『ボーダーライン』
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ キャスト:エミリー・ブラント、ベニチオ・デル・トロ、ジョシュ・ブローリン/2015年
みなさん、こニャニャちは。
前回の『薔薇の名前』では、映画の話が全然できませんでした。いや、普段から映画の話なんかできていないのですが、これまで少なくとも「コレ観てみたい」という声はもらっていたのね、友人知人から。
しかし前回に関しては、正直者が多い私の友達の中でもドストレートのドSで知られるつっちーが「守りに入ってない? 攻めてるのは『おねえさん』てキーワードだけじゃねえか」みたいなこと言ってきて。
うるせェな、書きたいこと書いたんだよ、このドSが!
ところで、このブログの存在は、職場ではブログタイトルを考えてくれたN氏だけ知っているのですが、N氏が自分の営業先で「同僚の映画ブログのネーミングしたんすよ」とネタにしていて、同席していたチャラ男の営業がそれ聞いていて、「ぎーやなパイセン(←私)、アレすか、やっぱブログに『●●(←部長)消えろ。ハチミツでも舐めてろ(←プーさんに似てるから)』とか書き殴ってるワケすか」と言われて地獄です。
やっぱり、職場にはバレたくないよね。そこは、ボーダーライン引きたいよね・・・。
というわけで、本日の映画は『ボーダーライン』です。ワーオ。
というわけで、本日の映画は『ボーダーライン』です。ワーオ。
◇あらすじ
巨大化するメキシコの麻薬カルテルを殲滅するため、米国防総省の特別部隊にリクルートされたエリートFBI捜査官ケイトは、謎のコロンビア人とともにアメリカとメキシコの国境付近を拠点とする麻薬組織撲滅の極秘作戦に参加する。しかし、仲間の動きさえも把握できない常軌を逸した作戦内容や、人の命が簡単に失われていく現場に直面し、ケイトの中で善と悪の境界が揺らいでいく。(映画.com)
原題の『Sicario』に対し、邦題は『ボーダーライン』。あらすじでも当たり前のように「善と悪の境界線」と書かれているが、日本のドラマとか映画ってホント善と悪に境界線引くのが好きだよねえ。
大まかに説明しますと、本作は、正義を為そうとするエミリー・ブラントが全く力及ばぬ世界があることを思い知り、無力感と口惜しさに苛まれたまま終わるブラント迫害映画となっております。あ、ネタバレだよ!
ヴィルヌーヴ監督は大好きな監督で、作品は恐らく全て観ていると思う。なんといっても、全世界の婦女子を卒倒させたロキ刑事(ジェイク・ギレンホール)の壁ドンが見られる『プリズナーズ』、こちらは過去に当ブログでも取り上げております。卒倒壁ドンについて、異論は許さない。
不穏な空気を描かせたらピカイチな監督だが、中でも冒頭、カルテル所有の家屋で大量の死体が発見されるシーンはキング・オブ・不穏。個人的に、壁の中に何かあるとかが本当に嫌なのよ。
凄惨な現場を経験したエミリーは、カルテル撲滅の特殊作戦にアサインされて静かに情熱を燃やす。だが、彼女の意気込みを挫くように、作戦の責任者ジョシュ・ブローリンと謎の男ベニチオ・デル・トロは作戦の内容や目的を一切明かさない。エミリー受難の日々が始まる。
◇心臓バクバク国境シーン
碌に説明を受けぬまま、ある重要人物をメキシコの裁判所からアメリカ国内に移送する作戦に加わるエミリー。危険な地に赴くというのに、エミリーにインプットされた情報は、「帰りの国境地帯がもっとも危険」ということのみだ。行き先がメキシコということも、その場で知らされた。
あ、エミリーは誘拐事件のスペシャリストであり、麻薬関係は専門外なのです。
ジョシュ・ブローリンの乗る車、デル・トロとエミリーが乗る護送車が連なってフアレスの街を抜け、重要人物をピックアップするまでの緊迫のシーケンス、そして国境地点でのシーンが本作一番の見どころだ。
エミリーと観客は、状況が把握できない点において同じ立場におり、帰りの国境が危険ということだけ頭にこびりついている。そして一行は、まさにその危険な場所で、渋滞する車の列に巻き込まれ停車を余儀無くされる。前後左右、どこからカルテルに送り込まれた殺し屋が襲ってくるか分からない。停まった車の中で、エミリーと観客の緊張はピークを迎える。
ここの緊迫感は、ヴィルヌーヴ監督の名を世に知らしめた『灼熱の魂』(2010)のバス襲撃シーケンスに通じるものを感じる。あれはすごかった。ヴィルヌーヴ監督作品の中でお気に入りの場面を挙げろと言われたら、間違いなくアレだ。
ジェイクの壁ドン?ソレはアレだ。
ジェイクの壁ドン?ソレはアレだ。
主人公はある少女の命を救うために咄嗟の芝居をし、努力むなしく少女は射殺されてしまうのだが、そこでカメラが映すのは主人公の無の表情で、その背後でバスが燃え上がる画が非常にクール。本作でも終盤、デル・トロがカルテルの幹部アラルコンの子供二人を射殺するが、これも直接には観客の目に触れない。対象物を映さずに事の非情さを伝えるのも、監督の得意技だと思う。
◇エミリー受難の日々
有無を言わさずフアレスに連れて行かれ、銃撃戦に巻き込まれてクタクタで戻ってきたエミリーは、その段階になってもまだ自分の役割が分からない。当然、彼女と立ち場を同じくするこちらの消化不良感もすごい。ガムをくちゃくちゃするジョシュ・ブローリンにイライラするわあ。
凡庸な作品ならば、エミリーがここで味わった悔しさをバネに本来以上の力を発揮し、ジョシュ・ブローリンやデル・トロに一目置かれる存在になっていく・・・という展開になるのだろう。だが、世の期待にヴィルヌーヴ監督は応えない。全容を知るのはキーマンの二人のみ、その後も主人公の蚊帳の外状態は続く。
エミリーと観客の抱く感情が、映像に反映されているのが面白い。
メキシコの広大な土地を映した俯瞰の画に感じるのは、荒野に一人立っているような心細さと恐怖。件の国境シーンで渋滞した車が縦に長く並ぶ画は、のちの特殊作戦の際、侵入経路となる米国-メキシコ間のトンネルの映像とリンクする。どちらにも、物理的にも心理的にも先行きが見えない不安や焦燥感を煽る効果がある。
メキシコの広大な土地を映した俯瞰の画に感じるのは、荒野に一人立っているような心細さと恐怖。件の国境シーンで渋滞した車が縦に長く並ぶ画は、のちの特殊作戦の際、侵入経路となる米国-メキシコ間のトンネルの映像とリンクする。どちらにも、物理的にも心理的にも先行きが見えない不安や焦燥感を煽る効果がある。
トンネルからメキシコに抜けたのちは、カメラの被写体はエミリーからデル・トロへと移る。ゴールの見えない縦の構図が印象的な彼女のパートとは正反対に、デル・トロの目標物は常に彼の目前、手の内にある。アラルコンとの対峙シーンで真横の構図が取られるのも、状況はデル・トロのコントロール下にあることを示す。
最後まで自分の立ち位置がつかめず、理解と力の及ばぬ世界で戸惑うエミリーと、そちら側の世界で生きるデル・トロ。境界線があるとすれば、その間ではないだろうか。
この息苦しさ。
◇恋愛要素も・・・あったよね?
ストレスマックスなエミリーは、憂さを晴らすために飲みに行った先で警官をお持ち帰りする。だが、そいつはカルテルの手先で、危ういところをデル・トロに救われることとなる。彼女は、カルテルに買収された警官を炙り出すためのカモにされたのだった。状況を逆手に取ったジョシュ・ブローリン&デル・トロの老獪さばかりが際立ち、反対に、エミリーの身の置きどころのなさと言ったらない。気の毒すぎるよ、もうー。
だが、ここまで必要最低限のことしか喋らなかったデル・トロが、「大丈夫か」と無愛想ながら彼女を気遣う。「殺し屋と寝ようとしたなんて」、自嘲するエミリーを無骨に慰めるデル・トロ。そして言う。
「君は、俺の大切な人に似ている」。
え・・・? なんで、そんなこと?
ここまで、得体が知れない上にイヤな事しか言わないデル・トロを、ブラピの出来損ないめと思ってきたが、そんなことをポツリ言われたら、がらりと印象が変わってしまう。しょぼくれ顔の皺は大木に刻まれた年輪のごとく頼もしく、辛気臭い表情は、壮絶な人生を送ってきたがゆえの渋みに思えてきてしまって・・・。
エミリーも、初めて人間らしい表情を見せたデル・トロに戸惑う。もしかしたら、ちょっとドキッとしたかもしれまない。
だが、オーマイガー、何と言うことだろう、これもラストで肩透かしを食らうこととなる。
「大切な人」って、そっちかよ。誤解しただろうが、このしょぼくれたブラピがァ。
やること為すこと裏目に出て、コケにされ続けるエミリーが気の毒である・・・。だが、デル・トロの言う通り、全編、怯えた少女のようなエミリーが美しい。
◇『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』
続編の『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』(2018)にも軽く触れておこう。この扱いを見れば分かる通り、『ボーダーライン』と比較すれば、取り立てて語るべきところのない凡作だ。
カルテルが扱う商品を、麻薬から不法入国者へと切り替えたものの、途中から不法入国問題はどこへやら。「俺は荒っぽいぜ」と宣言したジョシュ・ブローリンが言葉以上にムチャをやりよったせいでアメリカ政府がビビり、事態収束の代償としてデル・トロとカルテルのボスの娘の抹殺を要求、二人の逃亡劇になってしまう。
前作で「君は俺の娘に似ている」と言ってエミリー・ブラントをがっかりさせたデル・トロは、今度は攫った敵の娘に亡き娘の面影を重ね、「人質を始末しろ」というジョシュの指示に逆らうのである。ことさらにデル・トロの過去に触れ、前作では無機質であった彼の人間性が炙り出されていく。まあ、それを評価する人もいるんだろうけど、この男は前作で顔色も変えずに子供を殺した「シカリオ」なのよ?今度は敵の子供を守らせて、何がしたいん。
ジョシュ・ブローリンのキャラクター造形もひどい。
『ボーダーライン』では、登場時のビーサンに象徴される通り、ドンパチは部下に、拷問はデル・トロに任せてニヤついているワケのわからないおっさんというキャラが秀逸だった。指揮官は手を下さず判断するのみ、実はこういう奴が一番ワルくて怖いという見本のような人物だったのだ。が、続編では完全に実働部隊の一員になっている上、基本政府の言いなりで、ぐっとハクが落ちる(人質の娘を殺せという命令に逆らって、ちょぴっとの反骨精神を見せるあたりもショボい)。
要は、「得体の知れなさ」が「あちら側の世界」の不気味さを体現していた二人に、正体を与えてしまったのが逆効果だった。メインのストーリーもぼやけ気味だったしね。
というわけで、結論、「ドゥニ・ヴィルヌーヴはよい」ということになりましょうか。
今日はこの辺でお別れです。チャオ。
今日はこの辺でお別れです。チャオ。
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