Yayga!

イェイガ!(Yay!+映画)- 叫びたくなるような映画への思いを書き殴ります

『恋の罪』

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監督:園子温 キャスト:水野美紀冨樫真神楽坂恵/2011年

 

園子温監督作品と相性が良くない。愛のむきだし(2008)、冷たい熱帯魚(2010)、リアル鬼ごっこ(2015)、新宿スワン(2015)を観て、苦手を通り越して不快になったので、これは相性がよくないんだなと結論づけた。不快の理由は、いわゆるエログロと表現される作風について、不謹慎だとか過激だとかそんなことではなく、ここまでやっちゃうオレ&お上品で保守的な日本映画界に泥団子を投げつけちゃうオレって剛腕でしょと過剰なドヤ顔で目前に迫られているような感じが、どうにも受け入れがたいんだ。

特に『愛のむきだし』がマジの苦手で。当時はインスタに感想を書いていたのだが、読み返したら、”一人で部屋で遊んでてくれ””パンチラに異様に執着する童貞””『冷たい熱帯魚』は”破壊と死をこねくりまわして、ぐちゃぐちゃに盛ったに過ぎない”と、ぷんすかしていた。まあ、数年前のことだが若かったんだろう。ちょっと言い過ぎたと自分でも思う。今も『愛のむきだし』は思い出すとイライラするが、言い過ぎた。でもやっぱり苦手なんだよ。

ただ、今回の恋の罪がやたらと胸に刺さる映画だったので、クリスマス気分を盛り上げるために紹介します。

 

 

◇あらすじ

21世紀直前に起こった、東京・渋谷区円山町のラブホテル街で1人の女性が死亡した事件を軸に、過酷な仕事と日常の間でバランスを保つため愛人を作り葛藤(かっとう)する刑事、昼は大学で教え子に、夜は街で体を売る大学助教授、ささいなことから道を踏み外す平凡な主婦の3人の女の生きざまを描く。(映画.com)

言うまでもなく東電OL事件に着想を得て独自の解釈を加えたものだ。同様の作品に、私の知る中では桐野夏生『グロテスク』があり、こう次々に掘り返されては被害者遺族にとって堪ったものではないだろうが、残念ながら、あの事件はそれほどに作家の好奇心と創作意欲を掻き立てるらしい。

舞台は90年代の渋谷円山町のホテル街。いわゆる立ちんぼが暗がりで客の袖を引いていた時代だ。露骨なラブホテルの造形や安っぽいネオン、売春婦たちの崩れた化粧が画面をねっとりと塗りつくし、観る者の視覚に強烈な印象を残す。なんだろう、私が90年代円山町を語るのもヘンなんだけど、映し出される低俗で胸が悪くなるような人間の悪意や欲望がやたらとリアルで淫靡だ。上述の桐野夏生が長年「悪意」を描いてきたこと(そして最近の作品では薄れてしまったこと)は、過去にどっかの記事で書いたが、まさにその絶頂期の悪意の表現を映像で見せてもらったような気分だった。

余談だけど、数年前までうちの会社のオフィスは円山町のすぐ裏にあった。総合して真面目な固い会社なんで、完全に場違いだったんだけど、当時は色々な事情があってね。周囲の会社はベンチャーばかり、道玄坂には夕刻ともなれば黒塗りの車がズラーッと並び、朝は朝キャバのキャッチがうるさいし、酔っ払いがそこらに倒れていて・・・。近くの他の会社の男のコは、横断歩道で信号待ちしてたら後ろからナイフを突きつけられたことがあると言っていたし、オフィスビルのエレベーターの壁に血がついていたこともあったらしい。あ、あと同僚のブチが、ランチに出たら道で男に「ここらへんでヌケる店ってどこっすか」って聞かれたって言ってた。引っ越してよかった。

 


◇三人の女

映画はいくつかのチャプターで構成され、廃墟で見つかった首のない死体の事件を捜査する刑事、吉田和子水野美紀のパートから始まる。次のチャプターでは少し過去に戻り、著名な小説家の夫を持ち何不自由なく暮らす主婦菊池いずみ神楽坂恵が、AVディレクターのエリ(内田慈)に声を掛けられて、徐々に裏の世界に足を踏み入れていくさまが描かれる。そのうち、繁華街で男を物色するようになったいずみは、娼婦の尾沢美津子冨樫真に出会う、といった具合にストーリーは進んでいく。

平凡な主婦(というにはおっぱいデカすぎだが)という点で、観客のほとんどが神楽坂恵に着目して映画を観ることになるだろう。『冷たい熱帯魚』で吹越満の妻役を演じた女優であり、公私ともに園監督のパートナーである。神経症でナルシストの夫を演じた津田寛治は、私にとっては闇金ドッグス』の「オーケー、グー。オーケー、グーですよ」が口癖の悪徳芸能プロダクション社長のイメージが強いのだが、こういうクセのある役をやらせると最強な人。冨樫真については良く知らないが、知らない分衝撃的ではあった。

神楽坂恵冨樫真の関係が濃厚に絡み合っていくのに対し、水野美紀は直接二人と関わることはない。だが、チャプターを横断して三人には「性」という共通点がある。水野美紀の存在意義が薄いというコメントをどこかで見た。確かに他二人の感情のぶつかり合いと全身全霊の演技は強烈だが、ギリギリのラインで何とか理性を保っている水野の褪めた佇まいがあってこそ、あの狂乱芝居が活きたことを忘れてはならない。

水野美紀が演じたキャラクターは複雑だ。彼女は夫の友人と泥沼の不倫関係にある。また、過去に目撃したある女の自殺が忘れられず、「自分はいつ境界線を越えるのか」に怯えているのだが、水野の夫は妻のことなど何も知らず、その事件を笑いながら酒のつまみにする。女にとって「肉」の支配は男にとってのそれより深刻で、「業」にすらなるということが水野を通して映される。

水野のパートでは必ず陰惨な雨が降る。単純に神楽坂恵冨樫真のパートとの視覚的な対比でもあるのだが、さらに重要なのは、男と情事を行っているとき雨なりシャワーなりが彼女に注ぎ、雨が情欲、もっと言えば愛液のメタファーとなっていることだ。男が愚かであること、だがその支配がなければ生きて行けない女の業が同時に描かれるのである。

水野美紀が、変態的なまでにストイックな役者であることはここで語るまでもない。誰が『踊る大捜査線』の雪乃さんがこんなふうになると想像したでしょう。でも、あのシリーズで多くの役者が「いかに変わらずに続けるか」と努力する中、水野美紀だけが変化によって存在感を強めていったと思うんだ。

ちなみに水野美紀は冒頭で全裸を見せ、まるで続くように神楽坂恵冨樫真も同様にフルヌードになるが、エロティックさはなく、画面から感じられるのは、武装することも飾ることも諦めた、女たちの痛々しい剥き出しの精神のようなものだった。まぁ、あるいは考え過ぎで、女子高生にパンチラさせまくる園子温のことだから、「大人の女にゃフルヌードやあ」ってなっただけかもね。

 


◇城に入れない二人

さて、いよいよアクの強い二人の話である。

父親への成就しない想いを、決して入り口に辿り着けないカフカの「城」に準えた冨樫真は、昼は名門大学で教鞭を取りながら夜は男に身体を売り、「城」の周りを彷徨っている。神楽坂恵は、夫への愛情の代替物として他人に肉の繋がりを求めるのだが、面白いのは彼女が「全く自分がない女」ということだ。何故なら、AVへの出演から廃屋で身体を売り、ついにデリヘルに勤め始めるに至るまで、そこに彼女の意志は一ミリも介在していないからだ。

ホテル街で冨樫に出会った神楽坂恵は一目で彼女に惹きつけられる。夫との関係において同様に「城」の周りを彷徨う神楽坂は、冨樫に直感的に共鳴し、冨樫の方は「ここまで堕ちてこられるか?」という狂暴な動機から、彼女と関わりを持つようになる。

文学の助教授である冨樫は、神楽坂に自分の講義を見せ次のように諭してみせる。

本当の言葉はみんな肉体をもっているの。肉体を伴わなければ言葉はただのカケラにすぎない。
貴女は言葉に身体がついてきていないの。そのうち経験が伴って、言葉が体になってくるわ。だから一緒に経験していきましょう?

 

全く以て意味が分からない。

それもそのはず、一応の本心ではあるのだろうが、ここは神楽坂を誑かすため、得意な言葉を弄しているにすぎないのだ。見知らぬ女のさも意味のありそうでその実何の意味もない言葉に「はい!」と元気よく返事をする、そして、始めは内田慈に次に冨樫に食い物にされながら、身体を売って得た五千円を前に「これは私の記念碑」「私は解放された」などと一人ごちる神楽坂恵の素直なこと、そして疎ましいこと。

彼女は男と寝るのに金を取るようになり、愛のあるセックスとそうでないセックスの境界線は金であると学びを得ていくが、なんてことはない、それも冨樫に刷り込まれた概念に過ぎない。そしてもちろん、冨樫は彼女が自分の元に戻ってくることを確信して罠をかけたのである。

冨樫は、救いを求める神楽坂に慈悲の笑みを見せたかと思うと、次には怒りを爆発させ、自分のいる場所に引きずり込もうとする。
「夫はピュアすぎるのだ」と語るが、人に教えられたことをそのまま受け入れ実践する神楽坂こそがピュア中のピュア、そして闇に棲むものがピュアなものに目をつけるのは当然のこと。冨樫が見せる目まぐるしい感情の爆発と、慈悲と憎悪のループは、どれもが嘘でなく、彼女が賢く絶望した女だからこそ、何もを知らずに彷徨う神楽坂を救ってやりたいと思いながら同時に憎まずにいられない。冨樫と神楽坂の関係は、慈悲と憎悪の関係に他ならず、これを表現した二人は凄かった。

冨樫は、愛する男との間に肉体、つまり「意味」を交わすことのない苦しみを共有する神楽坂を助けたかったのか、あるいは、まだ「苦しんでいられる」状態の神楽坂を穢したかったのか。はたまた、その両方だったのか。最終的に神楽坂は、化粧を塗りたくっては「城」という言葉や詩を呪文のように口にする場末の娼婦となり、客前で平気で弁当を食べる悪癖までを真似て、冨樫そのものへと変貌してしまう。

 


◇珍場面集

園子温特有の(というほど観てないが)、悪ふざけシーンも今回はツボだった。

 

1.段々大きくなっていくソーセージ
当初、閉塞的な生活に耐え兼ねた神楽坂は、夫に許可を得てパートに出る(そこでAVに勧誘されるわけ)。スーパーでのソーセージの実演販売の仕事に就き(なんかもっと他にあったろう)、パート初日はオドオドとポークヴィッツを売っているのだが、やがて自信が芽生えるのに比例して、手にした商品がウィンナー、最後はフランクフルトになるのには、ただ笑ってしまった。何を表しているかは言うまでもない。なんつーか、低レベルというか中学生男子的発想というか(笑)。

 

2.お茶に誘われてついていってみたら。
神楽坂は、如何にも才女といった雰囲気の昼の冨樫に「うちでお茶でもしましょう?」と自宅に招かれ、そこで彼女の母親を紹介される。広い食卓を囲み、気まずい雰囲気でお茶を飲んでいると、母親が上品な仕草で第一声、「あなた、売春の方はどんな感じですの?」。

 

お茶吹くわ。

 

その後も母親は、「うちの娘はそりゃあもう淫乱で」「生まれながらにしてどうしようもない淫売ですのよ」とキラーワードを吐きまくり、やがて親子は包丁を持ち出して「死ねぇぇ、淫売ィィ」「お前が死ねよ、ババアァァァ!」と盛大な親子喧嘩を始める。
いや、ここは冨樫が身体を売る理由が明かされる重要な場面なんだけど、それにしても、お茶の席で「売春、どんな感じ?」からの「キェ~、しねぇええ」っておかしすぎるだろ。

 

3.アスリート水野美紀
途中、水野の同僚の刑事が披露する「ゴミ収集車を追いかけて見知らぬ街まで行ってしまった主婦」という都市伝説を伏線とし、監督はラストで水野美紀を主婦と同じ状況に置いて、めちゃめちゃ走らせる。水野美紀だから、鍛えてるから、そんなに走らせるんでしょ!?

 


◇しかし、苦手の理由は変わらない

だがしかし、やっぱり、私が園子温が苦手な理由なんだけど、しつっこいんだよね・・・天こ盛るの。もう、「バターはもう十分です」って感じなのに、もっともっと、おかわりバター!とばかりに塗りたくってくるんだわ。。。

例えば、AV出演を経験した神楽坂が、鏡の前で全裸になり様々なポーズを取っては、「いらっしゃいませ、おいしいソーセージですよ」と販売の練習をしながら開眼していく場面なんだが、端的になげぇ。どんだけ、素っ裸でソーセージネタ続くんだよ。よほど監督の好みなんでしょうネ・・・いろんな方向から、ポーズ撮りたかったんでしょうネ。

また終盤近く、デリヘルの仕事でホテルに出向いてみたら客が夫(津田)だったの場面では、まあ、ヤッた後に夫に金を払わせるところ(すなわち既に愛はないと示すところ)などは見応えがあるんだが、その後、なぜか冨樫が部屋に戻り、津田寛治に跨ってもう一回ヤリ出すとこでは、はい、また悪い癖出たわ、、、って感想だった(大体あの状況で勃つ男いないだろ)。その後の廃屋でのシーンも長いし、女二人の髪を振り乱しての芝居も、ここまでくるとお腹いっぱい、食傷気味。
あ、バター、ホントにもう結構なんで。。。え??ジャムもあるの??

冷たい熱帯魚』でも感じたが、きっと、監督自身がここまでやんないと達せないんでしょうね。そりゃ私が好きで選んでこの映画を観てるわけだけど、でも、何で私はこの人のオーガズムがどこでピークに達するかを映画通じて見せられてんだろうなって、ちょっとゲンナリするよね。

その点を除けば、総合的にすごい映画だったと思う。
クリスマス気分を盛り上げるって書いたけど、あれは嘘で、クリスマスにはお勧めしないよ。じゃあ、またねっ。

『大鹿村騒動記』

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監督:阪本順治 キャスト:原田芳雄大楠道代岸部一徳/2011年

 

みなさん、こニャちは。

あ~、漫画買いたい。『キングダム』重版出来!軍靴のバルツァーが欲しい。あと、最近読んだ自転車屋さんの高橋くん』がめっちゃ良かったよ。

私と夫の漫画の趣味が異なるので、うちには、たくさん漫画がある。家を建てるとき、壁一面を本棚にするなんて夢もあったけれど叶わず、今は半分くらいパントリーにしまっている状態。そこも溢れそうなのに、夫がちょこちょこ買っては詰め込んでいたことが判明し、もう一旦止めとこうって言ったのに!と責めた。ってか、パントリーの奥にある、みうらじゅんとか根本敬とかの漫画どーすんだ。息子は絶対そのうち探し出すぞ。

とかなんとか、漫画のスペースについて言い合っていた。

うちは私の両親が一階に住んでいる二世帯住宅で、そのときたまたま、母が用があって二階に来ていたのね。それで、私がふと、小声で「・・・10年後には一階にスペースができるかもしれないだからさ」と言うと、夫が「こら!なんてことを言うんだ!」と怒ってみせた後、声を潜めて「・・・10年後に空くかは分からないだろう」。それで二人でゲラゲラ笑ってる向こうで母が、「全部聞こえてるんですけど・・・」と呆れていたわ。

いや、家庭がブラックだから、つい外でも出てしまってやり過ぎることがあるから気を付けましょうって話です。
そんな感じで、今日は『大鹿村騒動記』でっす。

 

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◇あらすじ

南アルプスの麓に位置する大鹿村は、大鹿歌舞伎の伝統を300年以上守り続けている。鹿肉料理専門の食堂『ディア・イーター』を営む風祭善原田芳雄は、歌舞伎の主人公平景清を演じる花形役者でもある。東京からやってきた青年、大地雷音(らいおん)冨浦智嗣をアルバイトに雇い入れ、今年の舞台を数日後に控えて稽古に励んでいたある日、18年前に駆け落ちした妻貴子大楠道代と幼馴染の治岸部一徳が突然、村に帰ってくる。慌てふためき、激怒する善だったが、貴子は記憶障害を患っており・・・。

主演の原田芳雄が他のテレビドラマの収録のために大鹿村を訪れた際に、村歌舞伎の存在を知り、映画化を提案したとのことだ。出演者はメイン三人の他、松たか子佐藤浩市、でんでん、石橋蓮司三國連太郎錚々たる面々が顔を揃え、そこに瑛太冨浦智嗣が村の次世代を担う若者たちとしてフレッシュさを加える。阪本監督と荒井晴彦の小気味よい脚本に、映画の印象そのままのリズミカルな演出が作用し、観終わった後は、ただただ「ああ、いい映画を観たなあ」という気分になる。ラストで流れる忌野清志郎『太陽の当たる場所』がまた良いんだ~。なお、原田は映画の公開を待たずに亡くなり、本作は彼の遺作となった。

まず言及したいのが、役者陣のお芝居の老獪さ秀逸さ。特筆すべきは、やっぱり原田芳雄で、気短かでデリカシーもないが「怒ってもどこか道化臭が漂う」キャラクターは、そのため、どんなことでも受け入れてしまうのでは?と錯覚しそうなほど包容力に満ちている。実際にドタバタの中で、結局は妻と友を許してしまうのだし、ワケありの雷音を何も問わずに自宅に住まわせる。

また、岸部一徳のダメっぷりは見ものだ。もう、岸部一徳のダメっぷり芝居など山ほど観てきているのに、「また更新する!?」と叫んでしまいそうなほどのダメっぷりよ・・・。村に帰ってきて、その妻を奪った友人に発する言葉が「面倒見切れないから、返す!」だからねぇ。原田と取っ組み合いのケンカをした末に大楠道代に水をぶっかけられた次のショットで、風呂から上がってくるときの能天気な顔ときたら。

家に居候(?)することになった大楠道代は、問題なく日常生活を送っていたかと思うと、突然醤油や時計が理解できなくなったり、豹変して辺りのものを手当たり次第口に入れ出すなど目が離せないのだが、以前に自分が演じていた道柴の台詞だけははっきり覚えていて、舞台に立たせれば18年前と変わらぬ芝居を見せる。折しも大楠出奔後に道柴を引き継いでいた佐藤浩市が豪雨による土砂崩れに巻き込まれて怪我を負い、かくして原田と大楠は、18年ぶりに共に歌舞伎の舞台に立つことになる。

ところで脱線するけれど、忌野清志郎ってさあ・・・20代はもう知らないのかな?私がこの間、会社の新卒二年目の新潟男子に清志郎の話をしたら、知らなかったのよぅ・・・。スマホで調べて(何でもすぐスマホで調べんな!)、「ああ・・・こういう感じですか」って。そりゃ、外見だけ見りゃ「ああ・・・」だろうけど。でも私と同年代の同僚のブチに言ったら、「いや、それは音楽好きか否かによるでしょ」と。「ある一定の音楽好きだったら清志郎さん(←さんづけだった)は知ってるよ、そりゃ、T-BOLAN知ってるかって言ったら知らないだろうけど」。

離したくはない~♪

 

 

私は「演出」というものをぼんやりとしか理解していないのだけど、湿っぽくもドラマティックにもできそうな内容を、全編カラリとユーモラス且つリズミカルに仕立てたのには、これぞ演出の力だろうと思った。

例えば、「俺では貴ちゃんを支えられなかった」という岸部一徳の言葉の理由は、寝言一つで説明される。原田が洗濯機から取り出す洗濯物を見た瞬間に、観客は雷音くんが村にやってきたワケと彼が抱える悩みを知る。また、村の人たちが何度か口にする「雷音くんに聞いたんだけどさ」という台詞、この一言で、内輪で交わされていた会話や事情が周知の情報となり、同時に、余所者ゆえに正体不明な雷音の、世話焼きでおしゃべりな人物像が浮かび上がってくる。

あるシーンでは、『ディア・イーター』の入り口付近を映した固定カメラの前に、役者を入れ替わり立ち替わり登場させ、数分で多くの状況をパパッと説明してしまう。原田の食堂がバイカーや観光客などでそれなりに繁盛していること、大楠がどさくさに紛れて原田宅に溶け込んでいること、村を出ようとしていた一徳が結局村に留まらざるを得なくなり温泉旅館で働き出す理由。超省エネ、と言っては味気ないけれど、各人物の事情や感情をコテコテと語るような場面を排除し、たった一つの台詞やショットで完結させてしまう、贅肉を削ぎ落としたかのようなスリムな演出によって物語は実にスムーズに流れていく。

それでいて、全体が淡々とした印象にならずにドラマティックに展開していくのは、代替わりしていく歌舞伎の舞台と、歌舞伎を担う各世代の人々のドラマが重ねられるためだ。

手酷い裏切りを、取っ組み合いとバケツの水で水に流してしまう三人の幼馴染の歴史、また、恐らく次に村の伝統を背負っていくであろう佐藤浩市松たか子の恋模様。さらに、次に舞台を引き継ぐであろう瑛太と雷音には、同性同士のカップル(になるかもしれない)といった、いかにも現代風な多様性に満ちた世相が投影されている。

 

 

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 しかし、コミカルなやりとりを楽しんでいると、突然三國連太郎に泣かされるので油断しないでね。
全編、伝統芸能が育まれるにふさわしい雄大南アルプスの山々の風景が美しく映されるのだが、同時に、この村が、定期的に訪れる暴風雨への警戒を必要とする地域でもあることが度々示唆される。大楠が原田を捨て、一徳との駆け落ちを決行した日も、そのような嵐の日だった。駆け落ち当日に大楠と行き合い、また現在は暴風雨への警戒を放送して回る松たか子は、そのために、大楠にとって不実や裏切りといった『恐ろしいもの』の象徴だったのである。

晴れた空を突然覆う暗雲のように、三國連太郎が、かつて共に舞台に立ち、シベリア抑留で亡くなった友の無念の死を語りだす。「あいつは四度目の冬を超えられなかった」と目に涙を湛える場面と、最後に彼が亡くなった人たちの墓を訪ね、「また、歌舞伎やろうなあ」と語りかける場面は、落涙必至だ。ただ、芝居が極まりすぎているのか年のせいか、大体何を言っているのか分からないため、三國連太郎が出てきたら、ボリュームを上げて下さいね。

ここで村の人々が情熱を掛けて守り続ける大鹿歌舞伎で演じられる物語はどんなものなのかを紹介しましょう。誰のために。私のために。劇中で瑛太がチャッチャッチャーと説明してくれるが、あまりにチャッチャとしていて全く分からなかった。
あ、ちなみに歌舞伎の内容が理解できなくても、映画を楽しむのに全く問題はない。

 

原田らが演じる「六千両後日之文章 重忠館の段」は大鹿村だけに伝わり残る演目とのことだ。平家滅亡後、源頼朝(でんでん)の重臣・畠山二郎重忠(石橋蓮司)は、平清盛の曾孫である六代御前こと平高清を捕らえる。重忠は平家筋の道柴(大楠道代)を妻にしており、平家への未練を捨てるよう妻を諭す。道柴は、夫の命に応えるために、主君の血筋に当たる六代を折檻してみせる。
平家の武士、平景清原田芳雄)は六代御前を救い出し、源氏に再び戦いを挑もうと試みるが、やがて敗北を認め、頼朝らの目前で自らの両眼をくり抜く。 

 

そういう話だったのね。

私は歌舞伎は全くわからないのだけど、そこまで各人物の悲喜交交を観てきたがゆえに、その集大成ともなる舞台には見入ってしまう。また、芝居の締めとなる「仇も恨みも、是まで、是まで」という、平景清の恨みを終わらせる台詞は、現実の状況にも向けられているもので。三國にとっては友を奪った戦争。松たか子にとっては不実な恋人。雷音くんにとっては自分を受け入れなかった人々。そしてもちろん、景清を演じた原田自身が、一徳と大楠に向ける言葉ともなる。

鑑賞後には、しばらくの間なんとも暖かい気持ちに包まれるような、素晴らしい映画だった。これこそが幸福な映画体験だよねと思った。ここで「日本映画だって・・・」などとお決まりのつまらない台詞を吐くのは避けて(本当は言いたいけど)、阪本監督のこれからの作品にも大いに期待したいと思う。

じゃあ、最後に聞いて下さい、忌野清志郎 で『太陽の当たる場所』。

 

www.youtube.com

 

『ランボー ラスト・ブラッド』

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監督:エイドリアン・グランバーグ キャスト:シルベスター・スタローンパス・ベガ/2019年

皆さん、こんにゃちは。

先日、友人のリエコから電話がかかってきて「長野に移住することになった」と言われて一瞬頭が真っ白になった。人付き合いはそれなりにあっても、気の置けない人間関係はごくわずか。リエコに長野なんぞに行かれたら、誰が私に10万円する靴をお揃いで買おうと囁いたり、BL漫画を勧めてくれたり、「旦那が使えなくて震える」とぼやいて笑わせてくれたりするのでしょうか。

と思ったら、「2週間だけだけど」「『移住村』ってところに滞在するのだから移住でしょう」とか言いやがって、ばーかーやーろー。驚かせるな!

さて、私のランボー愛は以前の記事で語った通り。5作目に当たる『ラスト・ブラッド』はコロナのせいで公開延期となったと思っていたら、いつの間にやらレンタル開始していた。

映画館にリエコを誘って断られたため、今回もう少し詳しく、何故ランボーを評価しないのかを聞いてみた。

リエコ「う~ん、君はランボーのバックグラウンドを含めて好きなわけでしょ? まあ『可哀想な過去だね』『お気の毒さま』とは思うよ。でも、こっちは日々疲れてるからさ~、行動理念とかトラウマのないシュワちゃんこそ大衆の味方であって、スタローンについては『頼んでもないのにピザ来た』『ここじゃない場所でやってくれる?』って感じなんだよね」

・・・。

疲れた主婦の味方はスタローンでなくシュワちゃんだというのか。

 


◇あらすじ

ランボーは祖国アメリカへと戻り、故郷のアリゾナの牧場で古い友人のマリア、その孫娘ガブリエラとともに平穏な日々を送っていた。しかし、ガブリエラがメキシコの人身売買カルテルに拉致されたことで、ランボーの穏やかだった日常が急転する。(映画.com)

監督はエイドリアン・グランバーグ。誰だ知らんごめん。でもこれって、原案と脚本にスタローン入っているんだよね?いまの「でもこれって」で分かるように、ちょっとアレな映画でしたねえー、悲しいよ。

まず知りたいのは、主軸をこれまでの国際的な紛争から至極パーソナルで身近な問題に切り替えたのは意図的であったのかってところ。そうなら百歩譲って良しとする。一足先に海外版DVDを観たGとかいう人が『ミセスGのブログ』とかいうブログで書いていたように、「この世界に蔓延る闇に対し、ランボーが救出しにいくガブリエラは『光』の象徴」「私たちが闇をまだ見ぬ赤ちゃんを本能的に守ろうとするように、純真無垢だからこそ守らなければならない」ことを伝えたかったのだとの意見にはウンウンと頷くし。だが、単にホットな社会問題を取り上げたいのなら続編は作らないでくれ。んー、やっぱり、どっちの場合でも、もう作らないでくれー。

 

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◇「器用な復讐者」となったランボー

ランボーがどうあるべきか、にもちろん正解はなく、こちらの理想を押し付けているに過ぎないのだが、それでも私がランボーに期待するのは、国に見捨てられながら国を捨てられないことへの葛藤、本能から繰り出される暴力で人を救い、だがそれによって人から忌避されるという矛盾を抱えた、孤独で不器用な男の姿だ。

映画を観るうち、感じたのはランボー、器用になっちまったな・・・」だった。ウーとかアーとか、「お前が決めろ」くらいが精一杯だった無口なランボーも、いまや疑似家族を形成して穏やかな食卓を囲むようになり、ガブリエラを実の孫娘の如く慈しんでいる。なぜか住居の地下にトンネルを掘って生活しているのだが、いかにも塹壕を彷彿とさせる地下道をガブリエラのお友達の見学ツアーのために提供するなど柔軟さも身に着け・・・。まず、なんなのこのトンネル?と観客は疑問に思うことだろうが、後半の見せ場で、人身売買組織のチンピラどもを誘い入れ、ランボープレデターが混ざったような罠をあっちゃこっちゃに仕掛けては殲滅するための場所なのである。

トレードマークのバンダナも取ってしまったランボーは馬の調教を介してガブリエラとの絆を深め、「ほう、大学に行くのか。寂しくなるが君の道をゆけ」などと一端の父親のようなことも言う(いや、いいんやで、別にいいんだけど!)。そのガブリエラが、自分を捨てた実の父親に会うためにメキシコへ行き行方不明になると、メキシコに飛んで彼女を騙した友人を脅しつけ、誘拐現場であるクラブに潜入する。

 

これ・・・、『96時間』じゃダメなの?

 

超人のような強さを「元CIAだから」(FBIだったか)の一言で片づけて悪人どもを千切っては投げ千切っては投げて義憤を晴らすことで有名な怒れるお父さんの味方映画『96時間』リーアム・ニーソンに主人公を演じてもらい、『96時間 ラスト・ブラッド』としたらアラ不思議。。。スタローンよりも余程しっくりくるじゃない?

人身売買はもちろん深刻な問題だが、その描き方が端的につまらなくて。せめて人身売買の凄惨さや仕組みの巧妙さなどが表現できていれば、また違ったと思う。何もこってりと状況を説明せずとも、その恐ろしさを数カット、ワンシーンで伝えられることは、ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ボーダーライン』(2015)で証明してみせたのだし・・・。

売っ払われたガブリエラちゃんがヘロインを打たれて男たちの慰みものになる下りも、これならば『アイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ2』(2013)の方がよくできていたのでは、、、と思ってしまうレベルの出来。敵組織は規模感からしても単なるチンピラの集まりで、また敵のボス役が、あまりにしょぼいィィ・・・(あれなら拓ちゃんをキャスティグして欲しかったナー)。

「彼女を返せ」と真正面から話しに行ってボコられるランボーもアホなら、フルネームを知っているのに仲間を殺されるまでランボーを消しにかかってこない相手も間抜けすぎる。動機を「私怨」に落とし、さらにランボーを単なる復讐者としてしまう、あまりにこれまでの作品に対するリスペクトを欠いてはいないかい。

 

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今回の敵、コレよ。

 

 


◇「という名の戦争」じゃ満足できない

まあ、要は、やっぱり戦争がないとランボーじゃないよねって話。

本作も愛する者を守るための、そして復讐という名の「戦争」であるとの見方もできるのかもしれないが、「という名の」と置き換えた時点で、それは似て非なるものでしかない。大義を捨てきれず、弱者を見捨てられないがゆえに図らずも戦場に引きずり戻されるランボーの哀愁を排除し、図らずもどころか、ランボーを暴力に目覚めさせることだけを目的とした流れが設定されている。
目には目を歯には歯を、そんな器用さがランボーに必要か。

前作ランボー 最後の戦場』もある意味、ランボーシリーズにおいては禁じ手というか、魔球のようなものだったとは思う。その理由はもちろん、ランボー個人の戦争であった三作と異なり、スタローンが現実の国際紛争に触発されて製作したという背景のためだ。私と同じように『最後の戦場』を評価する人たちは、そのイレギュラー性こそ良しとし、またランボーがボランティアの人々の理想を甘っちょろい絵空事としながらも命を賭して救うヒロイックなストーリーが奏功して、他国の戦争に勝手に首を突っ込んでカタルシスを得る経験をエンタメと割り切って楽しんだのではないかと思う。

本作をダメにした要因の一つは、間違いなく不要なグロ描写で、これも恐らく『最後の戦場』に影響を受けたのだろうが、敢えて極端な方法を取った前作の意図を理解せず、コレを見て溜飲を下げろとばかりに散りばめられた陳腐な人体破壊描写は、軽率と言わざるを得ない。

仇の胸を割き心臓を掴み出す、首を切り落として見せしめとする。カルテルそのもののやり口で人を殺すランボーなど誰が見たいだろうか?

戦争の地続きでギリギリ許されていた「報復」と「殺戮」を、私怨を晴らす手段にした時点で、本作のランボーは引き継ぐべきだったヒーロー性を失った。

色々書いたが、一番よろしくないのは、単純に話も映像もつまんない、ってことだ。襲撃シーンとか寝そうになって、「早く終わんねーかな」と思ってしまった、あるまじきこと!やっぱり、百歩譲れない、良しとできない!

可愛さ余って今年ワーストだなあ。

 

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バンダナは失くしたが、コンパウンドボウは健在だった。

 

引用:(C)2019 RAMBO V PRODUCTIONS, INC.

『ファウンド』

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監督:スコット・シャーマー キャスト:ギャビン・ブラウン、イーサン・フィルベック/2012年

 

最近面白かったことを二つ話します。

一つ目。会社のチャラ系営業が、それはもう本当に会話の中で「マジすか」を連発するので、三十も過ぎて「マジすか」と言う人は中丸くんくらいだよ、いい加減にやめたらどう?と注意したところ。彼は『育ちの良さは作れる』とかの本を読んだそうで、「今、育ちの良さを作ろうとしてるんスよね」とかで、ここ最近「本当でございますか?」と連発するようになった。その思考回路にツボってます。

二つ目。先日、ロックのロの字も知らない親友のリエコ(好きな曲はレミオロメンの『3月9日』)が「私、あのロックミュージシャンは好きよ」と言い出し、誰よ?という話になった。そのうちリエコが「あのねえ、映画に出てた。確かUボートっていう映画」と言い、私の頭の中は疑問符で一杯になり、「え?『Uボート』って、ウォルフガング・ペーターゼンの?」「80年代の、しかもドイツ製作だよ。あーたがそんな映画知ってるわけないじゃん」と問い詰めた結果。

正解:ジョン・ボン・ジョヴィ
出てた映画:『U-571』(2000年)

みんな、感覚で話すのはやめた方がいいと思う。

さて本日は、前にinoチャンが推していた『ファウンド』が想像以上に面白かったので紹介します。inoチャンは「モツデロン」や「魔改造」などの名言を生み出した人体人心破壊映画ブログの運営者であり、今やTwitterの一コマ漫画が大人気だが某料理サイトとは微妙な関係にある新潟の小娘です。

★今回は劇中で登場するレンタルビデオ『Headless』を観るまでの私と、以降の私で感想が別れております★

 

 

◇あらすじ

ホラー映画が大好きな11歳の少年マーティ。学校でいじめられている彼にとって一番の楽しみは、家族の秘密を覗き見すること。母親がベッドの下にラブレターを隠していることや、父親がガレージの奥にヌード雑誌を置いていることを、マーティだけが知っていた。そんなある日、マーティは兄スティーヴのクローゼットに人間の生首が入っているのを発見する。(映画.com)

 

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◇とりあえず、「お兄ちゃんはクローゼットに生首を隠している」って台詞から始まって、お茶を吹きました。

途中までは、生首inクローゼットのパワフルワードに相当するような衝撃的な画や展開は特にない。お兄ちゃんはスレていて両親には攻撃的だが、カッコいいし、ちゃんと仕事に行っているようだし、何よりマーティには優しい。

マーティは学校でいじめられてはいるが、放課後には親友と大好きな漫画を描いたり秘密基地で遊んで過ごす楽しみがある。

この辺りの映像は幻想的ですらあり、何といっても、しつこいほどに兄弟を美しく撮った画が印象的。マーティの日に焼けた艶やかな頬とそばかす、陽光に透ける金色のくせ毛が度々アップショットで強調され、全てが順調なわけではないが、それなりに幸福な、多感な少年の日常が淡々と描かれていく。

父も母もそれぞれに抱えている「秘密」。まだ秘密を持たないマーティにとって、兄が隠している生首は魅惑的で、自分を特別な存在にしてくれる宝物のようなものだ。学校の同級生などには想像もつかない秘密を知っていることに対する自負、お兄ちゃんは恐ろしいことをしていて、そのお兄ちゃんは僕にだけ優しいんだぞという優越感。

なるほどなるほど。見栄や自我が芽生えだす年頃にありがちな、やや残酷な願望をテーマにした青春物語といったところね。

少し考察すればわかるけれど、殺人鬼のお兄ちゃんはメタファー、生首はマクガフィンなのよね、コレ。深層心理に潜む黒人への侮蔑の感情、いじめっ子の同級生へ殺意、自分では叶えられない残酷な願望を実行してくれる絶対的存在、それがスティーヴで、マーティは兄への思慕と畏怖との間で揺れているわけ。

さらに考察するならば、スティーヴは実在しない妄想の人物、あるいはマーティ自身の将来の姿という読み方もできるわね。・・・もし鼻についたらごめんなさい。考察には少々うるさいタチなもので、つい深読みしてしまうのね。

レンタルビデオ店で借りることができなかったホラー映画『Headless』を兄の部屋で見つけ、親友(ぽっちゃりめ)と二人で観るシーンも、怖いもの見たさと相手への見栄や強がり、子供らしい自意識をうまく溶かしているっていうか、昇華させたシーンっていうのかな?ジュブナイル的。うん。スタンド・バイ・ミー』を代表とする思春期の自我を描いた作品群に捧げたオマージュも感じられるような、メタファーに満ちたシャレた作品よね。単館系って、たまにこういう隠れた名作があるから、メジャー以外の映画探求もやめられないのよね・・・。あ、失礼、『Headless』が始まるわ。

 ↑↑↑↑(ここまで)劇中の映画『Headless』を観るまでの私。(ここまで)↑↑↑↑

 

↓↓↓↓(ここから)劇中の映画『Headless』を観たあとの私。(ここから)↓↓↓↓

 

え、マジすか?

 

ホントすみませんでした。

自分、ちょっと甘かったっす。正直、『Headless』ナメてました。
自分、ひどいグロでも大体友達なんスけど、なんかこれはドストライクというか、あの目玉をくり抜くとこと、首からボタボタ垂れる血を必死こいて浴びるとこはポカーンと口が開いてた。

つまり、マーティと友達のオタクのデブ(←もはや言葉も飾れない)が怖いもの見たさで観たビデオ『Headless』がヤバイ。チープなんだが、それゆえにスナッフビデオ感があり、殺人鬼が行う一連の残虐行為と液体多めの死体損壊描写は妙に凄惨、やたらとリアル。
何よりアレっす、生首の切り口にチ●チ●突っ込んでハァハァするやつ・・・。うわうわ、マジっすかー。そして更にヤバイのが、このヤバイ映画を十歳そこそこの子供たちが観ているという事実。映画の外から、映画の中で映画を観ている子供たちを心配するという妙な感覚。

マジすかとヤバイしか言葉が出てこなくなった。
ちょっと落ち着こうか。


~30分後~


ただいま。うん。

映画の中の殺人鬼の行為と兄の行為を重ねたマーティは、ようやく兄に恐怖を覚える。「ワルだけどカッコいいお兄ちゃん」の偶像は瓦解、唯一の理解者だと思っていた友人もこの出来事をきっかけに悪意を噴出させ、マーティはそれまでの幻想的な世界から現実に引きずり戻されるのだ。

その後のマーティが、もう非常にかわいそうでだな。
兄への恐怖心から逃れるため、自分も兄の側に堕ちることで心の均衡を保とうとするのである。黒人もいじめっ子も害悪だ、排除して何が悪いの、お兄ちゃんは正しい!ってとこだな。

これでマーティが兄の意志を継ぎました・・・なんてオチだったら如何にも過ぎて不満が残るところなのだが、この映画は、ある意味きちんと、幼く健康な心が異常なものを飲み込み切れずに壊れていくさまを描いていく。

兄に依存することで精神の崩壊を本能的に防いでいたマーティが我に返るのが、ついに兄が両親に手をかけようとするとき。

いやもうさー、このオヤジがフラグでしかないからね。兄ちゃんの異常性は両親により育まれたのだろうと予測できるダメ夫婦ではあるのだが、それでもマーティにとって親は親。懇願するマーティを拘束し、スティーヴが隣室で繰り広げる両親への残虐行為は、音だけであることも含めて、なんともサディスティック。

簡単に言うと、非現実→現実→非現実→現実を目まぐるしく経験した少年が、ついにリミットを超えて、ラストの台詞通り「こんな経験をしたら正気でいられるはずがない」と正気を手放す、ホラー映画兼青春映画みたいな感じかな。なんつー映画作るんスか、アホか。でも面白かった。

ちなみに問題の『Headless』は、数年後にスピンオフ作品として映画化されている。アホか。見るか。

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2020年『子供に観せたくない映画ナンバーワン』に決定です。おめでとうございます。

『RE:BORN リボーン』

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監督:下村勇二 キャスト:TAK∴(坂口拓)、斎藤工/2017年

 

皆さん、こんにちは~。今日は真剣だから前書きを抜かします。前書きだけ読んで、私が一生懸命書いた本題の映画の感想を読まない人(※弟の嫁)とかねえ、失礼ですよホントに。「お姉さん、前書き面白かったです~」「あ、独立なんとか隊は私ちょっと、、、うふふ」じゃないの。

てか、今日は坂口拓回なんで。坂口拓に興味ない奴は今すぐ帰んな。

嘘です、お願い読んでって。読者登録もやめないで。

 

 

◇じゅんびうんどうだよ!

私も一応それなりに映画を観てきているので、まさか島国の一角でスタッフと出演者は大体身内か友情出演(多分)、アクション大好きな仲間内で撮られた映画が掛けた予算を凌ぐ出来だなんて思っていない。だから失礼な言い方だけど、めちゃくちゃハードル下げて観たっていうか、すみません、フロで観ました。で、結論から言うと、思ったより全然よかった(*´▽`*)
少なくとも、波長が合わない大作話題作『ミッドサマー』などのクソ退屈な映画)より数倍楽しく観られた。

ただ・・・上述の通り「身内で作られた映画」なわけだ。そのため、この映画を観る前にはいくつか把握しておいた方がいいことがある。

<TAK∴= 坂口拓について>
イカれたアクション俳優であることは以前『パッチギ!』の記事で触れたので、その後に入手した情報を紹介するよ!

・職業:現代忍者(ニンニン!)
・ウェイブマスター(※後述)
・すっごいお茶目でいい人、かなり頑固
YouTubeで料理が得意だと言ってカレー作ってたけど、私はあのカレー食べられない(※市販の豚骨スープにカレールーぶちこんでた)
ジョン・ウィック3』のオーディションに呼ばれ、当然英語を求められたが、すべて日本語で押し通した(結果、ご縁なしとなった)
・お嫁さん募集中
NHKの大河への出演を狙っている

 

<ウェイブとは>
肩甲骨を360度回転させることで生み出す体内エネルギーによる波動攻撃、または攻撃をかわす技術のこと。100%出力すると受けた相手は死ぬ。戦闘術・暗殺術のプロ稲川義貴が創始者であり、弟子の坂口拓は師匠以外ではただ一人のウェイブマスター。

『RE:BORN リボーン』のアクションもウェイブが基本なので、知らん人は、坂口拓や敵役が突然中腰になってグーリグリグリ・・・と肩甲骨を回し出す画には戸惑うこと必至。なので、あ、これは普段から彼が世に発信し続けている戦闘技術の構えなんだなとご理解頂ければ思います。もし、あなたがこの映画を観るなら。私は勧めていないけど、もし観るならば。

それから、この映画の主人公は弾丸を避けられます。そこんとこ、よろしく。
じゃあ、本題に行ってみよー!ニンニン!

 

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坂口拓の貌は、ハリウッドの好む綺麗なアジア人の顔だしキアヌと闘っても見劣りしないと思う。キアヌの方が、ウェイブに興味持って弟子入りしてきそう。。
 

 

◇あらすじ

かつて最強の傭兵部隊に所属しながら、特殊訓練の最中に自らの手で部隊を壊滅させてしまった敏郎。現在は石川県加賀市のコンビニで働きながら、少女サチとひっそり暮らしていた。そんなある日、町で不可解な殺人事件が起きる。それは、敏郎が壊滅させた部隊の指揮官ファントムが発した、敏郎への警告だった。(映画.com)

日本で傭兵部隊って・・・。ねえ?
まあ、要はだね、世界の紛争地帯で暗躍する特殊部隊があって、過去坂口拓(以下拓ちゃん)は部隊に所属する伝説の暗殺者であったと。ただ、そこのボス(なぜかスネークこと大塚明夫)が子供たちを洗脳し戦士に仕立て上げていることを知り隊を離脱、そのとき救い出した一人の少女を育てているが、部隊からは裏切り者として追われているっと。以上!物語はこれ以上でも以下でもない。

出演者は割りと豪華。既述の大塚明夫は、『METAL GEAR SOLID』のスネークそのまんまのスタイルで出ているので流すとして(?)、そう、斎藤工。昔、拓ちゃん演じる敏郎を庇ったために視力を失うが、それでも彼を慕い続ける盟友として工が出てるよ。やっぱりねえ、安心感ある!ちゃんとしてる。
これが映画初出演となるサチ役の近藤結良ちゃんは愛らしくていい子役だと思った。

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過去に傷を持つ男と少女の、ささやかで幸福な生活を送る様子がベッタベタに描かれた後、大塚明夫が襲撃を仕掛けてくるあたりから物語は展開を見せる・・・。

 

◇刺客その一、ロック:いしだ壱成

予想通りのベッタベタ具合を生ぬるい視線で観ていたが、観光地のど真ん中で殺意を感じた拓ちゃんが、人波越しにいしだ壱成を見とめるところから始まるシーケンスは面白かった。周囲の誰も気づかぬうちに行われた勝負は数秒、それを表現したテンポのよい編集が良い。

拓ちゃんは背後から銃を突きつけた別の刺客の首を捻って銃を奪い、いしだ壱成の方へ歩みながら鮮やかに銃を分解する。弾倉から指で一つずつ弾き出された銃弾は、道行く人々が知らずに蹴り飛ばしていく。いしだ壱成が発砲した弾は避けられて通行人のバッグに当たり、だが人々は何がぶつかったのだろう?と首を傾げるのみ。三発の銃弾で標的を倒せなかったいしだ壱成は、拓ちゃんが弾の代わりに撃ち出したペンで首を貫かれて絶命する・・・。

 

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特別出演のいしだ壱成さん。

 


◇刺客その二、ニュート:篠田麻里子

麻里子様の登場シーンでは、カメラはまずミニスカからすらりと伸びる美脚を捉え、徐々に上へ上がっていく。一度目の襲撃場面とは打って変わり、場所は人気のない夜の電話ボックス。サチに帰りが遅くなることを伝える拓ちゃんを、麻里子様がナイフで襲う。ここで、麻里子様の足越しに移る電話ボックスと、麻里子様が片方ずつヒールを脱ぎ捨てていくのはカッコよかった。激しく揉み合った後、電話のコードを麻里子様の首に巻き付けた拓ちゃんは、サチに「ごめんな、しばらく帰れないかもしれない」と話しながら、麻里子様の手にあるナイフでそのまま彼女の喉を切り裂く。

それにしても、麻里子様は電話ボックスの天井やらガラスに結構激しく打ち付けられていたが、大丈夫だったんだろうか。でも、本人こういうの好きそうよね。

あと、この後に店で弁当をレンチンしているときに襲われて、倒した瞬間に「チーン!」って温めが終わるところと割り箸での反撃は面白かった。普段から拓ちゃんが宣言している「手近なもので敵は倒せる」ってやつね(日常で敵を倒す機会はそういないと思うが)。

 

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特別出演の麻里子様。

 

 

◇ウェイブ発動、そして監督求ム

この襲撃二連発で「あれ、面白いじゃない」と思ったわけだが、サチが大塚明夫に攫われ、一個小隊だの一個中隊だのが厳重に警備を固める森に仲間とともに乗り込んでいく当たりから、拓ちゃん&下村監督のやりたいことが悪い意味で炸裂。満を持してウェイブを撮るぜとばかりに、襲いかかって来る兵士をウェイブで倒しまくる。

主要人物は身内からキャスティングしている。見た目は子供だが凄腕の刺客キャスパーを演じているのは、拓ちゃんの一番弟子であるアクション女優。また、拓ちゃんを背後から不気味につけ狙う男は、かつて傭兵部隊時代に切磋琢磨した拓ちゃんのライバルかつ友人であり、そのため何も言わず姿を消した拓ちゃんに並々ならぬ執着心と敵愾心を抱いている(人物描写はほぼないので、代わりに補足しています)。この役を演じたのがウェイブの師匠の稲川義貴でさ・・・。

この人、役者じゃないからねぇ。出てきて喋った瞬間から「ん?」ってなる。ただ、ほら、ラスボスの大塚明夫の前に、一人強敵と戦うのがストーリー上の定石なわけで、そこで拓ちゃんとしては本気ウェイブで見せ場を作りたいわけで、そうすると同等に闘えるのって師匠だけじゃんっていう。ウェイブありきのキャスティグ。

森での戦闘シーンはやや長いものの、まだアクションを楽しむことができるのだが、サチが監禁されている建物に辿り着き、師匠との一騎討ちとなる場面はつらい。二人はウェイブ発動のために互いに中腰で肩甲骨をグーリグリグリと回しながら、たまにちょい、ちょい、と手を出し合う。なんだこの時間・・・。流石の私も「なんだこれ」と思った。擁護しきれないよ拓ちゃんを。師匠出すなよ、ド素人だから。師匠のせいで、間延びしてるしド退屈だよ。そんなふうに思われて師匠もかわいそうじゃんか。

そんな死んだ空間が1時間ほど続き(やなぎや体感時間/実際は5分ほど)、やっと師匠をぶっ飛ばすと、今度はスネークとの勝負が待っているのだが、ここもまあ取り立てて語るべきこともなし。襲撃シーンと森での戦闘に迫力があっただけに、尻すぼみ感が何とも残念。要は、ちゃんとした脚本家と、アクション監督じゃない監督が必要!多分、それでぐっと良くなる。

 

 

◇ただ、聞いてください

「身内で作られた映画」ではあるのだけど、決して「坂口拓のファン、ウェイブを否定しない人だけに向けた内輪映画」ではない(そこまで器の小さい人ではないと思う)。多分、拓ちゃんの目的は「本当のアクション」を世に啓蒙することなのだと思う。NHKの大河を狙っているなんて話も、役柄に自分を合わせる気はさらさらなく、むしろ自分のアクション啓蒙が成功し認められた上で、三顧の礼を以て迎えられたい、そんなマインドなのじゃないかな。だから、『ジョン・ウィック3』のオーディションも日本語で貫き通されたのだろうね・・・(自分が欲しいなら、そっちが字幕付ければいいじゃんとか思ってそう)。

熱く語っておいてアレだけど、私はアクションにそれほど興味ないし、ウェイブが如何にすごいのかの判断はつきません。

師匠完全にいらねぇってミスを除けば、作り手の熱意は伝わってくる映画だった。拓ちゃんの熱意は言わずもがな、監督の下村勇二は、ホンットに拓ちゃんのことが好きなんだろうなって感じね(でもアクション専門じゃない監督求ム)。私的には『ミッドサマー』より全然楽しめたよ。誰か『狂武蔵』観に行って感想教えてくれよ。じゃあ、またね。ニンニン!

 

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引用:公式サイトhttp://udenflameworks.com/reborn/

『独立愚連隊西へ』

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監督:岡本喜八 キャスト:佐藤允加山雄三/1960年

皆さん、大変です。

このブログの過去記事でちらりと取り上げた坂口拓(現在TAK∴)の77分ワンシーン・ワンカット撮影、おっぽり出して忍者になったため未完成だった『狂武蔵』が完成していたことを知っていましたか!
なんと山崎賢人まで出演している。『キングダム』のときに口説かれたんやろなぁ。さらに原案協力に園子温の名もあり、多分これ周囲の人の優しさで完成してるんだろうと思ったね。坂口拓って、人柄、超カワイイもん。昔YouTubeのチャンネル観たことあるけど、みんな好きになるよ、この人。ちなみにチャンネルの名前は「たくちゃんねる」だよ。

あと、現在の俳優名の「TAK∴」ってなんて読むんだろう。「タクさんカッケー」?「タクみつどもえ」? 誰か教えてください。

さて、本日は『独立愚連隊西へ』です。お待たせしましたよね本当に。やっぱり『独立愚連隊』の次は『独立愚連隊西へ』だよねって、皆も気になっていたでしょう、そうでしょう。前回『独立愚連隊』で全滅した独立愚連隊が、今度は西へ行くってよ。どういうこと?

 

◇あらすじ

またしても北支戦線。歩兵第四六三連隊は八路軍の攻撃を受けて玉砕し、軍旗は一人戦場を脱出した北原少尉とともに行方不明となっていた。軍旗捜索を命じられた大江大尉は、危険なこの任務に、左文字小隊を派遣する。この小隊こそ、今回の「独立愚連隊」であるッ!

 

前作との繋がりは、なんとありません。

「消えた軍旗の捜索」により時間が割かれ、敵から守り通した頃にはボロキレとなり佐藤允の腹に巻かれている(そして汗臭い)なんてオチからも、シリーズの根底に流れる反戦の精神をしっかりと継いでいるわけだが、まあ、いい加減飽きたよな・・・反戦の精神も。流石の私も飽きたよ。ただ、この軍旗を巡って、爽やかでニヤっとしてしまうような場面も多く。

さて、舞台はしつこく中国戦線。物語は至極単純だが、前作の俳優の多くが別の人物として出演している点が、何よりもややこしい。

佐藤允:大久保元軍曹 → 愚連隊のナンバーツー戸川軍曹
中谷一郎:石井軍曹 → ピー屋のオヤジ早川
中丸忠雄:藤岡中尉 → 八路軍のスパイ金山中尉
堺左千夫:万年一等兵 → そろばんで隊の運命を占う神谷一等兵
江原達怡:中村兵長 → 小峰衛生兵
(左が『独立愚連隊』、右が『独立愚連隊西へ』ね)

もうよく分からない。同じ俳優を起用するのに特に意図はなく、ただ喜八っつぁんに同じ俳優を起用する癖があるだけなんだろうね。二作を続けて観た上に最近記憶力が落ちている私は、「えーっと、コイツは味方なんだっけ」「こいつのアイテムはサイコロだっけ、そろばんだっけ」と混乱することしきり。

これだけなら変わり映えしないところ、愚連隊=左文字小隊の左文字少尉を演じた加山雄三が凛々しかった~。これが初主演作だそうです。誤嚥は大丈夫でしたか。

加山雄三の豪胆で実直な理想の軍人っぷりと、その少し後ろで「はい」だか「へえ」だが区別のつかない返答をしながら丁稚のごとく付き従う佐藤允とのバディ感が絶妙。前作では危険を察知すると手の平に汗をかくという謎の超能力を持っていた佐藤は、本作では戦場で女の臭いを嗅ぎ分けるというアホな鼻の持ち主である。この二人を先頭に一行が飄々と荒野を行く画には、それだけで幸福感がある。愚連隊のアウトロー感がいや増し、さらに隊のマスコット的キャラであるそろばん占いの神谷一等兵が、物語をコミカルに、そしてリズミカルに盛り上げていく。

・・・そういえば、前回更新通知をTwitterに上げたら、エゴサをされているのだろう佐藤允のご子息から「いいね」をもらったけれど、お父様を潰れたカニだの丁稚だのアホの鼻だの言ってすみません。

映画は軽快な歌と共に始まる。作詞岡本喜八、作曲佐藤勝、歌い手加山雄三佐藤允というもので、歌詞は↓こんな感じ。

 

イー・リャン・サン・スー、 イー・リャン・サン・スー♪
今度は何処だ~♪ 西か東か南か北か
何処へ行ってもハナツマミ ウェイ!

 

軽快とも能天気ともつかない音楽と共に霧の中から現れた愚連隊は、まだ軍旗捜索を命じられるとは知らず当てもなく行進している。佐藤が八路軍の女兵士たちの匂いを嗅ぎつけ、数か月女にご無沙汰の一行は嬉々として彼女達の尻を追いかけるのだが、気が付けば背後から八路軍の大軍に追われている。最後は全員が力尽きて地に倒れ、八路軍と愚連隊は互いに白旗を立てて軍使を送り出す。ここで八路軍の指揮官として登場するのがフランキー堺

フランキーが厳めしく作っていた顔をニカーッと崩すと、加山雄三も表情を緩ませる。

 

「なんなの、君たち、エライ足が速いけどマラソンでもやってた?」
「マラソンはやってないけど、ラグビーやっててさ」
「へぇ、俺は砲丸投げだけど、今のでマラソンも得意になったよ、ガハハ」

 

牧歌的な会話をかわした後、互いにビシッとした表情を戻り、(今日はお互いマラソンをして疲れているので)再び相見えたときこそ正々堂々戦うことを約束し休戦する。
このシーンとこれを布石にした後のシーンが良くてだね。

終盤、行方不明になっていた北原少尉を発見し軍旗を取り戻した愚連隊は、その最中にムードメーカーであったそろばんの神谷を失ってしまう。消沈する一行は八路軍の大軍と出くわし、絶対絶命のピンチを迎えるのだが、その相手は先日休戦をしたフランキー堺の隊だった。

フランキーは軍旗を渡すよう要求、ここまでかと唇を噛む加山雄三の前で、八路軍のスパイとして愚連隊に入り込んでいた中丸忠雄はフランキーに「あいつらは旗を焼いてしまって、もうないぞ」と嘘の報告し、加山にウィンクをして寄越す。中谷一郎は、保護していた中国人の孤児の少年をフランキーに託し、一行は戦闘開始のためその場を離れるのだが、少年は暴れてフランキーの手を振り払い中谷の元に走って来る。

テッテケテッテッテーと小道を走ってくる小僧がとてもかわいく、小僧を代表とする愚連隊と八路軍の間を行き来する人々、その人々によって運ばれる希望や人間らしさといったものが、愚連隊と八路軍対峙のシーンで爽やかに描かれる。

まるで、それを祝うかのように、フランキーは大声で部下たちに号令を下し、何十もの銃が愚連隊ではなく空に向けて発砲される。応じた愚連隊も空に向けて銃を撃ち、両者はまたしても銃口を向け合うことなく別れていく・・・。

今作が素晴らしいのは、こういった敵国との交流・・・なんて言ってしまうと固すぎるような、「彼らも人間だよね」といったシンプルな事実が観客に無理なく入ってくること。戦場の一角で交わされる敵味方を超えた男同士の友情、軍を捨てて中国の女と生きることを選んだ少尉、愚連隊の軍規違反を見逃す大尉のエピソードなどを、ドラマティックに仕立てるのではなくて、さらりと表現しているところが、劇中で描かれる事実同様に粋なのだ。

で、やっぱり、佐藤允がいいんだよね~。どんな困難でも「ちっくしょう」の言葉ひとつで受け止めてしまう潰れたカニのような・・・じゃなかった不敵な面構えが最高。

『日本のいちばん長い日』などの名作もあるが、私はこれまで観た喜八作品の中で、この映画が一番好き。


さてさて、『狂武蔵』はまだ上映しているのかな・・・。あら、イオンシネマ板橋で20時50分からやるから、ちょっと観てこようかしら。チャオ。

『独立愚連隊』

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監督:岡本喜八 キャスト:佐藤允中谷一郎/1959年

皆さん、ど~も~。

今年度も残り半分となったこの時期に、小学校のクラスでPTAの役員と係決めが行われました。もう今年は流すものと思ってたよ・・・。

一年生の係決めのとき、知り合いもいなければ勝手も分からない私は、きゃあきゃあと黒板に名前を書くママたちを尻目に「あたいは最後、残ったところに名前書くけん」と動かざること侍の如しの姿勢を取っていた。そして、担当になったのは「環境美化係」。

環境を美化する係。聞こえはいいが仕事はたった一つ、校内の草むしりです。いや、「むしる」などと生易しいものではない。実施は9月と3月、特に9月は残暑厳しい上に、運動会に来場する保護者の目を意識する先生たちのチェックも厳しい。当日は、長そで長ズボン、タオルと帽子、水分必須。そして、一人一つ、鎌を渡される。

何だかよく分からない暗がりの草むら。澱んだ水の溜まった側溝の中で、引っこ抜いたらいいのか刈ったらいいのか分からないほどにワサワサと高く生えた外来植物。飛び出してくるミミズに蚊。降り注ぐ灼熱の陽光。
しかもママたちときたら存外に真面目で、私は「わあ、綺麗になったね!」と五分おきに終わろうアピールしたのに、結局二時間半やっていたね。

娘が三年生の今年、知り合いのママたちに「白衣点検係が楽だよ」と教えてもらった。何やるんだか知らないけど、楽ならそれがいい。いざ係決めとなり、他のママたちを張り手で押しのけて黒板に辿りついた私は無事、白衣点検係に記名。もう一人が加わって二名の定員をオーバーすることなく、楽な係をゲットしたのだった・・・。

と思ったら、PTAの人が紙を取り出し、「本日、○○さんが出産間近ということで欠席されています。できれば『白衣点検係』をやりたいと希望しているのですが・・・」。

なぁにィ!?出産間近なら、係免除してやれやぁ。

もう一人のママを見ると、正面を見つめて動かざること侍の如き姿勢を取っていた。仕方ないので、「じゃあ、私移るわー」と手を挙げ、行きついた先は・・・。

環境美化係ッ。イェイイェイ、今年も草を刈りッ。

長くなってしまいましたが、本日は『独立愚連隊』です。

 


◇あらすじ

太平洋戦争末期の北支戦線。将軍廟という町に荒木と名乗る従軍記者が現れた。彼は大久保という見習士官の死に興味を抱き、彼の最期の場所である独立第九〇小哨、通称「独立愚連隊」を訪ねる。

 

太平洋戦争末期、1944年の北支戦線。「こだま隊」の駐留する将軍廟に一人の兵士がやってくる。この隊では、ある下士官が謎の死を遂げており・・・ってどこかで聞いた気がすると思ったら、以前本ブログで取り上げた血と砂にシチュエーションや展開がそっくりだった(こちらもシリーズの一つとして位置付けられているらしい)。

 

yanagiyashujin.hatenablog.com

 

また本作は、次作『独立愚連隊西へ』(1960)とで役者がダダ被っており、そのくせ二つに関連性は一切ない。なぜ、喜八っつぁんはこうもそっくりな設定の作品を重ねて撮ったのでしょーか?

一つに、コミカルさやアクションの娯楽性を前面に打ち出しつつも、そこに上手く流し込まれた戦争への皮肉な視線が『独立愚連隊』シリーズの特徴であり魅力だが、どうやら一作目の『独立愚連隊』では、それがうまく観客に伝わらなかったことが原因のようだ。

公開時には、ラストの八路軍との派手な交戦を指して、大量虐殺、好戦的との批判を受けた。これを受けて続編の『独立愚連隊西へ』が製作され、以降『砂と血』に帰結するまで何だか沢山作られたわけだが、共通しているのは、軍国主義の慣習や柵を、無頼漢たちが悠々とコケにしていく爽快なさまである。一方で、彼らも軍人たる自分の仁義に命を捧げて戦場に散っていく・・・と、ここが大事。だからこそ、悲劇的な幕引きであっても、妙に爽やかな後味を残るのだ。

岡本喜八始め、当時の映画人は多くが戦争を経験していたわけで、まだ戦争は日常の中にあったからこそ繰り返し撮らずにはいられなかったってことなんだろうねえ。唐突な例えを出すけれど、モネが季節や時間を変えて様々な『積みわら』の表情を描いたように、喜八っつぁんにとっての『積みわら』が、自身が経験した戦争であり中国戦線だということかもしれないよ。

 


◇本題に入っていきます。

さて、『血と砂』では、潰れたカニのような顔で、炊事係兼お笑い担当として終始わあわあ騒いでいた佐藤允が本作の主人公。若さと愛らしさが弾けており、佐藤允の不敵な笑顔を観るだけでも鑑賞の価値があると言える。

ストーリーはね、もう言ったけど大枠は『血と砂』とそっくり。八路軍に包囲され、軍旗を守りつつ後退するタイミングを窺っている児玉隊の駐留地へ、各戦地を転々としているという佐藤允がぶらりとやって来る。従軍記者を名乗る佐藤は、優れた射撃の腕といい肝の据わり方といい記者にしては異質の男で、それもそのはず、実は隊で謎の死を遂げた大久保見習士官の兄であり、弟の死の真相を探るため北京からこの地を訪れた元軍曹だった。弟がクセ者の寄せ集め「独立愚連隊」に所属していたことを知った佐藤は、八路軍の包囲網真っ只中にある愚連隊を目指す。ここに、以前彼と夫婦の約束を交わした雪村いづみ演じる売春婦やら、馬賊の集団やらが絡み、様々な人間模様が描かれていく。

西部劇へのオマージュに溢れると言われているが、私にはいまいち、どこに西部劇色があるのかはわからず。無法者と対決するどころか、無法者とばかりウマが合ってしまう主人公に、敵側の中国人もいい奴ばかり。何より、西部劇のラストって、主人公は一人荒野に消えていくものではない?佐藤允馬賊の仲間になって去ってくからね。

昼寝をしていた佐藤允が起き上がり、崖下の馬の背に飛び乗る、生き生きとしたアバンタイトルは、スピルバーグインディ・ジョーンズ 最後の聖戦』(1989)のリバー・フェニックスが馬に飛び乗ろうとして失敗するシーンにて再現したとか、しなかったとか。

 

ようやく愚連隊の下に辿り着いた佐藤は、哨長の石井軍曹中谷一郎が弟の死に関係しているのではと疑うが、中谷の豪放磊落さ、隊員たちの結びつきに惹かれてゆく。彼らと行動を共にするうち、児玉隊副官の藤岡中尉中丸忠雄らが不正に金品を搾取していたことを突き止める。

という感じなのだが、まあ話の中身よりも、佐藤の死地を潜ってきたがゆえの太々しい面構えと、愚連隊の連中の緊張感のない様子が見所である。特に中谷一郎は、本作にて見出されて以降、喜八映画の常連となり、私生活では岡本さんちの敷地内に居候させてもらうまでの仲であったらしい。

あ、あれよ、初代「風車の弥七」よ。風車の弥七」って聞くと、私はぱっとこの人の弥七が思い浮かぶんだけどね(わたしだけ・・・?)。

特筆しておきたいのが、登場する中国人や朝鮮人馬賊八路軍、農民等)は全て日本人に演じさせているのだが、その、喋り言葉から濁点を取りちょっとなまってみせる、という強引かつシンプルな方法。中でも雪村いづみ慰安婦仲間、中北千枝子のキャラは無視できない。「なんだよ」は「なんたよ~」、「バカだな」は「パカだな~」などに変換し、朝鮮人役を押し切る。

本作は「中国人を悪く書いている」という理由でも批判されたようだが、これらの省エネ的外国人演技が批判されたのだろうか?ちなみに続編『独立愚連隊西へ』では、フランキー堺八路軍の指揮官を演じさせるなど更にパワーアップ。他にも神聖な軍旗を佐藤允の腹に巻かせるなど、不謹慎警察が悲鳴を上げそうなことを堂々行っているのがまた爽快だ。

そして、当時スターであった三船敏郎鶴田浩二の扱いがこれまたスゴイ。『血と砂』ではあんなにカッコよかった三船敏郎は、本作では神経症を患った上に崖から落ち、完全に頭がおかしくなってしまったかわいそうな大隊長役。早々に後方と下げられてしまうのだが、三船敏郎である必要があったのだろーか?

唯一の登場シーンでは、売春婦の二人がお喋りしながら洗濯をしている後ろで、「敵襲~、てきしゅうぅぅ~!!」とまなこをひん剥いて走り回り、二人を指して「バカ!バカ!この非常事態になにを洗濯などしておるか~!」と渾身の気違い演技を披露(しかも飯を食って腹がくちくなった時だけ正気に戻るというアホキャラ)。

そんな三船に「またたよ、きのとくたなあ〜」(まただよ、気の毒だなあ)と憐憫の目を向ける、中北千枝子の絶妙な舌足らず演技が光る・・・!

鶴田浩二は一体いつ出てくるのかしら?と観ていたら、よく分からないが馬賊の親玉として登場、この馬賊自体、本作に必要だったのかが分らんかった。。。

愚連隊は、軍規や常識に囚われない破天荒な連中の集まりだが、彼らには彼らなりの信義がある。八路軍の迫る将軍廟で警備を続行せよとの無茶な命令を残して本隊は退却してしまうが、「命令は無視できない」と軍人の矜持を貫こうとする。結局は愚連隊らしく、「やっつけろとは言われてないもんね~」と隠れて八路軍をやり過ごす作戦に出るのだが、皮肉にも無頼漢たちの象徴であった賭け事のサイコロが原因で八路軍に存在がバレ、愚連隊は全滅してしまうのである。

生き残った佐藤允は、鶴田率いる馬賊の仲間になることを決め、彼らと共に去っていく。腐っても日本軍人の集まりであった愚連隊の全滅を機に、一人の日本軍人が日本も日本人であることも捨てる、としたラストに痛烈な戦争批判が見て取れるよなあ。

大変面白かったですが、残念ながら、今回は『血と砂』の仲代達矢に匹敵する萌えキャラはおりませんでした・・・。藤岡中尉の中丸忠雄は、何だろう、お腹が一杯なときに出される大福って感じがして、私には重かったわぁ。