いを馳せつつ、本日はアメリカのティーンズ小説を映画化した『トワイライト 初恋』をご紹介。原作の小説は以前、親しい友人のリエコに借りたのだが、あまりにしんどかったため、パラパラとしか読んでません。今明かす真実、すまぬリエコ。映画化されるので観に行こう!と言われて、慄きつつ映画館に行ったら、意外に面白かったんだ。
 
1. 『トワイライト 初恋』(2008年)
2. 『ニュームーン/トワイライト・サーガ』(2009年)
3. 『エクリプス/トワイライト・サーガ』(2010年)
4. 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part1』(2011年)
5. 『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2』(2012年)
 
全部で5作もあります。
 
 
ティーンの夢は全世界共通
主人公のベラは人付き合いが苦手で自分の容姿にすら無頓着だが、生来の美しさで転校初日に注目の的となる。校内で異彩を放つ「カレン家」の一人エドワードも、ベラに興味を示す・・・。
こういったベタな恋愛小説は日本でのみ量産されているのかを思ったら、国境は関係ないのだなと痛感。それにしても、クリステン・スチュワートが可愛すぎる。青春の只中にわざわざどんよりしたド田舎に引っ越してきて、ボロい中古トラックをプレゼントされて喜ぶこんな美しい高校生がいるか。 
 

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ところで実は、エドワードは吸血鬼で、カレン家もみんな吸血鬼だ。ネタバレが唐突でしたか。あ、あらすじに書いてありますね。学校では謎めいた美しい集団という扱いだが、全員ともかくメイクが白すぎるので、人外のものであることは一目瞭然。ベラの目が彼らに釘付けになる初登場シーンでは、美しいより何より「白っ」と思ったし、監督も「うーん、衣装は白にしなくて良かったかも」と思ったかも。
 
カレン家で一際ゴージャスなエドワード役を務めたのはロバート・パティンソン。日本の婦女子から見ると少々濃いめで、イメージと違うとかイケメンじゃないなどの意見はあろうが、クリステン・スチュワートロバート・パティンソンのカメラ映りというのか、禁断の恋に悩む2人が収まっている画面には文句のつけようがない。
 
個人的にエドワードはキモいが、好みのフィルターをかけなければ、霧に烟る森や山の背景も相まって、人間離れした凄みが表現されているように思う。ただし1作目まで。シリーズを重ねるごとにパティンソンの綺麗な画は減り、特に3作目の映りはいまいち。
 

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なんだろう、イマイチじゃない?髪型のせい?
 
主役の二人は、現実でも恋人同士となったらしい。ここからはリエコに聞いた話だが、ロバート・パティンソンは極度の風呂嫌いで、一週間だか二週間に一度しかシャワーを浴びないので、臭くて辟易したクリステン・スチュワートが別れを告げたんだそうだ。ホント裏取ってないから。自己責任でよろしく。
 
 
◇玉ねぎキャッチボール
初対面でエドワードに避けられたと感じて傷つくベラ。しかし数日間の欠席後、学校にやってきたエドワードは一転してベラに近づく(欠席している間、エドワードは心を整えていた)
理科の授業かなんかで、玉ねぎの根っこかなんかを代わる代わる顕微鏡で覗きながら、
 
初期よ(たまねぎ)。なぜ休んでいたの」
ああ、初期だね。ちょっと野暮用でね」
 
中期だ。ところで雨は好きかい」
本当に中期か確かめていい?雨は嫌いよ」
 
などと、一つの顕微鏡を押しやりつつ、根っこが何期かというどうでもいい話に、私的な会話を折り混ぜていく。顕微鏡をボールに見立てた、好意と興味のキャッチボール。この、授業中にぎこちなく近づいていく感じがいいよね。それに、ベラの顕微鏡の覗き方がおしゃれだよ。こんなセクシーに玉ねぎの根っこを覗く高校生はいない。トワイライト全五作を通して、一番官能的なのは、この玉ねぎキャッチボールシーンに決定しました。ベスト決まるの、はや。
 
さらに、ティーンのみならず婦女子全般をきゃあきゃあ言わせるのは、エドワードが正体のバレることも顧みず、危険に晒されたベラを救うシーンであろう。学校の駐車場で離れた場所からチラチラと視線を交わす二人。運転を誤った車がベラに向かって暴走する。いつの間にかベラの側にいたエドワードはあろうことか、素手で暴走車を止める。ここはいい。
ベラからは、吸血鬼のエドワードには耐えがたい甘美な香りが漂っており、また、人の心を読む能力を持つエドワードが、唯一ベラの心だけは読むことができない。女性というものは、とかく特別感を重視するので(多分)、ここも全世界婦女子共通のきゃあきゃあポイントだ。
 
 
エドワードがtoo much
しかし、恋愛的ワクワクのピークは暴走車を手で止めるシーンまでである。始まってから25分。ピーク迎えるの、はや。恋愛ドラマで一番楽しいのは男女がくっつくまでであるのは言わずもがな、エドワードが理性と本能の間で苦悩したり、ベラが「ゴージャスな彼が私なんかを気にしてるみたい?でも、好かれていると思えば嫌われているようにも感じる・・・どっちが本心なの?それに彼、なんかヘン。瞬間移動するしワゴン車を素手で止めた。彼って・・・何者?」と悩んでいるあたりが華。少女漫画風に書いてみましたが、私が読んだ少女漫画は、もはや古典なので、その点お許し下さい。
 
開き直って感情全開になってからのエドワードの、ベラに対する愛情と庇護はtoo muchだ。寝ているときくらい一人にして。ベラのパパに対して「ベラは僕が守ります」って、何からやの。ベラはその時点ではまだ何も危険に晒されてはおらず、リスクと言えばボロのトラックで学校に通っていることくらいだ。吸血鬼に守ってもらわなくても、自分で回避できる日常のリスク。しかし、君を守ると言っておけば、全世界のティーンは喜ぶといわんばかりの作者の意図を汲んでか、その後も守る守るといった台詞はやたらと多い。
 
はしゃいだエドワードは、ベラを家族に紹介するため自宅に招く。そこで、自分の部屋の窓からベラを背負って飛び出し、枝から枝へと飛び移り、「クモザルだぞー」と言いながら、言葉通り蜘蛛スタイルでサササーっと木の上へ登っていく。笑っていいのか、エドワードのはしゃぎっぷりを暖かく見守るべきか迷う。
 
余談だが、ちょうどここらへんを観ていたときに、夫が帰ってきた。おかえりぃ。
 
夫「暖房つけてるの?暑くない?」
私「ちょっとエドワードのクモザルがサムすぎて、私の手足も冷えてきちゃっ」
「消すぞ」
 
暖房を、消されてしまいました。
 
サカサカと木を登るエドワードさえ視界に入れなければ、針葉樹の頂点から見下ろすフォークスの自然は絶景だ。それまでの、雨と霧で湿った森の光景には、2人の戸惑いや複雑な状況が反映されていたが、針葉樹の天辺からの「上からショット」(※)では、解放感、恋愛絶頂期の悦びが代弁されている。
 
※「上からショット」…もっとちゃんとした言い方があるはず。
 
 
◇野球がダイナミック
さて、玉ねぎに次ぐ見所は、どうにかカレン家に受け入れられたベラも参加し、皆で野球をするシーンだ。野球は、雷が鳴る日にしかできない一家の娯楽(なぜ雷の日限定かは観て下さい)。通常の何倍ものフィールドを使って球をかっ飛ばし、それをキャッチしに森に突っ込むダイナミックな映像は単純に楽しい。というか、顕微鏡のキャッチボールといい、やたら野球を盛り込むじゃない?監督は野球好きなのかな。
 
そして、この映画の醍醐味は、多数登場する吸血鬼あるいは人狼たちの中から、お気に入りのキャラクターを見つけることにもあると思うが、私の推しは何といっても、カレン家のアリス。
 

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アリスかわいい~。ピッチャーを務めるアリスもかわいい。
 
と、遊びに興じていたら、霧の中から余所者の吸血鬼三人が現れ、場は一気に緊張する。カレン一家は、ベラを背後に隠して人間の存在を誤魔化すが、事なきを得たとほっとした瞬間、風がベラの髪を舞い上げて、その匂いが彼らの鼻に届いてしまう・・・。
 
ベラとエドワードの幸福な時間を象徴した森での「上からショット」に対し、ここでは三人の吸血鬼の恐ろしさや力を示す、「下からショット」が採用される(※これもきっと他の言い方が)。緊迫した状況への切り替えや、ベラの香りを敵に届けてしまう風の場面など、随所に動きがあって観ていて飽きない。
 
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下からショット。
 
2作目以降は話が複雑化するためか(いや大して複雑ではないのだけど)、1のように贅沢に遊びに時間を割くことも減り、忙しなくストーリーを追うこととなる。そのストーリーは予想を裏切らず至極王道、ベラが吸血鬼になるならないで揉めたり、ベラのためにエドワードが姿を消したり、吸血鬼の天敵、人狼の少年が横恋慕してきたり、そんなんの繰り返しだったと思う。もっとカレン家の他のメンバーに焦点当てたら良かったけどな。ベラとエドワードより、アリスとジャスパーの馴れ初めが見たい。
 
ベラが最後吸血鬼になるのかは・・・忘れた。